空狐布引姫
人は時折、「これは夢である」という自覚を持ちながら夢を見ることがある。『明晰夢』と呼ばれるものだった。コツを理解すれば、夢を自在に操る事も出来るという。この名称こそ知らないものの、柾樹もそういう事象が世の中に存在する事を、話には聞いたことがあった。だからこのとき自身に起きていた不思議な状態を、特別驚きもせず理解した。
「何だ、この夢?」
夢の中で柾樹が立っていたのは、何畳あるのか考えるのも馬鹿らしくなるほど、だだっ広い大広間だった。耳がおかしくなりそうな静寂と、仄明るい光に包まれている。彼方に整然と並ぶ数え切れない障子を眺め、柾樹は一人で呟いていた。
広間には床の間も襖も調度品も無く、ひたすら畳が並んでいる。敷き詰められている青々とした畳の数は、千や二千ではすまなさそうだった。見上げた天井は遥か上空にあり、天井板は真っ黒で、巨大な銀色の渦潮が描かれている。非常識に高い天井から考えて、この部屋は正方形に近い形であり、柾樹はその真ん中に立っているのだと分かった。利便性や実用性を、全く無視した広間である。
そして奇妙なこの空間が現実ではなく夢であると、何故か柾樹はわかっていた。それだけではない。
「この前見た夢と同じじゃねぇか」
銀縁眼鏡を右手の指で押し上げ、柾樹は自分に確認する。
以前柾樹は、猫の火乱と鴉の仙娥が、縁台に仲良く並んで甘酒を飲んでいるというおかしな夢を見たことがあった。景色は違うものの、その時とよく似ているのだ。舞台装置のような微妙に偽物くさい全体の構成と、何よりこの空気が。
『それにしても、自分はどうしてこんな場所にいるのだろう?』
考えようとするが、やはり夢の中のせいか普段通りには頭が働かず、思考が捗らない。そのまま佇んでいた柾樹がふと横を見ると、同じく立っている者がいた。小柄な体型。見覚えのある派手な水色の羽織に、金襴の袴。
「ツネキヨじゃねぇか」
思わず声が出た。知らぬ間に隣に現れたのは、最近周囲でよく見かける、『ツネキヨ』と名乗ったあの変な子供だった。どこからか湧いて出てきたツネキヨは、横目で金茶髪の青年を一瞥する。随分と不満そうな顔をしていた。
「何でこんなトコに居るんだ?」
柾樹の問いにも
「フン! 三介には無用のことじゃ」
鼻先をつんと上に向け、相変わらず偉そうな口をきく。いつもの柾樹がこんな物言いをされようものなら、腹を立てて足蹴くらいする。しかし今はそんなことより、もっと別の異常事態に注意が向いていた。
「お前……その毛、どうした?」
ツネキヨの横顔を覗き、思い切り眉をひそめて尋ねる。
毛と言っても、男の髭モジャとは違う。モッフモフになっているのだ。どうしたことか、今日のツネキヨは顔も手足も耳までも、柔らかそうな淡い茶色の毛で覆われていた。口の周りには白い針に似た髭と思しきものまで、ぴんぴんと数本飛び出している。これではまるで、何と言うか……と、柾樹がそこまで考えた時だった。
何かに気付いたツネキヨがぴょーんと飛び上がり、その勢いで畳へ正座する。
「くだらんお喋りは終いじゃ! 姫のお成りであるぞ!」
畳に手をつき、平伏しながらツネキヨは言った。
「姫?」
急に言われても困る。柾樹が突っ立っていると
「たわけ者! 早う座るのじゃ!」
水色羽織が畳の上から叱りつけてくる。何故座らなければいけないのか、わからない。でもツネキヨが尚もしきりに裾を引っ張るので、柾樹も引っ張られるに任せて青い畳へ座った。一体何が起こるのだろうと周囲を見渡す。
すると、淡く光る白い障子の向こうを異様な影が過ぎった。柾樹は思わず身を乗り出す。とんでもなく長くて巨大な影が、部屋の外でのたうっている。それも一つではない。十本はあろうか。「大蛇か?」と思った。影の蛇は部屋の四方を取り囲み、音も無く動き続けていた。正体不明のヤマタノオロチ(仮)の動きは止まらない。そしてやがて、どこからか声が聞こえてきた。
《……苦しゅうない。面を上げよ》
わんわんと部屋中に響く声は、厳かな口調ながらも高く、皺枯れている。ツネキヨが畳へ額をこすりつけるようにして平伏しながら、声を引っくり返らせ言上した。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存知奉ります! 布引姫様にはあらせられましては、ご機嫌麗しゅう……!」
緊張しきっている。そのツネキヨを見下ろして、のんきに柾樹が尋ねた。
「おい。誰なんだ? 何処にいるんだよ?」
ツネキヨは平伏した状態で、隣の柾樹の様子を伺うと目を剥いた。
「このたわけ……! 頭を下げんか!」
小声で叱りつけ、手をバタバタさせて促す。けれど
「? 何でだよ? ツラも出さねぇ向こうが悪いんだろ。名前くらい、聞いたっていいじゃねぇか」
元より空気を読む気が無い上、頭を下げるという動作をほぼ必要としない環境で長らく生きてきた柾樹は、ツネキヨに催促された通りに振る舞う理由が分からず、ただ怪訝そうにしている。
「ひゃわわわわッ! も、申し訳ございません姫様ーッ!」
隣の青年に代わって、ツネキヨが『姫』に詫びた。ふ、と微かに笑う声が聞こえ、再び声が答える。
《構わぬ。なかなか面白い気性をしておるではないか……風変わりなのは、その因果だけかと思うていたが》
皺枯れた不思議な声が、半ば独り言のように言う。
「因果?」
どちらを向いて喋ればいいのかわからない心許なさと共に、柾樹は小さく首を傾げた。遥か彼方の障子の向こうで動き回る長い影達に、その呟きは聞こえなかったのだろう。影は静かに名を名乗った。
《わしはこの城の主で、『布引姫』と呼ばれる者。故あって、そなたをここへ呼び寄せた》
人なのかどうかも判然としない影は、鷹揚とした口ぶりで語りかけてくる。この『布引姫』とやらはツネキヨとは違い、無駄にふんぞり返るということはなさそうだった。
《早速だが、小鬼よ。そなたを呼んだのは言うまでもない。湾凪姫のことじゃ》
四方八方から聞こえてくる布引姫の声が、重々しく話の口火を切る。『言うまでもない』と言われても柾樹には何のことだか、これっぽっちも実感が湧かない。でも一応、『湾凪姫』が誰を指しているのかはわかった。
「雪輪がどうかしたのか?」
とりあえず正面の障子に向かって尋ねてみる。尋ねながら、そろそろ慣れない正座で足が痛くなってきた。主から促されてもいないのにさっさと足を崩し、胡坐をかく。
《あの姫を、我が方で匿おうと考えておる》
「かくまう……?」
大仰な言葉に、違和感を禁じえない。普段使う事の無い単語が登場し、青年は銀縁眼鏡の下で顔を歪めて訊き直した。
「匿うって、何から? どうして?」
すると
《ただの老婆心よ。古の誓約に縛られ、『針の先』となる者の理不尽を、これ以上黙って見続けるのは忍びない》
更なる大仰な言い様で、返事があった。柾樹の疑問に何ら答えていない。しかし聞き役が何を知りたいかという点は、意識の範疇外なのだろう布引姫は
《……とは申せ、姫が結界から出てこないことには、話しにならぬ》
同じ調子で話し続けていた。
「何だ、結界って?」
困惑を引きずる柾樹は、まずはそこから訊いてみることにした。
《赤目の結界じゃ。あの者が棲む水と繋がる全ての真水。そしてその周辺が結界に入る。その上、九十九神達もあの屋敷に結界を張っておる。土々呂が姫を刺激したせいで、あやつらが映し世へ現出してしまった》
布引姫の話しに、柾樹の疑問の解決の糸口は見つからなかった。展開に追いつけない。そして『赤目』とは何者ぞ? と思っている暇も与えられずに
《我が力を持ってすれば、結界を破れぬこともない。だが今や、我らは映し世へ直接手を出すことは禁じられておる。湾凪の姫も望まぬであろう》
話しは更に先へと進み、先方の着地したい結論へ着地してしまった。そこへ先ほどよりも顔を上げ、ツネキヨが横から小声で口を出す。
「しかも湾凪姫には、火乱が付き纏っているのじゃ。自ら式神となった、あのならず者よ。迂闊に近付けば何をするか……」
いかにも分かった口をきいている。けれど、こちらの説明も何の助けにもならなさそうだった。
《そこで、そなたから姫に結界の外へ出るよう、進言してほしい》
広大な部屋中に響き渡る声で、布引姫が言う。再び横から、ツネキヨが口を差し挟んだ。
「良いか三介。その方は知らぬかもしれんが、湾凪姫には弟君がおる。姫様は湾凪の姉弟共に、姫様の御殿で暮らせばよいとの仰せなのじゃ。心配は無用であるぞ。姫様は映し世の道理やヒトの世の理にも、精通しておられる。映し世で言うところの三千年ほど昔には、『瑞獣』として崇められていたこともお有りのお方であるがゆえ……」
もふもふの毛の生えた顔が、心なしか自慢げにそう言った。
《播磨の我が城へ招く支度は整っておる。既に姫の道具や部屋も調えてある。ヒトの世では、何かと苦労も多かろう。もし姫が望むのならば、弟も共に城へ来れば良い……》
皺枯れた声は優しく言い聞かせてくる。こうして話はここで一旦途切れた。
最初から現在に至るまで、布引姫とやらの口調は冷静で態度も穏やかである。傲慢さや、嫌味な感じもしなかった。言葉遣いは独特に時代がかっているとはいえ、全体に丁寧で気持ちがいい。しかし『知っていて当然』のように、知らないことを延々と言われ続けると、不快感だけが募っていくものである。このときの柾樹もそうだった。
「待てよ、コラ」
苛立たしさを隠しもせず、琥珀色の髪に銀縁眼鏡の若者は、ほとんど喧嘩腰な態度で切り出した。
「さっきから黙って聞いてりゃ、勝手にぺらぺら喋りやがって。テメェらはよく知ってるのかもしれねぇがな、俺には何のことだかさっぱりわからねぇんだよ! ウツシヨだの御殿だの? 大体何なんだ、その『針』ってのは? 一からキッチリ説明しやがれ! 『無名の君』とかいうヤツのところに輿入れするだとかいう、あの話のことか?」
ガラが悪い。相手の居場所が分からないため、柾樹は障子の向こうでうねうねと動き回るたくさんの長い影を睨みつけて言った。途端に
《フン! 『輿入れ』など、タヌキの詭弁に過ぎぬわ》
今までとは打って変わり、布引姫が少々感情的な声になって言った。
《『針の先』とは、『人柱』よ》
柾樹が思いもしなかったことを口にする。『人柱』。つまり人身御供である。こんな環境下では、こんな言葉に現実味など尚湧くはずもない。
「何で雪輪が人柱になるんだ?」
柾樹の口から出てきた疑問は、どこか的外れで素朴なものだった。そんな青年の質問に
《それが我らを映し出すときに交わした『誓約』。そして人が望んだ、『奇特』の行き着く先》
荘厳な鐘の音に似て室内で反響する声が、無感情に告げた。
《『無名の君』は、千を七つ並べてまだ足りぬほどの昔、常世より映し世へ現出された御方。しかし今や顔も言葉もその名も無くし、時の彼方に忘れ去られた神の残滓》
布引姫が物語るそれはまるで昔話か、或いはどこかの古い伝承のようだった。
「雪輪が、そいつの生贄になるのか?」
まだイマイチ話の輪郭が掴めない柾樹が問いかけた。質問は現実感が無く一層子供染みていて、間が抜けている。
《そうさせぬために言うておる。湾凪姫を一旦我が方で匿い、無名の君を打ち払うのじゃ》
布引姫の響く声が答える。
《さて、『刀』は見つかったか?》
それから会話の対象が、柾樹からツネキヨへと移った。姫君より水を向けられ、平伏しっぱなしの水色の羽織が傍目にもわかるくらい、ビクッと震える。
「そ、そそそ、それが、あのぉ……まだ……」
いつもの高飛車ぶりは微塵も無く。ツネキヨは弱々しい声で返事をした。
「も……申し訳ございませんっ!」
文字通りの平身低頭で、どこかにいるのであろう布引姫に詫びている。その様子に、響き渡る厳かな声がやや呆れを帯びて言った。
《……常清。常世と違い、映し世の『時』には限りがあると教えたはず》
「は、はい! それはもう! 重々承知致しております! で、ですが、あの。土々呂めと梅花皮一門の騒ぎが」
《首を突っ込まなければ良いではないか》
ツネキヨの主張はぴしゃん、と遮られる。それでもツネキヨは黙らなかった。畳に額を付けひれ伏したまま、必死で弁明を続ける。
「はい、仰せご尤もに存じます。し、しかしながら梅花皮一門は、湾凪姫と全く関わりが無いということではございません! 姫の郎党の一人が関わっておりまして……! それに、映し世はまことに、その、誘惑が多いと申しますか。特にこの前は…て、てんぷらが、おいしそうでございましたもので、つい、ごにょごにょ……」
《天ぷら?》
これは明らかに不必要な事を言ったのではないかと、柾樹すら思った。と。
《常清……》
それまで周囲で満遍なく響き渡っていた布引姫の声が、急に一方向から聞こえてくる。異変を感じた銀縁眼鏡が、声の聞こえる天井を見上げた。その目の前で、ただの天井画だと思っていた銀色の渦潮がゆっくり回りだす。
「なんだ?」
目の錯覚を疑っているうちに、真っ黒な天井画の中から真っ白な毛と鋭い爪の生えた巨大な獣の両手が溶け出たようにぬうっと現れ、天井の縁をメリメリと掴んだ。次の瞬間、銀色の渦潮を突き破り天井一杯に出てきたのは、金色に輝く白い毛皮で覆われた長い鼻面。紫色の二つの目玉。先の尖った大きな耳。
《わしの命を何と心得る!? その方こそ天ぷらにして喰ろうてしまうぞ!!!》
恐ろしい牙の並ぶ真っ赤な口が、竜巻の如き勢いで喚いた。
「ひいいーーーーーーーーーーッ!!」
「うわ……っ!」
落雷に近い衝撃で、部屋中の空気がびりびりと振動した。丸まって縮み上がるツネキヨの横で、柾樹は布引姫の声の、あまりの大きさと衝撃で吹き飛ばされそうになる。やっと姿を見せた布引姫を、もう一度見上げた。
――――狐か?
長い爪と白い毛のびっしり生えた鬼の手や、ぎょろぎょろ動く紫色の目玉と真っ赤な口は、どう見ても怪物の類である。が、たぶんあれは巨大な狐なのだ。となると恐らく、さっきからこの部屋の外でのたうっているたくさんの長い影は、彼女の尻尾なのだろう。尻尾が九本も十本もある狐の妖怪の昔話は、聞いたことがあった。たしか『九尾の狐』といったか。それにしても布引姫はどうやら全体が大き過ぎて、この巨大な広間にさえ頭しか入らないようだった。
《小鬼。そなたの屋敷へ、この常清を使わす。湾凪の姫に取り次いでやってほしい。住まう人間の許しの言葉があれば、結界を通り抜ける事も出来よう。九十九神や火乱も、手荒な真似はすまい》
落ち着きを取り戻した布引姫が、紫色の目玉で遥か眼下の人間を見下ろして言う。もしかするとこの前、ツネキヨが古道具屋の前で柾樹に仙術がどうこうと言ってきたのは、結界に守られた屋敷内へ入り込むための方便であったのかもしれないと柾樹は思った。やおら立ちあがると、天井に居る金毛白面の狐の姫御前へ向かって怒鳴る。
「あのなぁ! 何で俺がそんなことしなけりゃならねぇんだよ!? たしかに俺は雪輪を預かってるようなもんだがな! こんなことまで世話する義理はねぇぞ!?」
遠慮のない態度に、足元で丸まっているツネキヨが天井と人間を見比べ、「ひょいええ!」といよいよ丸まった。布引姫は沈黙している。そのうちだんだん姿が薄れ
《……そなたとて、無名の君の封緘が解けたことと、因果が無いではなかろうに》
低い呟きの声を残し、銀色の渦潮の中へと消えていく。
こうして布引姫が渦潮の中へ消えた瞬間、柾樹は現実世界で目が覚めた。
急に近くなった天井は古びた焦げ茶色で、隅の方には蜘蛛の巣が張っている。この天井は知っていた。数鹿流堂の離れの、四畳半である。
「俺が何したってンだよ……?」
近眼でぼやける天井板を睨み、寝惚け眼で呟いた。




