珍客
明け方まで続いた卯の花くたしの雨がやみ、今日は曇天の隙間から青空が覗いていた。雨に打たれた木々の緑は日に日に色濃くなっている。久々の日差しが、濡れた草木の上で乱反射していた。古道具屋の敷地を囲む黒い板塀には、かたつむり達が光る線を引いている。家屋の裏手にある苔の生えた古い井戸で、黄緑色の雨蛙が薄い喉を震わせていた。
雨蛙のすぐそばで、柾樹は顔を洗っている。夜明け鴉が鳴く頃まで遊び歩いていたため寝不足で、顔面の不機嫌さは普段の二割増しになっていた。下宿で一番の寝坊助は、今日も同居人達から後れを取っている。
今日は休みで街も全体にのんびりしているとはいえ、もう九時を過ぎている。長二郎と千尋は台所の隣の部屋で遅めの朝飯を食っているし、雪輪など昼飯の準備まで完了済みだった。家の壁に洗濯板やたらいが立てかけられていて、洗濯も終わっている。
顔を洗い終わった柾樹は、手ぬぐいで顔を拭きつつ振り返った。とそこで、勝手口から出てくる火乱の姿が目に入る。
「……」
「……」
赤毛の猫は黒い着流し姿の書生と目が合うと一旦止まり、僅かに身体を低くして身構えた。緑色の目で柾樹を胡散臭そうに眺め、長い尻尾を一回、二回と横に振る。可愛げのない猫を苦々しく見下ろした。
「取って食いやしねぇよ」
柾樹は声をかけ、銀縁の眼鏡をかけ直す。それでも警戒を解かない猫はニャアとも答えず方向転換して、古道具屋から出て行った。
「うん?」
柾樹は思わず二度見してしまう。猫の後ろ姿は、唐草模様の小さな風呂敷包みを背負っているという泥棒猫スタイルだった。
――――朝っぱらから変なモン見ちまった……。
何ともいえない疲労感を覚える。今日は幸先が悪い気がした。
柾樹は最近、こういう“ちょっと変なモノ”に、よく遭遇するのだ。それはたとえば馬鹿に大きな鴉だとか。急に出たり消えたりする薬売りだとか。血の気の失せた青白い顔に、異様なほどつり上がった目をした女中娘だとか。
しかし途中で、火乱のアレは単に首輪の代わりだったのかもしれないと思い直す。そう考えるのが常識的というものである。きっと、猫の実質的な飼い主である雪輪が着けたのだろう。
「そうだ、そうに決まってる」
ぶつくさ言い、最近少々神経質になっているらしい自分を内心で叱咤した。降り注ぐ清らかな陽光で目を洗い、深呼吸して建物内へと戻る。それから手ぬぐいを干そうと人々が食事している部屋を横切って庭の方へ向かい、ひょいと縁側へ顔を出した。
出して二、三回瞬きした後、琥珀色の髪をした青年は庭の『ソレ』から目を離さずに女中を呼んだ。
「おい、こら雪輪っ! またお前だろっ! 猫で鴉で、次は牛かよ!」
大声と一緒に、体内に残っていた眠気もまとめて飛んでいく。
この古道具屋は元々は料亭だった名残で、広い庭に泉水があった。長年放置されているため水は濁り、水草や落ち葉が溜まって見えにくく、たまに人(主に千尋)が落ちたりする。そんな泉水の周囲には、ゼニアオイやイヌガラシ、アザミ、ツユクサ、ドクダミ、イヌタデなど、いわゆる雑草と呼ばれる連中が瑞々しい花を咲かせていた。
これらを絨毯にして、庭のほぼ中央に大きな牛が鎮座している。
黒い牛は四本の足を折りたたみ、大変に御機嫌麗しい様子でゆったり尾を振っていた。黒光りする毛艶は見事なもので、角も堂々とした牝牛である。決して百姓が鋤を引かせている風な牛ではない。美しい黒牛は首に白い注連縄を巻いていた。何より珍しいことに、紅玉をはめ込んだかと思うほど赤い瞳をしている。
「うわ、何だこれ!? 牛……? 牛だよな?」
箸と茶碗を持ったまま縁側に出てきた長二郎が大声を上げる。
「ええ? さっきまでいなかったぞ、こんなの……」
遅れて出てきた千尋も、悠然と居座る牛の姿に目を丸くして呟いた。そんな彼らの後方では、先程名指しされた雪輪が影のように佇んでいる。
「お前が連れて来たんだろ……痛てっ」
断定口調で言いながら女中を足先で小突いた柾樹の後頭部に、立てかけてあった竹の釣竿が倒れてきてぶつかった。小突かれた雪輪は、切れ上がった目で青年をちらと見る。
「違います」
今日も小刻みに震えつつ釣竿を立てかけ直し、微妙に不愉快そうに答えた。
「んなコト言ったって、猫や鴉も手懐けてたじゃねぇか!」
頭を撫で撫で言い返す柾樹は、無駄に自信満々である。
「ではお尋ね致しますが、どうしてわたくしがこれほど大きな牛を、どなた様にも気付かれることなく、ひとりで庭まで連れてくることが出来ましょう?」
雪輪も負けず、柾樹へ質問で返した。
「うん。それに雪輪さん、さっきからずっと台所にいたよな」
何も考えていない千尋が娘に加勢する。
その通りで、立ち働いていた女中にはその間の証言があった。こんなに大きな牛を、一人で素早く引いてくるのが容易ではないと、常識的な人間ならば考え付く。そもそも雪輪が庭先へ牛を連れ込む理由が見当たらないのは、柾樹も認めるところだった。それこれで女中の疑いは簡単に晴れたものの、今度は別の謎が出てくる。
「じゃあ何でこんなのが庭にいるんだよ? 迷い牛にしたって、この大きさじゃ裏口は通れねぇだろ」
険呑な口ぶりで疑問を並べたてる。怒っているのではない。これが柾樹の標準仕様なのである。光り眩しい縁側で千尋は逞しい腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。
「うーん……誰かが、投げ込んだか?」
「牛を? よりによってこんなデカい牛を? 塀の向こうから?」
「そう怒鳴るな! オレだってわからんのだ!」
銀縁眼鏡に真顔で詰め寄られ、短髪の青年は困惑顔になって怒鳴り返した。彼らの横から庭先へ下りていた長二郎が、茶碗と箸を持って牛を遠巻きに眺め口を挟んだ。
「どこかに、穴でも開いてるんじゃないか?」
鳶色の癖っ毛が常より更に爆発気味の書生は、にこにこしている。こちらは真面目に考えているのではなく、状況を面白がっているだけだった。
言われて庭下駄を引っ掛けた千尋は、草の生い茂る庭の奥へ行って身を屈めたり伸ばしたりし始める。続いて板塀を叩いて回り、状態を確認する。留守を預かっている身としては、知らないうちに塀に大穴など開いていたら家主へ申し訳が立たない。
「牛が入り込めそうな穴も、壊れた様子も無さそうだがなぁ……壁を飛び越えてきたか?」
「飛び越えるったってここの板塀、結構な高さだぞ……コイツが飛び越えてきたら、絶対に地響きするだろ」
蜘蛛の巣だらけになって戻って来た千尋に、縁側の柾樹が言った。長二郎もここでやっと茶碗と箸を縁側に置き、少しだけ真面目な顔になって誰にともなく尋ねる。
「歩いて入り込んだとすれば玄関だろうが、誰も開けてないよな?」
勿論誰も開けていない。揃って首を傾げ、改めて全員の視線が庭の牛へ注がれた。こんな人間達の会話など虫の声より興味が無いようで、泉水横の牛は紅玉の目を閉じている。
何を思ったか、長二郎が裸足で庭へ降りた。寛いでいる牛にそろそろと近付き鼻面を覗き込む。途端に目を開いた牛は、湿った黒い鼻をぶるんと鳴らした。
「わー! 本物の牛だ!」
「どう見たって本物だろ」
お前もたまに意外と馬鹿馬鹿しい事で驚く奴だなと、柾樹が言ったときである。古道具屋の玄関の方で、戸をとんとんと叩く可愛い音が聞こえた。
「頼もうー!」
子供の声も微かに混ざっている。
下宿人一同は顔を見合わせた。中でも今の声に聞き覚えがある気がした柾樹は、廊下から玄関へ向かおうとして途中でやめる。やめた理由は声の主ではなく、玄関へ向かう過程にあった。
家主の中野夫婦が留守にしてからというもの、閉じきっている玄関は殆ど誰も近付いておらず、昼でも暗い。加えてここも衝立や屏風や石臼や神棚等々が、足の踏み場を埋め尽くしていた。これらを乗り越え玄関へ行くよりは、多少遠周りでも裏口から表へ回った方が早いのだ。
琥珀髪の書生は踵を返すと、彼らが普段使っている裏口の方へ向かった。そして誰かが忠告するより前に、雪輪は母屋から姿を消していた。