相談
「“耳切れうん市”のようでございますね」
雪輪の第一声は、これだった。
蔵の二階に隠れ住んでいる娘は、今日も小刻みに震えながらもきちんと正座している。その震える膝の前には、昨日柾樹がニコライ堂でロバートから受け取った古い拳銃が置かれていた。
姪っ子達を送り届けに行くだけだったはずの外出で手に入れた、思わぬ拾い物。今日になってふと思いついた柾樹は、下宿の蔵へその拳銃を持ち込んだのだった。尚、紅葉と音羽はニコライ堂を出てすぐ、お嬢様を探し回っていた門番の与八郎にばったり出くわし引き渡したので、無事に屋敷へ収監されたことだろう。
「良い品だと思うか?」
柾樹は腕を組んで尋ねた。だが古道具屋で一番の目利きとされている娘は無言である。切れ上がった目で銀色の銃を見つめ
「お返しになられた方が、宜しいのではございませんか?」
大した感動も無さそうに答えた。良いとも悪いとも言わない。銃に触れようともしない。そんな雪輪の傍らでは仕上がり間近の繕い物と裁縫箱(古道具屋の備品)が、仕事の続きが始まるのを待っている。柾樹は雪輪の答えが期待していた回答と違っていたため、小さく失望した。
「俺に指図すんな」
言って、古い拳銃を自分の方へ引き寄せる。しかしぶっきらぼうな態度の裏側で、ちょっと感心していた。自分でも、この奇抜な拳銃が何かに似ている気はしていたのだ。言われて『それだ』と、しっくりきた。
細かい文字に似た模様がくまなく彫り込まれている拳銃の姿は、なるほど『耳切れうん市』に似ている。昔話などを殆ど聞かずに育った柾樹も、“体中に経文を書いて亡者から逃れた座頭の話”という、この物語の大筋は知っていた。
その時、蔵の階下でガタゴト扉を開く音が聞こえる。次いで階段を慎重に上ってくる軋んだ音がして、二階へ顔がひょっこり出てきた。千尋だった。「よう」と言った柾樹の声に、千尋の「あれ?」と驚く声が重なる。階段口からせり上がるように出て来た大きな身体は、片手に風呂敷包みを下げていた。
「お前どこから入った?」
「そこ」
千尋の質問に銀縁眼鏡の指が指差したのは、開けっぱなしになっている蔵の窓。窓の外には楠木の枝葉が広がり、葉の隙間から灰色に濁った淡い青空が見える。
「変な所から入るなよ」
「うるせーな、下の戸は開けるの面倒だろ」
少々建てつけが悪い扉に対する柾樹の言い草に、蔵の鍵の持ち主は苦笑していたのだが、急に口を真一文字に結ぶ。千尋の目は雪輪の前にある、見慣れぬ古い拳銃に釘付けになっていた。精悍な顔が青くなる。
「何やってたんだ」
座るのも忘れて尋ねてきた。
「何だっていいだろ」
「いや、良くないだろ……それ、本物だよな? どこから持ってきたんだ」
「貰ったんだよ、外国人に」
「貰った? 買ったんじゃなくてか? 何をしたらそんなことが起こるんだ?」
「ニコライ堂で犬の鳴き真似すりゃいいんだよ」
「は?」
千尋は顔中疑問符だらけになっている。
仕方がないので柾樹は昨日、紅葉たちを連れてニコライ堂に立ち寄った経緯と、そこで出会った亜米利加人とのやり取りについて説明してやった。板敷きに胡坐をかいて一部始終を聞いた千尋は、事情を一通り理解はしたものの
「こんな薄気味悪い物、よく受け取る気になったなぁ……もし呪われた拳銃とかだったらどうするんだ?」
ゲテモノを見るときの眼差しを拳銃に向けて言う。
「だったら面白ぇなー」
柾樹は気にも留めず銀色の拳銃を手に、呑気に答えた。
最初は柾樹とてこの拳銃を薄気味悪いと思っていたが、『悪霊退治』の話を切欠にロバートの説明を聞いていたら何だか面白そうな気がしてきて、結局受け取ってしまったのである。あの外国人は実に駆け引き上手だった。そして慣れてみれば、この銃も中々味がある。元々火器の類は好きなのだ。
「それで、その銀の弾丸とやらは?」
千尋は話に出てきた『退魔の弾丸』に興味をそそられたか、尋ねてくる。が、
「あー、あれは紅葉の友達の、音羽とかいうガキにやった」
平然と柾樹は答えた。
「ええ? 良いのか? あんな小さい子供に、拳銃使わせるなんて危ないんじゃ」
「『鬼が出たら豆みたいに撒け』って言っておいたから大丈夫だろ」
「節分かよ……」
火薬臭さが一気に減退し、大柄な青年は肩から力が抜けている。
拳銃の引渡しがすんでロバートが出て行った後、教会の前に戻ってきた少女達は
『兄さま何貰ったの?』
『見せて見せて!』
と大騒ぎだった。一目見なければ収まらない勢いだった。そして紅葉は銀の弾丸の話しを聞くと、自分が音羽の父親を悩ます百鬼夜行を退治すると言い出し、拳銃自体を欲しがったがいかにも危ない。そこで柾樹は紅葉と音羽それぞれに、『お守り』として弾丸だけ渡してやったのだった。丸い玉の形をした弾は、撒くのにちょうど良さそうである。
「しかし松木少将が『百鬼夜行』に遭ったって話が、本当だったとはなぁ。てっきり新聞の作り話だと思っていたが」
項垂れていた顔を上げ、千尋が感心した風に言った。
「白岡は知ってたのか?」
「ああ、たしか先週の新聞に載ってたぞ。部屋に新聞置いておいたんだが、読まなかったか? 夜中の道端で亡者の行列に鉢合わせて、それ以来寝込んでいるんだよ」
千尋は事件のあらましをそう説明してくれた。
松木少将に関する記事が新聞に載っていたのは、今より一週間以上も前のことだった。軍の高官が亡霊で寝込んだなど外聞が悪いにもほどがあるため、関係者は話の火消しに躍起になっていたもののこういう話ほど面白がられ、漏れやすいものである。
「松木少将と一緒にいた御者の話しだと、雨の帰り道で馬の機嫌が悪くなったと思ったら、突然少将が何かに脅えだして、馬車を動かすなと騒いだそうだ。不思議に思いながらも御者は馬を停めて大人しくしていたわけだが、今度は妙に静かすぎる。声をかけても馬車の中から返事が無い。そこで扉を開けてみると、主が気を失っていたという……屋敷に担ぎ込まれてからも、死んだ故郷の人々の名を呼んでうなされているそうだぞ」
そこまでの話しを聞き、柾樹は首を傾げた。
「どうしてそれが百鬼夜行なんだ? 『百鬼』なんだろ? 鬼が百匹出てくるんじゃねぇのかよ?」
「これによく似た昔話があって、それが百鬼夜行と言われてるんだよ」
「ふーん、どんな話なんだ?」
「え? どんな? えー………ど、どんな話でしたっけ?」
柾樹の質問を引き受けきれず、横に投げてきた千尋の問いへ
「……恐らく『大鏡』にございます、九条殿のお話かと存じます」
雪輪が代わりに回答した。
「内裏から牛車で屋敷へお帰りになる道中、百鬼夜行に遭うたというお話でございます。供をしていた随身には鬼を見ることが叶わなかったという所も似ておりますゆえ、この事件も百鬼夜行と言われるのでございましょう」
「そうそう。そういう事だ!」
娘の説明に千尋は嬉しそうに頷いてから、思いついた顔で疑問を口にした。
「本当に百鬼夜行が“見えた”んだろうか?」
真剣そのものな友人の問いを、柾樹は軽く笑った。
「どうせ何かの見間違いだろ」
「だが御者は何も見えなかったと言ってるんだぞ? 『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』とは言うが、見間違える枯れ尾花も無いなら、間違えようが無いじゃないか。なぁ?」
千尋は同意を求めて、再び雪輪の方へくるっと視線の方向を変えた。
――――え、また?
と言わずとも、雪輪の極僅かな目の動きはそう言っていた。沈黙が三秒あった後。
「神経衰弱ではございませんか」
過剰なほどの落ち着きで、雪輪が口を開いた。
「口幅たいことを申しますが、人の記憶や思考を司るものは、大脳であると聞いたことがございます。御一新以来、文明の進歩により学問から労働まで、様々な事が複雑となりました。更に一層世に尽くさんとするお方であれば、脳神経の活動する事、甚だしゅうございましょう。いかに軍人で心身を鍛練しておりましょうとも、知らず積み重なりました疲労により神経が衰弱し、脳が記憶を幻として見せるという事も、起こり得るのではないかと存じます」
何という理論的且つ、合理的な回答。千尋も柾樹も、口を半分開けて雪輪の話を聞いていた。書生の彼らより、蔵住まいで学校も行った経験が無いこの娘の方が、よほど色々なことを知っているのではないかとすら思われた。これでは書生たちの存在理由がピンチである。だから、というわけでもないけれど
「それで白岡は何しに来たんだ? 雪輪に用があったんじゃねぇのかよ?」
「あ、そうだそうだ。ピストルに気を取られて忘れていた」
何も無かったように話題が変わった。
「午前中に、袋田さんが尋ねて来たんだけどな」
「今度は何を預かったんだ」
「え? よくわかったな」
柾樹の先回りに、千尋は驚いている。それから持って来た風呂敷包みを、太い指で丁寧に開いた。包みから現れたのは、女物の赤い小袖。
「何でも、『静御前の小袖』だそうだ」
「偽物だな。絶対偽物だな」
せめて白い水干くらいは持って来て欲しかった。柾樹に言われ、千尋も苦笑いする。
「まぁ古手だが、静御前ほど古くはないよなぁ。たぶんどこかの家で、大切にされてきたんだろう。嫁入り道具の一つだったのかもしれん……それであの、雪輪さん。着てみませんか?」
着物を手に、千尋が申し出た。
「何だって急に?」
無表情のまま動かない雪輪が返事する前に質問した柾樹に対し、千尋は真顔である。
「え……? いや、別に。ただ、似合うだろうなぁと」
どうやら本当にそれだけの理由で持って来たらしい。小袖は見るからに古々しい品だった。とはいえ赤い色は今尚鮮やかで、金糸もふんだんに用いられている。間違いなく品は良さそうだった。
「わたくしなどには、勿体のうございます」
指先を床につき、雪輪は静かに辞退の意を示した。千尋は残念そうな表情になりながらも、何故か雪輪に強く出られない。
「そ、そうですか……」
大人しく呟いて黙り込んだ。二人のやり取りを見ていたというか、見るに見かねたというか、そういう感じで柾樹が再び口を挟む。
「羽織るだけ羽織ってみろよ。白岡も売りつけようってワケじゃねぇんだろ?」
「そりゃあ勿論」
千尋は大きく頷いた。柾樹にぽんぽん軽く言われても、雪輪は答えずじっとしている。でも千尋と性格が反対の柾樹は、娘の沈黙を『拒否』ではなく『許可』と受け取った。無遠慮に鷲掴んだ小袖を、「ほら」と雪輪の前に差し出す。強引な柾樹の態度で観念したのだろう。雪輪は震える白い指を伸ばすと、差し出された小袖を受け取った。
しかし小袖を膝に載せた途端。雪輪の黒い瞳は中空を見つめ、ぴたりと動かなくなってしまった。小刻みに震えてはいるけれど、ねじが切れたかと思うほど動かない。
「……? どうした?」
「雪輪さん?」
柾樹と千尋が交互に声をかけると
「あ……」
彼らの声で、正気に戻ったみたいに雪輪の目の焦点が戻った。「いいえ」と短く答え、いつもより少し慌てた風に小袖を羽織る。娘が小袖を羽織ると柾樹は
「よし、立ってみろ」
今度はそう促した。雪輪は蔵の窓を背にして素直に立ちあがる。実際に羽織ると、小袖の見事さがよくわかった。白の綸子地を埋め尽くす赤い雲。その上には美しい四君子の花々が咲き誇っている。雪輪の墨より黒い黒髪に、古色蒼然とした小袖の赤い色と模様は恐ろしく合っていた。何を着ても無駄に凄味が増してしまうのは、もう仕方が無いとして
――――何か、武家屋敷の奥から出てきそうな……。
と考えた柾樹は、そこで気がつく。
ほんの少し時代が違っていたら、これが雪輪の通常の姿だったかもしれない。高禄旗本の娘として、武家屋敷の奥で水仕事も煮炊きもすることなく暮らしていただろう。柾樹などとは、おそらく一生涯顔を合わせる機会も無かった。それがどう、という事でもない。ただ、古い時代の着物が似合うこの娘は、生まれる時が一足遅かったのだなと思った。
「うん、やっぱりだ。きっと雪輪さんには合うと思ったんだ」
呉服屋の息子は、自分の見立てが間違っていなかったことを確かめて至極満足そうである。だが屈託の無い千尋の褒め言葉を横で聞くほどに、柾樹の腹の底で天邪鬼が俄かに暴れ出した。
「前々から思ってたけどよ。お前その頭の紐、どうにかならねぇのか? 維新の志士じゃあるまいし……」
「おい、失礼だろっ」
雪輪の髪を括っている紫の紐へ、野次を飛ばし始める。千尋の方が慌てて叱った。これで雪輪にも少しくらい落ち込んだ素振りがあれば、柾樹の方も黙っただろう。しかし
「他に持っておりませんので」
真っ白な顔の娘は、いじらしさの欠片も無い口調で返してきた。しかも雪輪は立っているため、成り行き的にまるきり見下す形になる。おかげで柾樹は習性として引けなくなった。
「そんな変な紐付けるくらいなら、いっそ何も付けるなよ。それとその簪も古臭ぇなぁ。売って金に変えたらどうだ?」
銀縁眼鏡はとにかく言い返す。言い返す事に意味がある。すると雪輪の真っ黒な瞳に、うっすら水色の影が差した。
「これは手放してはならぬと、生前父母が申しておりましたので……」
無口な娘が珍しく、自身の身の上に関する事を口にした。俯いた肩を漆黒の髪が流れて落ちていく。不意打ちで、書生二人は静かになった。雪輪の人生について詳しく知らない彼らも、家も家族も失ってこの玉簪一つが雪輪の手許に残っているとは想像出来た。
「あ、あの、俺は絶対持ってた方がいいと思いますよ! 売る必要なんか無いですよ! あれだ。藍色の玉なんて珍しいですね! 透き通って、色も綺麗じゃないか。柾樹もそう思うだろ?! な?! な?!」
「んあ? おお……」
わたわたしている千尋に巻き込まれ、柾樹までうやむやと返事した。そんなうろたえている彼らを見るでもなく、当の娘は窓の向こうの下界へ視線を向けている。
……と、思ったら。
雪輪が急に歩き始めた。ゆっくり窓辺を横切ると、窓の陰に入った所でストンと垂直に着座する。動きがおかしい。
「何だ?」
何をし始めたのかと柾樹が吃驚して尋ねると、小刻みに震える娘は血の気の無い真っ白い顔の中。僅かに眉根を寄せて答えた。
「人に見られました」
「げ」
男子二名は小さく叫び、同時に窓の方を見る。けれど彼らの位置から見える外界にあるのは楠木と、湿った灰色の空だけだった。