身の程知らず
「屋根に引っ掛かってたのは、やっぱり親父さんだったのか?」
昼下がりの蕎麦屋で蕎麦を飲みこみ、千尋が言った。賑やかな店内のさざめきに混ぜて「ああ」と答えた長二郎は、忙しそうにざる蕎麦をすすっている。
「長屋はどうするんだ? 引き払うのか?」
「まぁ、そのうちなー。自分で何とかするよ」
「そ、そうか……」
質問を簡単に終わらされた千尋は、再びもそもそと蕎麦を口へ運び始めた。
「で、あれからどうなったんだ?」
隣で同じく蕎麦を食っている柾樹が、口を挟む。『あれから』とは弥助達に伴われて、長二郎が父親の死体の確認に行った後の事である。
「どうもこうも、警察が調べて、僕が確かめて、後は焼き場へ直行だ。今度こそちゃんと焼いたから、これでもう逃げないだろ」
蕎麦を食べ続ける長二郎の返事は、とても彼の父親の死体が飛んで逃げたことに関する話しをしている風に見えない。柾樹は卵焼きを口へ運んで、また尋ねた。
「結局、何で屋根にぶら下がってたんだ?」
「だから言っただろ、悪霊に取り憑かれて飛んで行ったんだよ」
「悪霊って……お前まだそんなこと言ってんのか?」
「『そんなこと』と言われてもなー、この目で見たんだから仕方ない」
柾樹に顔を顰めて言われても、長二郎は平然と答えている。柳に風といった具合だった。
「警察はそれで納得してんのかよ?」
「さーね。弥助さんはまだ調べるつもりみたいだったけど」
向けられた質問へも、長二郎は至極どうでも良さそうに言って返し
「鈴ー、こっちにもお茶ー」
店の奥へ呼びかけた。すぐに「はぁい!」と少女の高い声が返ってくる。鈴がお茶を運んでくると、ぬるいお茶の入った湯飲みを手にし、
「ま、僕は潔白だから、疑いたければ好きなだけ疑えばいいさ」
長二郎は落ち着き払った様子で言った。その態度に、柾樹はどこか面白くなさそうな顔つきをしている。
「柾樹? どうしたんだ?」
気付いた千尋が声を掛けた。柾樹は箸を置くと自分も湯のみを手にし、不機嫌そうに呟く。
「何で悪霊に取り憑かれると、飛べるようになるんだよ」
「え……そこ……? そこが疑問?」
「おかしいだろ、羽が生えたわけでもねぇってのに。何で飛べるようになるんだ」
極めて局所的に現実的な質問を向けられ、千尋の眉が困惑で下がる。
「そ、そりゃお前……悪霊だから、だろ。空を飛ぶくらい、雑作ないんじゃないか?」
「悪霊は飛ぶのか」
「悪霊って言うくらいだ。悪い奴なんだよ。悪党は悪い事するためなら、何だってするだろう?」
「じゃあ悪霊ってのは、悪事をしたいがために飛んでんのか?」
「うーん、空くらい飛べないと、祟れないんじゃないかな、きっと」
例えがまず間違えている。『悪霊』と『悪党』は本質的に違う。というか、何の話しをしているのかわからなくなってくる。明後日の方角へ飛んでいく二人の会話の横で、長二郎は無言でお茶を飲んでいた。お茶を飲みながら、何ゆえ自分はこんな阿呆共と付き合っているのだろうかと考える。十数秒考えた末、思い当たった。
――――ああ、そうだ……。
箸を手にした状態で、昔のことを思い出す。
あれは尋常中学校二年生のときだった。長二郎はたまたま、『白岡千尋』という少年と席が前後していた。現在、長二郎の前で一生懸命、悪霊の凄さについて語っていて、今では『千尋』と呼び捨てている、老舗呉服屋の一人息子である。
その白岡少年の、新学級最初の試験の成績が悪かった。すこぶる悪かった。そうしたら『席が近い』というたったそれだけの理由で、長二郎は教師から「白岡に勉強を教えてやるように」と命じられてしまったのである。
とんだ貧乏くじだった。面倒だなぁと思った。でもここで点数を稼いでおけば、後々評価が上がったり、何かの折に有利になるかもしれない。そう考えて、長二郎は千尋の勉強相手を引き受けたのである。
そして幸い、千尋は再度の試験で良い成績を修めた。この結果に喜んだ教師は
「今後は田上に教わりなさい」
と言いだした。こうして当事者達の都合は無視し、長二郎は劣等生の教育係に任命されてしまったのである。実は教師も、千尋の出来の悪さを持て余していたのかもしれない。
しかもである。
長二郎の貧乏くじ的役回りは、これだけでは終わらなかった。恐ろしい続きが待っていた。しばらくして千尋が「友達だ」と言って、金茶色の髪をした銀縁眼鏡を連れてきたのだ。それが柾樹だった。
「前の学級で、席が隣だったんだ」
千尋はにこにこ笑って言っていた。でもそれは何の慰めにもならない。
――――何てモノを連れてきたんだコイツは……ッ!
二人を前に、長二郎は腰を抜かすところだった。彼らが知り合いだったことにも驚いたが、千尋の危機察知能力の低さにも驚いていた。『相内柾樹』は学校中で、長二郎が一番近付きたくない相手だったからである。正直、こんな奴と関わるなど冗談ではないという意識しかなかった。なぜなら柾樹の凶暴さは学校中に知れ渡っていたのだ。
柾樹は小学校へ通ったことがなく、中学校が初めての学校だった。必要学歴の問題については、「小学校の教育課程は家庭教師によって身についている」とされ、更に家が資産家であり、学校に多額の寄付をすることで解決させたというのがもっぱらの噂だった。
そんな柾樹は登校初日に学校へ行きたくないあまり、屋敷の門番の老人におんぶされて登校した。それくらい行きたくなかったのだろう。
どこかが悪いわけでもないのに、図体の大きな少年が背負われてきたのである。学校中の笑いものにされ、わざわざ教室へ見物に来た上級生までいた。彼らの目に柾樹は、乳母日傘で育った世間知らずのお坊ちゃんとしか見えなかっただろう。少々珍しい髪の色も相まって、面白い玩具がやって来たとでも思ったに相違ない。
上級生達は一人で席に座っていた柾樹を取り囲み、声をかけた。何を言ったかまでは不明であるものの、たぶんからかったのである。が、次の瞬間。
「ぎゃっ!!」
悲鳴と共に上級生は蹴り飛ばされた。座っていたはずの柾樹が飛び上がり、上級生に回し蹴りしたのだ。次の攻撃目標にされた上級生は、顔の真ん中を拳骨で殴りつけられ鼻血を吹いて机ごと引っくり返った。軟弱だと思われた新入りからの突然の攻撃に驚き、怒った上級生達が飛びかかる。でも柾樹は自分より学年が五つも上で、身体も大きい上級生達を次から次へと投げ飛ばしぶん殴り、追い返してしまった。それらを全部を一人でやった。殆どケダモノである。
以来、柾樹は上級生達に目をつけられ、何度も集団で襲撃されたりしていた。それでも一度として負けたことが無い。武器を持った三十人を相手にして勝ったと聞いたときは、さすがに嘘だろうと思ったが本当だった。こと喧嘩の分野に関してなら、柾樹は神懸っている。
後年、どこで喧嘩の仕方を覚えたのだと尋ねても、柾樹は「知らん」としか言わないから、おそらく生まれ持った素質みたいなものかなと長二郎は思っている。後は屋敷の門番の老人、源右衛門が、実戦仕込みの戦闘術を教え込んでいたか。
とにかくそういう柾樹を、千尋が飼い犬でも連れてくるような気楽さで連れてきたのである。おまけに自分と一緒に、こいつに勉強を教えてやってくれという。
長二郎は断りたかった。全力でお引取り願いたかった。だが銀縁眼鏡の奥から、とても少年とは思えない人殺しみたいな目で睨まれたら(後にこの目つきの悪さは敵意の表れではなく、柾樹の標準仕様であると長二郎も知るのだけれど)
「わ、わかった……」
と一言答えるのがやっとだった。唯一
「もし教え方で気に入らないことがあっても、絶対に僕を殴るな。蹴るな」
と約束させた。そしてこれ以降、長二郎は千尋と柾樹に勉強を教える役につくこととなったのである。
ただしこれが、非常に大変な仕事だった。教えれば教えるほど、千尋は予想以上に頭が悪いと判明した。算術などは問題の解き方を教えようにも、まず長二郎が何を言っているのかわからないらしいのだ。教える側には、一体何が分からないのか分からない。しかも覚えるのが遅い。
柾樹は千尋よりは理解力があり、物覚え自体はそんなに悪くないものの、どうしてこれで中学校に入ろうと考えてしまったのかというほど、基礎が出来ていなかった。
「家庭教師がいたんじゃないのか……?」
長二郎が呆然としたのも、二度やそこらではない。二人のあまりの出来なさに、長二郎の頭の方がおかしくなりそうだった。大変過ぎて、無理だと断ろうかという考えが何度も頭をよぎった。自分はこんなことしている場合じゃないのだ。中学を卒業したら高等中学校へ行って、ゆくゆくは帝国一の大学へ行かなければならないのだ。
しかし、である。一ヶ月もすると長二郎のこの艱難辛苦に、思いがけない方面で成果が現れ始めた。第一に、柾樹と怒鳴り合いをしながら教育係になっていた長二郎に対する、周囲の目が変わったのである。
「田上、君が白岡と相内の師範をしているというのは、本当だったんだな?」
「度胸あるなぁ。相内なんて先生たちまで怖がってるんだぞ」
「へらへらしてるばっかりの阿呆だと思ってたが、根性の座った奴だったんだな……今まで見くびっていたよ。悪かった、スマン」
などと、級友達からある種の尊敬を集めるようになった。
柾樹は意外と馬鹿正直に、『攻撃しない』という約束を守っている。例外として、僅かでも手を出したりしようものなら秒速でぶっ飛ばされた(それはほぼ条件反射的に)。だから今では口先のみで喧嘩しているわけだが、傍から見れば長二郎は恐れを知らぬ、度胸や根性のある人間に見えたのだろう。
校内で威張り散らしている上級生達すら、長二郎に一目置くようになった。上級生が下級生に使い走りを命じたり、すっぽんぽんで腕立て伏せをさせるなども日常茶飯事な学校だったが、そういった無意味な労働に巻き込まれることもなかった。結果として学校での居心地は、ぐんと良くなった。
それだけではない。友人として、しょっちゅう千尋の家へ招かれるようになった。長二郎が教育係になってから倅の成績が上がったとかで、それが千尋の両親にとっては相当嬉しかったようで、日本橋の呉服屋へ行くたびに、下にも置かない扱いをされる。長二郎にとって千尋のあれは決して『良い成績』ではなかったとはいえ。
暮白屋へ行けばいつだって丁重にもてなされた。『大食いは田舎者の証』などと言われ、決して褒められた振る舞いではない。でもそんな事言っていられない長二郎が、ここぞとばかりに恥も外聞も無く菓子や食事をがつがつ食べる姿を見ても
「若い人はこうじゃなくっちゃねぇ」
「見ていて気持ちが良いよ!」
と、千尋の両親はますます喜ぶ。
どうぞ学問にお使いなさいと、千尋と一緒にお小遣いまで貰える。千尋がいない時に一人で行っても、白岡家の対応は変わらない。動乱時代を乗り越えてきた、老舗の凄まじい余裕である。下宿と距離が近いのもあって、赤坂の長屋よりよほど足繁く通うようになった。
それに柾樹や千尋と行動すると、他にも色々と良い目に合える。これまで殆ど行けなかった芝居小屋や寄席へ、気軽に行けるようになった。茶屋や花街だって行ける。金は柾樹が出してくれた。別に長二郎は「金を貸してくれ」と頼んでいない。柾樹が財布を長二郎に渡し、「任せる」と言うから、自分の分もまとめて長二郎はそこから出しているだけだった。柾樹はいくら使ったかの金額も訊いてこない。金額の概念自体、あるのかどうかも怪しかった。更に何故か柾樹がこの手の界隈で顔が広い上、馴染みの店まであったりするから、その場で払う必要すら無い時もある。どこの店も丁寧に扱ってくれた。気分も良い。
これは重大な事だった。長二郎にとって、大きな財布が二つ同時に手に入ったも同じことだった。おまけにこの財布は、働かなくても中身が勝手に湧いて出てくる、特別仕様なのである。初めこそ柾樹達の金銭感覚の無さを半ば軽蔑していたものの、やがて変わった。
――――こいつは良いや。
そう思うようになった。自分は彼らのために苦労しているのだ。せいぜい利用してやろうという気分だった。家庭教師として、当然の報酬を受け取っていると考えていた。
この時期、既に父は癒天教にどっぷり浸かっていて、足抜けなどとは夢にも思っていないようだった。
河童道楽をやめさせたい長二郎とは、顔を合わせれば喧嘩になる。長二郎は家からますます足が遠のいていた。隙あらば自分まで引き摺り込もうとしている河童連中にも、近付きたくない。
思い通りにならない状況と、父の河童道楽に振り回される中。遊び回って何もかも忘れるのは、たとえ一瞬でも楽しかった。
けれど浮世離れの極楽気分は、いつまでもは続かない。後に長二郎は、現実を思い知る。
尋常中学校の卒業が近付いた頃だった。
無論進学するつもりの長二郎だったが、そのためにはまずは働いて学費を稼がなければならない。父が受け取った金禄公債の金は、とうに使い果たしていた。そして幸い、賃訳の下働きの仕事にありつく事が出来た。後日正式に採用が決まり、長二郎が報告をしに行くと、教師は喜んで「頑張りなさい」と励ましてくれた。それから
「これで相内は音楽学校。白岡は商業学校と、お前たち三人とも卒業後の行く先が決まったわけか。やれやれ、一安心だな」
笑ってそう言っていた。
長二郎は驚いた。『あいつらはどうせ進学など無理だろう』と高を括っていたのだ。進路で苦労した後だったから、余計に驚いた。しかし驚いていたのは長二郎だけで、他の級友達には、さもありなんという顔をされた。
「そんなの当たり前だろう。そもそも金持ちは進学でも扱いが違うんだぞ?」
こんな話も耳打ちされた。
級友たちの話しによれば、慢性的に資金不足の各学校は優秀な学生を欲しがるのと同じくらい、優良な顧客も欲しがっている。特に裕福な家の子息を、喉から手が出るほど欲しがっているというのだ。
「御大尽の息子が入学して将来卒業生ともなれば、ゆくゆくは学校の大事な出資者になってくれるってもんだろう?」
「上流階級の人間が入れば、それだけで宣伝効果も抜群だからなぁ」
こういった旨味を期待して、学校は金持ちの子弟を優先的に入学させるのだと級友達は口々に言った。
嘘か真かもわからない話である。
それでも長二郎は衝撃を受けた。長二郎とて、いつか大学へ行こうと思っている。でも金やコネのある連中が大学の一角を占めてしまったら、その分自分のように何も無い学生に与えられる席は減ってしまうではないか。極端に優秀でなければ、入れない。長二郎は自分が『極端に優秀』ではないと、何となく知っている。
だからこそ愕然とした。どんなに努力しても結果は絶望的ではないのかという、確信に近い疑念が湧いた。
――――笑い話だ。
そう思った。大きな財布が手に入り、周囲と遜色ない学生生活を送る事が出来たお陰で、忘れていたのだ。元々持っている財布は、下宿代と食費に使ってしまえば、本を一冊買うのも一苦労だった。自家の経済力だけだったら、きっともっと早くに破綻していた。家の都合で辞めていく級友達もいた。本来なら自分も、そちら側にいたはずなのだ。それなのに自分も努力さえすれば、望む所へどこにだって行けると思い込んでいた。
――――身の程知らずだったんだよなぁ……。
野村庵でお茶をすすり、過去の記憶を辿っていた長二郎は、改めて己の甘さを恥じた。あのとき感じた絶望感の余韻は、今も胸の奥で通奏低音となり、響き続けている。
長二郎とて、柾樹や千尋も実家でそれなりに苦労していることは知っていた。けれどもそれは、贅沢な悩みとしか映らない。うんざりするほど、両親に世話を焼かれてみたかった。逃げ出したくなるほど、金や物に囲まれてみたかった。
だが長二郎はこういった内面の諸々を、千尋や柾樹の前では顔に出さない。学校や資金に関する相談も、一切しなかった。どうせ話したところで、残飯屋に並んだ経験もない二人に『金の無い状態』などわかるはずもないのだ。こんな奴らに助けられてたまるかという変な意地もある。言葉や感情を腹中に収めるのは、吐き出すよりずっと慣れていた。
そのくせ、千尋や柾樹との付き合いは変わらず続けている。今の状態で彼らとの関わりを切るのは、逃げ出すみたいで惨めに思えたのだ。それにやっぱり、中身が勝手に湧いて出てくる財布を手放すのは、惜しかったのである。
やがて蕎麦を食べ終えた書生三人が、暖簾を潜った。そこへ
「あの、田上さん!」
追いかけてきた鈴の声が、長二郎を呼び止める。
鈴はどこかで、長二郎の家の不幸を聞いたようだった。先刻書生一同が蕎麦屋へやってきた時も、鈴は緊張した顔で
「この度はご愁傷様でございます」
と頭を下げていた。緊張した表情が似合わない気がして、長二郎は「何て顔してるの」と笑ってしまった。そして小走りで追ってきた娘はまたしても、似合わない表情をしている。「何だい?」と首を傾げた長二郎に
「そ、その……もし私に何かお手伝いできることがあったら、何でもおっしゃって下さい」
おさげ娘は切り出した。華奢な手は胸の前で無意識に握り締められている。鈴の言葉を聞いた長二郎は少し癖っ毛気味の髪を掻き、娘とは反対に気の抜けた口調で言った。
「ああ、うん。ありがとう。でも特に何も無いよ? もう葬式も終わったからね」
いつも通りの笑顔を向ける。青年の返事に小柄な娘は一瞬、息を飲んだ。
「え……あ、そ、そうですか。そうですよね! す、すみません遅くて……!」
鈴は少し慌てた様子で真っ赤な顔になり、どもりながら俯いてしまう。
「あはは、鈴が謝ることじゃないよ」
おさげ髪の姿に、優しげな顔立ちの書生はまた笑った。
「それじゃ」
長二郎は軽く手を振り歩きだす。
「は、はい! お気をつけて……!」
その場で見送っていた蕎麦屋の娘は、そのうちに
「何も無い……かぁ」
呟いて、ちょっと萎れていた。




