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九十九神

「雪輪」

 呼ばれて我に返った。

 雪輪が視線を横へ動かすと、眼鏡の青年が悪い目付きをもっと悪くして、こちらを見ている。場所は両国橋ではなく、古道具屋の庭に面した一室だった。眩しい朝の陽射しが軒先のささやかな畑と、濁った泉水を明るく照らしている。


「俺の話、聞いてたか?」

 柾樹は左腕を雪輪の方へ差し出した格好で、そう言った。不機嫌そうな表情からして、自分はかなり長時間返事もしないで、物思いに耽っていたのだと雪輪は察する。両国橋で赤目御前と源右衛門に会った日の事を思い出していたら、上の空になっていた。


「はい。居留地でロバート様を手に掛けたのは何者か、というお話でございます」

 澄ました顔で、娘は元の話題を提示する。

「わかってるなら答えろよ」

 横柄な書生は一層の不機嫌顔で命じた。


 ロバートが殺されて、二週間が過ぎている。

 あれから柾樹は友人たちにさんざん励まされたり、催促されたりした末にやっと、夜道で遭遇した災難とそこまでの経緯を警察へ報せた。でもその報告は、極めて怠惰なやり方での報告だった。

「俺は怪我人で動けない」

 そう言い張って、弥助を古道具屋へ呼びつけたのだ。尚、柾樹の怪我は顔や足も含めてとっくに治っており、今日も元気に雪輪に世話をさせている。


 呼び出された弥助は不良患者に腹を立てていたが、何だかんだと言いながらもニコライ堂での出来事や、ロバートに譲られた古いピストルの話を熱心に聴取して帰っていった。一先ず件のピストルは警察に渡り、あの黒い犬の正体なども調査によってじきに判明する筈だった。しかし、である。


「あれっきり大した音沙汰もねぇんだからな。いい加減なもんだぜ」

 溜息と共に柾樹は金茶色の髪を掻いた。そのくせ口調に湿っぽさは無かった。

「こいつも動かなくなっちまうしな」

 過剰な装飾の施された銀色の拳銃を手に取り、呟く。黒い犬に遭遇した晩に一度発動したきり、古い拳銃は動かなくなっていた。どこも破損していないのに動かない。その代わり、壊れたと思っていたもう一つの拳銃の方は、普通に撃てるようになった。


 一時警察へ預けられていた古いピストルだったが、特に調べた甲斐が無かったとのことで返却されている。一緒に情報を届けてくれた弥助の話によれば、捜査は暗礁に乗り上げていた。


 ロバートには殺される目ぼしい理由が無いという。身辺に不審な点は無く、妻や職場の人間関係も良好。若くして貿易会社の経営者という立場にあったものの、金の運用や経営手法も誠実で手堅いものだった。ロバートを知る誰もが、「彼がこんな死に方をするなんて信じられない」と、死を悼んでいる。特に残された妻は、突然の夫の悲報に大変な嘆きようであった。


 ただ唯一の奇妙な点と言えば、この妻が夫の理不尽な死に様に、ある種の理解を示した点である。


――――やはり彼は、悪魔に魅入られていたのかしら……。


 海の彼方まで夫について来た気丈な女性は、涙を隠そうともせずそう言った。そして彼女は警察から、夫の母親の『遺言』について聞かれると、その通りであると明かしたのである。信じる信じないはともかく、義母の死に際の言葉は誓って真実であると強く主張した。


 更に、妻への聞き取りで分かった事がある。

 ロバートは父親から疎まれて育っていた。原因は彼の『左目』にあった。彼の父親は氷色をした息子の左目を、『悪魔を呼ぶ目』と信じていたという。左右の目の色が異なる特徴は、多少珍しいとはいえ単なる身体的個性の一つに過ぎない。周囲の人々も


「オッドアイなど他に大勢いるし、我が子に悪魔などとはどうかしている」

と何度も諭し説得した。しかしロバートの父は耳を貸さなかった。加えて変な物を集めたがる収集癖があり、例のピストルも父親のコレクションの一つだった。挙句の果てにはロバートが十代の頃に行方不明となり、一年後に変わり果てた姿で川に浮かんだのである。状況から、これは自殺として処理された。


 ロバートの半生は、苦難も多かったに違いない。だが幸い彼は周囲の聡明な大人達に守られ、知人や友人達にも恵まれた。父親の死後は精神的に不安定になった母のためにもと、若くして起業したのである。それから僅か数年で彼は事業を軌道に乗せ、人も羨む成功を収めた。過去も逆境も力に変え、笑い話に出来るほど強い精神の持ち主だった。


 けれどロバートの妻は義父の変死と、義母の遺言が気にかかっていた。そのため夫の身を案じて、ここまで一緒に旅をしてきたのである。母の遺言をロバートは面白がって、自ら周囲に披露しており、彼の友人知人も知っていた。そのため柾樹の証言も、それほど特異なモノとして扱われずに済んだのだった。


『知り合いの中に、悪事を企んだ者がいたのでは?』

『いっそロバートの女房が怪しい』

 警察内では様々な意見が浮かんでは消えたものの、いずれも殺した証拠や動機さえ見当たらない。人間の顔面を食いちぎったと思われる謎の獣の行方も、不明だった。残るは通り魔的な犯行だろうが、それにしては殺され方が異常であり、しかもロバートは金目のものを奪われていない。結局手掛かりも掴めず謎は謎のまま、闇へ消えゆきそうだと弥助は語っていた。


「新しくわかったことと言えば、ロバートと松木少将に接点があったってことくらいだな」

 欠伸に交えて柾樹が言った。

「以前、“百鬼夜行”に遭われた方でございますね」

 包帯を巻き終えた娘の言葉に、金茶頭は「うん」と頷く。これは滞在中のロバートの動向を警察が調べた結果、明らかとなった事実だった。


「仕事で会うはずだったらしい。それが松木少将が寝込んじまって、会わず仕舞いになった。そういやアイツ、ニコライ堂は『物見遊山』で来たとか言ってたな。予定が狂って、時間が余ったのか」

「左様でございましたか」

 双方独り言みたいに言い、沈黙することしばし。


「……で、お前はこの事件どう見てる?」

 柾樹が最初の質問へ戻って尋ねた。

「わたくしには皆目見当もつきません」

 青白い顔の娘はあっさり答える。雪輪の答えで、聞いた側の眉間に不満が表れた。


「学者女が、どうして今日だけ何もわからねぇんだよ。いつも馬鹿みてぇに色々知ってるじゃねぇか」

「そのように仰られましても、わからないものはわかりません」

「おかしいだろ。そういやそこに居た牛も、何処に行ったか知らねぇとか言ってたな。本当かよ?」

 柾樹の視線は、庭の中程にある濁った泉水へ向かう。つい先日までそこに居座っていた大きな黒い牛が、影も形も無く消えていた。


「それとこれとは、別のお話しでございましょう」

 雪輪の冷淡な反応で、青年は一応黙り込む。でも明らかに、全く満足していない顔だった。柾樹の不審の眼差しを見ないふりして薬箱を片付けつつ、雪輪は心の内で呟く。


――――おかしなことになってきた……。


 とそこへ青年の左手がすいと伸びてきて、指の背が雪輪の真っ白な頬に触れた。突然他人に触れられ、雪輪が『え?』と吃驚した刹那。

ドサン!

という音と共に、天井にぶら下がっていた提灯の束が落下し、柾樹の頭を直撃する。狙ったような正確さだった。


「何だよっ!」

 銀縁眼鏡が天井に向かって怒鳴る。その柾樹の横にいる雪輪の目は柾樹ではなく、彼の手にある提灯を見ていた。


――――九十九神つくもがみ……。


 火袋の部分に大きな赤い目玉が一つ現れ、ぎょろぎょろ動いている。

 でもこれが、柾樹には見えていなかった。そして雪輪の方も、提灯の目玉について触れない。娘は無言で座を離れ、薬箱を片付けた。その足で土間へ向かい、洗濯物を干すときに使う先の割れた竹竿を手に取ったところで動きを止める。勝手口の外で雀たちが遊んでいるのを映す黒い瞳は、冷たさを増していた。


『何もかも、教えてしまおうか?』

 誘惑にも似た考えが、雪輪の心の底で渦を巻いている。


「如何致しましょう? 御前様……」

 薄い唇が動き、音にならない声で囁いた。中空を見つめる雪輪の胸に浮かんでいた影は、隅田川の黒い主。


 まず有体に言うと、庭に居たあの黒い牛は隅田川に棲む『赤目御前』だった。御前は古道具屋へ、雪輪の様子を見に来たのだろう。大きさこそ異なっていたものの、両国橋で遭遇したときと同じく、黒い水が大きな牛の頭部の形をしていた。しかし書生たちには『普通の黒牛』に見えているらしいので、雪輪はずっと話しを合わせていたのである。


 何故こんな真似をしたのか。それは『見えぬふり』が、雪輪が経験から身につけてきた一種の処世術であるからに他ならない。


 五歳の時に“無名の君”と遭遇して以来、雪輪は他人に見えない奇妙なものが見える。それはたとえば赤目御前のような。或いは先程現れた、『目玉』であるとか。他にも時々『声』が聞こえることもあった。声が聞こえるのは古い道具に触れた時が多い。どうやら雪輪は古い道具とそこに宿る九十九神を通して、『過去』に触れているようなのだ。


 古道具屋の同居人たちが当てにしている、雪輪の目利きの正体はこれだった。専門家の知識や理屈に裏打ちされた鑑定とは、本質的に異なっている。以前、理髪床屋の袋田氏が持ち込んだ黒い茶碗に触れた際もそうだった。雪輪の頭の中で、気品漂う男性の穏やかな声が聞こえた。


《これは良い。此度の初釜の主茶碗に、まこと相応しいのう……》


 あれはいつか誰かが呟いた、感嘆の声だったに違いない。黒い茶碗それ自体もいかにも美しく、手に取ればしっとりと手に馴染んだ。


 そこで何かと親切にしてくれる千尋のささやかな手助けになればと、雪輪は茶碗について「美しいお茶碗でございますね」と褒めた。ついでに「良いものなのではございませんか」と伝えた。そうしたら声の人の感嘆が物凄く正しかったため、目利きは的中した。幽霊の掛け軸や、この前千尋が蔵へ持って来た小袖の時も同じ現象が起きていたのだが、閑話休題。


 これらが見えたり聞こえたりする事を、雪輪は決して口外しない。

 幼い頃は違った。周囲に立ち現れる不思議を見えるまま聞こえるまま、口にしていた。


『壺から、声が致します』

『何ゆえ鴉は喋るのでございますか?』

 そう親に訴えたりもした。


 最初のうち、雪輪の両親は幼い娘が他愛のない夢を見ていると考えていたようである。けれど身体の震えと同様、娘の訴えはいつまで経っても収束しない。そこで両親は医者を呼び、薬を与えてくれた。雪輪も自分の身に起きている現象を病気と理解し、大人しく薬を飲んで療養に励んだ。


 だがいくら薬を飲んでも身体の震えは止まらなかったし、“不思議”も消えなかった。金ばかりかかって何の効果も現れない。いつしか雪輪が何者か達の声や姿を見聞きしている事は、故郷の里中に知れ渡り


『ひいさまは、物の怪が見えていらっしゃる』

そう囁かれ始めた。両親は、そのことに困惑していた。


 周囲から向けられる畏怖の眼差しと、家の困窮。長じるにつれてそれらに気付いた雪輪は、不思議を訴えるのをやめた。表向き『治った』ことにした。身体の震えはどうにもならないけれど、不思議については言わなければ誰にもわからない。


――――言わない方が良い。


 そう考え、家族の心配と負担の種を少しでも減らそうと、自分なりに対策を講じた。


 人間を注意深く観察し、書物を読んで勉強した。何が『正しい』かを判断し、身につけてきた『知識』と『常識』を総動員して喋るようになった。迂闊なことを言うのを防ぐため言葉を選び、声にするのは必要最低限の事だけ。おかげですっかり無口になった。驚いても顔に出さないよう、無表情に徹した。これを十年来続け、たとえ何が見えていても『見えない』風に動くのが雪輪の習慣となっている。自分が見ているものを無邪気に他人へ開示する発想は、今更持っていない。


 今回の赤目御前の件とて、古道具屋の同居人達が知っても仕方ない。彼らの目にただの牛に映っているのならば、それで良い。だから庭先で赤目御前を囲んで騒いでいる青年達に、雪輪は普段通り話しを合わせていたのだ。

「お前が連れてきたんだろ?」

 柾樹にそう言われた時だけは、どきりとした。でもそれだって、聞き流して終わると考えていた。


 にも関わらず。その後あの柾樹という、どうも雪輪の予測の斜め上を行きがちな青年が再びやらかしてくれた。とんでもない拳銃を拾って来た上、よりにもよって赤目御前に助けられて帰ってきたのである。


 先日、古道具屋の庭先へやってきた折。御前はそこで見かけた柾樹を、雪輪の『郎党』か何かと勘違いしたと思われる。黒い犬の結界に引き摺りこまれていた人間のうち、柾樹一人を約束通り助けてくれた。気を失っていた怪我人を、古道具屋の土間まで運んでくれたのも彼女である。


 全容は、こうだった。

 あの晩、針仕事をしていた雪輪の耳に両国橋で聞いたのと同じ、法螺貝に似た音が聞こえた。かなり大きな音だった。しかし同じ部屋にいる千尋や長二郎は無反応で、何も聞こえていない様子。


――――まさか……?


 嫌な予感に突き動かされ、雪輪は音の聞こえた土間へ一人向かった。そうしたらそこに水の壁が立ち塞がり、土間は巨大な水槽のようになっていた。そして驚いている間に、鈍く光る赤い球体が二つ現れた。赤目御前の目玉だった。次いで暗い水中へ、大量の白い泡と共に柾樹が浮かび上がって

『柾樹さま!?』

雪輪が声を上げた途端、人間だけ残して土間の水は一滴残らず消えてしまった。


 この話を教えるか否か。竹竿を手にまだ雪輪は迷っていた。この前はつい書生達が『間違った』方へ判断するよう誘導染みた事を言ってしまったけれど、亡くなった外国人や遺族の事を思えば、もう少し開示しても良かったような気はする。


 だが現実的、物質的な証拠として示せるものが何も無かった。雪輪もロバートが犬に噛み殺される現場に、直接立ち会ったわけではない。松木少将の前に現れた亡者の群れと、ロバートを殺した犬に関係があるだろうと睨んでいるとはいえ、推測に過ぎなかった。これでは気休めにもならないだろう。


――――それに……。


 思い出すのは、初めて柾樹と会った日の晩のこと。

 何故震えているのだと問われ、お餅を食べたからだと答えても怪訝そうな顔をするばかりだった青年。他にも“無名の君”との遭遇や、子授けの神通力の物語をした事もある。しかしいつだって柾樹の仏頂面には、雪輪の物語を胡散臭がっている感じが目一杯現れていた。


『やはり、教える必要はない』

 決心がついた雪輪は、顔を上げる。


 こうして決心と共に雪輪が座敷へ戻ると、柾樹が提灯を振り回して遊んでいた。火袋にあった目玉は消えている。提灯を受け取り竹竿の先に引っかけた雪輪は、提灯を天井の金具に掛け始めた。手や体が震えていても大体は自力でこなせるが、これはうまくいかない。すると立ち上がった柾樹が横から手を出して竹竿を取り、元の位置に提灯を引っ掛けてくれた。


「恐れ入ります」

 雪輪は礼を述べるも、柾樹は答えない。竹竿を降ろし、金茶に近い琥珀色の前髪と銀縁眼鏡の向こうから雪輪を睨んでいた。目元には先程の疑惑と不機嫌が、まだ消えきらずに漂っている。それが急に「ん?」と呟き


「お前、頭に着けてた紐どうした?」

尋ねてきた。これまで雪輪の髪を結んでいた紫色の紐が無くなり、ただの白いこよりに変わっていることに(やっと)気付いたのだ。


「外しました」

 顔色の悪い娘が事実のみを述べると、柾樹は少し驚いた表情を浮かべる。ちなみに雪輪は柾樹の性根が捻くれている事くらい、とうに知っている。『当てつけか』などと言って、怒るかしらと思っていた。だが柾樹は怒らなかった。その代わり眉間に皺を刻み、「うー」「がー」と唸った末、竹竿を突き返して眼鏡をずり上げる。


「……後で何か、他に端切れ持って来てやる」

 言い残し、自室代わりに使っている離れへと引き上げていった。雪輪の髪飾りに難癖付けたことを、天邪鬼なりに反省していたようである。よもや、こんな提案をされるとは思いもかけず。


「……変な子」

 長身の後ろ姿を見送って、白い娘は囁いた。

HYAKKI-YAKHO 終わり。

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