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やすのとよしの

 これ以上、雪輪を隠しておくのは無理なのではないか。鈴にまで見られたことで、柾樹は切実にそう考えるようになった。


 第一あんな街中で、それなりに普通の人付き合いをして暮らしていたら、無理で当たり前なのだ。今回は長二郎が上手いこと(だまくらかして)隠しおおせたものの、次に同じ事が起きたら誤魔化せるかどうか。雪輪を世話してやることは源右衛門との約束だが


「まず、場所の条件に無理があるだろ」

自邸の壁に沿って歩きながら、柾樹はぶつくさ呟いていた。


 “女がいない場所”という、これが最大の足枷となっている。長二郎が冗談半分で「高野山にでも連れていくか?」などと言っていた。しかし雪輪自身が女なのだから、連れてこられても高野山の僧達が迷惑するに違いない。


――――……まぁ、飯はうまいから、しばらくこのままでいいか。


 途中で考えるのが面倒くさくなった柾樹は、問題を先送りにした。そしてある地点まで来ると立ち止まり、辺りを見回す。ここは自邸の裏庭の位置。


 柾樹は人がいないのを確認し、敷地を囲む壁に開いた穴から庭へ入り込んだ。正面の門は使わない。この脱走穴は柾樹専用の出入り口だった。巧妙に隠してあるため、今のところ誰にも知られていない。穴を潜って立ち上がり、枯れ葉や小枝を払うと建物に向かって歩き出す。


 何をしに柾樹が家へ帰って来たのかと言えば、手持ちの金が少なくなったため資金調達に来たのだった。出来れば寄りつきたくない屋敷だが、今回は弥助を使い走りにすることも出来ない。已む無く自ら足を運んだのだった。ついでに例の変な古い拳銃も、ガンケースごと風呂敷に包んで持ってきている。


 元は何処かの藩邸だったという屋敷は、敷地面積が五千坪もあった。昔より狭くなったという話だけれど、それでもまだ有り余るほど広大な庭が広がっている。やがて窓を乗り越え、首尾よく母屋に忍び込んだ柾樹だったが

「げっ……何だよ?」

父の書斎を扉の影から覗き込んで唸った。


 部屋には使用人頭の大山がいた。大山は他数人と手分けして本棚と机の間を行き来し、忙しげに立ち働いている。しばらく様子を伺うも、大山たちは部屋を離れそうにない。柾樹は迷った。


 この書斎にある金庫に用があったのだ。これは相内家の私用のもので、開けて良いのは父と柾樹と、他には大山だけだった。柾樹は金庫の金を使っても良いことになっている。というか特に禁止されていないから、いつも勝手に開けて使っている。しかし長時間ここにいると、他の連中に見つかって騒がれる恐れがあった。それにしても自宅へ帰ってきただけなのに、心境から行動まで、ほとんどコソ泥である。


 銀縁眼鏡の青年は金庫を諦めると舌打ちを残し、目的地を変更した。資金調達に関しては、実はもう一つあてがある。


 屋敷には倉庫や厩なども含めて、建物が二十棟以上建っていた。柾樹と父が住んでいる母屋と、使用人たちに住居として宛がわれている長屋。そしてその他に、『離れ屋』があった。離れと言っても、柾樹が現在居候している古道具屋の数鹿流堂と同じくらいの規模はある。母屋から見て北に建つ離れ屋には、柾樹の姉達と家族が暮らしていた。足が向かっているのは、幼い頃から近付く事を禁じられている『離れ屋』である。


 見つかりたくない柾樹は、苔むした巨樹の影に隠れて歩いた。広過ぎる庭は裏まで手が回りきっていない。そのうちに、木漏れ日が差し込む庭木を越えた先。薄青い木陰に、分厚い石の板で蓋をされた、石造りの大きな古井戸が見えてきた。下駄の足が、知らず止まる。


 これは柾樹の義兄の『太郎』が、落ちて死んだ古井戸だった。ここが相内家の屋敷になるずっと前から、何人もの人が落ちて死んでいるとの噂があり、『人喰いの井戸』と呼ばれていたという。離れ屋と同様、ここにも近付くなと言われてきた。元は木製の蓋だったそうだが、太郎の死後に頑丈な石の蓋へ取り替えられている。苔むして罅だらけの井戸を数秒眺め、柾樹は銀縁眼鏡の奥の目を細めた。


「……さっさと埋めちまえよ」

 古い井戸へ呟く。


 そうして足早にその場を離れ、ようやく目的の離れ屋へ辿り着くも、やっぱり柾樹は正面から入らなかった。裏手へ回る。そこはあまり日当たりは良くないが、全く日が当たらないこともない部屋だった。開け放たれた静かな縁側から首を伸ばして内部を覗き込むと、思った通り。自然光が照らす仄白い部屋で、お目当ての人物が舶来の華奢な椅子に腰かけて、刺繍をしていた。


「やすの」

 呼びかけると、ハッとこちらを向いた美しい人。針を持っていた白魚のような手が止まり、二重の瞼が見開かれて


「柾樹さん……!?」

軒下に立っている弟を見つけた義理の姉は、縫物を放り出した。椅子を離れ、柳色の着物の裾が乱れるのも構わず駆け寄ってくる。縁側に腰かける柾樹の傍らへ膝をつくと、八歳年上の姉は身を寄せて覗き込んできた。

「ああ、良かった柾樹さん……心配していたのよ?」

 長姉のやすのは、まるで泣きだしそうな声で言う。


「俺がいないのなんて、いつものことだろ」

「そんなことないわ。柾樹さんがこんなに長いこと家を離れるなんて、今まで無かったじゃない。もしこれっきり帰って来てくれなかったら、どうしようかと思っていたのよ」


 何食わぬ顔で言ってのける種違いの弟に、艶やかな赤い唇が言い返した。柔らかな眉を寄せ、どうやら少し怒っている様子なのだが、やすのが言うと怒った風に聞こえない。眼鏡越しに横目で見ると、そこには「めっ」という風に。それでも微笑んでいる姉の顔があった。肉親の贔屓目を抜きにしても、美貌と呼んで差支えない。


 色白の瓜実顔と、西洋下巻きに結った豊かな黒髪。きれいに通った鼻筋。化粧は薄いものの、品の良い顔立ちそのものは、双子の妹であるよしのと瓜二つ。でもこの二人の性格は、不思議なまでに対象的だった。男勝りのよしのに対し、やすのはお淑やか。そして強気で感情の起伏が激しいよしのを抑えるのも、控えめで冷静なやすのの役目だった。やすのは目もどこかとろんとしていて、少々垂れ目かもしれない。あるいはよしのがつり目なのか。


「またすぐ出掛ける」

「ええ?」

 躊躇うこともなく告げられた柾樹の宣言に、慌てて何か言いかけたやすのだったが

「でもその前に。金がねぇんだ。少しくれ」

琥珀色の髪をした弟はそれを遮った。柾樹の態度に、やすのは小さく溜息をつく。


「今そんなに持ってないのよ……」

 一応そうは言ったものの。部屋の奥へ引き返して財布を手に戻り、それを丸ごと渡した。受け取った柾樹は軽く礼を言い、金だけ出して仕舞いこむ。禁止されていても柾樹はこんな風に、やすのとたまに会っていた。十年ほど前からだろうか。


 あの頃の柾樹は手のつけられないただの『小鬼』で、やすのもまだあどけなさの残る少女だった。最初に柾樹がここへ忍び込んだのは、特に目的があっての事ではない。何か悪戯出来そうな事は無いかと、忍び込んだだけだった。そうしたらこの庭先で、小鬼はやすのに見つかったのである。突然顔を出した弟に


『あ!』

と小声で叫んで、やすのは目を丸くしていた。でも急いで周囲に人がいないのを確かめると

『ごきげんよう、柾樹さん』

そう言って、物憂げな眼差しをした少女は微笑み、お菓子をくれたのだった。以来、公然の秘密として接触が続いている。


「それと……コイツ預ってくれ」

 柾樹は縁側に置いた風呂敷包みを、姉の方へ片手でずいと押し出した。

「なあに? これ」

「ピストル」

 柾樹の返事を聞き

「もしかしてこの前紅葉ちゃんが話していた、教会で亜米利加人に貰ったっていう……?」

やすのは首を傾げる。


「聞いてたのか?」

「ええ。あの子お友達と一緒に、お百度参りをしていたんですってね?」

 ほろ苦く微笑んで語るやすのは、おきゃんな姪っ子の武勇伝を楽しんでいる風だった。しかし、笑ってばかりもいられない。


「紅葉ちゃんは一人歩きも慣れたものだけど、お友達の方はそうもいかないでしょう? あちらのお母様は困っていらっしゃったわ。活発な方だったから、直接お話しにいらしてね。それでコトが知れたのよ。こちらはもう平謝り」

 事情を説明した。


 先方の態度はあくまでも穏やかで、音羽と仲良くして下さるのは一向に構わないが、娘を外へ気安く連れ出すのだけは今後少々遠慮して頂きたい……という要請だった。たしかに野良猫みたいな紅葉と違って、音羽はいかにもお嬢様風で、非力そうな少女である。家族は心配したのだろう。


 相内家は上流階級的な価値観に、あまり縛られていない家だった。女たちは生活空間こそ離れ屋に限られているものの、外界との接触はかなり自由に行っている。よしのはその急先鋒であり、社交界で美人と持て囃されてイイ気になっている(というのが柾樹の感想)。そんなよしのの一人娘の紅葉は、言うに及ばず開明的過ぎたため、このような事態になったのだった。紅葉に悪気はなかったとはいえ。


「紅葉は?」

「よしのちゃんに叱られて、今はお目付け役のお糸にしっかり見張られているわ。でも何だか可哀想でね。それで私が宥めに行ったら、柾樹さんとニコライ堂へ行ったことも、内緒で教えてくれたのよ」


 やすのはそう説明した。おしおきでしばらく家から出られない紅葉は、遊び相手になってくれた伯母に「おっ母さまには内緒だよ?」と言い添えて、柾樹と会ってきた話を告白したとのことだった。


「柾樹さん、あの子たちのお百度参りに付き合ってやったんですって? 良いとこあるのねぇ」

 くすくす笑っていたやすのだったが、急に


「そうそう! 実は紅葉ちゃんに頼まれているのよ。音羽ちゃんからも預かったんですって」

思い出した顔で言った。そして傍らにあった手許箪笥の引き出しを開け、小さな袋を取り出す。中身を掌の上へ出すと、転がったのは七つの銀の玉。見覚えのある銀の弾丸だった。


「アイツら、わざわざ返しに来たのか?」

 まさか戻って来ると思っていなかった柾樹が驚いていると

「きっと、子供なりに返さなくちゃいけないと思ったんじゃないかしら? 銀製の弾丸なんて、珍しいものね。それに鉄砲の弾なんて、持っているだけで怖かったのかもしれないわ」

やすのは言う。受け取った銀の弾を掌で転がしている青年に、やすのは尚もおっとりした微笑を浮かべて続けた。


「音羽ちゃん、とっても喜んでいたそうよ。お父様がご快復されたのは、お百度参りの他に、『このお守りが効いたの』ってね……。お兄い様にくれぐれも御礼を伝えておいてねって、紅葉ちゃん何度も頼まれたって話していたわよ。あの子それだけで満足しているみたいで、叱られたのも忘れた顔していたわ」


 やすのの話しに、聞いている柾樹は思わずふき出した。あのお百度参りが効いたのなら、相当気前の良い神々が、御利益を大盤振る舞いしてくれたことになる。


「結局、松木少将は入院しなかったのか?」

 病気快復を『御利益』で片付ける気が無い柾樹は、姉に尋ねた。


「ええ、もうお元気になられたみたいね。元々、鬼も逃げ出すと言われたほどの方ですもの。だけど大学病院の先生の勧めで、療養のためにしばらく御一家で箱根にお住まいになるそうよ。幻覚や幻聴を起こす神経衰弱には、こういう治療が良いんですって」

「へえ……」

 松木八郎氏は最新の設備が整った大学病院で、西洋仕込みの神経病学医師にかかっているとの事だった。


 医師の診断によれば、連日の激務で疲労が過度に蓄積した結果、意識と理性の箍が緩み、過去の辛い記憶が“亡者の行列”という幻覚や幻聴となって現れたのだろうということだった。そしてこういった病気の治療には薬を正しく服用する他にも、安静第一、酒煙草の自粛に加え、騒音を避け、海辺や山中など空気の良い所に移り住み、質素な食生活をするのが大切と助言もされたという。


「そうか」

 話しを聞き、柾樹は間の抜けた声と共に息を吐く。『百鬼夜行』などと呼ばれ、無闇におどろおどろしい発端で始まった松木八郎氏の騒ぎは、意外と静かな幕切れとなったようだった。


 他にもやすのは、柾樹が留守にしていた間の家の近況などを、あれこれ話している。でも柾樹は父の仕事が忙しい事や、よしのの買物三昧に関心が無い。上の空で傍らにあった風呂敷を見て、ふとある事を思いつく。包みを解いてケースの蓋を開け、古い拳銃を取り出した。


「ためしに撃ってみるか」

 ロバートがくれたガンケースには、銃を撃つために必要な品が最初から一揃い入っていた。拳銃自体は古めかしいものの、火薬などは使えそうである。装填を始めた柾樹を見て、やすのの顔が曇った。


「まぁ……随分変わった拳銃ねぇ……ここで撃つの?」

「何だよ?」

「私、大きな音はイヤなのよ」

「耳でも塞いでな」

 柾樹は薬室に火薬を詰める作業を止めることなく言う。意識は手元の拳銃に集中していた。構造は理解している。それでも油断は禁物であり、何より古い拳銃であるため神経を使った。


 この奇妙な拳銃は、回転式が出現する過渡期に製造されたものだろうと柾樹は見ている。誰かが試行錯誤して作った、おそらく世界に一丁の拳銃だった。備え付けられていた銀の弾も、この拳銃に合わせて作られたものと推察される。華美な外見といい、何のためにこんなモノを作ったのかは理解に苦しむところだった。それでも銀の弾丸などさすがに使った事が無いので、どんな感じになるのだろうと思っていた。


 やがてシリンダーを元に戻し、柾樹が的となる目標物を探しはじめたその時。


「柾樹……!? アンタ帰ってたの!?」

 家の奥から、聞きたくもない声が飛んできた。肩越しに振り向いて見ると、もう一人の姉が襖を開いた体勢で顔をひきつらせている。今日もまた臙脂色の地に金彩も鮮やかな更紗の総柄小紋を着て、髪には鼈甲の簪と派手なこと甚だしい。


「何しに来たのよ?! アンタがここに来たのが知れるとね、私たちがお父っつぁまに叱られるのよ!」

「そ、そんな言い方ってないでしょう、よしのちゃん……!」


 猛進してきたよしのを、やすのが慌てて押さえた。この剣幕だと伝法な次女は、また手近な物品に八つ当たりして破壊しまくりそうである。壊されてはたまらない。やすのに荷物を預けるのを諦めた柾樹は、古いピストルを袂へ入れ、風呂敷包みを掴むと縁側から飛びのいた。数歩離れたところで方向転換し、銀縁眼鏡を片手でずり上げる。


「それじゃあ、やすの。金は貰ってくな」

 庭へ飛び出しそうな妹を引き止めている長姉に、声を掛けた。よしのが目を剥く。

「イヤだ姉さん、またお金渡したの!?」

「だ、だって……」

「ああもう、どうして姉さんはそうやって柾樹の言うこと何でも聞いちゃうのよ!?」

 喧嘩を始めた双子の姉達へ

「じゃあな、姉さん達」

にやにや笑って言い残し、柾樹は元来た草叢の方角へ踵を返して駆けだした。


 昔からやすのは、柾樹が『欲しい』と言えば何でもくれる。けれどそれを特別ありがたいとも、嬉しいとも思っていなかった。くれるから、受け取るだけである。やすのから貰うものがお菓子やおもちゃだけでは足りなくなったのは、いつ頃だったろうと思った。


「あ、待って! 柾樹さん!」

「放っておきなさいよ! 全く、姉さんはアイツに特別甘いんだから……!」

 木々の向こうから聞こえる二人の声が、そう言い合っていた。

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