友達
青葉を震わせていたバイオリンの調べが、ぷつんと止まった。奏者は楽器に顎を乗せたまま、銀縁の眼鏡越しに傍らの娘を見下ろす。
「……何だよ?」
「何か?」
射るような視線の先で、雪輪がしらっと問い返してきた。
「光るものが無くて悪かったな」
「何も申しておりません」
いつぞやのバイオリンの評価をちょっと根に持っていたらしく、憎々しげに言う柾樹へ娘は淡白に返す。舌打ちの音がしようとも、白過ぎるほど真っ白な横顔は完全に無表情だった。女中はバイオリニストの相手をする気は無い様子。墨より黒く長い髪には、牡丹の文様が織り出された深紅の布が結われている。
二人が居るのは庭に面した座敷だった。縁側の下に作られた小さな畑の向こう側では、姫沙羅の木が椿に似た白い花を咲かせている。奥に佇む百日紅とその樹下に茂る金糸梅も、赤と金色の花弁をそれぞれ綻ばせていた。地面に生い茂る草の深緑の上には、アカネやイヌタデ、ゲンノショウコなどが小さく可憐な花々を咲き散らしている。静かで穏やかな朝だった。
柾樹は楽器を下ろしてしゃがみ込み、雪輪が古い小袖を畳んでいく様を眺め始める。しかし目は、相手の横顔を時々見ていた。そのうち
「お前……俺に何か隠し事してないか?」
低い声で尋ねる。ちょうど着物を畳み終えた白い指の動きが、ぴたりと止まった。黒い視線が横へ動いて
「そこまでいけないお手前とは思っておりませんが」
「バイオリンの話しじゃねーよバーカッ!!」
娘の言い草に柾樹の顔が引きつり、更にもう一言二言苦情を言おうとした、そこへ
「何だ、また喧嘩してるのか?」
鴨居をくぐって千尋が顔を出す。
「どうせ柾樹が突っかかったんだろう?」
「どうせとは何だ!」
噛みつく銀縁眼鏡にも、千尋はのんびり笑い返した。短く刈り込んだ黒髪は緊張感の無いまま、二人の横を通り抜け縁側に出る。夏の光が強くなってきた外を眺めて伸びをし、眩しそうに目を細めた。
古道具屋の庭先には、季節特有の高い湿気と濃い青草の匂いが満ちている。季節はもうすぐお盆を迎える頃で、庭もいよいよ夏の風情。蔓を壁いっぱいに伸ばした昼顔が薄い桃色の花弁を開き、黒塀へ張り付いていた。
「あ、雪輪さん。もしかしてその古手が気に入りましたか?」
ふと振り返って小袖に気付き、千尋が嬉しそうな声で言う。
雪輪は日常の仕事の他に、時々こうして古道具屋の中を少しずつ片付けて回っていた。片付けと言っても、物の置いてある位置すら変えない。ただ埃をかぶっていればそれを丁寧に拭き、崩れている書物などは四辺を揃えて積み直す。これだけで何となく周辺が小奇麗になった。色あせた灰色の太織に身を包む娘は、今も古い長持を開き、布の切れ端や浴衣や褌、振袖まで様々の布類が無秩序に放り込まれていたのを、畳み直しては仕舞っていたのである。
そんな雪輪の震える膝の前にあったのは、先程畳み終えた綸子の小袖だった。これは以前千尋が袋田氏から預かり、わざわざ蔵まで持ってきて雪輪に着せた品である。
「気に入ったなら、後でオレが袋田さんに話しをつけましょうか?」
千尋は雪輪の正面で胡坐をかくと、提案した。
呉服屋の血が騒ぐのか何なのか。千尋はこの小袖を雪輪に着せたくて仕方ないようで、前から熱心に薦めている。着たきり雀の娘へ、何か別のものを着せてやりたい心理も、無意識に働いているようだった。
事実、雪輪は着古した紺色の小袖一枚しか持っていない。重ねて着ている灰色の太織は、源右衛門の亡妻のものだった。以前髪に結っていた紫色の組み紐も、源右衛門宅にあったものだという。一時的に娘の世話をしていた老人は、手放しきれず仕舞いこんでいた亡き妻の着物その他諸々を、雪輪に譲ってやったのだ。
そんな源右衛門由来の着物を合わせても、所持している着物は二枚だった。そういう雪輪を見ていると、千尋は可哀想になってくるのだろう。しかし、蒸し暑くても青白い顔色の娘は小袖を側へ置くと指をつき、ゆっくり頭を下げた。結いあげた長い漆黒の髪が、細い肩を流れ落ちていく。
「滅相もないことでございます。お給金は十分に頂戴しております。それに……」
切れ上がった黒い瞳を畳へ向け、雪輪は少し躊躇った後、続けた。
「先日伺ったのですが……これは田上さまのお母上様の品だそうでございます」
「え?」
千尋は目を見開き、驚いた気配を浮かべる。
「長二郎の? 長二郎本人から、聞いたんですか?」
「はい。何年か前に、父君が売ってしまわれたと」
答える雪輪の右手へ座り込み、柾樹が腕を組んで小袖を覗き込んだ。
「へえ……それが巡り巡って、袋田のジジイの所に流れ着いたってトコか?」
「はい。それをわたくしが頂戴してしまうなど、申し訳なく存じます」
再びゆっくり頭を上げ、小袖を見つめて雪輪は答えた。
「ハァ、そうかぁ……長二郎がなぁ……アイツが自分からそんな話しをするなんて、珍しい事もあるもんだ。しかしまぁ、お袋様の形見みたいなものか。さすがに懐かしくもなったんだろうな」
千尋が感慨深そうに言った。傍らで白い娘の視線が動く。
「形見……?」
「ええ。長二郎のお袋様は、アイツが子供の頃に亡くなっているんですよ。兄さんと弟も早くに亡くなって、たしか今は親父殿と二人暮らしじゃなかったかな」
「…左様でございましたか」
千尋の話しに、雪輪は静かに頷いた。
「長二郎と言えばアイツ、二、三日見てないな?」
何となく土間の方を見やったりしながら、千尋が噂の中心人物について口にする。
この古道具屋に起居している人々は、日頃からそれぞれ、好き勝手に暮らしている。気が向けばぞろぞろ連れだって芝居や花街へ繰り出す事もあるが、基本的に単独で動いていた。「出掛けてくる」と伝えれば上等で、一々誰が何処で何をしているかなど気に留めていない。二、三日姿が見えなくても、そのうち会うだろうという程度に思っている。
今日も千尋はそういう気分でいた。けれど彼の気分は、柾樹の一言で破られることとなる。
「ああ、親父が死んだとか言ってたぞ」
蒸し暑い夏の午前中に、室内の体感温度が五度は下がった。
数秒硬直していた千尋は、止まった時間の呪縛を振りほどいて頭を何度も横に振り尋ねる。
「待て。何だ? もう一度言ってくれ。長二郎の親父さんが死んだ? いつ? 何処で聞いたんだ?」
「昨日の昼間。麹町の辺りで聞いた」
混乱状態で質問をぶつけてくる友人に、琥珀色の髪の若者は顔色も変えず答えた。
柾樹は昨日、いつだか神田で追いかけ回してくれた髭の巡査に再び見つかったという。長身に銀縁眼鏡に金茶髪という、派手な外見のせいもあるだろう。先方は柾樹を覚えていてくれた。おかげで底無しの持久力を持つ巡査に、再び追いかけ回される事になったのである。
『待たんかー!』
『誰が待つかー!』
という風なやり取りと共にお堀沿いを逃げ回り、いつしか帝都の西側へ辿り着いていた。そうしたら、そこで早桶を調達に来ていた長二郎と、バッタリ出くわしたのだった。
そこまでの経緯を聞き、千尋は畳に両方の掌をついて項垂れる。
「……どこから訊けばいいんだ……ええと……じゃあ、どうしてまた急に亡くなったんだ?」
「食あたりだとよ」
「食あたり?」
柾樹の返答に、ヨレヨレだった千尋の声はもっと上擦っていた。
「そ、そうか、暑い時期だしなぁ……それにしても、死んじまうような何を食ったんだ?」
「知らねぇよ。田上も何か変な連中と一緒だったから、話が中途半端に終わっちまったんだよな」
「変な連中?」と訝る千尋を横目で見、柾樹は一瞬天井を眺めてから喋り始めた。
「知り合いか親戚かわかんねぇけどよ。男二人と女が三人か。身なりは割と普通なんだが……。全員頭に皿載せてんだよ。こう……頭に皿を載せて、笠みたいに顎のところで紐で縛るっていう」
皿と言っても大皿ではなく、片手に載る小皿だったらしい。
「頭に皿……? か、河童?」
「いっそ河童だったら、こっちも気持ち良く笑えたっての。大真面目な顔してやってんだぞ? 早桶出してやってる店の親父も、青ざめながら笑いそうな顔してやがったが」
皿を頭に固定させている不思議装備の人々と、長二郎は行動を共にしていた。柾樹はおかしな光景で唖然とし、困惑だけして長二郎と別れたのだという。
『早桶』とは『棺桶』のことであり、比較的手早く調達できるため『早桶』と呼ばれていた。この桶を仕立てる店を、早桶屋と呼ぶ。尚、棺桶は死者を寝かせる長方形の箱もあるが、樽状の丸い桶も用いられている。蓋を開けてそこへ死者を座らせ、手を組ませるのだ。大きさも人に合わせて数種あった。
「田上さまも、お皿を載せていらっしゃいましたか?」
「いや、アイツは載せてなかった……っていうか、そこ大事か?」
雪輪と柾樹が間抜けな会話をしていると、もう一人が話を元に戻した。
「そ、それから柾樹はどうしたんだ?」
「あ? あー、葬式だって言うから『行くか?』って言ったんだよ。そうしたらアイツ『来るな』ってよ」
「それで今まで放ったらかしにしてたのか!?」
「本人が来るなっつってんだから、いいじゃねぇか」
「いやいやいやいや! そこで納得するな!」
こんな時に限って聞き分けの良い友人に、千尋は怒るよりも嘆いている。
「友人の父上が亡くなったんだぞ? 悔やみの一つもしないなんぞ、いくら何でもやっぱりイカン! それにオレ達も昔から長二郎には世話になってるじゃないか。こんな時に行かなくてどうする!」
常識的なことを言って聞かせた。でも聞いている側は、響いていない顔をしている。
「世話……? 何かあったか?」
「雪輪さんが来るまで、飯炊きだの洗濯だの、やってくれてたんだぞ」
「そりゃ白岡が世話になったってだけの話じゃねぇか」
全くその通りである。
女中付きで数鹿流堂へ転がり込んだ柾樹は、同居人達に生活方面では世話になっていなかった。だが現在問題になっている事柄の本質は、そういうことではない。
「柾樹だって中学のとき、長二郎に勉強教えて貰っていたじゃないか! オレも人のこと言えんが、試験の時は長二郎がいなかったら大変な事になっていたはずだ」
懸命な千尋の訴えを聞き、やっと少し思い当たる節が出てきた様子で、柾樹は琥珀色の前髪を掻いた。
「ああ……アイツの試験の勘は当たるんだよなぁ」
「卒業するとき、何はともあれ田上に礼を言いなさいと校長に言われたっけな……」
自分で思い出しておいて、千尋は輝かしくない己の過去に表情が少々薄暗くなる。
「中学の時と言えば、柾樹が喧嘩するたびに、長二郎が先生に口添えしてくれてただろ?」
「……そんなこともあったか」
引っ張り出されてきた記憶に、銀縁眼鏡も低く呟く。
当時の柾樹は級友や上級生に、ちょっと喧嘩を売られたり、からかわれたりしただけで、口より先に手が出てしまい、殴ったら殴ったでせめて自らの正当性を述べればいいものを、説明などしたくないものだから不機嫌になって黙り込むという、厄介な生徒だった。
しかも両者共に被害を被っているならまだしも、一方的に相手だけをボコボコにしてしまうのだ。学校側も喧嘩は両成敗を原則にしていたとはいえ、これでは当然、柾樹の分は悪くなる。そこで喧嘩の状況を説明し、乱暴の動機と事情を指摘する役目を長二郎が担っていた。長二郎のお陰もあって、柾樹は誰に頭を下げることなく、何食わぬ顔をして教室へ戻ることが出来たのである。
これを有難いと思う殊勝な感性は持っていない柾樹であるが、それでも世話になったと言われれば、そうかもしれないとは考える。
「じゃあ……まぁ、行くだけ行ってみるか」
座敷で両足を前へ放り出し、だらけた格好で柾樹は言った。
「そうだな、そうと決まれば善は急げだ! 一先ずお悔やみを伝えるだけでも行こう。雪輪さん、出掛けてきます。急で悪いが戻ってもらえますか、蔵に鍵を掛けて行きますから」
「はい」
雇い主の言葉に、雪輪が頭を下げる。千尋がさっそく腰を上げると、まだ座り込んでいる柾樹が思いついた感じで訊いた。
「こういう時ってのは、何か持って行くモンなのか?」
「え? ああ、うーん……そうだなぁ。しかし下手に持って行くと、長二郎に気を使わせるかもしれん」
「そうか?」
「そうか? って……アイツは物凄く周りに気を使って生きてるぞ? 柾樹の百倍は気ィ使ってるぞ?」
「俺はどれだけ気が利かねぇ奴なんだよ」
千尋が真剣に言ったせいか、柾樹は怒りはしなかったものの、ひどく心外そうに文句を垂れた。
『自覚心すら無いってとこが、致命的だよなぁ』
長二郎本人がこの場に居れば、きっとそう言っただろう。