猫と河童とステテコ踊り
乗合馬車が嫌いな柾樹の都合により、二人は両国橋から川汽船に乗って永代橋へ向かった。次いで手漕ぎの舟を拾い、数寄屋橋付近に到着すると赤坂界隈までは徒歩となる。
目的地に近付くと、道の右側に土手が見えた。ここには昔、溜池があった。けれど水質が悪化してきたので池としての役目を終え、今はほぼ埋め立てられている。そして道を挟んで左側には前時代から続く、昔ながらの家々が並んでいた。
「数鹿流堂に下宿したくもなるわけだよなぁ」
土埃の舞う道を行きながら、千尋が言った。古道具屋で留守番下宿をするという話しをした際、長二郎はすぐさま自分も下宿させてくれと頼んできたのだという。長二郎が通っている夜学も世話になっている出版社も、神田に近い場所にあった。この距離を思えば、数鹿流堂の方が断然近い。
こんな話しと共に歩くうち、目当ての住所近くへ辿り着いていた。近所の人に教えてもらい、青年たちは田上家を探し当てる。しかし戸を開けた長二郎は、千尋と柾樹の姿を確認するなり、こう言った。
「何しに来たんだ」
ひどい。しかも言葉だけでなく、色白の顔にも露骨に迷惑そうな気分が浮かんでいる。随分な出迎えに面食らった客人達だったが、更に驚くことが長二郎の背後から顔を出した。
「おお!? 若旦那じゃねぇか」
「ええ? 弥助? 何でこんな所に?」
千尋が驚きの声を上げる。何故か探偵の弥助が、先客として田上家へ来ていた。中年男の日に焼けた丸顔は、きょろきょろと書生達を見比べている。そのうち、へらっと笑い
「えー、あー………ま、話は後だ。入れ入れ」
言って柾樹達に中へ入るよう促した。勝手な弥助の行動で、長二郎は一層嫌そうな顔をする。でも小太り男はお構いなしに二人を室内へ招き入れてしまい、諦めたのか長二郎も「ドーゾ」と形だけは言って、客人達の後ろで戸を閉めた。
長二郎は全身から、これ以上ないほど物凄く不機嫌な気配を醸し出している。他人の表情や感情に鈍感な柾樹も、さすがにこれだけ分かり易ければ気が付いた。
「何を怒ってるんだアイツは?」
部屋に上がり尋ねる柾樹に、千尋が小声で諭す。
「親父さんが亡くなったんだぞ? 機嫌良くなるような話か?」
「ああ、そういうことか」
言われてやっと理解し、頷いた。ここまで言われなければ想像すら浮かばないのだから、どうしようもない。
「それにしても……」
毛羽立った畳に座り、部屋の中を見回して柾樹は呟く。先が続かない。千尋も同様だった。別に彼らの生家との雲泥の差に驚いているのではない。
家は間口二間に奥行四間という狭さだった。庶民の裏長屋には珍しくないものの、やはり狭い。入ってすぐの土間には膝置き台と流しがあり、その向こうには質素な竈と焦げだらけの七輪。狭い板間では笊や木箱が埃をかぶっていた。少々薄汚いとはいえ、どこにでもある庶民の家屋である。しかしこの室内に施された装飾が、この家の内部を異様な空間にしていた。
『河童』である。
部屋のそこら中に河童がいる。河童の掛け軸が、壁の殆どを埋め尽くしていた。天井や障子にも河童の絵がべたべたと貼ってある。他にも木彫りや素焼きの河童が大小様々、人間達を取り囲むようにして並んでいた。むしろ河童の隙間に、人間四人が車座を組んで座っている状態だった。非常に暑苦しい。
河童はどれも丸い目玉をぎょろつかせ、頭の皿の周囲にはばさばさの髪。背中には甲羅。嘴型の口には細かい牙を生やし、斑模様の浮かぶ茶色い皮膚をしている。踊るような格好で、水かきのついた手には小さな薬壺を持っていた。貧相ながら乳房がついているから、女の河童と思われる。
「何だコレ?」
掛け軸を指差し、柾樹が右隣の長二郎に尋ねた。それに対し
「河童だよ。見ればわかるだろ」
馬鹿にしきった目付きと口調で答えが返ってくる。無礼な態度に柾樹が噛みつきそうになったのを寸でのところで制して、千尋が口を開いた。
「それで、弥助はどうしてここに?」
何はともあれと、隣の中年男に尋ねる。胡坐をかいて座っている弥助は、手足が短いのと丸まった背中も相まって、起き上り小法師みたいだった。
「ああ、ちょいと話を聞きに来たんだ。ちょうどいいや、お前らもここへは何しに来た?」
広くなりつつある脂っぽい額を撫で、探偵は逆に尋ねてくる。千尋と柾樹は一瞬顔を見合わせた。
「何って……長二郎の父上が亡くなったと聞いて来たんです」
「ほう、そうかい。しかしそれにしちゃあ来るのが遅くねぇかい?」
弥助に質問され、硬い黒髪の青年は戸惑いを目元に浮かべてもそもそと答える。
「いや、それが……今日になって亡くなったことを知ったんです。柾樹が言わないから……」
「田上が『来るな』って言うから来なかっただけじゃねぇか。悪いかよ?」
すかさず言い返した柾樹の発言に、弥助は呆れ顔になって長二郎へ尋ねた。
「お前さん、そんなこと言ったのかい?」
「当家ではそういう仕来たりなんです」
弥助の指摘も、長二郎は素知らぬ顔で受け流す。その横で柾樹が膝を崩すと言った。
「昨日の昼間、田上に親父が死んだって聞いたんだよ。たまたま麹町の辺りで会ったんでな。お前あの時、早桶屋で何人かと一緒にいたよな? 誰だか知らねぇが、頭に皿載せてる連中」
「いたよ。五丈さん達のことです、弥助さん。葬式の支度で世話になったんですよ」
「ふむ、なるほどな。で、二人は昨夜から今朝まで、ずっと数鹿流堂にいたのか?」
軽く頷いた弥助は、更に柾樹たちへ尋ねてくる。まだ聴取は続くらしい。千尋は腕を組んで首を傾げた。
「昨夜? 昨夜は柾樹はいなかったよな。朝方帰ってきたが……どこに行ってたんだ?」
「深川。店の名前も言った方がいいか?」
「深川だぁ?」
弥助の口が苦々しく歪む。他人の遊興など聞くのも嫌なのだろう。弥助は柾樹を後回しにすると、千尋へ目を向けた。
「ったく……まぁいいや。後で聞くぜ。若旦那は? 数鹿流堂に居たことを証言してくれる奴ぁいるかい?」
証言者に数鹿流堂の『女中』は勘定出来ないため、千尋は思い切り困った顔になる。
「うーん……誰にも会ってない、かなぁ。今朝、近所の人と挨拶した……これじゃ駄目ですか?」
「どうも違うな……」
「さっきから何なんだよ?」
そろそろ焦れてきて柾樹が問い質した。弥助は目を見開き、隣の長二郎を見る。
「こいつらには話しても良いだろう? なぁ? これまでの事情を整理するのも兼ねてな。もし俺が何か違う事を言ったら、『そいつは違ますよ』と、こう正してくんな」
「わかりました」
一人だけ正座している長二郎は背筋を伸ばし、至極冷静な口調で答えて頷く。
「何があったんだよ?」
再び銀縁眼鏡が尋ねると、弥助は胡坐をかき直して小さく笑い、改まって語り始めた。
「まずは聞け。さーて、この家で『田上乗政』殿が死んだのが一昨日になる。それで倅のこの長二郎さんは、一昨日の夕方に父危篤の報せを受けて、その日のうちにここへ戻ったんだな。夜学へ行く途中だったお前さんに、誰がこの報せを届けたんだったか?」
「河童が」
「ああそうだ、河童だったな」
長二郎が真面目くさった態度で答えるのを眺め、そこは頷いていいのか……? と外野二名は疑問顔だったけれど、弥助の話は尚も迷わず進んでいった。
「だが家に帰り着いた時には、親父さんは亡くなっていた、と。それどころか五丈達の話しだと、夕方ここへ奴らが来た時には、既に引っくり返っていたそうだな」
そこまで言ったところで、千尋が控えめに割り込んだ。
「あ、あのー。食傷で亡くなったと聞きましたが、何を食べたんですか?」
「ああ、そいつはな。河豚だ」
「河豚?」
弥助の回答に、柾樹と千尋が同時に声を発する。
『河豚』。
俗に『テッポウ』などと言った。言わずと知れた猛毒を持つ魚で、これを食べて死んだ人間は古来より数知れず。しかし食べれば死ぬ危険があることを承知の上で、昔から多くの人に食されてきた。あまりにも危険で再三禁令が出され、一部では武士は食べればお家断絶とさえされた。新政府も十年ほど前に一度禁令を出している。条件付きながら帝都で解禁されたのは最近だった。もっとも禁止令など有名無実で、人々はコッソリこの美味なる魔性の魚を手に入れて来ては、恐怖と共に舌鼓を打っていたとも言われている。
「それを乗政殿はどこかで手に入れてきてな。ぶつ切りにして味噌汁に放り込んで、食っちまったんだよ」
無謀とも思える長二郎の父親の行動に、千尋は絶句していた。柾樹が首を傾げて尋ねる。
「河豚ってのは、食うとそんなすぐ死ぬもんなのか? 刺身一切れでも?」
「違うよ。河豚の特に毒が強い箇所は、肝と卵だ。種類にもよるけどな。そんなことも知らないのか?」
またしても長二郎から馬鹿にした物言いをされ、本格的に柾樹が怒り出しそうになったのを、今度は弥助が止めた。
「まぁ、丸ごと河豚汁ってのは随分思い切った話だが、どうしても食いたかったんだろ! 河豚ほど美味い魚はねぇって言うからなぁ」
「弥助……真似して食ってはいかんぞ?」
「食わねぇよ! 野暮と言われようが、俺は河豚だけは食わねぇって決めてンだ!」
千尋にまで心配され、心外極まりない中年男は顔を真っ赤にして怒鳴る。それから長二郎の方へ向き直り、気を持ち直して話しの先を続けた。
「そこでだ。残念にも親父さんの臨終には間に合わなかった。医者の見立てで、親父さんが死んだことも確かめられた。だがもう夜更けもイイとこだってんで、翌日の朝、早桶を仕立てに出掛けた。そこでたまたま、この相内屋敷の道楽眼鏡に会ったと?」
「そうです。さっきこのタダ飯食いは昼間と言ったけど、十時頃だったと思います」
二人の言い草に柾樹は「何を人のこと好き勝手言ってんだ」と文句を垂れるも、聞き流された。
「それからどうした?」
「はぁ、まずは早桶に詰める樒の葉を大急ぎで手配に行って……。しかし運悪くどこも品切れで、あちこち走り回る羽目になったんです。何とか掻き集めましたが。でもまだ足りなくて、もう一度買ってきて詰め込んで。その合間に墓の手配やら何やらをやって……青山の墓地には僕の母と兄弟がもう入っていますから、その辺りはすぐに整いましたが」
淡々と続く長二郎の説明を黙って聞いていた弥助が、短く息をついた。
「てぇしたもんだぜ。よく一人で出したもんだ」
「はは、差配人さんが手伝ってくれたんですよ」
若くして親の葬儀の喪主となった書生は、苦労をねぎらわれてやっと少し微笑んだ。
「その間、河童連は何をしてたんだ?」
「家の中をこんな具合にしてくれました。コレをしないと危ないと言うので、お任せしますと。桶の前で何か、チンドンシャンとお経みたいなのも上げてたなぁ」
思い出す表情で弥助の問いに答えつつ、天井を眺めていた長二郎へ、千尋がおずおず尋ねた。
「あ、あのな長二郎? ……その、さっきから出てくる『河童』ってのは……?」
「ああ、僕の父の知り合いとでも言うのかな。兎に角、河童が好きな人達だよ」
問われた側は、爪切りの仕舞ってある場所でも教えるみたいなやる気の無さで説明する。
「そうして万事怠りなく支度も整って、まずは代々木村の焼き場へ向かったと?」
再び弥助が話しの続きを促した。
「はい。ここを出たのは夜の九時頃だったと思います。遅い時間ですけど、これ以上置いておくと迷惑になりますし」
「違ぇねぇ。そこで早桶を担いで狼谷へ向かったのは、倅のおめぇと五丈河童と、それから?」
「差配人さんに言いつけられて、気の毒にも八百屋の又一さんが道連れに」
「なるほどなるほど………さあ! ここからが話の天王山だ。それからどうした?」
中年男は両手で両膝を叩き、声を一段大きくすると、ぐいと顔を前に出した。
「そこの大通りから赤坂警察署の前を通って、太政官沿いをズーッと道なりに。そのまま原宿村の横を過ぎて、上渋谷村の辺りを横切って」
該当する方角を指差し、長二郎が言う。話しを聞く弥助は短い首で何度も頷いた。
「うん、そいつはわかった。というか、もう調べて分かってら。俺が訊きてぇのはそこじゃあなくてだな。親父さんが生き返ったのはどの辺だったか? っていう、そこだ」
「い、生き返った!?」
柾樹たちが思わず叫ぶ。でも中心人物の長二郎は友人達の驚きの声にも、少し困惑した様子を見せるだけだった。
「暗くて場所はハッキリわからないんです。月灯りも無い夜道だったんですよ? それにあの辺は茶畑だの桑畑だのばかりで、ガス灯はおろか人家の数も少ないでしょう? 露払いの五丈さんが持ってるランプ一つじゃ、足元を照らすのがやっとだったんですよ。ああでも、代々木村の近くで、道の右側に大きな木が生えていたのは何となくわかったなぁ」
言いながら右手で首の後ろを掻いている書生へ、探偵が確かめるように訊いた。
「その木の近くで生き返ったんだな?」
「いや、生き返ったんじゃないと思います。こう、悪い霊にでもとり憑かれたんじゃないかな?」
「霊って、お前」
普通に話している長二郎の言葉に、手近な河童の置物で遊んでいた柾樹が呟いた。呟きは聞こえない顔で、長二郎は先を続ける。
「木の近くに差しかかったときですよ。木の根元の草むらから、何かが飛び出してきたんです。黒い塊が僕らの上を飛び越えたもんですから、驚いた又一さんが『ぎゃー!』と叫んだんです。その声に吃驚して五丈さんも『わー!』と、こうなりまして。二人が急に止まるから僕までつんのめって、弾みで地面にぶつけた早桶の底が抜けたという。おかげで父は桶から転がり出てくるし、周りは真っ暗でしょ。辺りには樒の葉の匂いが立ち込める。生温かい風まで吹いてきて、又一さんは『猫だ猫だ』と歯の根も合わない有様で……」
暗闇から突然飛び出し、早桶を飛び越えていった大きな何かは、輪郭が猫に似ていたらしい。それだけで葬列は狼狽した。昔から死者を猫が跨ぐと猫に取り憑かれる、取り憑いた猫が悪さをするなどとも言われた。土地によっては猫が死者に近付かないよう、通夜や葬式の間、他家に預けたり籠に閉じ込めておくこともある。只でさえそういう俗信が世の中に存在する上、夜の郊外という状況も加わって、現場は軽い錯乱状態となった。
「僕は『跨いだんじゃなくて、飛び越えたんですから問題無いんじゃないですか?』と言ったんですけどね。聞く耳持たないというか……それで仕方ないから一先ず又一さんと五丈さんに、代わりの桶か何かを持ってきてくれるよう頼んだんです」
「じゃあ長二郎が一人で残ったのか!?」
「そりゃ僕だって嫌だったさ。でも又一さんは一人で行くのは絶対嫌だと言うし、父を道に転がしておくわけにもいかないだろ」
吃驚している千尋に、見た目のか細い青年は恬淡と返す。
「五丈さん達が桶を探しに行った後、僕はやる事も無いので、その場に座ってぼーっとしていたんです。灯りは足元の提灯だけで、夜も遅い郊外の道には通りかかる人もありません。そうしたら……樒の山の中から父が急に………ゴバアッ!!!」
「ぶわぁッ!」
「び、びっくりしたあ!」
大声で柾樹や千尋も飛び上がる。弥助に至っては息まで止まっていた。
「……と、起き上がりましてね?」
「や、やややめろよ本当に……! そういうの良クナイ……!」
蚊の鳴くような声しか捻り出せなくなっている弥助を前に
「いやぁ、僕の驚愕を少しでも体験してほしくて」
長二郎はにこにこ笑っている。小太り男は数回の腹式呼吸で息を整えると咳払いし、負けずに尋問を再開した。
「そ……それで、親父さんは?」
「僕も驚いて何も出来なかったんですよ。呆気にとられるって、ああいう事を言うんだろうなー。話しかけても返事はしないし、動かないし。上半身だけ起こした状態だったのが、そのうちに」
長二郎は鳶色の横目で、ちろ、と同級生達の方を見るなり、声を落として言う。
「……とても信じられないと思うけどな?」
「うん」
「ステテコ踊りを」
「うん?」
「知らないか? ステテコ踊り」
「いや、それは知ってるが」
『ステテコ踊り』とは。花柳街の座興に由来すると言われ、鼻を摘んで捨てる仕草をしつつ踊る滑稽な踊りを指した。これを落語家がアレンジし、高座で踊ったのである。
――瓢箪ばかりが浮き物か、私もこの頃浮いてきた。
さっき浮いたさっき浮いた、ステテコステテコ……――
こんな歌と共に後鉢巻で着物の後ろの裾を摘まみ上げ、帯の結び目へと折り込み脛を叩いて歩く。これが面白いと大評判になり世間へ拡がった。
「いくら何でも、それは……」
千尋が痛々しいものを見る顔になり、口の中でモゴモゴ言っている。友人の反応を目の当たりにした長二郎は細い眉を吊り上げ、身振り手振りを大きくして言った。
「本当なんだよッ! だから僕もヤケクソで手拍子とかしてだな!」
「逃げろよ。(手拍子してる場合か)」
「逃げられなくなるんだよ! 仕方ないだろ、こっちも少しおかしくなるんだから! わかるだろ!」
柾樹の指摘に怒涛の勢いで反論している若者を、弥助が手を振って宥めた。
「わかったわかった。一差し舞ったのはわかったが、それからどうした?」
言われると長二郎は天井を指差し、唇を尖らせて答えた。
「風に吹かれて、凧みたいにファー……と」
彼の父親は飛んで行ってしまったという。
「あれは絶対、何かにとり憑かれたんですよ」
腕を組み、『絶対』というところを噛み締めて長二郎の話は終わった。蒸し暑く狭い室内へ、息苦しい静けさが満ちていく。柾樹が中年男にこそりと声をかけた。
「おい……弥助」
「そこへ五丈と又一が、漬物桶を担いで戻って来た。だが、転がってるはずの仏が消えてやがる。おまけに倅は死体が飛んで行っただのと、意味のわからねぇこと言い張って埒が明かねぇ。そこで又一達が警察へ『死体が逃げた』と報せに来て、俺が呼びだされて今こうなってるワケだが……」
弥助の説明を、千尋も首を突っ込んで聞いている。三人が振り返ると、白湯を飲んでいた長二郎が「何だよ?」と鬱陶しそうに訊いてきた。ゆっくりと姿勢を正した弥助が、やや言い難そうな表情で切り出す。
「親父さんが死んで心が乱れるのはわかる。しかしだな。もうちっとマシな乱れ方ってもんが」
「本当なんですってばッ! 父は生真面目で、ステテコ踊りをするような男じゃなかったんです!」
「そこじゃねぇよッ!!」
なけなしの気配りも、ステテコ踊りの威力でいつもの調子に戻ってしまった。
その時、外から靴音と声がして戸が勢いよく開く。息を切らせて現れたのはまだ年若い巡査で、白い手袋の手には帽子を握りしめていた。
「こ、小林さん! 逃げた死体、見つかりました! 署に報せが入りまして……!」
「よしきた! 何処にいた?!」
片膝を立て今にも飛び出しそうな体勢で怒鳴った弥助は、同時に鳥打帽を被る。すると若い巡査は躊躇った後、事務的な口調で報告した。
「四ツ谷です。そこの材木商が報せに来ました。土蔵の屋根に人が引っ掛かっていると」
「や、屋根に引っ掛かってるだぁ?」
弥助の表情が崩れ、立ち上がろうとしていた動きまで止まってしまう。
「ホラ見ろ! だから言ったじゃないか!」
勝ち誇ったような怒ったような。ひっくり返った長二郎の声が、河童で埋め尽くされている室内に響いた。