表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/164

ニコライ堂

 煉瓦と石の白い壁に、銅板で葺かれた八角形のドーム。天を突き刺す高い鐘楼。屋根の上には祈りの家の象徴たる十字架が乗っている。マッチ箱のような家々を従え坂の上に立つ美しい建物は、まだ周囲の景色と馴染みきっておらず大変に目立つ。そのため浅草の十二階と同様、ちょっとしたランドマークになっていた。


 この聖堂は建立に尽力した司祭の名から『ニコライ堂』と呼ばれている。でも柾樹は建物の愛称も正式名称も、聖堂が建つまでに反対派の運動があったことも知らない。興味が無い。おかげでこの建物も『最近出来た馬鹿でかい教会』という、そういった程度の認識だった。


 坂を上った先に建つ聖堂に到着した三人だったが、門前は閑散として風と鳥の声がするのみである。


「今日はお休みなのかしら?」

 音羽が心配そうに言った。でも門をくぐった先で、掃除をしている女を見つける事が出来た。


 客人の声に顔を上げた女は髪を銀杏返しに結い、眉が太くて達磨を思い出させる顔をしていた。体格も骨太で中々見かけないほど分厚い眼鏡をかけ、質素な木綿の着物を着ている。見学者達をじろりと見返す様子から、頑固でとても話しなど通じなさそうに見えた。


 しかし達磨風の女は書生と二人の少女から「お参りをしたい」という旨を聞くと、ここでお待ち下さいと丁寧に言い置いて建物の中に入っていく。そして次に出てきた時には、入る許可を得て来てくれた。ちょうど礼拝堂の清掃が終わったところだったという。紅葉と音羽は大喜びで歓声を上げ、女に続いて礼拝堂の中へ駆け込み柾樹もそれに続く。


 中には席に座っている外国人の男性一人と、主教の老人がいた。老人はやや縮れた白い顎鬚を蓄え、風雪に耐えた古木そっくりの相好を静かに和らげ「コンニチワ」と言うも、それ以上こちらへ構う風は無い。黒衣に覆われた首には、丸いペンダントに似たものと十字架を下げていた。


 教会の内部へ導いてくれた女は、

「お堂ではお静かになさってください」

「奥にある柱より向こうに入ってはなりません」

など、いくつかの注意を述べる。そうして柾樹が賽銭のつもりで渡した金を受け取ると、主教と共に礼拝堂から出て行った。


 物珍しさで紅葉と音羽はお百度参りもそこそこに、早速あちこち見物し始める。柾樹も礼拝堂の入り口付近に佇んだまま、ぐるっと内部を見回した。床には絨毯が敷かれ、正面には祭壇と黄金のイコンが並び、白い円柱に導かれて見上げた頭上には天空を思わせる高い丸天井。信者ではない身にこれらの有難さはよくわからないが、わからないなりに美しいとは思った。


 少し離れた場所では少女達が礼拝堂に並ぶ椅子に座り、何やら楽しそうに小声で喋っている。窓の向こうの景色は灰色で、また雨が降ってきそうな気配が漂っていた。


 と、佇んでそれらを眺めていた柾樹の背後に、微かな足音が近づいてくる。


「ん……?」


 見返ると礼拝堂外に黒い毛玉がいた。真っ黒な犬だった。小さくて痩せた犬である。耳は三角で、ふさふさした尻尾が左右に揺れていた。どこから来たのだろうと思った柾樹の目と、犬の円らな目が合った。次の瞬間


「キャン!」

突然、犬が吠えた。キャンキャンキャンキャン! と間断なく吠える犬の声が壁から壁へ反響する。鳴き声で紅葉たちだけでなく、席に腰かけていた外国人の男性までもが入口の柾樹へ視線を向けた。


――――俺のせいじゃねぇよ!


 注目の的にされた柾樹は、言いがかりをつけられた気分になる。

「うるせえ!」

 怒鳴りつけ追い払おうとするが、犬は怯むどころか一層吠え続ける。朝の庭の牛といい、今日は黒い動物に絡まれる日なのかと思った。だんだん腹が立ってくる。

「ワン! ワンワンッ!」

 柾樹が吠え返すと、それまで鳴きやまなかった犬が急に静かになった。勝ったと言えなくもない。その代わり

「柾樹兄さま、犬みたーい」

「お兄いさま、おもしろーい」

少女達にケタケタ笑われた。これもまた屈辱的である。柾樹が紅葉たちに気を取られた隙に、黒い犬は逃げていった。蝙蝠傘を振り上げた紅葉と音羽が、「まてー!」と叫んで犬に続く。


「おい、あんまり遠くに行くんじゃねぇぞ!」

 犬を追いかけていく姪っ子とその友人に声をかけ、柾樹も礼拝堂を出ようとした時だった。


「Excuse me!」

 誰かが、柾樹に声をかけてくる。

 見ると礼拝堂の中にいた外国人男性が席を立ち、歩み寄って来た。椅子に座っている後姿しか見えなかったので気付かなかったが、男は柾樹よりも背が高く、顔も全体的に細くて長くてガス灯みたいな印象を受けた。いかにも西洋人らしい彫りの深い顔立ち。白い肌に栗色の髪。髪と同じ栗色の右目と、灰色に近い水色の左目を持っていた。

 声を掛けられた柾樹は無意識に、身体の芯だけ臨戦態勢に入る。すると


「『こんにちは』……いや、こういうときは『ご無礼仕ります』と、言う方が良いのでしょうか?」

ガス灯は大層流暢な言葉遣いで話しかけてきた。予想外の気さくな態度に驚いた。


「どっちでも間違っちゃいねぇよ」

 眼鏡の若者の何食わぬ顔の返答に

「それは良かったです!」

男はキュッと口角を上げる。笑顔も朗らかで、軽侮や攻撃性は感じられなかった。


「日本語が話せるのか」

 東の海に浮かぶ島国の言語を、これほど滑らかに話す外国人は初めて見た。柾樹の驚きに対し

「人を驚かせるのが好きなものですから」

男は明るく答え、人懐こい表情を浮かべる。


「驚かせて申し訳ありません。少しお聞きしたい事があるのですが、構いませんか?」

 やや早口ながら、男はテキパキ喋った。こちらを見下す素振りも無い。歳若い柾樹に対しても礼儀正しいので中々気に入り、青年が「ああ」と了承すると

「今、貴方は犬の鳴き真似をしましたよね? Bow Wow! って」

栗色の髪の男性は尋ねてきた。


「……したよ。だったら何だってんだ」

 恥ずかしいやら不愉快やら。柾樹は苦々しい表情で答えた。対する男性の顔からは今までのにこやかさが消え、両手を広げて小さく呟き天井を仰いだ。

「Oh my God!」

 胡桃の形の丸い瞳が柾樹の方へ降りて来て

「貴方だったようです」

栗色と水色のオッドアイが微笑み、そう告げた。話しの見えない柾樹の前で男は一呼吸置き、再び朗らかな表情に戻って言う。


「遅くなりました。私の名前はロバートと申します。『ロバート・マックフォード』と申す者です。亜米利加のバーモントという所から来ました。友人たちと、貿易会社をしています」

 手早く的確に、自らについて説明した。独特の抑揚は騎馬の行進のようで、ただの自己紹介までもが楽しい話題に聞こえてくる。「お名前は?」と尋ねられ柾樹が「相内」と名乗ると


「それではアイウチさん。貴方は神を信じますか?」

ロバートと名乗った男性は唐突な質問を向けてきた。


――――何を言い出しやがるんだコイツは。


 柾樹が明らかに迷惑そうな表情に変わったのを見て、ロバートの細長い顔が微笑する。


「貴方が西洋オクシデントの神を信じていても、いなくても、私にとって問題はありません。しかし神を信じている方が、これから私が話す事を理解しやすいかもしれないと思ったものですから」

軽快に述べるや、くるりと背を向け

「貴方に見てほしいものがあるのです」

そう言って、さっきまで座っていた椅子の下から平たい木の箱を持って来た。ガンケースに似ていると思いつつ眺めていたら


「拳銃を扱った事は?」

と問われる。本当にガンケースだった。こんな所で何を始める気だという一種の気味悪さを抱えたまま、柾樹は無言で懐の銃を少しだけ見せる。拳銃を一目見て「Lefaucheuxルフォシオ!」と小声で叫んだロバートは、器用に片方の眉を上げて明るく笑った。


「では、これも扱えるかもしれませんね」

 言って、大きな手が木箱を開く。中には赤いビロードが敷かれ、パウダーフラスコなどと共に拳銃が一丁収まっていた。古めかしいその拳銃を見た柾樹の顔が歪む。


「何だコレ…………気持ちわりぃな」

 他人の持ち物に対して酷い感想だが、他に言いようがなかった。

「これを見ると皆、そう言います」

 ロバートの方も気を悪くした様子は無い。拳銃を取り出すと、手渡してくれた。受け取った柾樹は一応弾が入っていないかを確認する。そしてしかめっ面のまま、奇妙な拳銃を眺めた。


 鈍い銀色に輝く五連発リボルバー。やや小振りで全長は三十センチ弱といったところだった。女の腰のように張ったグリップと丸みを帯びた全体のシルエットが、俗にペッパーボックスと呼ばれる多銃身拳銃を思わせる。それでも仕組みは一応、パーカッション式になっている。こんな変なピストルは初めて見た。しかし形状以上に目を引くのは、拳銃に施されている彫刻だった。こういった彫刻はエングレーブと呼ばれ、美しく飾り立てた拳銃自体はそれほど珍しくない。だがこの拳銃の彫刻は、度が過ぎていた。


 二ミリくらいの細い文字か記号に似た黒い模様が、銀色の銃全体にびっしりと彫刻されている。おそらく魚や芋虫や人間を極限まで単純化したものであり、他には丸や線の幾何学模様。それらがグリップやバレル部分だけでは飽き足らず、トリガーや銃口にまで刻みこまれている。細い線で描かれたそれは、小さな虫が拳銃の表面を埋め尽くしているように見えた。どれだけの手間と時間を掛けて彫刻されたのかを思うと、殆ど狂気を感じるほどである。更に銃の所々には、色とりどりの小さな丸い石が嵌め込まれていた。


「ヒエログリフのようだと言われたことがあります」

 ロバートは模様について説明した。でも柾樹は『ヒエログリフ』なるものを知らない。シリアルナンバーやそれに該当するものがどこにも無い事の方に気をとられつつ、「ふーん」という返事で片付けた。


「昔、父が手に入れてきたものと聞いています。それ以上の詳しい事はわかりません」

「アンタの親父は、寺の坊主か何かだったのか?」

 この教会という場所と、古い拳銃が発するどこか『浮世離れ』な気配から連想して柾樹が尋ねる。青年の質問に、オッドアイが陽気に笑って答えた。


「とんでもない。神の膝から、もっとも遠い場所にいる人でしたよ」

 明るさの中へ、無慈悲な言葉が平然と出てくる。ロバートはガンケースを長椅子の上に置くと腕を組み、椅子の背に凭れた格好で話し出した。


「父は私が子供の頃に死にました。母も二年前に死にました。母は長い間、病気だったのです。その母が死ぬ前の日、ベッドの横に私を呼んでこう言ったのです。『ロバート。私が死んだ後、あなたはきっと東の国へ行くでしょう。そしてそこで教会へ行って、犬のように吠える人にこの銃を渡すの』……」

 母親の口真似か、芝居じみた口調で思い出を述べた異国の男性はそこで一旦止まる。


「『これは聖霊の言葉よ』……てね?」

 勿体ぶった大仰な真顔で、そう締めくくった。

「ヘ、『お告げ』ってヤツか?」

 ロバートの昔話に柾樹は苦笑いする。こういう話を聞くのも、最近はすっかり慣れた感があった。ただ、文明が進んでいるという西洋にもこの手合いはいるのだなとそこを少し意外に思った。


「で?」

 先を促すと、商売人風の男もまた苦笑気味に笑って言う。

「御覧の通りです。『東の国の教会』で、『犬のように吠える人』が現れました。だから貴方にこれを差し上げたいのです」

 話の流れからしてそう言い出すんじゃないかと予想していたけれど、まさか本当に言うとは思わず。突拍子もないことを申し出てきたロバート氏を前に、柾樹は驚きよりも呆れる気分が勝った。


「俺に? 本気かよ?」

「無理にとは言いませんが……ああ、もちろん代金オアシはいりません」

 そう言う男を眺め、柾樹はつくづく西洋人の考えることはわからないと思った。

「減るもんじゃあるまいし、持っときゃいいじゃねぇか」

 軽くそう言うと、栗色の髪の男性は首を横に振った。


「正直に申し上げますと、持っていたくないのです。他のモノも手放しました。両親の使っていた食器や家や、土地も全て。残っているのはこのピストルだけなのです。アンティークとしての価値はあるかもしれないと思ったのですが、どこへ持って行っても気味が悪いと言って引き取ってもらえませんでした。かと言って、ゴミとして捨てるのはさすがに気が引けると言うか……」

 いかにも難儀しているといった顔で、広い肩をすくめてみせる。


「親の遺言で、ここに持ってきたんじゃねぇのかよ?」

 柾樹は訝しげに尋ねた。するとロバートは、また一段と明るい表情になって答える。


「まさか! ただの『なりゆき』ですよ。仕事の都合で時間が空いたので、物見遊山に来たのです。そこで人力車の車夫に、どこか面白いところはないかと訊いたら、この教会を案内されました。そうしたら貴方達がやって来た。恐ろしいほどの『偶然』ですが、それだけのことです」

 茶色と氷色の目をした外国人は陽気に語り続ける。ロバートの話しを聞いていた柾樹は、疑り深い眼差しを向けた。


「ここまでわざわざ拳銃持ってきておいて、『偶然』でもねぇんじゃねぇか?」

 その言葉に虚を突かれたか、背の高い男性は口を噤む。やがて少し身を屈め、柾樹の目の底を覗き込んだ。

「アイウチさん。もしかして私がこれを全て仕組んだと思っていますか? たとえばさっきの犬を用意したりして? いいえ、私は嘘はついていません」

 しかしロバートの主張を聞く書生は、尚も銀縁眼鏡の奥から相手を睨み返している。疑惑を解かない柾樹の態度で、男性は諦めたのか深く息を吐いた。


「私は母の言葉は全て間違いになるだろうと、そう思ったからこのピストルを持ち歩いていたのです。こういうのを、この国では『アテツケ』と言うのでしょう? 予想は外れて、貴方が来てしまいましたが……」

 比較的朗らかにそこまで言うも

「もうたくさんです。聖書も、聖霊も」

微笑んだ瞳の中には、今まで無かった影がゆれていた。


「それでもこれで母の最後の願いを叶えたと思えば、私も少し気が楽になります。もっとも私は母の“見た”ものが、聖霊だったとは考えていません。母は夢を見ていたのでしょう。聖霊はそんなに簡単に人間の前へ現れたりしないものです。それにもしあの人の前に現れたのなら、それは聖霊ではなく『悪霊』でしょう」

 おどけた仕草で大きな目を見開き言った。わざとらしくて、これも芝居がかっている。


「妻や友人たちとも話していたのです。もちろん冗談としてですが。きっと悪霊が母を連れて行こうとベッドサイドへ来たらこのピストルがあって、連れていくのに邪魔だった。それで聖霊のふりをして、ピストルを手放させたんだろうとね」

 ロバートはおどけずにいられないのか、まるきり『オバケだぞ!』と子供を脅す時の動作で話し続ける。


「へぇ……拳銃で悪霊退治が出来んのか?」

 彼らの発想に意外性を感じ、柾樹は言った。昔話や芝居に出てくる悪霊退散の作法と言えば、読経やお札のイメージである。拳銃で悪霊を退散させるなどとは、考えた事も無かった。驚かれたことに驚いたようで、ロバートは細長い体を折り曲げ再びガンケースを開くと、熱心に説明し始める。


「ああ、ご存知ありませんか? ここに弾丸があるでしょう? これは銀で出来ています。銀の弾丸は魔物を打ち倒したり、退治することが出来るという迷信があるのですよ」


 そして木箱の隅にある袋から取りだしたのは、銀の丸い弾丸だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ