お百度参り
表の戸を叩いていたのは紅葉だった。
目印の大きな赤いリボンをおかっぱ頭にデンと乗せ、手には小ぶりのコウモリ傘。足には舶来物のブーツ。臙脂色の着物で、肩には丈の短い赤マントまで羽織っており、薄桃色の帯がひらひらしている。母親であるよしのの趣味なのだが、紅葉の身なりは普段からこの調子でとにかく目立つ。
柾樹はあまり感心していない。でも逃亡癖がある紅葉を(与八郎が)見つけやすいし、着ている本人にも嫌がっている様子が見られないから、まぁ良いかと思っている。それに柾樹とて、派手好みについてどうこう言える外見でもなかった。
「あっ! 柾樹にいさまだぁー!」
表に出てきた叔父の姿を見つけ、大喜びで飛びついてきた姪っ子。兵児帯にしがみついてきた小さな娘は、びっくりしている柾樹を見上げ尋ねた。
「兄さま、どこから出てきたんだよ? ここのお玄関、使ってないの?」
「裏口使ってるんだよ。そんなことより、お前どうしてここがわかった?」
「大山さんに聞いた」
「あンの野郎……」
『小さいお嬢様』を猫可愛がりしている大山が、ねだられるままペラペラ喋ってしまったらしい。
「で、何しに来た?」
「ん? べつに? 兄さまがちっとも帰って来ないから会いに来たんだよ。ねぇ一緒に帰ろうよー」
「紅葉……もしかして大山にそう言えって言われて、大福でも貰ったんじゃねぇだろうな?」
「え~……? 紅葉わかんなーい!」
けらけら笑って纏わりつく姪っ子を片手でいなしつつ、銀縁眼鏡の書生は溜息が漏れた。何気なく視線を上げると、少し離れた場所で紅葉と同じ年頃の少女が佇んでいるのが目に入る。じゃれつく紅葉の数歩後ろから、大人しくこちらを見つめていた。
艶やかな黒髪が真っ直ぐ肩まで伸びており、子供らしい曲線のふっくらした頬と桃色の唇。切れ長の潤んだ瞳は市松人形のようで、手鞠の画が入った上品な鳥の子色の着物が似合っていた。柾樹と目が合っても黙ったまま、ちりめんの赤い花柄巾着を手にちんまりと立っている。
「あ! あのね、この子は紅葉のお友達で、音羽ちゃんていうんだ!」
そのうち紅葉に引っ張られてきた少女は、そこでようやく
「松木音羽です」
と、小さな声で名乗ってお辞儀した。二人は学友であるという。「そうか」と答えて柾樹の眼差しが少し穏やかになった。穏やかにさせたそれは、安堵に近かったかもしれない。
この年頃の少女に学問の機会を与えること自体、まだ各地で疑問と不満がくすぶっている昨今。相内家でも去年、紅葉を小学校に通わせるか否かで、父と姉が論争していた。教育をするなら柾樹のときのように家庭教師をつければ充分だという父に対し、屋敷で世間知らずに育ったから、柾樹がこんなデタラメになったのだと、よしのは反発していた。自分を引き合いに出されて不愉快だったため、柾樹は早々に席を蹴ったから後の詳細は知らない。
離れ住まいのよしのの夫婦間でももめていたようで、紅葉が半べそかきながら柾樹の部屋へ逃げ込み
「紅葉の学校のことで、おっ母さまとお父っつぁまが喧嘩してる」
と、安楽椅子で丸まっていたこともある。
結果的によしのの希望通りになったわけだが、このように紅葉が学校へ行くまでには曲折を経ていた。実際に学校へ行くことになったは良いけれど、お転婆で知られた姪っ子。どうなるやらと柾樹は内心懸念していたのである。仲の良い友達が出来て楽しく過ごしているのならば、喜ばしいことだろうと思った。
しかしいくら微笑ましいとはいえ、それはそれ、これはこれ。
「よし、紅葉」
「なーに?」
「帰れ」
「えええーっ?! 何で?! なんでぇ?!」
「一々大声出すんじゃねぇよ。途中まで送ってやるから」
柾樹は姪っ子とその友達を回収し、古道具屋へ一歩も入らせないまま駿河台の屋敷まで連れて帰ることにした。
「おいおい……、一休みくらいさせてやったらどうだ?」
様子を伺いに表へ出てきた千尋が心配顔で言ったが、柾樹は耳を貸さなかった。何故ならこの姪っ子は屋敷内での柾樹のある事無い事、下宿の連中に吹聴するに決まっているのだ。しかも悪意が無いから困る。とっとと撤収させるに限るという判断だった。
「君はお嬢さんの扱いが雑過ぎないか?」
顔を出した長二郎にも言われたけれど、『お嬢さん』が聞いて呆れる。野良猫みたいにギャーギャー大暴れする紅葉は、抱えているだけで結構骨が折れるのだ。丁寧になど扱っていられない。左手に紅葉から取り上げたコウモリ傘を持ち、右手で紅葉本体を抱えると、「適当に戻る」と言い置いて、柾樹は古道具屋を後にした。
だが案の定、柾樹に連行される最中も紅葉はじっとしていない。
「やだー! 古道具屋さんが見たいー! 見たいったら見たいいー!」
力の限り大騒ぎしていたが、主張は躊躇なく聞き流された。
紅葉を抱え、ちょこちょこついてくる音羽を引き連れた柾樹は、神田川沿いの道を駿河台へ向かう。通りすがりの人々が怪訝そうにこちらの様子を伺ってくる視線を感じるけれど、気にしない事にした。
普段は相内屋敷の人間に会わないよう、もっと裏道を選ぶが、今日は広い道を選んで行く。たぶん今も紅葉を探しまわっているであろう与八郎に道中会ったら、すぐ引き渡すつもりでいた。
そして神田川沿いの道を中程まで来た辺りで、喋る荷物はようやく大人しくなったわけだが。地面へ降ろしてやると小娘は、抱えられていただけのくせに「ああ、くたびれた!」などと生意気な口を叩いていた。
「本当に古道具屋に来ただけだったのか?」
仲良く手をつなぎ歩き出した少女達へ、普段よりゆっくり歩きつつ、紅葉のコウモリ傘で軽く肩を叩いて銀縁眼鏡の書生は尋ねた。くるんと肩越しに振り向き、紅葉が笑う。
「紅葉たちね、回向院へ行って来たんだ」
「回向院?」
返答を聞いた柾樹は、その言葉を繰り返した。
『回向院』は両国橋の向こう側、東詰に位置する古刹だった。その昔、『振袖火事』で十万八千もの焼死者が出たという、大惨事を契機に建立された寺である。無縁の焼死者達を弔うために建てられたその由来から、罪人や刑死者や遊女なども供養していた。少し前には境内で女相撲が興行されて差し止めを食らったりと、一風変わった存在感を放つ寺である。
「何しに行ったんだ?」
まさか女相撲に出たいとか言い出すのではあるまいな……と頭の隅で考えながら問えば
「願掛け参り!」
右隣に並んだ小さな娘は、遥か上にある若い叔父の顔を振り仰いで、元気に答えた。銀縁眼鏡の下で眉を寄せ、柾樹は「願掛け参り?」と、再び紅葉の言葉を繰り返す。
「違うわ、紅葉ちゃん。お百度参りよ」
紅葉を挟んで反対側にいた音羽が訂正した。
「えー? だってお百度参りは、名前の書いてある紙と五寸釘がいるんだろ?」
「それはお礼参りよ。お百度参りだから、藁人形がいるんでしょ?」
「あ、そっかぁ!」
音羽の説明へ、おかっぱ娘は真面目に頷いていた。
二人揃って何もかも間違えている。けれど柾樹もこういった類の作法等を詳しく知らないから、疑問や感想は特に出てこない。少女達のおしゃべりの横で、ただ何となく『違う気がする……』とだけ思っていた。音羽が手作り感満載の藁人形を差し出した。
「一緒にお参りしてるの!」
嬉しそうに話す様を見下ろして
「よかったな……」
と一応答えてやる。そんな柾樹を見上げ、紅葉がまた言った。
「紅葉たち、上野の大仏さまとか、湯島の天神さまも拝みに行ったんだ。他にもいっぱい拝んでて、もう五十コ超えたんだよ? それで今日はお休みだから、回向院まで来たんだ。そのついでに兄さまのお店も見に来たの」
「ついでかよ」
語る小娘のどこか誇らしげな丸顔を見下ろし、琥珀色の髪の書生は呟いた。
すると突然、紅葉の視線が柾樹の顔から他の方角へ急旋回する。何かを指差し、子供特有の甲高い声で叫んだ。
「見ろよ、音羽ちゃん!」
「あ! 右舷前方にお地蔵さま発見!」
音羽も一緒に指差した先では、小舟が水面を埋め尽くす川を背に、赤い涎かけをした古いお地蔵さんが微笑んでいた。
紅葉と音羽はソレッ! と道端の地蔵尊へ駆け寄り拝み始める。手を打ったり打たなかったり、お辞儀もしたりしなかったりで、作法は大変ざっくりしていた。
「これで五十二コ目!」
少女たちは達成感に溢れた表情で言い合っている。要するに、『見つけた拝めそうなものを百個拝んでいく』とか、そういう具合の“お百度参り”らしい。
一般的な『お百度参り』とはその名の通り、同じ社寺へ百回お参りすることを指す。山門や鳥居など社寺の入り口から、社殿やお堂へ行くのを百回くりかえす行為も同じ名称で呼ばれた。切実な『願い』がある時に古くから用いられてきた、一種の呪術である。それにしてもどこで覚えてきたのか知らないが、紅葉たちの手法はかなり斬新だった。しかも丑の刻参りっぽい何かもそこはかとなく混ざっているから、これでは逆に呪われそうである。
帝都内だけでも寺社仏閣をはじめ、お稲荷さんやお地蔵さんなどは星の数ほどあるため、このお百度参りも達成自体は然程難しくないのかもしれない。ただし我流が過ぎてご利益があるとは到底思えなかった。拝まれる神々も、さぞかし困っているだろう。でも行動自体に害は無さそうなので、柾樹は少女たちの“お百度参り”を見守っておくことにした。
「何でそんなことやってんだ?」
面白半分に訊いてみる。それを聞くなり俯いた音羽は、手の中の巾着を指先でいじって答えた。
「あのね……お父さまがね……もう何日も寝ていて、お薬飲んでもご快復にならないの……」
しゅんと萎れ、眉も下がっている。
「病気か?」
柾樹が尋ねると少女はか細い身体ごと首を傾げ、肩に届く黒髪を揺らしてもじもじしていた。
「柾樹兄さまは、話しても大丈夫だよ」
紅葉が小声で言って励ます。事情の見えない青年が少女たちのコソコソ話しを訝っていると、やがて
「……お父さま、百鬼夜行にあったの」
可愛らしい顔を曇らせ、音羽は小さな声でポソッと言った。
「百鬼夜行?」
首を傾げる柾樹に
「前の戦で戦死したお友達や、親せきの人たちが来たんだって」
紅葉が話しを補完する。よもやそんな話しが飛び出て来るとは思っていなかったので、柾樹は話の続きをどうするか迷った。
「ふーん……どこで見たんだ?」
思いつくまま先を促してみると
「銀座の煉瓦街って、言ってたよな?」
「うん……」
紅葉が確認するように言い、音羽はちょっと自信無さそうに頷いた。
「でもよくわからないの。音羽は小さいんだから黙っていなさいって、みんな教えてくれないから……」
「ひどいよなぁ! 音羽ちゃん、こんなに心配してるのに!」
萎れている友人の分まで、紅葉は我が事かというほど憤慨していた。音羽は幼いなりに、父親の身を案じているのだろう。役に立ちたい一心で『お百度参り』を思いつき、紅葉はそれに付き合ってやっているのだった。
「それでお百度参りか……まぁ、叶うと良いな」
柾樹が軽く頭を撫でてやると、音羽は照れたみたいに小さく笑い、またもじもじが酷くなった。その隣から突然駆けだした紅葉が、坂道の上に建つ石造りの建物を指して提案する。
「音羽ちゃん! 次はあのお堂も行ってみよう! 今日は兄さまが一緒だから、鬼に金棒だよ!」
諺の使い方を間違えている姪っ子に、「お前が鬼で俺が金棒かよ」という柾樹の声は聞こえてない。隣の書生の着物の袖端を握りしめ、音羽が困り顔で答えた。
「あそこって、耶蘇のお堂よ? 異人さんに叱られるんじゃないかしら……」
「平気平気! お参りに行くだけだもの。それに、何だかすごく強そう!」
生来楽天的な思考回路の少女は、心配の声にもめげずに返す。たしかに真新しい石造りの建築は見るからに頑丈そうだが、変な部分で見込まれたものである。紅葉が指差す先には、曇り空へ突き出た丸屋根の教会。
駿河台の『ニコライ堂』があった。