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癒天教

 両国橋の東詰めには元町警察署がある。そこに近い団子屋で、中年男と書生二人が団子を食っていた。先刻、数鹿流堂へやって来た弥助が千尋を呼び出し、一緒に柾樹も連れて来るよう言ったのだ。理由もよくわからないまま、のこのこついて来た図体のでかい男子二名は、出された団子を頬張っていた。真昼の縁台の前を、乾いた川風が流れていく。


 昔は小屋がけの軽業や見世物小屋が犇いていた両国橋の広小路も時代が変わり、商店が立ち並ぶようになった。特に柳橋の向こう側は寄席から待合茶屋、肉屋まであらゆる店が軒を連ねる一大繁華街となっており、近年一層賑やかになっている。傍らの木立からは、瑞々しい蝉の声が降り注いでいた。往来の人波を眺めていた弥助が、眩しい日差しに目を細めて言う。


「つまりだな。ありゃあ『死体が引っ掛かっていた』んじゃねぇ。乗政殿は、『首を括って死んだ』んだよ。屋根に上るまでは生きてたってこった。死体が悪霊に憑かれて動き出したんじゃねぇ」


 それは長二郎の父親に関する事だった。小太り男の声は普段より幾分小さい。ぬるいお茶を一口飲み、手拭で首元を拭って一息つく。


「死んでなかったんですか?」

 団子を頬張った千尋の目が丸くなった。その横で

「話しが違うじゃねぇか。死んだから通夜や葬式になったんだろ? それにこの前、医者も死んだと確かめたって言ってたのはどうなるんだよ」

別に怒っているわけでもないのに、目つきが悪いせいでどうしても怒っているみたいになりがちな柾樹も言う。弥助は青空を見上げ、短い腕を組んだ。


「それなんだがな……お前ら、河豚は食ったことあるか?」

 ぎょろ目で青年達を眺め、尋ねてくる。

「いや、無いです。絶対食うなと親に止められていますし」

「俺もねぇな。食うと舌がチリチリするとかいう話は聞いたことあるけどよ」

 二人の返事を聞いた弥助は口いっぱいに団子を頬張り、「そうか」と頷いた。


「それが?」

 千尋がのんびり尋ねる。弥助は頬張りすぎた団子をお茶で流し込み、胸をどんどん叩いて嚥下すると顔を上げた。鳥打帽を懐へ突っ込み、片足をもう片方の膝に乗せる。長話をする体勢に入りつつ、語り始めた。


「まぁ段取りってもんがあるんだ。まずはそうだな……浅草寺の向こうっ側。花川戸の辺りに、長沢ってぇ小せぇ魚屋がある。“魚長”ってンだが、その長沢夫婦が『恐れながら』と、警察へ報せに来たのさ。それで全部わかった。話しの初めは、また『癒天教』だ」


 中年男は前髪が後退気味の額を撫で、苦い表情を浮かべた。今までも警察は調べを進めていたが、魚屋夫婦の登場で一気に解決への流れが加速したのだという。


「長沢夫婦も昔一回薬を買ったとかで、それ以来癒天教の誘いを受けていた。あの河童ども、本当にどこにでも湧いて出てきやがるな。救われる人間を増やすのが仕事だとか抜かしてやがったが、俺なんかにしてみりゃ、あんな鼻高々に自分達が他人を救えるほど立派だと思い込めることがサッパリわからねぇ。まぁいいや。この訪ねてくる河童の中に、乗政殿もいたんだよ。だが乗政殿は他の連中と違って静かなもんだ。話してみると夫婦と故郷も近い」


 何度か会う内に、双方つい懐かしい訛りが口から零れ出ることもあったのだろう。親しみも感じるようになり、世間話もするようになった。しかしながら彼らのこの緩やかな繋がりが、後の騒ぎの端緒となる。


「乗政殿が死ぬ直前だ。魚長が仕入れた魚の中に、河豚が紛れ込んでいた。偶然すぐには始末しねぇまま、これをちょいと置いていたそうだが、店に来た乗政殿がこの河豚を見つけてな。売ってくれと頼み込んできたってのさ。あの辺りには、毎日の飯にも事欠く連中が大勢居る。安く手に入れば何だって売るし、食っちまう。それでも河豚を食いたがる奴ぁ、珍しい方だろうがな。しかし捌き方も知っていると乗政殿が言ったもんだから、夫婦の方も渡しちまった」


 そこまで言って、弥助は疲れたみたいに項垂れる。


「ところが乗政殿が帰って、しばらくしてからだ……死んだという話しが聞こえてきた。まさかと思いながらも、夫婦二人で警察まで事情を報せにやって来たと、こういうことよ。乗政殿が食った残り物を見せたら、きっと間違いねぇと言いやがる」

 精査した結果、長二郎の父親が食べたものは、長沢家の河豚で違い無さそうだという結論に至った。


「長沢の夫婦は、『手前どもの不調法でこんなことに』と悔やんでいたが、全部があの夫婦のせいとも言い切れねぇよ。不運が重なったというかな。乗政殿も肝を食うなんて馬鹿な真似をしたもんだが……おそらくは、そんなに毒が強いと思っていなかったんだろ」

「河豚の毒が?」

 訝る千尋の問いに、探偵はまた改まって向き直ると切り出した。


「河豚ってのはな、毒の効き方もピンキリなんだってよ。ダメなときは一口食うなり、たちまちおめでたくなるが、ちっと具合が悪くなるだけで数日寝てりゃ治る時だってある。治っちまった場合は、まるで嘘みてぇに身体はどこも悪くないそうだ。死んだと思っていたら生き返ったってぇヤツの話しもある。この仮死状態は、医者でも死んだと見誤る事があるそうだ。今回の乗政殿と同じようにな。とはいえ、そんなのはよっぽど珍しい話しだろうけどよ」


 弥助は訳知り顔で語って聞かせる。生き返るのはあんまりだが、柾樹や千尋も少しくらい具合が悪くなろうと、一寝入りしたら治ったなどと嘯く年寄りの話を耳にしないではない。二昔ほど前までは、こうまでしてでも河豚を食べるのを粋であるなどと言ったりもした。


「それじゃあ……長二郎の親父さんは、一度死んでから生き返ったということですか?」

 千尋が困惑を目元に漂わせて言う。弥助は再びお茶をがぶりと飲んだ。

「そういうこった。まぁ死に損なったというか、命拾いしたというかな」

 言いながら丸まっていた背を伸ばし、中年男はぽんと自分の膝を叩いた。


「あの河豚の毒は、たまたまトドメを刺すほど強くも無かったんだろう。乗政殿は三途の川を渡りかけて、浮世に戻って来ちまったのさ。それで蘇ったはいいが、仮にもしばらく死んでいたせいで、やっぱり頭の具合はおかしくなっちまったんだろうなぁ。腰を抜かしてる倅の前で一踊りした後、ヨロヨロっと彷徨いだして四谷まで下り、材木屋の屋根へよじ登った挙句、足を滑らせて落ちたんだ。そして首の手拭いが雨どいに引っ掛かり、首を括る格好になった。倅が『親父が飛んで行った』と言っていたのは、闇夜の中で勘違いしたんだろうよ」


 事態の全容を推理する弥助の口調には、当事者を馬鹿にする気配は無かった。むしろ同情に近い音色が漂っている。


「長二郎に、その話しは?」

 千尋が尋ねると、弥助は自らの丸い顎を撫でた。

「ああ、俺から伝えたよ。しかし『はぁそうですか』って、ポカーンとした顔で言うだけだ。大丈夫かアイツ?」

 弥助の問いかけに、柾樹が気のない調子で答える。

「平気だろ。田上はいつもあんな感じだ」

 温かみの無い返答に、三人の兄貴分を気取る中年男は表情を曇らせた。


「これだから心配なんだよ。ったく……念のため事情を伝えに来て良かったぜ。お前らアイツをもっと気にかけてやったらどうなんだ?!」

 情けない顔のまま叱りつける。叱られて、千尋が少ししょんぼりと口を開いた。


「オレ達が下手に気を利かせると、迷惑そうな顔をするんです。この前、長屋へお弔いへ行った時もそうだったでしょう? 長二郎はしっかりしているし、頭も良い。余計な真似はしない方がいいんじゃないかと……」

 凛々しい眉を下げて言う。だが弥助は短い首を横に振った。


「そんなこたねぇよ。お前ら含めてそういう年頃だ。本人はわかってねぇかもしれねぇが、相当堪えているだろうぜ。それに『癒天教』のこともある」

 小太りの中年男は年長者らしい気遣いを見せた。

 『癒天教』というのが、長二郎の実家を埋め尽くしていた妙ちきりんな河童に関わる集団というのは、柾樹も千尋も教わっている。


「こんな時こそ河童の助けが要るんじゃねぇのか? あいつら田上の親父の葬式も手伝ったんだろ?」

 柾樹は簡単に言ってのける。それに対し、弥助はまた首を振った。

「それはそうだが、癒天教はやめとけ。これ以上近付かせるな」

 真面目に語る弥助の様子に、千尋が大きな身を屈めて横から尋ねる。


「あの河童達を知っているんですか?」

「まぁな。あいつら結構古くてな。三十年以上前からいるんだよ」

 中年男からは軽い言い様で、意外な答えが返ってきた。癒天教はせいぜい数年前に出来たのだろうと勝手に考えていた書生達は、揃って驚いた。二人を前に、弥助はお茶を飲み飲み物語る。


「癒天教ってのはな。元を辿ればその昔、『山田かめ』ってぇ百姓の女房が始めたんだよ。始めの頃は、この山田かめを中心にした、単なる田舎村の拝み屋だった。例の軟膏をタダで周りにくれてやったりと、医者もいねぇ田舎村ではそれなりに有難がられていたそうだ。どうやって塗り薬を拵えていたのかはわからねぇが、とにかくよく効くと評判でな。どこぞの藩医が貰いに来たって噂もあるほどだから、昔は本当によく効く薬だったのかもしれねぇな」


 当時から現在に至るまで、この『薬』の調査は行われていない。それでも評判が評判を呼び、ただの田舎の百姓だった山田かめの家は、いつしか薬を求める人が引きも切らない状態になった。


「だがちょうどその辺から、山田かめが前世の記憶に『目覚めた』とかで、『天下万民を救う』とか言い出した。薬を求める奴からも、金を取るようになってきた。今じゃ軟膏の他にも、河童の置物だの書画だのに加えて、『癒天様』の髪や爪まで、御守として売るようになったってわけだ」


 癒天教の創成期から現時点までの流れについて、中年探偵は手短に語った。柾樹が首を傾げる。


「癒天さまってのは何だ?」

「あいつらのご本尊で、山田かめの名乗りだよ。天界の母『癒天母神』にして、河童の女親分だ」

「河童が、天界の母……?」

 千尋が話しを止める。河童か天界の母か、どちらか一方だったらまだわかりやすかったのに、どうして合体させてしまったのか。


「いや、そうじゃなくてだな。天界の母『癒天母神』が、河童の女親分の『梅花皮かいらぎ』ってのに生まれ変わってだな」

「何故そこで河童が混ざる……?」

「んなモン俺が知るかよッ! どうやら山田かめの故郷に伝わる昔話に、村を守り薬をくれる『梅花皮』って河童がいて、それが元になったんじゃねぇかってぇ話しが一番本当らしい。その河童の女親分が、更に百姓の女房に生まれ変わったっていう……若旦那深く考えるな、俺だって馬鹿みてぇな話しだと思ってるんだ」


 混乱する脳内が隠せていない千尋の肩を叩き、言うのも恥ずかしいといった風で弥助が言った。要するにここは、『肩書が華々しい』という認識で覚えておけば良いのだろう。


「山田かめは、他人の前世を見ることが出来たんだとよ。おまけに他人が来世で何になるかも大体わかるってな。かめは前世の力を継いでいるから、触れるだけで病気が治るし、悪い因縁や、それに引き寄せられてくる悪霊を消すことも出来るんだと。ただしソイツの前世の業が深すぎると、効き目が現れるまでに時間がかかる。それでも浄化さえすめば、因果や因縁から解放されて、魂は今より良い魂へ変わることが出来るとさ。あーあ、大したもんだな。ヘッ!」


 鼻をほじりつつ癒天教の効能と能書きを披露した弥助は、ほじり出した鼻くそを指先でぴんと弾いて捨てた。それからいつもの癖で、上半身を乗り出しながら話し続ける。


「中でも『触浄』ってのがあってだな。女親分に悪いところを触ってもらうと治るってぇ、奇跡の術だ」

「へー、触るだけで治るのか。凄いなぁ」

「バカ、出鱈目に決まってンだろ!」

 千尋が爽やかに感動するから、中年男の方が慌てていた。


「この『触浄』に選ばれるのが、男ばかりだ。特に若い二枚目や、金持ちが優先される。癒天教の道場の奥の間で、癒天サマと夜が明けるまでくんずほぐれつ……」

 脂っぽい顔の小太り男が、自分の身体を自分の両腕で抱き、くねくねと身を捩じらせている。船に釣り上げられたトラフグのようだった。


「まぁ、でもその癒天サマってのは女なんだろ?」

 柾樹が言うと

「婆さんだぞ?」

くねくねを止めた弥助が、至極真面目な顔に戻って答えた。


「今は二代目の『つる』ってのが、『満福まんぷく女神じょしん』と名乗って継いでるが、それでも五十過ぎだぞ?」

「わかった、もういい」

「名前だけで腹いっぱいだ」

 書生二人は微妙に青ざめた。無駄な動きをやめた弥助も残っていたお茶を飲み干すと、両方の足を地面に降ろして改まる。


「……しかしだ。癒天教も、いつまでもこんな真似が続けられるもんじゃねぇ。帝都へ出て二十年。布教と商いに精を出したお陰で信者は増えたが、顰蹙も買うようになった。河童の画や置物も、ご利益なんざ一個もねぇじゃねぇかと怒る奴が増えている。近頃じゃ『癒天膏』も効かねぇから、金を取り返したいんですがどうしたもんでございましょうかと、警察へ談判しに来る奴まで出てくる始末だ。しかも問題は他にもある」

 現状について語る弥助は、探偵の顔になっていた。


「信徒が教えに疑念を持ったり、愛想を尽かしたり。家族に説得されたりして宗旨替えしようとすると、奴ら寄ってたかって引きとめにかかるのさ。『災いが降りかかる』だの、『ひどいものに生まれ変わって永遠に苦しむ』だのと言ってな。元々は信じていた連中だから、脅されれば耐え切れず、また癒天教へと戻っていく。こんなザマだから代言人を立てて争う奴らも出てきてる。警察も連中に目ぇつけてたってわけよ。ついでに女親分とその周りでも、お家騒動が続いていてな。宗主だった山田かめはこの十年来、行方不明になってらぁ」


 額に滲む汗を拭い、弥助の物語は一旦止まる。百姓の女房が始めた無害な田舎の拝み屋集団は、数十年の時を経て、その性質を大きく変えてしまっているようだった。


「何でこんなの野放しにしてるんだよ?」

 元から神仏や信心の類に理解の無い柾樹が、皆目わからないといった顔で質問する。

「何を信じるも信じねぇも、勝手だからなぁ。鰯の頭も信心からって言うだろ。それにただでさえグダグダな連中だ。放っておいても、そのうち溶けて無くなると思われていたんだよ。だがそんな悠長も言ってられなくなってきた」

 中年男は表情を少し暗くして、息を吐く。


「ちょいと前のことになるな……ホラ、お前が犬に噛みつかれて怪我したことがあっただろう?」

「ん? ああ、あの変な黒い犬か」

 弥助に言われ、柾樹は左腕を撫でた。あの時の怪我は牙の痕も残さず、綺麗に消えている。


「それだ。あのちょうど二週間前だったな。癒天教の信徒だった三人姉妹が、ここへ駆け込んだんだよ。足抜けしようとしたら水攻めにされ、危うく殺されかけたと訴えたのさ。その直後、三姉妹の父親が消えやがった」


 弥助が言う“ここ”とは、一同が居座っている団子屋から近い、元町警察署のことだった。警察署や駐在所なら他にもある。辻には見回りをしている巡査もいる。だが恐ろしい思いをした娘達は追手から身を隠そうと必死になり、表通りを避け闇雲に走り回った末に両国橋へ飛び出して、その足で警察署へ駆け込んだのだった。


「父親は『原山伝助』といって、白魚橋の近くに住む腕の良い表具屋だった。娘達の話しだと、ほうほうの体で逃げてきた三人娘を、親父は匿って一旦家へ入れてくれたそうだ。そこへ癒天教の河童どもが押し掛けてきた。親父は自分が相手するからその間に警察へ行けと言って、裏から三人を送り出した。そして、それっきりだ。後で巡査と共に娘達が帰った家は、もぬけの殻だった」

「行方知れずってことか?」

 尋ねる千尋の声に、弥助は夏の空を見上げて黙り込む。賑やかな雑踏が、沈黙を埋めていった。喉の奥で唸った中年男は、遥か上空を横切る白い海鳥を見送ると


「そういうこったな。癒天教の河童どもも、伝助とやり取りをしたのは認めた。しかしその後は知らねぇの一点張り。娘達を水攻めにしたことについては、向こうの言い掛かりだと言って譲らねえ。奴らの道場を探っても伝助の手掛かりは見つからなかった。叩けばいくらでも埃が出そうな連中なんだが、どうにも隙が無くってな……タチが悪いぜ」


 薄い潮風に乗せて呟く。木立の蝉の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

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