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天邪鬼

「そろそろ出るか」


 あやとりの紐をぐちゃぐちゃ丸めて懐へねじ込み、柾樹が言った。日付も変わり、往来から人も少なくなった時間帯。柾樹は昏々と眠り続ける源右衛門を残し、雪輪を連れて長屋を忍び出た。もっと早く出ても良かったのだけれど、源右衛門がこの娘を「世間の目に触れさせるな」と言ったのだから、こうするより仕方がないという判断だった。


 抜け出すのは簡単で、拍子抜けするくらいだった。昔と違って木戸もない。その上、雪輪のような娘を連れ込んでいても誰も気付かない長屋なだけあって、住人も粗忽者が多いというか全体がいい加減に出来ていたのだろう。


 小雨の降る中、神田川沿いの道へ出た二人は両国橋を目指して東へ歩き出した。目指す先は両国橋の西詰めH町にある古道具屋の『数鹿流堂』。柾樹の友人、白岡千尋と田上長二郎が留守番をしている店である。


 柾樹すら荷物があるのに、雪輪は完全な手ぶらだった。履物だけは結いつけ草履だったが、旅人らしい装備と言えばそれだけである。どうしてそんなに何も無いのだと訊いても、雪輪はダンマリを決め込んで答えなかった。訊いただけ損した気分になり、柾樹は訊かなかったことにした。あまりにも返事をしないので途中からは話しかけるのもやめた。どこまでも面白くない娘である。


 ハッキリ言ってこの変な娘の行く末や始末方法など柾樹はどうでも良い。縁もゆかりも無い他人なのだ。下手に親切にして懐かれたりしようものなら、後日何が起こるかわかったものではないと思った。


 だが源右衛門の容態が芳しくないのは一目瞭然で、その家にこんな『歩く怪談話』みたいな娘が潜んでいては、医者も呼べない。それに源右衛門はどうしてもこの娘を助けてやりたい様子であったし、雪輪を一先ず『女がいない場所』に置いてやると、約束もしてしまった。そして柾樹の信条として、男子たるもの約束は守らねばならない。まずは出来ることを片付け、今後どうするかはその後で策を練ろうと考えた。


 道中一緒に傘に入れと言ったのだけれど、雪輪は決して横に並ばなかった。どうしても柾樹の数歩後ろを歩こうとする。それが慎ましやかな遠慮ゆえなのか、単にこちらを警戒しているだけなのかはわからない。その辺の村娘、町娘ならともかく、落ちぶれようとも由緒正しい武家の家柄で田舎育ちの娘となれば男と並んで歩くなどということ自体、考えられないということもある。仕方が無いので雪輪の好きにさせ、何を話すでもなく黙って歩いていた。


 今宵は雨のせいなのか、神田の長屋からここに至るまで不思議なほど人がいない。両国橋界隈は昔からの繁華街で夜中でも少しは人が通るはずなのに、こんな珍しい日もあるのだなと柾樹はぼんやり考えていた。


 そして間もなく柳橋が見えてこようかという頃、連れがついて来ているだろうかと念のため見返ってみる。そうしたら後ろの雪輪が予想以上に髪が濡れていて、少々肝をつぶした。


 草木も眠る丑三つ時。小雨の降る川沿いの道。

 長い黒髪から雫を滴らせ、男の後ろを無言でついてくる白っぽい着物を着た女。


――――何の怪談だ、何のッ!


 柾樹は下駄音も荒く数歩戻ると


「どう見てもおかしいだろッ! 目立ち過ぎるだろうが! 俺と並んで歩け!」

 叱りつけて娘の手を引き、強引に蝙蝠の下へ入れた。手を握って、驚いた。触れた娘の指先は雨で冷たくなっていたものの、手のひらはほんのりと温かかったのだ。当然といえば当然であるが、思いがけない人間らしさに触れて緊張が少し緩む。離すのを忘れた娘の白い手からは、しみ出るような震えが伝わってきた。


「……寒いのか?」

 たぶん違うと思いながらも、さっきより少しだけ優しい声で尋ねた。震える娘は柾樹の手を振り払うでも、握り返すでもない。何処を見ているのかわからない、異様につりあがった黒い瞳で斜め下を見つめ、「いいえ」と答えた。


「じゃあ病気か? どこか痛いとか……」

 重ねて訊くと、今度は小さく首を横に振る。

「どこも悪くはございません」

 抑揚の無い声で言った。


「じゃあ何で震えてんだよ?」

 青年がここまで尋ねて、ようやく雪輪は重い口を開く。


「……子供の頃、ある方から頂戴した、お餅のせいかと存じます」


 やっと返事らしい返事で答えた。挨拶をしたときもちょっと思ったが、声だけは澄んでいて悪くない。ただそんなことを気にする以前に返答内容が意味不明過ぎて、柾樹は首を傾げた。


「おもち? お餅って米で出来た、白くて丸かったり四角かったりするアレか?」

「……お団子であったやもしれません」

「いや、そこはどうでもいいんだが」


 一体俺は何をやっているのだろうと自分で呆れてくる。からかわれているのかとすら疑った。しかし冗談を言う娘には見えない。それに冗談だったとしても笑えず、本気であればもっと笑えない。判断に迷った柾樹は、とりあえず自分の価値観に照らし合わせて、『冗談』の方に軍配を上げた。冗談であれば、一応納得出来るというものである。


「…ま、いいや。それにしてもお前、帝都まで一人で来たのか?」

 餅の話を終わらせた柾樹は、源右衛門の家で聞きそびれたもう一つの疑問を口にしてみる。すると

「いいえ、弟と……」

消え入りそうな声で雪輪が答えた。


「弟だぁ? なんだ、そんなもんがいるなら早く言えよ。そいつはどこに行ったんだ?」

 娘の返事に、銀縁眼鏡は色めきたつ。弟とやらの居場所がわかれば、『親族』であるそいつの所へ連れていけば全部片付くではないか。そう期待したのに、娘はまたしても無反応のまま沈黙する。


「はぐれたのか? それともどこか別の場所にいるのか?」

 尋ねても答えない。無反応という反応に柾樹が落ち着かなくなってきた、そのとき。

「死にました」

 俯いたまま娘が言った。静かながらきっぱりとした口調の答えに、尋ねた側が驚いた。


「死んだ?」

「はい。道中で病を患い、帝都に着いて間もなく死にました」

 雪輪は尚も淡々と述べる。俯く娘の手を離すのを忘れたまま、柾樹は「へえ」と呟いた。


 不自然過ぎないか? 死んだ弟の遺体はどうしたのか? そういった疑問が頭に浮かばなかったわけではない。でも元より真摯に話しを聞く気が無かった為、「そいつは大変だったな」と心の篭ってない返事をし、それ以上のことを尋ねるのはやめた。


 こうして雨の街角で、ただでさえ盛り上がらない会話が途切れて5秒後。顔色の悪い娘の細い指が、するりと柾樹の手をすり抜けた。


「では、わたくしはこれで」

 震える体でゆっくりゆっくりお辞儀をする。柾樹が「え?」と、まごついているうちに

「ここまで参りますれば、堀田様がお心を痛められることもございませんでしょう」

娘は当然みたいな口調で言った。言われた方はぎくりとする。


――――……こいつめ。


 歯噛みしたくなった。この娘、柾樹が老人の顔を立ててやるためにイヤイヤ頼みを引き受けたのを知っているのだ。「どうかお見捨てにならないで下さいまし」などと縋り付く気も、更々無いのだろう。もしかすると娘の方こそ源右衛門に恥をかかせないために、柾樹についてきただけなのかもしれない。


 蝙蝠傘の下、つくづく『腹の立つ女だな』と思った。恨めしさや嫌味っぽさもないのがまた憎たらしい。ようするに柾樹という人物に対して最初から全然、全く、これっぽっちも期待をしていないのだ。


「ああそうかい」の一言で置いて帰ってやろうかと、思わないでもなかった。だが非常に残念なことに柾樹は重度の負けず嫌いだったのである。初対面の娘に考えや行動を綺麗に見透かされたムカッ腹が、この負けず嫌いと天の邪鬼に火をつけた。こんな娘に懐かれたら困ると思っていたけれど、ここまで期待されないとなるともはや侮辱に等しい。まだ若造とはいえ、無力な女子供とは違うのだという自尊心もある。「では」と再度のお辞儀を残し立ち去ろうとした娘の腕を鷲掴み、力任せに引き戻した。


「ンなもん駄目に決まってンだろうがッ! お前の世話は源右衛門との約束だ。俺に約束反故にしろってのか!?」

 早口で怒鳴るように言う。腕を掴まれた雪輪は、柾樹を見上げたきりで答えない。よく見ると震えながら微かに首を傾げていた。柾樹が何を言っているのかわからないらしかった。何もかもが一々噛み合わない。


 そのとき急に娘が振り返った。長い睫毛に縁取られた黒い目が、夜の彼方を気にするように動く。知り合いでも見つけたのかと柾樹も目を凝らしてみる。しかし辺りに人影はなかった。人気の無い暗い往来では、春の細かい雨がゆるい風に流されている。


「? 何だ?」

 柾樹より頭一個分くらい低い位置にいる雪輪を見下ろし、尋ねた。

「いいえ、何も」

 震える娘の返事はそれだけで終わる。答えたい事しか答えないこの娘のやり方にも、そろそろ慣れてきた。


 諦め気分で軽く息を吐いたそこで、柾樹の視界の隅を何かが横切る。慌ててそちらをもう一度見た。しかし広い道にはさっきと変わらない闇が広がっているだけだった。霧に霞む月が照らし始めた道の先。何か、白いものが曲がり角の辺りで動いたように見えたのだが。


「ほら、行くぞ」


 傘を閉じた青年は娘を連れ、隅田川にかかる巨大な木橋を目指して歩き出した。

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