長屋前
長二郎の父、田上乗政がぶら下がっていたのは、小倉という材木屋の蔵だった。
いつから引っ掛かっていたのかはハッキリしない。建物の影になっていて見え辛かったため、昼に女中が蔵へ物を取りに行くまで、蔵の雨樋に人が引っ掛かっているなど、家の誰一人気付きもしなかったという。唯一、店の小僧の証言によると、死人が発見される前日の夜中。屋根の上で物音がしたが、どこかの猫だろうと思って気にも留めませんでしたとのこと。
当然ながら材木屋は大騒ぎとなった。警察へ使いが走り、近所の人々や若い衆が集まって、蔵の屋根にぶら下がっている人を降ろす。長二郎の父親は首に結んだ手拭が雨樋に引っ掛かり、首を括る格好になっていた。この雨樋が古くて一部破損していたため、降ろすのに人々は大層難儀したという。
巡査に材木屋のこういった状況を説明され、逃げた死体の発見から現状に至るまでは把握出来たものの、一先ず死体が本当に田上乗政その人であるかどうか確認しなければならない。そこで長二郎は弥助と巡査に伴われ、急遽出掛けることとなった。部外者の柾樹と千尋は一旦古道具屋へ引き返すことにし、全員慌ただしく長屋を出る。そして長二郎が自宅の薄い戸を閉めた、そのときだった。
狭い路地を、風がびゅうと吹き抜ける。
巻き上げられた土埃に、人々は「わ」と目を瞑った。突然の風は粗末な木戸をガタガタと鳴らし、路地の桶や箒を騒々しく転がして通り過ぎていく。風がやみ、そろりと目を開いた柾樹は着物の袖で顔を拭った。同時に、すぐ近くで佇む人の気配に気付いて顔を上げる。そこに居たのは
「どうも、ご無沙汰を致しておりました」
巡礼者を思わせる白尽くめの装束に、大きな笠。巨大と言って差し支えない柳行李を背負って立っている白い影。以前より心持ち小柄になり、僅かに細くなった印象を受けるその人物に、柾樹は驚き声を上げた。
「土々呂……?!」
呼ばれた男は笠の下から覘く歯並びの悪い口で、ニイと笑う。
「へへぇ、『土々呂』でございます」
腰低く言って頭を下げる。お辞儀をすると行李の中で、ガラゴロと何かの転がる音がした。この薬売りがこんなところに湧いて出るとは思いもせず、吃驚している書生三人の横で、弥助と若い巡査はきょろきょろしている。
「おい、若旦那。何だ、あいつぁ? 知り合いか?」
「あ、ああ……薬売り、らしいんですが……」
小声の弥助に小突かれ、千尋が答えかけた。すると、まるでそれを遮るように土々呂が喋り出す。
「ええ、手前はしがない薬売りでございます。そちらのお父上様が、事もあろうに悪霊にとり憑かれて飛んで行ったと小耳に挟みましたもので、これは一大事とお見舞い申し上げに参上した次第でございます。そうそう! “癒天教”の方々も、そんなまさかと、導師様始め上を下への大騒ぎだそうでございますよ」
「癒天教?」
薬売りの言葉で、その場にいた全員の視線が長二郎へ集中した。しかし視線の中心にいる長二郎は様子も変わらず、どこか退屈そうな顔で立っている。無反応な青年をよそに、土々呂は何が面白いのか肩だけで細かく笑っていた。
「もう何年になりますか。あれだけご熱心に、毎日拝んでいらっしゃったってのに。こんなことがあるんでございますねぇ……癒天教の“癒天母神”様の御利益も歯が立たないとは。いやはや、お父上様は一体全体、前世で何をなさったことやらねぇ?」
大きな声で土々呂は話し続ける。長二郎の視線が動き、微かに笑って尋ねた。
「お前、何故そんなこと知ってる……?」
「癒天さまのお軸の数が、足りなかったんじゃあございませんか? ひひひひひ!」
青年の質問には答えず、口を横に引き伸ばして笑う土々呂の声が高くなっていく。態度といい口調といい、相変わらず他人の神経を逆撫でする。特に柾樹は聞いていることに堪えられなくなってきた。そのとき
「ん?」
銀縁眼鏡は土々呂の背後へ続く通りの先に、子供が一人佇んでいるのを見つける。他の面々も柾樹と同じく、「あれ?」「おや」と呟いて、柳行李の向こう側に現れた子供に気が付いた。
背格好からして十歳くらい。一人でぽつんと立っている。近所の子供が土々呂の大声に引き寄せられ、野次馬に来たのかと思った。しかし次の瞬間、その子の後ろからひょこんと別の子供が顔を出した。続いてもう一人顔を出す。二、三人で終われば「背後に隠れていたのかな」で終わった。終わらなかった。
次から次へ、ひょこりひょこりと湧いて出てくる。しかもどんどん速度を増して、子供は増え続けた。見る間に百人以上の大集団を形成し、細い道を押し合いへし合いしながら柾樹たちの方へ進んでくる。
「わ、わ、な、何だ!? どうした!? お前らどこのガキどもだ!?」
異常な状況で混乱気味に弥助が尋ねるも、子供達は答えない。更に家々の僅かな隙間や物陰から、同じような子供が虫の如くわらわらぞろぞろ現れてくる。ただでさえ狭かった長屋の前は、増え続ける子供で埋め尽くされ、人々は完全に包囲されてしまった。
子供たちはどれも裸足。黒い帯を締め、着物は渋い茶色で小ざっぱりしている。手足も特別汚れておらず、身形格好だけなら不審な点は無い。ただ一点を除いて。
「こ、こいつら、顔が……」
じわりじわりと寄ってくる子供らを見下ろし、青ざめて千尋が呻いた。
――――全部顔が同じじゃねぇか。
腹の内で唸った柾樹も、眉間に皺を刻む。子供たちは判で押したように同じ顔をしていた。髪の長短や背丈などは微妙に違う。でも満月みたいな丸い輪郭と、銀杏にも似た円らな目。小さな鼻。薄い唇に柳眉といった顔の構成要素が、どれも全く同じだった。
「だ、大家族?」
「んなワケねーだろ! 多過ぎるだろッ!!」
一番青ざめている割に平和な発想しか出てこない千尋の言葉で、柾樹と長二郎が同時に叫ぶ。柾樹など気味の悪い子供らを、蹴散らそうか殴ろうか考えていたところだったため、脱力感で膝が折れそうになった。
路地にぎゅうぎゅうひしめく子供達は、さっきから口だけ小さく動かしている。それでも一言も発しない。ひたひたと大人達を取り囲み、一層包囲を狭めていく。
「こ、小林さん!?」
巡査の悲鳴に振り返ると、道の反対側も子供で埋まり、弥助が足元で寝ていた。この光景の不気味さだけで、精神的に耐えられなかったのだろう。子供達に指先でつつかれても、白目をむいた中年男に反応は無かった。逆境に弱い探偵が伸びているうちに、土々呂がぐるりと周囲を睨み回す。
「これはこれは、梅花皮一門の方々。揃い踏みで」
もったいぶった口調で、子供たちに語りかける。
「何か御用でございますかねぇ? こう見えて忙しいんですが……」
小馬鹿にした声で薬売りが言い、にわかに緊張がピリリと増した。その張り詰めた空気を切り裂いて
「キィエエエエエエーーーーーーーイイィッ!!」
鼓膜を貫通しそうな高い声が、上空から降ってきた。人々が見上げる前に、屋根の上から地上へ降り立ち、手にした杖を振り回して土々呂を数歩後ずさらせたのは
「は? ツネキヨ!?」
先刻、古道具屋の前で柾樹と一悶着した、あのやかましい少女(仮)だった。
土々呂と柾樹達の中間で、シャン、と涼やかな音が鳴り、金襴の袴と目に刺さりそうな水色の羽織が翻る。構えた長い木の杖の長さは六尺ほどで、注連縄の如くねじれており、先端には枇杷の実に似た金色の鈴が数個、結び付けられていた。どう考えても戦いには不向きに見えるそれを、勇ましく上段から下の構えにし
「故あって助太刀致すのじゃ!」
ツネキヨは相変わらずの甲高い声で申し出る。
「助太刀?」
突飛な申し出に柾樹が問い返すと、ツネキヨは銀縁眼鏡の青年を横目で睨んだ。
「梅花皮一門に申しておるのじゃ! 三介には言うておらんのじゃ!」
「だから俺は三介じゃねぇっつーの!」
何故か完全に『三介』として認識されているらしい柾樹がツネキヨに食って掛かると、千尋と長二郎が口を挟んだ。
「三介? 柾樹お前、手に職を付けたのか?」
「やっと働く気になったのか。文明の夜明けだな」
「真に受けるなそこッ!」
柾樹が結構本気で怒鳴り返している隙に、土々呂がひらりと子供の壁を飛び越えた。あんまり軽やかにやってのけたので、跳躍力が非常識だったことに驚くのも後回しになる。
「おのれ逃げるか!? 狸の手先に成り下がった下郎めが!」
杖を構えてツネキヨが鈴を鳴らすと、子供らの壁が波が引くように、さあっと左右へ割れた。裏路地の出入り口付近で振り向いた土々呂は笠を押さえ、ちょっと俯き加減で言う。
「ハイハイ申し訳ござんせんね。アタシも奥女中と遊んでいるほど、暇じゃないもんで」
それから長二郎に向け、再び笠の下の口を横に引き裂いて笑った。
「お焼香代わりに申し上げますがね。さっさとお逃げになった方が宜しゅうございますよ? お父上の分まで」
言い終わるなり、巨大な柳行李を背負っているとは思えぬ速さで身を翻し走り出す。「待て!」と叫んだツネキヨも駆け出し、同じ顔をした子供らも、波となってぞろぞろバタバタ後を追っていく。
彼らを追って裏路地を飛び出した柾樹も、伸びた弥助を起こそうと苦労していた千尋も。薬売りの居た辺りを睨みつけている長二郎の、虚ろな表情を見ることはなかった。