田上家の事情その2
婆さんの通夜が営まれた夜のことだった。普段は出不精な父も、あの婆さんには世話になったと、長二郎を連れて顔を出していた。そこへどこから聞きつけたのか、奇妙な一団がやって来たのである。狭い長屋の入り口を塞ぐようにして、男と女が五人ずつ立っていた。
「急に押し掛けて申し訳ない。手前は山田五丈と申します」
首領格らしい男が、そう名乗った。長身で手足が長く、目玉が出っ張ってぎょろぎょろしている。まるで女郎蜘蛛のようだった。何より異様だったのがその身なりで、五丈も彼の背後に黙って居並んでいた人々も、揃いも揃って頭に小皿を載せていた。
「ハァ……どういった御用かね?」
相手を見上げ、長屋の差配が尋ねると
「実は、こちらの死人が手前の母ではないかと」
五丈と名乗った男は切り出した。差配人の背後から様子を伺っていた長屋住民達は、「えっ」と声を上げた。あの婆さんに倅がいたとは。更に五丈は同行している男女数名も、婆さんの縁者だと紹介したのである。
「へぇ……おっ母さん? あんたの? どうしてまた、今になって」
訝る差配人へ、五丈は大きな身体を折り畳んで頭を下げた。
「ハイ。昨日たまたま知り合いから、こちらで不幸があったと聞いたのです。それがどうも話しを聞いていると、十年ほど前に行方知れずとなった母ではないかと思われる節があったもので……恥を忍んで伺った次第なのでございます。不躾ではございますが、亡くなった方のお顔だけでも、見せて頂く訳には参りませんか?」
「ははぁ……まぁ、そういうことならねぇ」
追い返すのも躊躇われる。
差配人は皿頭の人々を、三畳ばかりの傾いた家の中へ招き入れた。線香の煙る中、長二郎は父の背後にくっ付いて奇妙な人々を見ていた。やがて差配人が、老婆の顔を覆っていた布を取った途端、五丈はぎょろ目を一際大きく見開き
「ああ、やはり! 母様だ!」
聞いている側が飛び上がるほどの大声で叫んだ。そして老婆に覆い被さり、おんおん泣き始める。大男に続き
「何という事だ!」
「母様!」
と、皿頭の人々も亡骸の側へ駆け寄り泣き出した。差配人始め長屋の住民は吃驚して皿頭達を宥め、嘆きを落ち着かせる。
「私が不甲斐ないばっかりに、こんな親不幸なことに……!」
五丈は鼻をすすりあげ、目を赤く腫らして語る。差配人が、肩を叩いて慰めた。
「な、何があったか知らないが、それでもこうして巡り合えたんだ。親不幸だなんて言う事はありませんよ。さぁ、支度はもう整っていますから、どうぞお弔いを……」
言いかけた、そんな言葉を
「いえ、その必要はありません」
突然泣き止んだ五丈が遮る。女郎蜘蛛みたいな男は表情が消え、首を前へ突き出した。
「折角色々して頂いて恐縮至極ではありますが、手前どものやり方に変えさせて頂きたい。このやり方では、地獄へ落ちてしまうのです。お気持ちだけ、有難く頂戴しておきます」
言うが早いか五丈達は、長屋住民達の手で質素ながらも設えられていた花や線香を捨て始めた。続いて自分たちで用意していたのだろう棺桶を持ち込み、さっさと婆さんを入れるや否やどこかへ持って行ってしまったのである。止める暇も無いほど、彼らの動きは素晴らしく統率が取れていた。
「どこに行くの?」
皿頭の人々に担がれて去っていく棺桶を見送りながら、長二郎が尋ねると
「極楽だよ」
五丈は全く真面目な顔で返事をし、長らく手を合わせて棺桶を見送っていた。そうして今度は、残った男女三人と共に、持参した河童の置物やお札のようなものを死人の居た辺りに据え置いて、熱心に拝み始めたのである。
「こんなこともあろうかと、全部支度して来たのです」
との事だった。
河童みたいな格好の集団の仕事は、これだけでは終わらない。長屋へ酒や料理を持ち込み始めた。料理屋から運ばせたというそれを狭い部屋の中へ並べ、人々に食べるよう勧めたのである。この界隈では見たこともないようなご馳走の数々。しかし急に言われても、おいそれと飛びつけるものでもない。
――――薄気味悪くねぇか……?
――――ちょいと気前が良すぎないかい?
参列者たちは顔を見合わせ、耳打ちしあった。だが
「皆々様にはこの度、通夜の支度をして頂きまして、まことにありがとうございました。ささやかではありますが、これはお礼の印でございます。どうぞ召し上がってください」
五丈達から手をついて言われれば、何となく納得してしまう。一人、また一人と、普段縁遠い酒や料理や甘いお菓子に手を出し始め、一時間もすると隣近所にまで報せが届き、通夜の席は押すな押すなの大混乱となった。
こうして人々が一通り酒と料理を味わった後のことである。長二郎の父が酒の入った赤い顔で、並べられた河童を眺めつつ
「この河童は何なのですか?」
何の気なく、五丈に質問した。他愛ない話しのはずだった。しかし五丈達は急に居住まいを正すと
「実は、我らは『癒天母神』を本尊とする、『癒天教』の信徒なのです」
堂々と言った。『死んだ婆さんも昔は仲間であったのだ』と教えてくれた。彼らは河童の姿をした『癒天母神』という尊い存在と、心身共に一体化することを目指しているという。魂を高みへと導いてもらうため、常に頭に皿を載せているらしい。
『癒天母神』
『癒天教』
長屋住民達は仰天した。薄々感じていたとはいえ、予想以上に如何わしかった。酒や食事で忙しく動いていた手も、自然と止まる。酔いも一気に醒めるというものである。何も拝む対象は、河童じゃなくても良いのではないかと思われた。
でも周囲のそんな気配もどこ吹く風で、頭に皿を載せた男女は
「癒天様の教えに従い、人の役に立つのが私達の勤めであり、修行なのです」
「困っている人を探し出し、住む家や食べ物など、何でも与えるのが仕事なのです」
真剣に熱弁をふるう。そして
「癒天様のお力が、我々を救ってくださるのです。我欲を捨て去り、ひたすらにお縋りすれば、どんな災いや悪縁からもお守りくださるのです。まずはこれをご覧下さい。この神秘の妙薬『癒天膏』こそ、癒天様が我らをお救い下さる何よりの証です」
語りながら、五丈が背後の袋から何やら取り出した。それは艶やかな白い肌をした、薬壷だった。立派な飾りのついた蓋を開けると、半透明の軟膏が入っている。入れ物は違うが、薬の見た目はいつか婆さんがくれた軟膏とそっくりだった。長二郎は「あ」と思わず声が出てしまう。けれど
「どうした?」
父に尋ねられた長二郎は、小さな声で「何でもない」と首を振った。以前殴られたときにこの薬を塗ってもらったなどと言ったら、この場で父に恥をかかせてしまう気がしたのだ。
「宜しいですか? これこそが、神秘の妙薬『癒天膏』です。これを一塗りし、何卒お救い下さいと一心にお祈りすれば、我ら衆生を悩ませるあらゆる苦痛を、癒天様が取り去って下さるのです。すぐには信じられないかもしれませんな。しかし実際にこの妙薬がもたらす奇跡によって救われた方は、数え切れないほどいるのですよ」
こうして前触れがあったようなそうでもないような感じで始まった、万能薬の即売会。これは深夜まで続き、その場にいたかなりの人数が、最終的には大なり小なり薬を買った。買わなければ帰れなかったというのもある。
この通夜の晩以来、五丈達はちょくちょくやって来るようになった。特に婆さんと比較的親しかった田上家には、頻繁に訪ねてきた。河童達は何故か必ず、三人以上の集団でやって来る。彼らが集団で行動する理由を、長二郎は五丈に尋ねてみたことがあった。少年の質問に、女郎蜘蛛みたいな男は無表情で答えてくれた。
「癒天様のお力で浄化された我らは、穢れたこの世では普通の人間より霊的に弱くなる。そのため常に仲間数人で固まって動かなければ、危険なのだ」
――――変なの。
長二郎は思った。まず崇高な魂の方が弱いというのが、腑に落ちない。癒天様が『奇跡を見せるだけ』という回りくどい手法で、まずこちらの反応を伺うのも違和感があった。さっさと助けてくれればいいものを。おまけに
「癒天様を信じる者だけが人間である。それ以外は全て地獄へ落ちる魔物なのだ」
「この世は穢れている。清らかな魂でいる為にも、信者以外の者と個人で不用意に関わってはならない」
こんな説法が、長二郎の耳にも聞こえてきた。軟膏即売会の折、外へ向けられていた救いの文句とは対照的である。信徒に対しては、極めて内向きであることが義務付けられていた。
――――何か、嫌だな。
長二郎の嗅覚が告げていた。
それでも五丈達は食べ物や、時には金も持ってきてくれる。おかげで一応、食える飯は増えた。赤坂に新しい長屋を紹介して移り住めるようにもしてくれたし、父は左官の手伝いの仕事を得て働くようになった。
だから長二郎は黙っていることにした。引越した後、五丈達に勧められて父が例の軟膏を買ったり、河童の絵やら置物やらを購入するようになったのも、見ないふりをした。仕事が無いと言って薄暗い部屋の中で一人酒をあおっている姿を見るよりは、何倍も良かった。それに癒天教は道場で、他の貧困者にも施しをしているという。昔は邪教と忌み嫌われていた耶蘇教の人々とて、解禁となった今では各地で慈善活動をしたり、貧しい人々に施しをしているではないか。
「あの人らに、あんまり近付かない方が良いよ」
「あの『癒天膏』とかいう薬。使ってみたけど、ちっとも効かねぇ」
「そうそう。他所で聞いたが、やっぱりインチキらしいぞ」
長屋のおじさんおばさんからそんな忠告をされたものの、仕方が無いと思っていた。河童の置物に金を払うくらいなら、たまには大根飯以外のものを食いたかった。でも自分は武士の子なのである。「辛抱せい」の一言で片付けられてしまう空きっ腹を抱え、辛抱した。
何より父は、長二郎を学校にだけは通わせてくれていたのである。借金してでもあちこちから古本を手に入れてきては読ませ、付きっきりで教え、鉛筆などの筆記用具も与えてくれた。小学校も卒業する事が出来た。ただし
「貧しさは言い訳にならんぞ」
そんな口癖が、いつも必ずついてきた。
今の世で御大尽と呼ばれる人々の中には、生家が下級武士や農民だった人もいる。たとえ賊軍藩の出身でも、才覚と能力さえあれば、政府や軍部の中枢に起用されることもある。何も持っていない自分達は、粒粒辛苦で日夜研鑽を積まねばならない。必死に学問をして、身を立てていくしかない。そのためには人の何倍も勉強をしろ。そうしてまずは大学へ行け……。父はそう言い続けた。
動乱の時代は遠ざかり、新たな世の中の仕組みや構造もほぼ定まってきて、高い教養や学力を身に付けた若者が急増している昨今。腕と才覚一つでのし上がる、夢のような『立身出世』の入り込む隙間がどれだけ残っているかなど、考えもしないまま。
――――今に見ていろ。
細い道でも構わず歩行者を蹴散らし、土埃と共に駆け抜ける御大尽の黒い馬車を睨みつけては念じて、やがて長二郎は中学校へ進学した。
中学校へ上がることが決まると再び癒天教の人たちが紹介してくれて、長二郎は学校に近い上野広小路にある、下駄屋へ下宿することが出来た。下駄屋は中々に快適だった。早朝から納豆売りをしたりして生活費を稼がなければならなかったけれど、飯は食えるし、父に毎日「勉強しろ」と言われることもない。学校の勉強以外に友人との付き合いも増えて忙しくなり、そこそこ楽しく中学校へ通い始めて、数ヶ月が経過した。
だが、それからしばらくして長屋へ帰ったときである。長二郎を、とんでもない光景が待っていた。
初めての長期休暇のときだった。
快晴で、蒸し暑い午後だったと記憶している。土産の佃煮を手に、「ただいま戻りました」の声をかけて戸を開けると、長屋内部の様相が一変していた。
薄暗い家の中を埋め尽くしていたのは、膨大な量の河童河童河童河童河童河童河童河童河童……。壁といわず床といわず、置物や掛軸の河童が犇いていた。その何百という河童の目玉が見つめる先で、父が戸へ背を向けて寝ている。一瞬家を間違えたのかと思い、長二郎は外と内を確認したが何も間違えてはいなかった。間違いであったら、どんなに良かったか。
「父上、何ですかこれはッ?!」
汚い畳の上でいびきをかいている父を叩き起こし、混乱をねじ伏せて尋ねる長二郎へ、明らかに酒臭い父は重そうな瞼を開いた。「おお、帰ったのか」と呟いてのろのろ起き上がり
「何ってお前、癒天様だろう」
当然のような顔をして言った。
『癒天様』が五丈達の信じる神秘の教え、『癒天教』のご本尊であることは、長二郎も承知している。『癒天様』は本尊であると同時に癒天教の創始者でもあり、前世が河童なのだと五丈が言っていた。そこはわかっているのである。それよりも、少し家を空けていただけで、いつの間に父は信徒になったのか。それもかなり傾倒している方の信徒である。五丈たちから薬や河童の置物を購入しても、それは社交辞令みたいなものだと思っていたのに。
目の前で絶句している次男坊に、赤ら顔の痩せ男は胡坐をかくと言う。
「長二郎、儂はこの頃になってようやく気がついたのだ。よく考えてもみろ。癒天様を知って以来、我が家は全てがうまくいくようになっただろう? 身体が強くもないお前が無事に中学校へ上がり、立派な下宿にも入れてもらえた。公債も、この前さっそく入ったのだぞ。一体いつになったら支払われるのかと、気を揉んでいた先にこれだ。まぁ雀の涙ほどの金だろうが、無いよりはマシというものだ。これでまた、しばらくは何とかなる。運が良いぞ。それもこれも、全て癒天様のご利益としか考えられないじゃないか。そうだろう?」
自分そっくりの猫背で話し続ける父の目が、どこか虚ろになっている。
「この前、ありがたいことに二代目宗主、お鶴様を特別に拝ませて頂くことが出来てな。それでわかったのだ。我が家に纏わりつく悪い因縁を、癒天様が浄化してくださっていたのだ。これだけではない。お鶴様によれば、全ては儂の前世の業が原因ということだった。もしこれを知らなかったら、悪縁に引き寄せられた悪霊の力で、もっと酷い目に遭っていただろうとの仰せだ。今も浄化されつつあるが、それでも儂の前世の業はまだまだ深いらしい。一先ずは癒天様の身代わり人形をこれだけ頂戴したから、当分は大事無いだろうが、油断は禁物だ。これからはもっと熱心にお参りをして、儂も他の方々を見習い、癒天様のお教えを世に広めるようにしなければならん」
滔々と話す父の姿を眺め、長二郎は体中の血液が畳へ吸い取られていくような感覚に襲われていた。部屋の隅には、借金の紙が何枚も散らばっている。借金で河童の置物を買っていたのかと思うと、気が遠くなってくる。気持ちを立て直し、強い口調で「河童のご利益なんて馬鹿げています!」「迷信です!」と指摘した。しかし
「癒天様に全てお任せすれば、みんなうまくいくんだ! 『下手の考え、休むに似たり』だ!」
父はそう言うだけで、話が少しも噛み合わない。布教で忙しいとかで、仕事も辞めてしまっていた。
父の言い分では、今は自力で何をしても無駄であるのだという。どんな努力も泡となって消えると決まっている。それは運命だという。癒天母神の導きの下、何はなくとも自らの魂を清めなければならない。しかし一心に祈れば、やがては不幸を齎す悪縁や前世の悪業が消え、身体も軽く動かせるようになり、運命の歯車の狂いも修正されると言ってきかなかった。長二郎は情けないやら腹が立つやら。
「僕は誰かのご利益で中学へ入れてもらったわけじゃない! 勉強したんだ! 大学も、その先の道も、自分の力で切り開いてみせますッ!」
歯軋りしそうになりながら言い捨てるのが、やっとだった。その後どうやって下宿まで戻ったのか、覚えていない。『癒天教』よりも、父親に対して長二郎は怒っていた。そもそもあんなものに少しでも頼ったのが、失敗の元だったのだと思った。
――――他人を頼りにしていては駄目だ。僕が何とかしないと……!
土埃の舞う道を走り、この状況を変えていくにはどうすれば良いか、夢中で思案していた。
その後、中学校を卒業した長二郎は、夜学へ入ることが出来た。あちこちの出版社に頭を下げ、舶来書籍を賃訳する末端作業もさせてもらえる事になった。朝は新聞配達をし、昼間は英書の賃訳をし、夜は学校で勉強をする。これなら勉強をしつつ、高等中学校やその先へ進むための学業にかかる金も多少捻出できる。近頃では父にも、幾ばくかの金を渡すことが出来るようになった。
しかしそうやって長二郎が稼いだ金はすぐさま酒と河童と、それらを買うために積み上げた借金の返済に使われ、湯気の如く消えていった。




