First impression
その『客』が野村庵を訪れるようになって、一月が経った。
たぶん彼がこの店に入った理由は、たまたま雨に降られたゆえの雨宿りだったのだ。店の入り口に現れた人影は背が高く、金茶色の髪には雨の雫が光っていた。一見した時、鈴は異人さんが来たと勘違いしそうになった。
格好や年の頃からして、書生さんだろうと理解している。堂島下駄に兵児帯。肌は地黒だが上等そうな着物をぞんざいに着崩し、銀縁眼鏡に琥珀色の髪をした青年だった。ただし何の学問をしている書生さんなのかは、さっぱり見当がつかない。かと言って、壮士とかそういった風でもない。長身痩躯で、無愛想。いつも一人でやって来る。
――――少し、怖い。
最初の印象は、その一言だった。特別人相が悪いわけではないものの、眼鏡越しにこちらを見る目があまりにも鋭い。何も悪い事などしていないのに、怒られているような気分になる。注文を受けるだけで、鈴はおっかなびっくりだった。蕎麦を食べている最中も書生はぶすっとしていて、美味しくないのかと心配になってくる。
『お父っつぁんのお蕎麦、美味しいと思うんだけどなぁ……』
頭の隅で、そんな風にも思った。
贔屓ではなく、野村庵の蕎麦は美味しい。店はおじいさんの代から続いていて、蕎麦はいわゆる田舎蕎麦。真っ黒のつけ汁は、お客さん達の評判だって上々だ。豪華ではないし狭いけれど、店の中はきれいにしてある。しかめっ面されなければならない店ではないはず。
しかし、やがて鈴も気がついた。
この書生さんはここの蕎麦が不味いとか、居心地が悪いと感じているわけではなさそうである。彼は蕎麦を残さない。それに、何度も店にやって来る。気に入らないなら来ないだろう。尚、頼むのは決まって盛り蕎麦だった。名前も知らない琥珀髪の書生は、既に常連になりつつある。
『嫌われているわけじゃないみたい』
この日も野村庵にやって来た銀縁眼鏡の青年をこっそり見て、鈴はそう思った。彼は椅子の席に一人陣取り、黙々と蕎麦を食っている。いつしか彼が店に顔を出すだけで、蕎麦屋の看板娘は少し気持ちが華やぐようになっていた。きっと見た目が派手やかな人だから、見ている自分まで華やいだ心持ちになるのだろうと、勝手に思っている。
「ごちそうさん」
土方仕事で日に焼けた常連の男達が、陽気に声をかけて店を出て行く。
「またどうぞ!」
客を見送り、鈴は席を片付け始めた。空になった丼をお盆に乗せ、片手で高座卓の上を拭きつつ、もう一度ちらと書生を見る。そうしたら、相手と思いっきり目が合ってしまった。
「!!」
口から心臓が飛び出るかと思った。何にそんなに驚いたのかは自分でも知らない。でも首から耳まで、音がしそうな勢いで真っ赤になったのは自覚できた。「お茶ですか?」くらい言って、誤魔化せば良かったのかもしれないが、そこまで頭が回らない。おさげ娘は物凄い勢いで下を向き、高座卓を高速で拭き続けていた。
ちょうどそこへ新たな客が、がやがやと連れ立ってやって来る。ホッとして
「いらっしゃいま……あっ!」
振り向いた弾みで、僅かにバランスを崩した。空の丼がお盆を滑り落ち、地面にぶつかる直前。横からヒョイッと出てきた下駄履きの足が、足の甲で器を受け止めた。
――――へ?
と目が点になり、二秒の静寂。
足の主は、先ほどの銀縁眼鏡の青年だった。行儀が悪いにも程がある。が、下駄の鼻緒のお陰で器は衝撃を免れ、土間を転がっただけだった。我にかえった鈴は、大急ぎで丼を拾い上げる。
「も、申し訳ありません! ありがとうございます……! お怪我は!?」
冷や汗かいて頭を下げるおさげ娘を一瞥した銀縁眼鏡は
「うん」
と一言、口の中で言った。そして残りの蕎麦を飲み込むと、「ゴチソウサマデシタ」と言って代金を置き、立ち上がる。それから何を思ったかふいに近付き、小柄なおさげ娘を見下ろした。
「お前、名前は?」
何気ない顔で尋ねてくる。この人に、注文や支払い以外で話しかけられるなど予想もしていなかった。鈴はもう、びっくりするやら混乱するやら。またもや顔は赤くなるし身体は硬直するし、口も上手く動かない。
「す、すすっすっすすすすすすす、すず、です!」
名乗りと言うより、変な音を発してしまった。聞き取れなかったのだろう。書生は眉を寄せている。
「……何?」
覗き込んでくる目つき以上に、尋ねる声の低さが、まず怖かった。
――――怒らせちゃったーーーーっ!?
場所柄、酔客も多い店では喧嘩もイサコザも日常茶飯事で慣れてはいる。しかしそれとは別種の焦りで、鈴は慌てた。必死で自分を落ち着かせて背筋を伸ばす。
「の、野村鈴ですっ」
何とかまともに返事が出来た。すると娘の言い様が面白かったのか、背の高い青年はニッと笑う。
「うまかった。じゃあな、鈴」
そう言い残し、袴の裾を蹴って店を出て行った。
今、彼は『うまかった』と言った。鈴は魂が抜けたみたいに、その場で直立していた。
――――お蕎麦、美味しかったんだ!
これだけで何だか嬉しくなり、丼とお盆を抱えたまま、くふくふ笑ってしまう。
こんなおめでたい頭の鈴は、後日『彼』が
「御蔵の辺りに旨い蕎麦屋があってよ。妙にちょこまかした、ハツカネズミみてぇな娘がいるんだが……」
「他に例えは無かったのか」
「でも面白そうだなぁ……。一度行ってみるか?」
友人達とそんな話をしていようとは、この先もずっと知るはずがなかった。




