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Black Dog

――――何か、おかしい。


 柾樹は通りの真ん中で足をとめた。下駄の足で水溜りを踏みつければ、バシャンと水のはじける音がする。久しぶりに聞く『音』だった。周囲は民家のはずだが灯りは無く、人の気配もしない。静かすぎる風景を見渡し、首を傾げた。


 どう考えても自分の置かれた今の状況は、『道に迷っている』。でも夜とはいえ、通い慣れた道で迷うなど、自分でわけがわからなかった。わからないがとりあえず状況を整理するため、ここに至るまでの己の行動を振り返ってみる。


 駿河台の屋敷を出て間もなく、雨が降り始めたので柾樹は雨宿りを兼ねて寄り道をすることにした。ふんだんに軍資金もある。そこで神田の『錦輝館』に潜り込み、適当に時間を潰した。そこを出た後には蕎麦を食べ、水の代わりに酒も飲んだ。ついでながら二十歳未満の飲酒喫煙は今のところ法的に禁止されていないので、酒をあおろうが煙草をのもうが、触法行為にはあたらない。


 そうこうしているうちに雨が上がったため、そのままだらだらと両国橋方面まで徒歩で戻ることにした。途中、もっと寄り道して馴染みの店に顔を出そうかと考えたりもした。でも何となく気が乗らなかったから、下宿にしている古道具屋へ引き上げることにしたのである。


 その時分はまだ雲の流れる空の端に黄昏の光が残り、店や各家庭からは夕餉の煙が漂い、建物の軒先より漏れる灯りが道を照らしていた。のんびり歩いたとしても、数鹿流堂に着く時間は深夜にはならないだろうと考えていた。


 しかし、そこからがおかしいのである。いつまで経っても古道具屋へ辿りつかない。


 柾樹が立ち止まっているこの場所を見るのは、もう三度目だった。同じ場所をぐるぐる回っている感じがしてならない。完全に日も落ちて、周囲は暗くなっていた。生ぬるく水っぽい空気の中には、もはや通行人の姿も消え果てている。帝都でこんな時間はまだまだ宵の口だが、広い道の果てから果てまで、人影が無かった。というか、月も無いため暗過ぎて殆ど何も見えない。その暗さもまた、見知らぬ闇の色をしている。


 注意して見ると、濡れた地面が淡く水色に光っていた。おかげで並ぶ建物の黒い輪郭だけは、辛うじて分かる。どうも神田やその近辺にある建物ではなさそうだった。


「道、間違えたか?」

 柾樹はボソッと口中で呟いた。そんなバカな、と思うも他に理由が浮かばない。もっと言えば、何だかさっきからずっと夢でも見ているみたいに、頭が回っていない。


 回らない頭なりに、「きっと思ったより酔っていて、道を間違えたのだろう」と柾樹は半ば開き直ってみた。もしや伝染病で立ち入り禁止区域になっていたのを、知らず入り込んでしまったか?と、状況の奇妙さを自分に説明してみる。


 近年の伝染病の広がり方は恐ろしい勢いだった。虎疫や天然痘の他にも、流行性感冒・別名『お染風』などの大流行が頻発していた。外国から船に乗って病気が持ち込まれる機会が増えた上、交通の発達で人の移動が爆発的に増加したのも、伝染病が蔓延するのに一役買っていた。そしてまだそれらの感染源がハッキリわからず、人々の衛生管理や疫病対策も追い付かない。政府は躍起になって消毒や衛生観念の普及に取り組んでいるものの、十分ではなかった。


 世の中はそういう情勢である。この足元の光る水も、消毒用の薬品の一種なのかもしれないと思った。だとすれば、ここは危険でさえある。


「……戻るか」

 ひたすら道なりに進んで来た。ならばその逆を行けば、元の場所へ戻るはず。ここでやっと柾樹は、引き返そうという気分になった。そこへ


「ギヤャアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」


 闇の彼方で凄まじい声がした。琥珀色の髪の青年は、反射的に振り返る。無意識で愛用の拳銃を取り出し、銀縁の眼鏡越しに水色がかった闇の向こうを睨みつけた。夢見心地が消失する。


 声がした場所はそんなに遠くない。男の声だということはわかった。広い通りを真っ直ぐ進んだ先にある、丁字路を曲がった先から声は聞こえた。更に柾樹の勘が正しければ、今の悲鳴は断末魔のそれだった。声はそれきり、途絶えて消える。


 息を殺してしばし様子を伺うが、静けさが戻ってきただけで景色に変化は起こらない。持っていた荷物を静かに足元へ降ろすと、悲鳴の正体を確かめるため柾樹は声がした方へ一歩踏み出した。


 その途端、足元へ白い冷気がひゅうっと流れ込んできたのである。同時に、気温が猛烈な速度で下がり始めた。


――――何だ?


 次第に強くなり髪を巻き上げる風は、涼しいを通り越して寒い。そして突然の寒風と共に、丁字路から黒い大きな物体がヒョコヒョコと姿を現したのである。


 地面の淡い青光に照らされているのは、仔馬ほどもある痩せた黒い犬だった。足が細長く、首も長い。鞭に似た尾を揺らし、爪音高く独特なリズムを刻んで歩いている。


項垂れて歩いていたそれが、道の真ん中で頭を持ち上げた。一緒に起き上った耳の形で犬と分かった。狩猟などで使われる洋犬を思わせる。でも明らかに普通の犬では無い。頭部だけが、不格好に大きかった。そして目玉が、さながらランプみたいに煌々と光っている。犬の目は、こんな風に光らない。


 くるりとこちらを見た黒い犬は、柾樹を見つけた。途端に大きな口が裂けて水を蹴立て、見た事もない速さで一直線に突進してくる。


「!?」

 考えるより先に柾樹は犬の足元へ向け発砲した。だがこれで犬が逃げると思ったら大間違いだった。脇目も振らず直進し、飛び掛かってきた牙をギリギリで避け、もう一発発砲するも手応えが無い。見間違えていなければ、当たったけれど効果が無い。


「何なんだよッ!」

 壁を背に銃を構え、犬に向かって吐き捨てた。声が白い靄になる。まるで真冬の夜だった。周囲の気温が、更に異常な勢いで下がっていく。みるみる手がかじかみ始めた。


 身構える柾樹から数歩離れた場所で、白い風を巻いた黒い犬は全身の毛を波打たせ、風の音に似た唸り声をあげている。オオカミに似た顔つきで、鼻面と尖った牙には血がへばりついていた。目を凝らし、落ち着いて犬をよくよく眺めてみた柾樹は

「……え?」

声を漏らし、目を疑う。


 犬の目玉が光っていると思っていたが、犬に目玉が無かった。眼球が入っているはずの窪みは真っ暗な空洞で、その奥で震える青い炎が鱗粉の如き光を撒き散らしていた。犬の骨が、黒い毛皮を被って動いている。と、


《……Liar》

唖然としている柾樹の耳に、極微かな音が届いた。泡沫がはじける音に近い、小さな音。それは目の前にいる黒い犬から発せられていた。


《Liar……,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar,liar……》

 乾いた声で犬は囁いている。


「……“嘘つき”?」

 思わず呟いて集中が途切れた刹那、牙を剥いた犬が猛然と跳躍した。咄嗟に避けると同時に、拳銃で犬の横面を殴り飛ばす。


「クソッ!」

 銃の引き金が動かなかった。だが不具合について思案している暇はない。地面に転がった巨大な黒犬はすぐさま飛び起き、獲物の喉笛目掛けて襲いかかってくる。手加減抜きで殴ったはずだけれど、大した痛手も受けていないらしい。むしろ殴った手の方が、針に刺されたように痛む。


 再び飛び掛かって来た牙を紙一重で避け、柾樹は犬の腹を蹴りあげた。僅かにかすった下駄の足に痛みが走る。一応当たったものの、飛んで避けた犬は間合いを置いて飛び退ったに過ぎなかった。黒い犬の真っ暗な眼窩から零れ落ちてくる青白い鱗粉が、涙に見えた。


 間合いを保ったまま両者は睨みあう。犬から目を離さず、柾樹はもう一度右手の拳銃の引き金を引いてみた。凍りついたか、石になってしまったかと思うほど動かない。小さく舌打ちしたとき、再び黒い犬が真っ暗な口を開け、凄まじい勢いで躍りかかって来た。

「ッ!!」

 避けきれなかった左腕に、のこぎりのような牙が深く突き刺さる。衝撃で飛ばされ転びそうになる寸でで持ち堪えた。何も考えず、拳銃の銃身を鷲掴みすると


「なッに、しやがんだあッ!!」

 左腕に食いつかせたまま、グリップで犬の鼻面を殴りつけた。それでも犬は獲物を咥えて離さない。柾樹の腕を咥えて頭を振り、腕をもぎ取ろうとしていた。噛みつかれた箇所がちぎれそうなほど痛い。犬から強烈な冷気が迸り、風に撫でられた髪が凍り始めた。殆ど目が開けられず、頬がぴりぴり痺れてくる。


 犬の青白い炎を見ているうちに、柾樹はカアッと頭に血が上った。目の色が変わり、使い物にならない拳銃を放り出すと


「こンの、野郎ッ!!!」

 犬の首を掴んで巨躯を持ち上げ、力任せに壁へ叩きつけた。犬に触れた途端感じた痛みは、怒りで吹き飛んでいた。身体と腕で犬を壁に押し付け動きを封じ、帯の間に入れていたもう一丁の古い拳銃を片手で引っ張り出す。犬の眼窩へ、奇妙な模様で埋め尽くされた銃口をシリンダー付近まで突っ込み、引き金を引いた。


 銃が作動するかどうか、一か八かだった。瞬間、青白い稲妻が銀色の拳銃から腕を駆け上がる。水色の夜闇に銃声が鳴り響いた。途端に、突き立てられていた犬の牙が緩んだ。そして同時に、黒い犬の身体が膨らみ始める。犬の中に宿っていた青い炎が勢いを増し、黒い毛皮も膨張していく。


「……!?」


 哀しげな遠吠えが聞こえる。青い火勢に目が眩み、そのまま柾樹は意識を失った。

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