亡者行路
帝国海軍少将『松木八郎』は自邸へ向かう馬車の中、眠りに落ちかけていた。連日の激務により、疲労は極限に達していた。
世は硝煙臭さが日一日と増しており、次々と持ち込まれる仕事の山は増える事こそあれ、減る気配は無い。軍事訓練の実施、海洋測量の現地視察、各種作戦の研究と立案……。四十代の働き盛りとはいえ、僅かな休息で半年以上活動し続けるのは、さすがに限界だった。とうとう疲労が隠しきれなくなってきた八郎を、周囲が「今日こそは」と帰してくれたのである。
寂々とした暗い雨の街を、一頭立ての馬車は車輪の音を撒き散らして進んでいた。季節は梅雨へと移り、今夜も小雨が降りしきっている。深夜を過ぎた帝都は水底のように静まり返っていた。八郎は雨音と夢の隙間で、間もなく妻子の待つ家へ着く頃だろうかと、うつらうつら考えていた。
と、馬が大きく嘶いて馬車が止まる。
八郎は閉じていた目を開いた。何か嫌な止まり方だった。黙ってサーベルを握り直す。いつ鉄砲玉や刺客が飛び込んできてもおかしくない世相だった。八郎とて、その辺りの覚悟ならばとうの昔についている。
「どげんした?」
落ち着いた口調で、馬車の中から御者へ尋ねた。外から御者の声が答える。
「申し訳ありやせん。馬が急に言う事をきかなくなりやして」
「何ぞ、あったか?」
「いいえ、別段何もございません。雨で機嫌が悪くなったんでしょう……すぐ大人しくさせますんで、少しお待ちを」
申し訳なさそうな御者に「ほうか」と呟いた八郎は、また椅子に深く座り直した。辺りに人の気配もしない。暴徒や刺客ではなさそうだった。馬を落ち着かせようと苦労している御者の声と、馬が尚も不愉快そうに嘶き続けているのが聞こえる。中々おさまらない馬の癇癪に、一体どうしたのだと様子を伺っていた。
その八郎の耳に、馬や御者の声とは違う声が聞こえてきたのである。
――――八郎ー……松木八郎ー……。
彼方で、誰かが自分の名を呼んでいる。
まずは空耳を疑った。今は深夜で、こんな時間にこんな場所で、こんな風に自分が呼ばれるなど、どうしてあるというのか。しかし呼び声は消えるどころか、段々大きくなってくる。ざわりと胸騒ぎがした。
声の主を確かめるため、八郎は馬車の窓を少し開ける。外では霧のような雨が、雨月の闇を白く霞ませている。馬車の前方に掛けられたカンテラの乏しい灯りだけが、視界の頼りだった。そんな何も見えない梅雨寒の夜。白い夜の彼方から聞こえる呼び声は、尚も続いていた。
――――八郎ー……八郎ー……。
今度は耳を澄まさなくても、ハッキリ聞こえる。やがて名を呼ぶ『それ』が一人ではなく複数人で、更に段々近付いて来ていることに八郎は気が付いた。その途端、寒気が足先からぞっと這い上がってきて、髭から頭の毛まで逆立ってしまう。
「馬鹿な」
潰れた声で言って馬車の扉を開け、雨に濡れるのも構わず半身を外へ乗り出した。サーベルを固く握りしめ、真っ直ぐ続く道の先へ目を凝らす。死地など慣れているはずの心臓が早鐘の如く鳴り始め、呼吸が乱れだした。握り締めたサーベルが、手と一緒にカチャカチャと震えている。
雨の中、土の道の向こうから列をなしてこちらへ歩いてくる、黒い影達がいた。
身体を大きく左右へ揺らし、おぼつかない足取りで進んでくる数十名の行列。それは八郎の古い友人、知人、従兄弟や親戚、幼友達……どれも昔から知っている顔だった。ただし懐かしい面々の姿は、変わり果てていた。
頭が割れている者。肉が削れた骨の腕に、刀をぶら下げている者。さばいた腹からおびただしい血を垂れ流している者。黒焦げになっている者。首が無い者。
多くが衣服すら纏わず、纏っていても泥と血にまみれたボロ布に等しい着物や袴を引きずっていた。一人残らず体中に刃物で突き刺された痕があり、弾丸痕で蜂の巣みたいになっている者もいる。いずれも十年以上前に、八郎の故郷で死んでいる者達だった。
――――どこじゃあ八郎、どこにおるんじゃあ。
――――迎えに来たぞぉ。
彼らは懐かしい声で口々に八郎を呼んでいる。
「ギャッ」と叫んだが、実際に声が出ていたかどうかは自覚が無い。八郎は転がるように馬車へ飛び込み無我夢中で扉を閉めると、頭を抱えて座席へ蹲った。寒気に包まれ冷や汗が流れ、舌を噛みそうなほど奥歯がガチガチ鳴っている。
「旦那様? 旦那様、どうなすったんでございます?」
主の異常に気付いた御者が扉を開け、室内に首を突っ込んできた。忠義者の御者は、驚く以上に戸惑っていた。
今、この御者の目の前で震えている主人は体躯巨漢にして、面構えは剽悍という、古武士の如き男なのだ。更に示現流の使い手で、青春を動乱と共に駆け抜けてきた人物だけに、その風貌は見かけ倒しでは無い。しかも寡黙で性格は謹厳実直。睨まれれば鬼も逃げ出すと言われていた。諸外国の造詣も深く博識で、海洋測量に関しては一目置かれている。
そんな武と知を兼ね備えた人物が、体裁も何もかも放り出して大きな身体を兎みたいに丸め、狭い馬車の一番奥で、耳を両手で塞ぎながら脅えきっているのだ。悪い冗談だった。
扉を閉めろ! と喚いた八郎は、続けて御者にも馬車の陰に隠れろと指示した。「絶対に馬車の陰から出るな! 動くな!」という意味の命も早口で飛ばす。雨の晩に突如錯乱し始めた主人を前にして、御者の男の戸惑いは深くなるばかりだった。笠を上げ周囲を見渡しても、御者の目に映る景色は漆黒の夜と雨の街が延々と広がるばかりなのだ。
「旦那様………あのう、何か、見えなさるんで?」
怖々尋ねても八郎は懸命に耳を塞ぎ、早う早うと言うだけで会話にならなかった。愚直な御者は混乱する。それでも日頃から敬愛する主の命令に、とりあえず従うことにした。扉を閉めると大人しくなった馬を宥め、馬車の陰でしゃがみ込む。
それとほぼ同時に鋭い風と白い冷気が走ってきて辺りを包み込んだ。
「な、なんだぁ?! 冬になっちまった……ッ」
もうわけがわからない御者は、周囲を包む突然の寒さを手足を縮めて凌ぐ他ない。
そして真っ暗な馬車の内部で八郎はますます身体を縮ませ、固く目を閉じ耳を塞いでいた。過度に緊張した身体は神経が麻痺しているのか感覚を失い、手足も痺れて動かない。冷や汗がとめどなく流れて落ちる。ひたすら法華経を唱えていた。
八郎の耳に濡れた土の地面を踏む音と、大勢の人間が馬車を取り囲む気配が伝わってきた。周囲を歩きまわる人々の草履の足音や、何か話している声が耳を塞いでいても聞こえてくる。目を閉じているのに、窓からこちらを覗き込んでいる視線を感じる。誰かが濡れた手で、窓をびしゃりと叩いた。馬車内の温度が急低下する。背筋を悪寒が駆けあがった。
「早う行ってくれぇ……!」
水気を失った喉で、干からびた声を絞り出し叫んだ。その途端。
――――八郎よぉ!
雷が落ちたように頭蓋骨の内部で大声が響き、松木八郎は失神した。




