河童梅花皮
その日、千尋はK町の浅草橋にいた。川面を渡る風が、白い小千谷縮の袂をすり抜けていく。通り過ぎる女学生や娘達が、ちらちら自分を見ていることには気付いていない。道行く水売りの声を聞きながら、青年は柳の木陰で腕を組み、薪炭商の家を眺めてぼんやりしていた。
さっきあの家に、頭に小皿を乗せた女二人と帽子を被った男一人が入って行くのを見かけたのだ。彼らが癒天教の連中である事は、一目瞭然だった。
――――河童達を捕まえて、長二郎の親父さんのこと訊いてみようか?
出来心に近い感覚で浮かんだ発想に、こうして足を止められている。捕まえて何を訊くのだ? と自分でも思っている。しかし先日弥助に言われた、友人を「もっと気にかけてやれ」の言葉が、千尋の心に引っかかっていた。
昔から長二郎は家や家族のことを殆ど話さない。尋ねれば答えるものの、あの利口な友人は毎度上手にはぐらかしていた。言いたがらない理由については、士族の矜持もあるに違いないと千尋なりに慮ってきた。だがもし先日、柾樹が道で遭遇しなければ、長二郎は親の葬式の件すら打ち明けなかった気がする。いくら何でも水臭いと、少々情けない気分にもなった。
と、そんな千尋の背後から
「ははぁ……『癒天教』の方々でございますか。ご熱心な事で……」
急に聞こえたガビガビの声。驚いて見たそこで、自分と同じく薪炭商の店先を眺めていたのは、大きな笠に大きな柳行李。白尽くめの着物に身を包んだ、ずんぐりむっくり。
「うわ!」
思わず声を上げ、千尋は横に飛びのいた。
「へへぇ、お忘れでございますかね? 土々呂でございますよ。若旦那」
突然現れた小男が、笠の下から僅かに見える口元だけでにんまり笑う。たしかに、いつかの薬売りだった。赤坂の長屋に現れて以来である。でも以前会った時と、声が若干違って聞こえた。
「ど、どうしてこんな所に?」
動悸と動揺を抑えて尋ねる若者に、
「まぁまぁ……そんなことより御覧なさいまし。出て参りましたよ」
薬売りの真っ黒な指が炭屋を差した。見ると、先ほど店に入っていった癒天教の人々が帰って行く。店の前まで顔を出した炭屋の夫婦が、頭を下げて見送っていた。
「え、もう出て行くのか? 結局あいつら、何していたんだ?」
河童集団の後を追い損なった千尋が、その場であたふたして呟くと
「金でございますよ」
声を潜めて土々呂が答えた。
「ああして気前よく金や米を配って回りましてね。それと同時に『お手伝いできることはございませんか』、『ご苦労なことはございませんか』などと、お尋ねするんでございます。それを繰り返すうちに相手も『こんなひどい目にあっております』だの、『浮世は辛いことばかり』だのと、つい零すこともございましょう? すると癒天教の方々は、映し世の苦しみが生まれる仕組みについて、それはそれはわかりやすく解き明かして下さるんでございますよ。『前世の業』ですとか、『星の巡りが悪い』ですとかね。いや、アタシはそれが正しいか間違っているかは存じませんけども。どうやら聞いている側は、スッキリする事が多いようでございますねぇ。『そうか、そこが悪かったのか』とねぇ。
そこへ『この河童の置物を置けば身代わりになって下さる』ですとか、『ご本尊を一度拝めば、悪縁を断ち切って下さる』などと言われれば、ハァなるほどとこうなっていくんでございますから、人の心とは奇妙奇天烈なもんでございますな。そしていつしか深く帰依するようになり、これまで癒天教から頂戴した五倍、十倍の金や働きを惜しげなく癒天様へ費やすようになるという……癒天教の入口は大方、こんなもんでございますよ。ヤァ、うまいことやるものでございますな?」
長い。今回も話しが長い薬売りの独演会に聞き入って、千尋は反応するのが遅れた。そこへ
「ふん! うまいも何も、ととのわん事ばか言われるうちの身ぃにもなってくれちゃ!」
知らない女の声が紛れ込む。吃驚して振り返ると、千尋と土々呂のすぐ後ろに女が一人立っていた。
――――誰だ?
突然現れた見知らぬ女に、千尋は当惑の視線を向ける。
黒い帯と質素な茶色の着物。長い髪を垂らした女が立っている。全体的な印象として、“太い”。色白のもち肌で、切れ長の目。真っ赤な紅を引いた大きな口。足の運び方といい、髪をかき上げる仕草といい大変艶かしいのだが、ふくよかな体型のせいかイマイチ緊張感が発生しない。そんな女は腰に手を当て、土々呂に向けて尋ねた。
「あの貝殻に、『薬』が入っとるがいね?」
女の言葉で、千尋もよくよく確認する。店の中へ引っ込んでいく薪炭商の女房が、大ぶりな貝殻を握っているのがちらっと見えた。土々呂は腰を屈め、揉み手で頭を下げる。
「へへ、左様で。あれが『癒天膏』でございまして。『水虫から前世の悪縁まで治る万能薬』と、触れ回っております」
「万能過ぎるだろ……」
薬の効能に、さしもの千尋も突っ込んだ。柳行李を降ろした土々呂は肩を回して言う。
「あの夫婦は、アレを単なるアカギレの薬として買っているようですが。主にあの薬を求めるのは、医者もさじを投げる長患いの方々なんでございます。病院も手術もダメとなって、皆様藁にもすがる思いでございますからねぇ。『癒天様を熱心に拝んで、毎日この神秘の妙薬を塗りさえすれば、どんな悪い病も必ずや癒えます』と言われると、一度くらい試してみようかという気にもなるというもの。しかも病人が一瞬でも“治った気分”になるなんて事が起こるもんですから、また買わずにいられなくなってしまうんでござんしょう」
患者に『良くなった』と言われれば、確かな効果が目に見えなくとも人々は再び薬を求めに来る。更に癒天膏は効果の強弱で、値段も変わってくるのだと土々呂は語った。それを聞いた途端
「エーンナッ!」
女が真っ赤な紅の引かれた唇を横へ引き裂き、声を荒げた。
「土々呂、うちぁ腹をくくったぞいや……うちの名ぁ騙ってこんな真似されて、黙っておれんわ!」
きりきりと目をつり上げ、女は威勢よく啖呵を切った。しかし凄んだ割にどこかゆったり聞こえるのは、北陸道界隈の匂いが漂う口調と、豊満な外見の威力だろう。
「名を騙る……?」
呟いて眉をひそめた千尋は、別のある事に気付いて飛び上がりそうになった。
「あ! そうか、思い出した! あの時、長屋に居た子供だ!」
隣の青年の大声に、「ん?」と反応して女の目がやっと横を見る。
千尋が思い出したのは、赤坂の長屋で同じ顔をした子供が大量発生した一件だった。この女の、質素な色合いながら材質の見当がつかず、織りが細かすぎる着物を、どこかで見た気がしていたのだ。自分を見上げてくる女に、千尋は後頭部を掻いて苦笑いした。
「ああ、すみません。この前、赤坂の長屋で、貴女とそっくりな格好の子をたくさん見かけたものですから」
失礼を詫びると、それまで千尋にまるで無関心だった女が、切れ長の目を少しだけ見開いた。
「おや、あの時あんた居たんがいね? 話しには聞いとったわ。あれはうちとこでさいはいしとる連中さけ。驚いたろう、気の毒にナ」
意外なほど親しげに言う。
「采配……? 面倒を見ているってことですか。もしかして、孤児院か何かの方ですか?」
長身を少し屈めて千尋は尋ねた。災害や貧困で親を失った子供の救済を目的に、各地で個人や団体が孤児院を運営している話しは聞きかじったことがある。しかし紅い唇の女は、青年の問いかけが聞こえなかったのか
「ほうほう、あの時言うたら、土々呂にも悪いことしたわァ」
視線は土々呂の方へ向けられてしまった。
「ハテな?」
不思議がる薬売りに、悩ましげな腰つきで女は一歩歩み寄る。
「長屋で鉢合わせた時や。ウチの連中、あんたに『薬』をのすっとられると思ってな。許してくれちゃ」
「イヤイヤ、そんな! こちらこそご無礼を致しまして。あの場に播磨の奥女中がいたもんですからね。アタシも誤解が誤解を招いて、おかしなことに……」
お互い事情を説明した女と土々呂は、「なっかな~おりっ♪」と手を合わせて言い合っていた。仲直りしたらしい。
「あ、あのう……貴女も癒天教に何か困らされているんですか?」
再び千尋が横から口を挟むと、女は横目で「まぁネ」と頷いた。
「それなら、探偵をしている人が知り合いにいるんです。紹介しましょうか?」
千尋は小さな思い付きから、そんな提案をする。女は大きな目をぱちぱちさせた。
「アンタ、ええヒトやわぁ」
特別喜んではいなさそうだが、馬鹿にしている風でもない様子で言う。だが
「あんやとう。でも、かはうちが決着をつけんといかんことがいね」
答えて、千尋の提案には乗らなかった。
「決着って……何するつもりなんです?」
「フッ……うちは目的のためなら手段を選らばん女やさけな……少し手荒な事になるかもしれんナ」
訝る青年の横で、女は不穏な事を囁いている。真っ赤な唇が薄く笑っていた。そして「ハァ」と頷いた千尋の方へ振り向くと
「それよりネェ? アンタに頼みがあるんやわぁ。アンタの住んどる古道具屋に、うちの『塗り薬』があるさけ。取ってきてくれんが?」
藪から棒に、頼み事をしてきた。頼まれた側は、只でさえ深かった戸惑いが一層深くなる。
「は? ぬ、塗り薬……? というか、どうしてオレが古道具屋に住んでいることを知」
「これくらいの、人間の掌に納まるほどの大きさの、茶色い壷に入っとるげん」
またも千尋の反応や疑問は受け流し、女はつきたての餅みたいな手で壺の形を表現しつつ、自分の主張を先に並べた。
「あれは元々、うちのやさけ」
「は、はあ……オレは全く覚えがないんですが……薬屋か何かをしているんですか?」
千尋は押しに弱い。結局自分の疑問より、相手の話しを優先してやってしまった。
「違ごとるねぇ。でもうちの薬は昔から、人の間で評判良いがいね」
尋ねられた丸い女は、尚も子供染みた動作で首を横へ振る。
西洋医学が浸透するにつれて、古くから伝わる漢方薬や和薬などは少し肩身が狭い。それでも中には薬として優秀な品もあった。『先祖伝来の薬』として、民間薬を作っている家も各地にある。こういった薬は舶来の薬より身近で、昔から庶民の怪我や病気を癒してきた。
「ああ、だからあんたと知り合いなんだな?」
この女はそういう薬を取り扱っている家の者なのだろうと考え、青年は白尽くめの薬売りを見下ろして言う。見下ろされたずんぐりむっくりは、笠の端をちょいと摘まんだ。
「ハイ? えーあー、まぁそう思っていて頂けると、アタシは助かりますねぇ」
笠の下の薄笑いと共に、曖昧な答えを返してきた。そんな千尋と土々呂の話の横から、女が口を差し挟む。
「あの薬は、うちが“かめちゃん”に渡したものや」
かめちゃんとは。
「山田かめちゃんやね」
どこかで聞いた名前で、千尋の頭の中に弾き出された答えは
「え?! や……“山田かめ”ですか?! 癒天教の宗主の?!」
ここしばらく起きている騒動の、中心人物に纏わるそれだった。女は小さな鼻をつんと上へ向け、長い髪を華麗に掻き上げる。
「ほうやぁ。三十年くらい前やったか……かめちゃん、ウチのチビが川で魚捕りの網に引っ掛かっとったのを、助けてくれたんやわ」
「網……ですか。小さい子が網に?」
千尋の脳裏には、川辺で遊んでいた子供が漁師の網に悪戯をして、抜け出せなくなっている情景が浮かんでいた。
「ほやさけ、その礼として、かめちゃんに薬を分けてやったがね。その頃のかめちゃん、毎日キュウリを持ってきちゃあ、『どうか畑仕事で痛めた足を癒して下されまし』と言っとったがに。そうして薬でかめちゃんの足も治して、しばらくはエエ関係やった……」
そこまで言って、女は艶っぽく息を吐く。
「……でも、もうちょうつけるわ。この前、えらい目にあったがいね。どうしてうちがキュウリを投げつけられる羽目になっといね」
伏せた目を、急にぎらりと光らせた。
「一月くらい前やね。どこぞの三姉妹が急にうちんトコへ、つんだって来てな。父親が死んだの殺されただのって。『お前のせいだ』って、うちにキュウリ投げつけてきたんよ」
拗ねた表情で女は主張している。
ある日突然知らない人々がやって来て、自分にキュウリを投げつけたという。同情しなくもないが無茶な話しで、千尋は目が点になった。対する女は聞き役の状態には相変わらず無頓着で、一方的に先を続ける。
「そいで何がどうなっとるか、ウチの若衆に調べさせたら、このザマやげん。薬はしっちゃかめっちゃか。奴らが勝手に名を騙ったせいで、うちが恨みを買うことになっとるしぃ……ほやさけ薬を取り返したいんやわ。かめちゃんも、もう死んどるしな」
「は?! 待……っ! 山田かめって死んだんですか?!」
女が普通に投げてくる情報の中に、とんでもないのが混ざっていたため、千尋は話しを遮った。
「な、何でそんなこと知ってるんですか? 警察も行方不明だって……」
「ウチの若衆が捜ねたら、十年くらい前に死んどったわ。ほれ、この前あんたも来とった、あの長屋でナ」
前のめりになっている千尋を見上げ、丸い女は肩をすくめる。信じて良いものか判断しかねている若者の隣で
「そして、かめさんが遺した軟膏を、長二郎さんが継いだんですよ」
今度は土々呂が言った。
「長二郎の薬? ……ってアレか! 柾樹が怪我をした時に使った、あの?」
やっと気が付き手を打つ千尋の傍らで、笠の下から黄ばんだ歯を覗かせ薬売りは笑う。
「もっとも、長二郎さんご本人はわかっていらっしゃらないでしょうねぇ。ご自分の持っている『癒天膏』だけが、本当に効き目のある唯一の『本物』だなんざ。今売られている『癒天膏』は、大元の薬を油やミツロウで薄めて増やしただけのものなんでございます。大元の薬をかめさんが持って出て行っちまったもんですから、癒天教の道場に残された方々は、薄めたものをまた薄め、増やしていくしかございませんでした。そりゃあ効き目なんぞ、もはや無いも同じでございましょうよ。効き目が現れたとしても、治るどころか反対におかしくなっていく一方で……」
土々呂の説明に、丸い女も頷いた。
「あんな使い方するとは、聞いとらんわ。これ使うて、他の村人の病も治したらいいがとは言うたけど」
ぶつくさ呟いている。頭が混乱してきた千尋は、ここまで聞いてきた話しを理解しようと努力した。
「えーと……その、お話しをまとめるとですね? そもそも貴女が子供を助けてもらった礼として、『薬』を山田かめへ渡したんですね? そうしたらその薬がよく効くものだから、あの人たちが『癒天膏』と名を付けて金儲けに使ってしまったと、そういうことですか? それで山田かめも亡くなったことだし、この上また薬を勝手に悪用されるのを食い止めるためにも、取り返したいと?」
「ほうやぁ」
女は大事な事だったのか、二回頷いた。ようやく腑に落ちて、千尋は長く大きな息を吐く。
「事情は大体わかりました……でも、オレが断りもなく持ってくるわけにはいきません。申し訳ないが薬については古道具屋へ来て、長二郎に直接尋ねて下さい」
きっぱり断った。それを見て、女は丸い肩をちょっと落とす。
「……さが出来とったら頼まん」
赤い唇が、への字になった。
「あの屋敷はだちゃかん。それに猫が邪魔して、あの『長二郎』とかいうのに近付けんが……この前も猫に追い返されたケ」
「猫に……? 火乱か? 何をしたんですか?」
犬ならわかる気がするが、猫に追い返されるとは一体。女は自らのふくよかな胴周りを両手で軽くぽんと叩いた。
「何もしとらんし、これからもする気はないがよ。あのコは昔、キュウリくれとるさけな。寝小便治す“願”はとっくに叶えてやった。ほんでもうちぁ義理を忘れる恥知らずやないねんよ……とは言うても、疑われとるんやろ。うちらはたまーに、悪さもするがいね」
萎れた様子で言う。内容は所々意味不明ではあるが、千尋は何だか可哀想になってきた。
「では、こうしましょう。今お聞きした話しは、オレから長二郎に伝えておきます。そうすれば後々、事情も通じやすいでしょう。猫は……どこかに閉じ込めておきますよ。そうだ、名前を伺っていませんでしたね?」
微笑んで提案する。青年が向けた問いかけに、女は僅かに表情を和ませた。
「梅花皮」
その名乗りに千尋は聞き覚えがある気がした。だが、それをどこで聞いたか思い出す前に、軽い下駄の走る音が聞こえてきて
「ああっ! 白岡さん?!」
名を呼ばれ、ここまでの脳内作業は全部無かった事になる。声の方を見た千尋は、吃驚した。
「え、鈴?」
夏の日差しが降り注ぐ埃っぽい道端で息を弾ませていたのは、蕎麦屋で見慣れたおさげ髪。小走りで近付いてきた鈴は、汗で前髪が額にべったりはり付いている。
「あのっ、田上さんたち見かけませんでしたか?!」
小柄な娘は呼吸を整え、遥か頭上にある千尋の顔を見上げて尋ねた。
「いや、見てないが……どうした?」
嫌な予感と共に千尋が訊き返すと
「えと、あの、お店に来たお客さんに言われたんです、家族に知らせた方が良いんじゃないかって。でも田上さんてお一人でしたよね? あたしどうしたらいいのかわかんなくって、一先ず相内さんや白岡さんに報せようと思って……!」
「落ち着け鈴。何があった? 順番に話してくれ、わけがわからん」
鈴はじたばた説明するのだが、説明になっていない。千尋に宥められ、大きく三度深呼吸すると
「さっきうちの店の前で、田上さんに会ったんです。でも何か、変わった人たちと一緒で」
おさげ髪はどうにか順を追って話し始めた。
「店の前の様子がおかしかったんです。それで覗いてみたら田上さんが居て、男の人や女の人五人くらいに囲まれて何か話しを……その人たちが、みんな頭にお皿載せてるんですよ。河童さんみたいに」
「本当か?!」
顔色の変った青年の様子で、鈴も何かを察したらしい。
「白岡さん、知ってるんですか?」
「う……うん、知っているが、その前に先を話してくれ。それで?」
不安そうに表情を曇らせる少女に、一先ず先を促す。鈴は素直に頷いた。
「え、ええ。田上さんが気がついてくれたから、挨拶ついでに『どちら様なんですか?』ってあたし尋ねたんです。そうしたら『知り合いだよ』って言われて。そのまま一緒にどこかへ行っちゃったんです。あたしも気にはなったんですけど、田上さんが知り合いだって言ってたのに、変に疑うのも失礼かなって……」
やむなく鈴は彼らを見送るだけにしておいた。そして長二郎たちは店に入らなかったが、目立ち過ぎたのだろう。野村庵の中はしばらくの間、『河童モドキ』の話で持ちきりだった。そこへやって来た客の一人が、この河童モドキを知っていたのである。
「お店に来たお客さんが、他のお客さんから『頭にお皿を載せた人たち』の話を聞いて、『そいつは良くないぞ』って教えてくれたんです。あの人たち、評判の悪い拝み屋さんなんでしょう? 田上さんと話しているときの雰囲気も、あんまり穏やかそうには見えなかったし……それで心配になって。どうしよう白岡さん!田上さん何かあったのかな? 止めれば良かったのかも!」
鈴は店の客達から「まずは親兄弟にでも報せてやれ」と言われたが、長二郎は天涯孤独の身の上である。どこへ向かったらいいのか見当がつかず、一先ず古道具屋を目指していたのだった。
「鈴、長二郎たちは他に何か言ってなかったか?」
千尋の問いかけに、鈴は柔らかな眉を弱々しく下げ、俯きがちに答えた。
「田上さんが『下宿に戻ればありますよ』って話してるのは聞こえたんです。古道具屋さんなら、白岡さん達がいるかもしれないと思ってたんですけど……相内さんは?」
「居ない気がする……昨夜から出掛けてるんだよ、あの遊び人はッ」
千尋はアテにならない同居人を思い出しながら、空を仰いで呟いた。そこでハタと気が付き、身辺を見回す。
「あ、あれ?」
「どうかしたんですか?」
きょろきょろしている青年に、おさげ娘が尋ねた。千尋は停められた大八車の陰を覗き込んでいたが
「いや、さっきここで話しを……」
首を傾げる。千尋を見上げた鈴は少し困惑の表情を浮かべた。
「え? お一人じゃなかったんですか? 誰もいませんでしたけど……?」
不思議そうに言う。
白尽くめの薬売りもあの女も、陽炎のように消えていた。




