幽鬼赤目御前
あれは雪輪が帝都へ来て、十六日目の夜のことだった。
硝子細工に似た星々が、冬の光を放つ三月下旬の夜空の下。小さなお社を出た雪輪は、月の無い群青色の中を一人歩いていた。
――――身投げしよう。
目指していた先は両国橋。
土埃にまみれた紺木綿の着物に、足にはくたびれた脚絆と結いつけ草履。笠も杖もどこかへ行ってしまい、手拭いで頭を隠し夜の道の端を歩く様は貧の極みそのものだった。だが姿勢は今も悪くなれない。
すると橋を目指して進む娘の足元に、いつの間にか並んで歩く影がいた。毛先を黄金色に光らせる大きな赤い猫が、滑るようについて来る。
「ひいさん、どこ行くんや」
歩きながら、猫は人の言葉で口をきいた。
「両国橋」
道の先から視線をそらさず、歩みも止めずに雪輪は答える。この猫が人語を喋るのは、既に承知のことだった。
「百本杭か。何や、身投げでもするんか? つまらんつまらん。やめとき」
火乱は『両国橋』と聞いただけで雪輪の考えが読めたのか、足を速めて言った。しかし猫の言葉にも雪輪は歩を緩めず、沈黙している。
「ちぇっ……若のこと、教えるんやなかったわ」
娘を見上げた火乱は緑色の瞳を細めて愚痴った。それを聞き、雪輪の瞳が足元の猫を映す。
「いいえ。これは前々から考えていたのです」
娘の言葉に、猫は白い針に似た髭をむずむず動かしていた。雪輪は口を噤むと、再び暗い道の先を見つめる。西を目指す足が少し早くなった。身投げというこれは、雪輪なりに合理で考えた末の決断だった。
箱崎の大伯父宅を訪ねたのが、これより二週間前になる。
大伯父の一家は、行方が分かる唯一の親類縁者だった。しかし父母を知っていた当人は既にこの世になく。妻子達は最初から固く身構えていて、受け入れてもらえる余地は無かった。
「もうすぐ自分たちも南の地方へ引越す故、ここには置いてやれない」
兎に角その一点張り。
大伯父の家にいる間。特に雪輪は、いかにも恐ろしいモノを眺める目で見られ続けた。『神通力』の噂はここにも届いていたようで女達は近付いてこないし、幼い子供は雪輪を見ただけで「怖い」と泣き出す。
「姉の方は、この部屋から出てはならんぞ。もし他所の者に見られでもしたら、当家の恥だ」
閉めきった黴臭い一室に押し込まれそう厳しく言い付けられた。世話になっている分、せめて何か手伝いをと思い申し出ても
「余計な真似はせんで良い。家の物に触れるな」
「恩を着せて居座ろうとは、近頃の娘は恐ろしい事……」
迷惑そうな表情と言葉が返ってくるだけだった。そして二日後には追い出されるのも同然で、大伯父宅を離れたのである。
「こういうものか」
残り僅かな干し芋を口へ運び、寂れた寺の境内で狭霧は落ち込んでいた。帝都に行きさえすれば先が開けるという、期待や考えが甘かったのだ。現実を叩きつけられ肩を落とす弟に、雪輪は自分の干し芋を分けてやった。
「まずは食べなさい」
そう言って慰め、背中を撫でてやる他なかった。
「僕にもっと力があれば……せめて、父上の借財のことが無ければ……」
悔しそうに狭霧は言っていた。大伯父の家には父が作った借財を返済する際、大変な迷惑をかけている。良い印象など持たれているはずがなかった。だが
「狭霧や父上のせいではありませんよ」
ぽつりと雪輪はそう言って、自らの足先を見つめた。
雪輪を見た人間の殆どは息をのんで色を失い、逃げたり怯えたり。或いはそそくさと離れていく。故郷を出てからは、一層これが悪化していた。ここまでの道中とて、泊る旅籠すら中々見つからない。木賃宿などで、まれに若い女と侮って近付いてくる者がいても、身体が小刻みに震え続ける雪輪を捨てられた病人と勘違いし
「何だ、死に損ないか」
「これじゃ幽霊の方がまだ陽気ってモンだ」
吐き捨て去っていく。
でも他人から避けられようが侮られようが、雪輪にとってはさしたる問題ではなかった。ただ一つ困っていたのは、弟の事である。貧民窟と呼ばれる場所にも足を運んで種々雑多な仕事を探して回り、せっかく狭霧が見つけた働き口も、雪輪を見た途端に断られてしまうのだ。
――――わたくしといては、得られるはずの働き口も失ってしまう。
雪輪は気が気ではなかった。けれどたった一人の弟は、雪輪が「狭霧だけでも行きなさい」といくら言っても、頑として言う事を聞かない。
「姉上と一緒でなければ駄目だ! 姉上がいなければ意味が無い!」
そう言い張る。姉の姿が見えなくなれば、血相を変えて探しに来る。家長としての責任感ばかり人一倍強くて、真面目で頑固な甘えん坊。宥めても叱っても、決して姉を離そうとしない狭霧に、雪輪はほとほと手を焼いていた。憎くて言っているのではない。雪輪とて離れ離れになりたいわけではない。しかしどうしようもない事はあるのだ。
かくなる上はと、何度か自害も考えた。だが自害して果てた場合、後始末は誰がするのだろう。狭霧も雪輪も、肉親の生死で見苦しく狼狽するものではないと教えられている。そうは言っても、両親に続いて姉の亡骸の世話まで弟にさせるのは、少々酷に思えた。そうこうしている内に路銀は底をつき、母の形見の懐剣も金に換わって手許から消えた。
こんな姉の思案など知らなかっただろう。狭霧は毎日、食物と仕事を探しに出かけていた。それが一昨日の朝。行って参りますと出かけたきり、弟は宿代わりにしていたお社へ帰ってこなくなった。事故や事件に巻き込まれたのではと、痺れをきらした雪輪が狭霧を探しに行こうと決意した。そこへ、猫の火乱がやって来たのである。
「若の居所やろ? 知ってんで」
黄昏の向こうから現れた赤毛の猫はそう言って、狭霧の行方を教えてくれた。狭霧は道端で倒れ、動けなくなっていたのだ。極度の疲労と寒さが原因だった。しかし幸い親切な人々によって保護され、今は無事に回復してきていると猫は言ったのである。これを知ったとき、雪輪は心底ホッとした。
――――あの子一人なら、きっと人並みに生きていける。
確信に近い強さで、そう思った。こうなることを願っていたのだ。良い機会だと思った。これを機に、狭霧から永遠に離れようと決めた。本当は帝都になど来たくなかったのだ。嫡男である弟の居場所を確保させるためだけに、遥々来たも同然なのである。もうここに用は無い。後は足手まといにしかならない我が身の始末を、どうつけるかである。
――――では、死ぬか。
寝る支度を始めるような静かさで、雪輪は身投げの結論へ至ったのだった。そこで思い出したのが、帝都を転々としている間に小耳に挟んだ『両国橋は身投げの名所』との噂だったのだ。
「何で百本杭やねん?」
道を進みつつ、足元の火乱が言う。
「軒先で首を括っては、その家の人が難儀するでしょう」
雪輪は一応、そう答えてやった。
「土左衛門かて、誰かが水揚げするんやで。大して変わらへんやろ」
赤毛の猫は、まだぶちぶち言っている。
そんなやり取りするうちに、一人と一匹は隅田川にかかる巨大な木橋へと辿り着いていた。幸か不幸か、暗い橋は通り過ぎる人影もない。淡い霞の流れる闇の底で、猫は雪輪を追い越すと、橋の欄干へ飛び乗った。
「ちょお待てて」
長い尻尾を振り振り言う。
「言うたやろ。ひいさんは“常世”に片足入っとる身の上や。わかってるやろ。そない身体で自害してみ? ロクなこと起こらへんで。望むと望まへんとに関わらずや」
火乱の言葉を片耳で聞く雪輪は答えず、足元に落ちている小石を拾っては袖へ入れていた。ほどなく重くなった袖を抱え、橋の中程へと歩き出す。
「自害すれば、どうなるのですか」
歩きながら猫に尋ねた。
「そらー、色々や」
「色々ではわかりません。そもそもわたくしは、『針の先』になどなりたくはないの」
橋の中央へ辿り着くとそう言って、娘は暗い川面を見下ろす。遥か眼下には夜を映した川が墨の色となり、水面に白い星々を浮かべていた。とりあえず飛び降りる際に裾が乱れては見苦しいと、手拭いを破いて結び、裾を結び始める。手摺の上からそれを見下ろし、火乱はもっと不満そうに言う。
「無理言いなや。これ以上ことは、わいらあんまり『言葉』で言えへんねん。それに聞いたら、いくらひいさんかて、『アイツ』みたいに壊れるで」
緑色の瞳で猫は答えた。
「話しにならぬということですね」
支度を終えた雪輪はゆっくり立ち上がる。
「あーもー、しゃーないな。ジジイは出てこぉへんし……まぁここで出て来られたかて、迷惑千万やけど」
火乱はぼやくなり何を思ったか、橋の下を流れる川へ身を乗り出した。
「御前様! 赤目御前様! いらはりますやろ! アンタならも少し言えるはずや! このおひいさんに、何や言うたってぇな!」
川面へ向かって叫ぶ。叫ぶやいなや手すりから橋の上へ飛び降り、霞の中を走り去った。
「御前様……?」
一人残された雪輪が呟く。
と、その耳に法螺貝を思わせる音が微かに聞こえた。まろやかな音は、橋桁の下を流れる暗い川の方から響いてくる。『またか』という感覚と共に、娘は震える手を欄干へ置いた。瞬間
《――――化猫風情に言われるまでもないわ》
この世ならぬ者の声が、辺りに轟き渡る。次いで川面から小山の如く盛り上がってきた、闇色の透明な水の塊。
《とうとう身を投げに参ったか……いつかのわしを見るようだのう》
水の中より現れた、二本の角を頂く大きな鼻面。伸びた耳に長い牙。口からは蒼い鬼火を吐き、輪郭を夜に溶かしているそれは、巨大な異形の黒い牛だった。頭部しかなく、八本の蜘蛛の足が生えている。二つ並んだ大きな真紅の丸い光が目に相当するとわかるまで、短くも時間を要した。
《名は何という?》
橋の欄干より遥かに高い位置で赤い目を煌々と光らせ、黒い水で出来た牛の頭が問いかけてくる。
「湾凪九之丞抛雪の娘で、雪輪と申します」
驚きもせず恐れる様子も無く、異形の牛の問いに答えた後
「……貴方様は?」
黒牛の向こう側で揺れる星を眺め、雪輪は尋ねた。
《多田満仲が娘。斯くの如き姿となってからは、“赤目御前”と呼ぶ者もおる》
牛は厳かな声で返す。蜘蛛に近い外観の牛を形作る水は流れ続けていて、飛び散る白い飛沫が星明かりに輝いていた。
「何ゆえ、このような所に?」
雪輪は真っ白な頬と漆黒の髪を、水面から巻き上がる風になぶられながら、また尋ねる。
《“誓約”を棄てた報い》
「誓約?」
《常世の“神”との誓約よ……『針の先』と言えば、覚えがあるか?》
赤目御前は真紅の瞳を揺らめかせて返した。呟くと同時に、黒い水の中で真紅の炎が強く燃える。
《何も知らぬ顔をしておるが……そちは何をどこまで、知っておる?》
赤目御前の問いかけに雪輪は息をのんでから、首を横に振った。
「僅かな事しか存じません。わたくしが『針の先』であり、まだ『その時』ではないのだという……」
娘の言を聞き、蜘蛛の足を生やした牛の頭が僅かに頷いた。
《それで、そちは己が人であるうちに、自害しようと考えたか?》
確かめるように尋ねる。橋の上で雪輪は小さく「はい」と答えて頷いた。それを聞き、しばらく沈黙していた赤目御前の赤い瞳が、やがて一際明るく光る。
《ならば、やはりわしの身の上を聞いておいて悪くはなかろう。わしがまだ、人であった頃の話をな》
そう声を震わせ、この世ならぬ黒い牛が語り始めたのは、遠い昔の『思い出』だった。
《我が父……満仲は武士であった。野心と、それを叶えるだけの力を持った武士であった。しかしあの頃、世は謀反や密告、権謀術数が入り乱れ、戦火が絶えぬ不穏な時代……その中を生き抜くため、父は何者にも負ける事の無い『武運長久』と引き換えに、“神”と誓約を交わしたのだ》
「神と、交わした?」
異形の者の話に、雪輪は小首を傾げた。
《言霊によって“神”をこの世へ映し出す。古き誓約の呪よ。父は外道の呪禁師に、誑かされたのだ》
闇夜の底に懸かる満月の下、黒い小山にも似た牛は鳴いた。
《間もなく、牛の頭を持つ娘が産まれた……それがわしよ。持って生まれた醜い角も鬼の顔も、全ては常世の“神”との誓約の証。だが人柱となる筈であったわしは女官の慈悲に救われ、人里離れた深山で育てられたのだ》
御前が鳴くたびに飛沫が雨となり、橋や雪輪の上へ降って来る。
《しかしやがて、一族に祟りが顕れた。わしが“針の先”となっていない事は父の知るところとなり、探し出されたわしに兵が差し向けられる事と相成った》
「……実のお父上様が?」
《驚くにはあたるまい。元より人の本性は『狂気』……神と“神通力”は、人が持つ脆弱な理性の箍を破壊する。それだけの事よ》
御前の人間として過ごす日々は、実父によって破られたという。身辺にいてくれた僅かな者達も、殺された。
《わしは親を憎み、宿命を恨み、世を呪った。“針の先”になどなりとうない。父の思う儘になるものかと。そして戦う事を決めたわしは各地を転戦するも、最後は兄、頼光との戦いに敗れ、この川へと身を投げたのだ。だが誓約に括られた我が身は尋常に死ぬ事も叶わず、こうして曖昧な影となり、常世と映し世の隙間に棲まう身となっておる》
過ぎ去った日々を物語る赤目御前の声は、穏やさの奥に残り火の如き怒気が潜んでいた。
「御前様、それは……わたくしも尋常に死ぬことが叶わぬということでございますか?」
細かく震えながら雪輪は上空の赤い光を見上げ、青褪めた唇を開く。
「お教え下さいませ。自害すれば、わたくしも同じく、迷いましょうか?」
問いかけてくる貧しい身形の娘を、赤い瞳はじっと見つめていたが
《……迷うでは済むまい》
重い声が答える。
《わしが川へ身を投げた時、兄とその軍勢は暴走した“神”に呑まれて壊滅した。その後も近隣の寺社が、幾度も襲われることと相成った。誰にも御す事の出来なくなった、牛の頭に蜘蛛の身体を持つ“神”によってな。誓約の“神”が強大であるほど代償は重く、反動は災厄となって降り掛かる》
告げられた赤目御前の言葉に、雪輪は黒い瞳を伏せて黙り込む。そのうちに
「……御前様の“神”は、如何なされましたか?」
小さな声で、問いを重ねた。
《長き時を経て、もろもろと消えた……僅かにその輪郭だけが、今もわしに映っておる》
半透明の黒い牛は答え、辺りが静寂へ沈む。その静寂を先に破ったのは、赤目御前の声だった。
《嘆くな、湾凪の姫。わしとそちとは、よう似ておる……忌まわしい神々の思い通りになど、させはせぬ。今や隅田川とこの一帯は、我が結界も同然。しばし、ゆるりと休むが良い。もしもそちや、その郎党に大事あらば、わしが守って進ぜよう》
俯き加減の娘を憐れんだか、今までより穏やかな御前の声が闇夜を震わせる。
「勿体のうございます」
雪輪も真っ白な顔を上げ、静かに礼を述べる。それを聞き届けた赤目御前の黒い水の身体が、次第に透明度を増し始めた。
《わしひとりが、今もここに居る。父も兄も、影すら消えて千年の時が過ぎようというのに……》
背後の闇に溶けていく黒い牛は、白い月へ向かって囁いた。
《憎まずにおられたなら、良かったのであろうか……?》
誰に向けられたのか判然としない問いと降り注ぐ飛沫を残し、赤目御前の姿が消えてゆく。そして闇は通常の夜へと変わり、霧に包まれた両国橋の真ん中で、ずぶ濡れの雪輪は一人考え込んだ。
「……死ぬも、ならぬか」
薄く声が洩れたときだった。
「雪輪様?」
皺枯れた声に名を呼ばれ、娘は橋の西側を見る。そこには何かを口に咥え、駆け寄ってくる火乱がいた。走る猫の後ろにいるのは、枯れ木みたいな老人の影。
「堀田様……」
老人の姿を見つけた雪輪は、赤目御前が現れたときより、よほど驚いていた。猫が連れてきた男は、堀田源右衛門といった。
帝都へ到着して大伯父宅を探していた頃。この老人と一度会ったことがある。彼は両親の知り合いだった。夜の屋台で見かけた狭霧に父の面影を見つけ、声をかけてきたのだ。源右衛門は明るい男だった。両親との思い出や、昔の湾凪の屋敷の様子などを、時が過ぎるのも忘れた顔で懐かしそうに話してくれた。更には忘れ形見達の事情を知ると、是非とも長屋へおいでなさいと言ってくれたのである。けれど狭霧は、その申し出を断ってしまった。
『他にあてがありますので』
あの時はまだ、そんな事を言う余裕もあったのだ。
それきり源右衛門に会う事はなく、正直に言えば雪輪はこの人物の存在を忘れていた。でも火乱は覚えていたのだろう。猫は咥えていた財布を老人の足元に置くと、雪輪の元へ駆け戻り蹲った。
「その猫めが、急に飛び出して参りましてな。あっという間に財布を取られまして。あわてて追って来た次第で……いやいや、こんな所でまたお目にかかるとは……」
肉の落ちた頬に人懐こい笑みを浮かべ、財布を拾い上げた源右衛門だったが、表情が俄かに硬くなる。雪輪の袖に入っている石や、裾を結んだ姿に気付いたのだ。
「なりませぬ。なりませぬぞ」
老人は痩せた足で駆け寄ると娘の細い腕を掴み、袖から石を取り出しては捨てていく。石を捨てると骨ばった手で雪輪の震える手を強く握り、しわくちゃの顔で微笑んだ。
「何があったかは存じませぬが……さぁ、今日はもうお疲れでございましょう。あばら家ではございますが、まずは拙者の長屋で、お休みくだされ」
皺に埋まった小さな目には、涙が浮かんでいる。源右衛門の言葉と、久方ぶりに触れた人のぬくもりで気が抜けたのだろうか。雪輪はその場に座り込んでしまった。




