没落士族
怪談も肝試しも怖いと思ったためしが無い。肝っ玉も人並み以上に据わっていると自負している。
それが何故だろう。源右衛門宅の狭い床の下から音も立てずに現れた、見知らぬ娘の真っ黒な目と目が合った瞬間、柾樹は全身総毛立ち、以後ずっと両腕がびりびり粟立っている。
「『湾凪雪輪』様と申されましてな。昔、わしがお世話になったお方のご息女で……」
寝床に戻った源右衛門が娘を紹介をしている。でもその言葉はちっとも耳に入らない。柾樹は殆ど上の空で、老人の隣へ座す娘に釘付けになっていた。
まず肌が白い。白過ぎる。それも『雪のような』などという雅やかな系統のモノではない。ランプの橙色の光の中でさえわかるほど、娘は青白くて血の気が感じられない顔色をしていた。あんまり真っ白だから、白粉を塗っているのかと思ったくらいである。反対に長い髪は墨みたいな漆黒で高く結い上げ、背中へ流れ落ちていた。佇まいが非常に古風であり、これだけでも当世浮世離れしていると言っていい。着ている物も灰色の古い太織で、髪を結う紫の紐と藍色の玉のついた簪がまた古臭かった。何より白い顔の中で濡れたように光る黒目がちの目が二筋、キュウと異様なくらいつりあがっている。昔どこかで聞いた、狐憑きの話を思い出した。
「雪輪と申します」
娘は源右衛門に促され、そう名乗った。口調は意外とハッキリしていて、声だけは悪くない。悪くないのだが、娘の身体がさっきから間断なく小刻みに震え続けている。そっちが気になって柾樹は挨拶どころではなかった。
『雪輪』と名乗った娘は、世が世なら千五百石の旗本の姫君だったという。けれど今は暮らしもままならず、父祖伝来の旧知行地を離れて帝都へ出てきた。そして、とある場所で偶然老人と巡り合い、以来ここで一緒に暮らしていたとのこと。
「抛雪殿は、友でござった」
源右衛門が懐かしそうに言った。娘の父親は『抛雪』といい、先の戦で共に戦った仲間だったという。歳も離れ、旗本と御家人という身分の違いはあれど考え方や気性が合い、親しく交流していた。生きて帰ってきてからも、娘の両親が旧知行地へ行くまで繋がりは切れることが無かった。源右衛門が菓子屋の経営に失敗し、借金で身動きが取れなくなった折には援助もしてくれた。当時のその恩を忘れずにいた源右衛門は、帝都で路頭に迷っていた娘を連れてきたのである。
「雪輪様。こちらが柾樹様でございますぞ」
源右衛門がいそいそと紹介した。娘は一言も答えない。小刻みに震えながら背筋を伸ばし、斜め下を見つめて人形みたいに静まり返っていた。
――――……これは大変なことになったぞ。
娘を前に、柾樹は先ほどの安請け合いを海の底より深く後悔していた。どう見ても、喜んで引き受けたくなるような案件ではない。でも
「無理を承知でお願い申し上げまする。この姫に、どこぞ落ち着ける場所をお探し申し上げて下され」
こうして源右衛門に伏し拝むようにして頼まれてしまったら、断れない。別に源右衛門に「娘がいる」と聞いて、何か色っぽい展開を期待していたわけではないものの。
――――こういう時は美人が出てくるもんじゃねぇのかよ……。
半ば呆然とした頭の中で、そんなことを考えた。これが色香滴る絶世の美女や、透明感溢れる儚げな美少女であったなら、もう少し気分も盛り上がっただろうに。
「………」
「………」
ちらっと娘の様子を伺うけれど、向こうから遠慮して断ってくれる気配も無い。とはいえ、今更言い訳して無かった事にするという選択肢も、自分で自分に許せない性分だった。短気で喧嘩っ早く、口も悪くて人間嫌いな柾樹だが、気を許した親しい人に一生懸命頼まれると弱い。段々“こうなったらなるようになれ”と、捨て鉢な気分になってきた。
「……わかったよ」
これだけだと何だか悔しいため、しかめ面を作って白い娘を睨みつける。睨まれても娘は涼しい顔。というか全くの無表情で、目も合わせない。薄気味悪さよりも、その可愛げの無さに柾樹は小さく舌打ちした。
「お前、歳は?」
黙っていても埒が明かないと、ためしに話しかけてみる。尋ねながら柾樹は胡坐をかいた自分の膝に頬杖をつき、震え続ける娘を無遠慮に眺め回していた。
「十八でございます」
「親は?」
「父も母も、亡くなりましてございます」
「ふーん。いつ?」
「母は半年ほど前。父は……もっと前に」
もう殆ど詰問である。見るからに非社交的な娘なので身の上をペラペラ喋るとも考えていなかったが、それにしてもひどい。しかも横で聞いている源右衛門は、双方をたしなめたり取り繕ったりするでもなかった。若い二人の会話とも呼びにくい会話を、嬉しそうに眺めている。源右衛門の役に立たない仲人ぶりも手伝って、柾樹はいよいよげんなりしてきた。
「家はどこにあるんだ?」
思いつくまま尋ねてみる。出身地について訊いたつもりだったのだけれど
「ございません。土地共々、人手に渡っております」
予想以上の壮絶な返事で一層話は広がらなくなり、「さうデスカ」と答えてこの質問は終わらせる。身の上といい境遇といい、見本のような没落士族ではないかと思った。
以前から苦しかった士族たちの凋落ぶりは、近頃ますます歯止めがかからなくなっている。近代化を目指して始まった地租改正や徴兵令と並行して、『秩禄処分』という改革が行われたが、この改革とそれに伴う様々の施策が、元武士たちを一層没落させていた。
かつて武士たちは世襲の『俸禄』という収入で生活をしていた。これは個人ではなく、『家』という集団に対して支払われる収入だった。だが御一新以降も新政府に引き継がれていた家禄の制度が、廃止されたのである。廃止に至るまでには山ほどの紆余曲折があった。それはここでは割愛する。とにかく廃止になった。
家禄を廃止するにあたり、殆ど実業経験のない士族が自活出来るよう方策はとられた。新政府は士族に官有地を払い下げたり、税を減免したりして、便宜を図っている。更に家禄を手放せば、昔の制度で貰えたはずの家禄数年分を、まとめて支給するとした。そして士族たちに、この金を活用して帰商や帰農をするよう勧めたのである。新政府はこれにより、殖産業を起こしたり、山野を開墾して自らの手で生活基盤を整えさせようとした。特に推奨したのが、『帰農』だった。農業ならば土地と農具さえあればすぐ始められると考えられたのだ。しかし、士族たちの帰農への道のりは険しかった。
帰農しようにも、耕しやすい土地は既に農民たちの田畑となっている。残っている土地は石だらけの荒地や山林で、素人が開墾するには条件が厳しすぎた。耕作を始めても水の引き方一つで畑の水が増えた減ったと、隣人との間に揉め事が起きたりする。凶作続きだったため、先祖代々農耕に従事している者達すら苦労している状況だった。何より農業も商業も生業とするには膨大な労力に加え、長い経験や専門的な知識を必要とする。一部の成功例を除き、帰農の多くが惨憺たる結果に終わった。払い下げられた土地の開墾を諦めた士族が、土地を平民に転売することも少なくなかった。
帰商した者達も同様で、事業や商売に慣れていない士族が、俗に言う『士族の商法』で失敗し、借金まみれになって家宝から妻子に至るまで売り払うしかなくなったという話は枚挙に暇が無い。家禄奉還で資金を手に入れ投機に走り、兎の繁殖などで一攫千金を企んだ末に散財する者もいた。この娘の家もこういった失敗例のうちのどれかだったのではないかと考えるのは、難しい事ではなかった。
「頼れる親戚だとか、そういうのもいねぇのか」
柾樹はまた懲りずに質問を続ける。すると娘は少し顔を上げ、丁寧に答えた。
「帝都に母の実家の知り合いがおりました。しかしながら、まことにお恥ずかしゅうございますが、お引き受け致しかねると、断られましてございます」
返答を聞き、柾樹は溜息が洩れる。
金があった頃ならいざ知らず、金がないなら厄介は御免と、親類縁者にも縁を切られたのだろう。先方としても頼って来られたところで生活は楽ではなく、迷惑だったに違いない。その末に、行くあても無く帝都を彷徨っていたのだ。中々に憐れな身の上ではないかと思った。
「ようは、こいつの暮らす場所を世話してやりゃあいいんだな?」
眼鏡をずり上げ、柾樹は源右衛門に確認した。どこか引き受けてくれる女郎屋でも探してやれば良いのだろうと考えていた。
士族の娘が吉原などに身売りするという話は、もはや珍しくもない。士族の娘を芸者にしても問題ないと解釈できる趣旨の通達が政府から出されてからは、更に増えた。養女や芸者の肩書きで、娘たちは八十円、百円という金と引き換えに、生まれた家を離れていく。この娘の場合、引き受けてくれる豪気な店があるかどうかが問題であるとはいえ、探せばどうにかなるだろうと柾樹は勝手に決め付けていた。帝都は広いのだ。そんな算段をよそに
「はい。ただし……ひとつ、守って頂きたいことが」
源右衛門が言葉をつないだ。老人は起きているのが辛くなってきたのか胸を押さえ、身体が斜めに傾いでいる。
「このひいさまを決して、『女』に触れさせてはなりませぬ。出来る限り世間の目にも触れぬよう……女に触れぬように。近付かせぬように、して差し上げて下され」
搾り出すようにして言う。柾樹は「はあ?」と思い切り変な声を上げてしまった。女に触れさせてはならぬと言われたら、女だらけの吉原や芸者置屋など絶対に入れないではないか。それどころか普通に暮らしていくのも困難である。世の中のおおよそ半分は女なのだ。
けれど提示された奇妙な条件とその理由について、柾樹は問いただす暇が無かった。源右衛門が突然、激しく咳き込みだしたのだ。娘が老人の背をさすって落ち着かせ、横にさせる。衾をかぶった源右衛門の顔は、土気色になっていた。
力を使い果たしたのか、横になった源右衛門は胸が上下するだけで身動きしない。それでも懸案を柾樹に託した安堵感で、表情は大変に穏やかだった。焦点もろくに合っていない灰色の目で娘を見上げ、こけた頬が笑う。
「これで一安心じゃ……雪輪様、もう大船に乗ったようなものでござる。ご安心召されませ」
そう言って老人が差し出した手をとり、何の感情も表さない声で白い娘が答えた。
「有難う存知ます。ご恩は生涯、決して忘れは致しません」
それを聞き、小さく頷くとくしゃくしゃの笑顔で源右衛門は呟く。
「これであなた様のお父上、お母上に、あの世でどうにか、顔向け出来る」
そうして、うとうと瞑目し
「柾樹坊ちゃん。恩にきますぞ」
言い残して間もなく、眠りについた。