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わけ有り物件

 鈴は混乱していた。


――――どうしよう……すっごくハッキリ見ちゃった……。


 見間違いの疑惑と、いいや確かに見たという確信の間で頭の中は大騒動である。それでも蕎麦屋の娘は悲鳴ひとつ上げなかった。うろうろしながらも足音を忍ばせ、古道具屋の勝手口から裏戸の方へしっかり冷静に引き返す。鈴はか弱そうな見かけによらず、肝の据わった娘だった。とはいえ少し気を抜いたら、腰が抜けそうになっているのも事実だった。


 裏の木戸の前で振り返った鈴はもう一度、古道具屋の蔵の二階をそおっと見上げてみる。屋根に草を生やした黒漆喰の蔵は静まり返り、聞こえてくるのは周囲の木立に潜む小鳥の囀り。楠木の枝葉の間から覗く窓の内側には、真っ暗な闇しか見えなかった。さっきあの窓の内側を、真っ白な顔をした女が通り過ぎたのだ。


 ちらっと見えただけだけれど、女は黒髪を高く結い上げ華やかな打掛を纏っていて、まるでどこかの武家の姫君みたいだった。でも顔は血の気が失せたみたいに真っ白で、反対に瞳は真っ黒で、その目が異様につり上がっていた。目が合った気がするが、勘違いだと思うことにした。不気味な白い女は冷たい無表情のまま、窓の向こうをすうっと横切っていったのである。


 風呂敷包みを細い手できゅっと軽く抱くと、乾いた煎餅のこすれる音が聞こえた。両親に「届けておいで」と言われた鈴は、お使いに来たのだ。そして鼻歌まじりに古道具屋までやって来て裏の戸を潜り、建物の中へ声をかけようとした直前。特に意識もせず蔵を見上げたら、“見て”しまった。もう煎餅を届けている場合ではない気がする。


 数鹿流堂はあちこち開いているから留守ではないはず。でも家屋に人の気配もしないので、皆でちょっと近所に出かけているのかな……などと考えながら、鈴は半ば呆然と立ち尽くしていた。そこへ


「あれ? 鈴じゃないか」

背後から明るい声がかかる。「ヒャイー!」と飛びあがって半回転した鈴の視線の先に居たのは、長二郎だった。擦り切れた袴の貧乏書生は、書類を詰め込んだ風呂敷を右手に抱え、左手にコウモリ傘を下げている。鳶色の癖っ毛頭は、明るくにこやかな表情で客人に歩み寄った。


「……どうしたの?」

 自分を見上げる娘の様子がおかしいことに気付き、顔から笑みが消える。互いの目が合って、一呼吸後。

「た……っ、田上さん田上さん田上さんッ!!」

「なになになになにっ!?」

 おさげが青年目掛けて突進した。長二郎は慌てて受け止めようとするも、荷物で両手が塞がっていて受け止めきれない。鈴に馬力が有り過ぎたというのも、一因だった。


 勢いで二人は戸をぶち抜け裏路地まで飛び出し、長二郎は壁に激突して目を白黒させる。飛び出た先で鈴は状況を伝えようとするが、身ぶり手ぶりが先行するばかりで声が追いつかない。隣家の塀を背に、長二郎は視界より少し低い位置でてんやわんやしている鈴を面白そうに眺めていた。翻って蕎麦屋の娘は、そのうち頭の中が整理できた。


「あ……あのっ、今! 蔵の二階に、幽霊がいたんです……! 顔が真っ白で、打掛みたいの着て……何か、昔のヒトっぽいっていうか……お、女のヒトで……ッ!」

 呼吸を整え、途切れ途切れに事情を説明する。沈黙が広がり、二三度瞬きをした後。


「……なーんだ」

 呟いて、長二郎はつまらなそうに項垂れた。

「なーんだって……本当なんですよ?! あたし寝ぼけてませんよ?!」

「はいはい」

 長二郎は項垂れたまま、鈴の訴えに物凄くテキトーな相槌を打っている。書生の反応におさげ娘は頬を紅潮させ、握りしめた両手の拳を振りまわして懸命に訴えていた。


 すると長二郎が思いついた風に顔を上げる。手荷物を地面へ下ろし、たんぽぽ色の着物に包まれた鈴の肩に手を置いた。


「……あのね、鈴。この店の評判に関わることだから、口外しないで欲しいんだけど……」

 娘の顔を覗き込み、真剣に語りだす。長二郎の真面目な眼差しに、鈴は意表を突かれたような表情になる。普段どれだけふざけた顔しかしていないのかという話である。やがて青年は裏路地の向こうから人が来ないことを確認すると、声を潜め、勿体つけて話し始めた。


「弥助さんの話によると、この古道具屋、昔は料亭でね……女中が首をくくっているらしいんだ」

「え」

「料亭が潰れてからは芸者置屋になったそうなんだけど、その時には人殺しも起きててね」

「ええ!?」

「更にその後で茶屋になって、住んでいた娘さんの気が触れたっていう……」

「ええええええっ!?」

 建物にまつわる怪談奇談に、鈴は口を両手で覆い震え上がる。


 青褪めるおさげ娘の前で、語り部の長二郎は己が下宿にしている古道具屋に、改めて呆れていた。何と念入りなワケ有り物件だろう。今までそれほど意識していなかったけれど、よく考えると凄い。念入り過ぎるため、両国橋のすぐ近くという好立地にも関わらず、中野善五郎夫婦が買うまで誰も手を出さなかったのだ。


「ああ、それと、二ヶ月くらい前になるかな? これも弥助さんから聞いた話なんだけど……。僕らが今いるこの路地でも、通りすがりの芸者が女の幽霊を見たそうだよ。幽霊を見た後に寝込んでしまったとかどうとかって」

「……ッ!!」

 長二郎が深刻な表情を崩さずにそんなことを言うから、重ね重ねの衝撃で鈴は声も出なくなる。ようやく小さな声で

「そうだったんですか……」

と呟き、ぎこちない動きで何度も頷いた。鈴は息をのみ込むとちょっと心配そうな目になり、更なる小声で尋ねる。


「あの……皆さんは大丈夫なんですか? 古道具屋のおじさん達も……」

「どうだろうなぁ? 今のところ、恙無く暮らしているよ」

 鈴の問いに、長二郎はにっこり微笑んで答えた。ちなみに彼はさっきから嘘は一言も言っていない。


 いつもの笑顔に戻った長二郎につられ、鈴も緊張が解けたかホッとした顔をする。しかしすぐに先ほど“見たモノ”を思い出し、細い肩を縮めると言った。


「幽霊って、あんなにハッキリ見えるものなんですね……本物の人間みたいに見えて、もう吃驚」

「そりゃハッキリも見えるだろうね」

「はい?」

「ああいや、何でもない何でもない」

 手を振った長二郎は苦笑交じりに答えた。それから裏戸を開いて、顔だけ中に突っ込む。古道具屋の敷地内は静かなものだった。物音一つしない。


「それで、幽霊はどこで見たの?」

背後の鈴へ尋ねた。

「ま、窓の所です! 蔵の二階の窓から、こっちをじーっと見下ろしていて……」

肩を窄め、鈴は先ほどの状況を説明する。娘に言われた通り、長二郎は蔵を見上げた。


 聳える黒い建造物は、息を潜めるように深閑としている。窓の内部や周辺に動くものが無いのを確認した書生は、小柄な娘に向き直るともう一度微笑んだ。


「鈴。何か見間違えたんじゃないのか? 本音を言えば、僕は幽霊なんて居ないと思うよ?」

 あくまでも優しく、幼い子供を諭すにも似た口調で言う。だが見間違いではないという自信がある(そして事実として見間違えていない)鈴は、強く主張した。


「い、いますよ幽霊! 見たんですもの! そ、それにこの前お店に来たお客さんにも、『幽霊写真』ていうのを見せて貰ったんですから! その写真に、ちゃんと幽霊写ってましたよ? 生首みたいなのがっ!」

訴えるおさげ娘の顔は、真剣そのものである。


 近年、巷では『幽霊写真』と呼ばれる写真が持て囃されていた。写真は現実を写し取るので、そこに映っている幽霊も本物である、という説明付きで流通している。もっとも、多くの人にとっては本物か偽物かなどどうでも良く、見世物小屋を覘く感覚で『不思議』や『珍しさ』を楽しんでいるだけだった。しかし鈴のように芯から写真を信じ込み、真に受ける者も少なからずいる。


「それはたぶん写真屋の腕が悪かっただけだぞ? 逆にわざとそういう写真を作ったりもするそうだし」

 長二郎は言う。

「え? 幽霊写真を……? 作るなんて、そんなこと出来るんですか?」

「出来るさ。そもそも写真は人間が作ったんだもの。それを加工するくらい簡単だろ?」

書生の指摘に娘は「あ」と声を上げ、吃驚した顔になる。


「そ……そっか、あんまりよく出来てるから、あたし本物しかないとばっかり思っちゃって。そうですよねぇ、あははっ」

鈴は情けない笑顔の中で眉を下げる。


 嘘の写真なんてひどい! と怒るわけでもなければ、偽物を作る人間に呆れるわけでもない鈴の反応で、長二郎は少し拍子抜けた。それどころか初めて聞く話や技術に、感心している気配すらあるのだ。これだから危なっかしいんだよなぁと、小柄な娘を見つめて書生の若者は思った。こちらの話を全部信じ切っているこの子が、また何処かで誰かに騙されたら可哀想なので


「西洋じゃ、幽霊や霊魂の研究も熱心にされているそうだけどね。僕は成果に懐疑的だよ」

小さな親切心から、そう教えてやった。話を聞いた鈴は、再び目を瞠る。

「田上さん、異人さんの言葉だけじゃなくて、そんなことまで知ってるんですか」

「うん? あー、外国の本や英字新聞なんかも読むから、自然とね」

「すごーい……」


 鈴は頬を高揚させると溜息に似た息を漏らす。小学校も三年しか通っていない鈴にとって、異国の文字や書物の読み書きをするなど、魔法に等しく感じられるのだった。でも当の長二郎は鈴のきらきらした尊敬の眼差しを避け、明後日の方角へ視線を泳がせる。彼は人から褒められると居心地が悪くなってしまうという、悲しい性分の持主だった。


「ま、幽霊の居る居ないはともかく。今日はもう一旦お帰り。気分を変えて、またおいで」

 鈴に促し、照れ隠しとも違う笑みを向ける。書生の言葉に、「はい」と頷いた蕎麦屋の娘だったが

「あ、あの……でも、やっぱり、一応、気をつけて下さいね」

しつこくしては悪いと思っているようで、遠慮がちに言った。そんな鈴の態度に長二郎の顔が、にやーと崩れる。


「僕に何かあったら、鈴が骨を拾ってくれる?」

 悪戯っぽい口調で尋ねた。

「や、やめてくださいっ。冗談でもそういうの、嫌いです!」

「わははは、怒られたー」

 怒る鈴の答えを聞いた長二郎は、満足そうに笑う。それから娘が大事そうに抱えている風呂敷包みを差し、ずっと気になっていた事を指摘した。


「ところで、それ何だい?」

「あっ! そうだ! 持って帰るとこだった! あの、これお煎餅です。この前、うちのお父っつぁんの手紙を代筆して頂いたお礼に!」

 本来の目的であるお使いの品を、鈴は大急ぎで取りだした。幽霊のせいで、頭からすっぽり消えていた。差し出された煎餅入りの紙の包みを受け取ると、長二郎は鳶色の癖っ毛の下でにこにこする。


「気にしなくて良かったのに。でもありがとう、後で頂くよ。……お、そうだ。蔵にもお供えしておこうかな? 鎮まり給えー! って」

「またそんなことばっかり言って……!」

拝む仕草をしている長二郎に


「今に何かの罰が当たりますよ!」

と言う娘の方が慌てていた。

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