幽霊の値段
屋根の上にはいっぱいに広がる青い空。辺りを包む透き通った空気と陽光。吹き抜けるそよ風に乗って流れて来るのは、初夏が近いことを告げる若葉の香り。朝の清しい光が照らす古道具屋『数鹿流堂』の庭先で、色も艶やかな杜若が露を乗せ輝いていた。陰鬱な葉茶屋の事件も片付いて、世界は爽やかさに溢れている。
そんな爽やかな背景の縁側で、男六人が二幅の掛け軸を囲んでいる。古道具屋の書生三人と、彼らの(自称)目付け役の弥助と、弥助の上司の池内と、近所の理髪床屋店主の袋田だった。縁側に腰かけているその袋田氏が、思い出した顔で尋ねる。
「そういえば、茶問屋の河内ってのは、井原西鶴の本を知っていたんですかね?」
先般弥助が見事犯人を捕縛し、新聞でも解決が報じられた葉茶屋の事件について語る声を、黒い柱と罅だらけの壁が吸い込んでいく。横でせっせと壁に幽霊の軸を掛けている弥助や池内に代わって、柾樹が答えた。
「河内は『知らなかった』と言ってるらしいぜ」
「へぇー……しかしそれにしちゃ、あの話とあんまり似過ぎてやしませんか?」
短い眉毛を持ち上げ、袋田は前屈みになってもう一度尋ねた。柱に凭れる琥珀髪の若者は意味も無くふんぞり返り、銀製の眼鏡をかけ直して言う。
「似てないところもあったじゃねぇか。茂平が『茶殻茶殻と騒いだ』って噂も、出鱈目だったろ? 変にモノを知ってる連中が事件に絡めて、色々こじつけたのが面白おかしく広まったんだろうよ」
柾樹の説明に「そんなもんですかねぇ」と、袋田は自分の円い顎を撫で撫で頷いていた。部屋の奥で微かに響く時計の音がそよ風に運ばれ、気だるく流れていく。その中で
「さぁこれでどうだ!」
わざわざ壁に引っかける場所まで拵えて。軸を掛け終えた池内が振り向くと大声で言った。壁には二人の幽霊女がぶら下がっている。
「……本当にここでやるんですか?」
まだ重い瞼を片手でこすりつつ、猫背を更に丸くした長二郎が歓迎していない顔で呟く。隣で正座している千尋に至っては、まだ目が覚めていない様子で無反応だった。柾樹はずり落ちそうになっていた背を柱へ立てかけ直し、欠伸と共に見物の体勢へ入っている。
さて、どうして古道具屋がこんなことになっているのかと言えば。
それは先刻、弥助と池内と袋田の壮年男性三人が上野まで足を運んだ事に端を発する。彼の地に古今の書画に大変詳しい先生がお住まいとの情報が入ったのだ。この先生に池内と袋田の幽霊の掛け軸を見てもらい、真贋を見極めてもらおうという魂胆だった。尚、ここまで来たら正々堂々、玄人に鑑定してもらってはどうかと彼らに提案したのは千尋である。相変わらず彼は『誰かさん』に言われた事を、そのまま人に伝えていた。
そうして先生に品を見せた結果、出た鑑定の要旨だけを述べると。
まず袋田氏の軸は、『銘や落款といったものは無いけれど、間違いなく応挙の筆だ』と太鼓判を押された。反対に池内氏の軸は、『落款はあるが応挙の筆ではなく、弟子が描いたものだろう』と言われた。とはいえ落款などは本物なので、本物と呼んでも差し支えないでしょう、という注意も付け加えられた。以上である。
結果に袋田氏は大喜びだった。面白くないのは禿げ頭の池内氏である。こちらも『本物』と言われたのだから良さそうなものだけれど、そういう事ではないのだろう。社会的地位も正義感もあるはずの人物が、悔し紛れに帰り道で先の先生へ難癖をつけ始めた。これに袋田氏が真っ向から反論する。お陰で、終息すると思われた問題は簡単に再燃した。
双方、再び相手の軸の粗さがしを始め、途中からは互いの毛髪の数やら腹の出具合まで罵り合う始末。同行していた弥助は彼らを止めることも落ち着かせることも叶わず、完全に収拾がつかなくなったため、いくら騒いでも問題無さそうな古道具屋まで、一先ず二人を引き摺ってきたのだった。上野から古道具屋に至る道すがらも、大人たちは大人げない応酬を繰り広げていたという。
こういった事情で縁側の壁に掛け軸を並べ、古道具屋の書生たちも無理やり連れ出されて観客も揃い準備万端整って、いざ数鹿流堂の縁側で幽霊比べの第二試合が始まらんとしていた。
そこへ。
「お前さん。何してるんだい」
過剰に冷静な女の声が響く。
縁側にいた男たちの視線が、声のする方へ一斉に集まった。裏口へ続く庭の隅で、唇をわななかせたお滝が包丁を握り締め、肩を怒らせ佇んでいる。
「八百屋のお駒がね……お前さんが道端で騒いでた、ありゃどうもおかしいと報せてくれてね……」
ぎらりと光る包丁と、床屋の女房の野獣のような眼光に、男達は(程度の差はあれ)青褪めた。
「お、お滝、話を聞け!」
「おまえさん……この前、鋏を新調しに行くって言ってた、アレはやっぱり嘘だったんだね……! 鋏は大事な商売道具だから、特別上等品じゃなけりゃいけないとか何とか言って……! あの金使ったんだね!? あんな言葉を信じて、必死に集めた二十円渡しちまったあたしが馬鹿だったってことかい!」
いくら上等でも鋏に二十円は渡し過ぎじゃないのかとか、そんなことは誰も言えない。もちろん他所の家に出刃包丁を握り締めて乗り込むのは良くない。むしろ悪い。決してやってはいけない事の一つである。でもその辺りについて、言及可能な雰囲気ではなかった。
ぎらつく包丁を見て顔面蒼白な袋田へ、じりじり距離を詰めてくるお滝も青くなっている。だが彼女の方は、怒りのあまり血の気が引いているのだった。お滝の顔は般若さながらになっている。般若の夫は腰が抜け、逃げる事も出来ないらしい。逃げられないので、必死に弁明を始めた。
「ま、待てお滝! そう怒るな、よく聞け、こいつは本物なんだ! これまでのガラクタとはわけが違う。さっき偉い先生に見て頂いてきたんだ、間違いない! こちらの旦那方が証人だ! いいか? お前にもわかるように話すとだな。これを描いたのは円山応挙ってぇ大変な絵師で」
「誰が何描こうが紙と墨の塊だよッ!!」
円山派の祖も木端微塵である。口から火でも吐きそうなお滝の剣幕に圧倒され、袋田以外の五人も黙るより他なかった。と、火を吐きそうだったお滝が急に大人しくなる。深く長い溜息を漏らし、先程よりは小声になって言った。
「あのねお前さん、考えてもご覧よ……そんな大した絵師の描いたお軸が、ウチみたいなあばら家へ転がり込んでくるはずないじゃないか。たとえて言うなら、ここの蔵に本物のお姫様が転がり込んでくるようなモンだよ? 何かの間違いに決まってるさ」
「間違ってンのかよ」
お滝のたとえ話にボソッと答えた柾樹の声は、小さ過ぎて人々に聞こえなかった。
そして床屋の主人はここで「お滝、お前の言う通りだ!」と形だけでも言えば良かったのだろう。だが彼は、自らの正当性を訴えるという行動に出た。
「それが間違いじゃないんだ! 見てくだすった先生が『これは大した名品だ』と、ハッキリ仰ったんだ。いかほどの品でございましょう? と伺ったら『これからもっと価値が上がる。百円はする』とこうだ! お前、こんな話はそう降ってくるもんじゃないぞ? 五十円で買った軸が、倍の百円になるとは……」
「え、五十円?」
誇らしげな理髪床屋の話に、ずっと寝惚け眼で話しを聞いていた千尋が反応した。古道具屋の留守を預かる心優しい青年は大きな身を屈め、遠慮がちに尋ねる。
「袋田さん……二十円持って鋏を買いに行ったんですよね? で、五十円の軸を買ったんですか? 足りないはずの三十円はどこから湧いて出たんです?」
「い……いや、それは、ホラ、その、あれだよ……そんなこと……なぁ? 言わせないでおくんなさいよ」
一切悪意の無い顔で余計な事を訊いてくる千尋を前に、袋田は変な汗を垂らし頬をひきつらせている。これで、お滝の怒りは頂点に達した。
「お前さん金借りたんだね!? またどこかで金借りてその軸買ったんだねっ!?」
「そ、そんな言い方しなくたっていいじゃないか、お前……」
「じゃ他にどう言や良いってのさッ!」
「だ、大体なぁ! 俺がこの右手の鋏一挺で稼いだ金だぞ! 好きなように使って何が悪」
「あたしの内職より少ない稼ぎで偉そうな口叩くんじゃないよスットコドッコイ!! そんなことはまず店の借金スッカリ返してから言っとくれこのクマゴローッ!!」
後ずさる夫に喚き散らし、お滝はどやどや近付いてくる。尚、全くの蛇足だが袋田氏の名前は『熊五郎』ではない。
「書画や骨董なんてモンはね! お歴々のお殿様や金の有り余ってるお大尽が遊ぶもんでね! ウチみたいな貧乏人が手を出すようなこっちゃないんだよッ!! 何度言わせりゃわかるんだい!」
「わ、わわ、わかってる、わかってるとも。そう何度も言うな!」
「わかってないから何度も言う羽目になるんじゃないか!! あーッ、口惜しや恨めしや……ッ! あたしゃもう嫌だ! 馬鹿にすんじゃないよっ!! こんな物こうしてやるあーーーーーーッ!!!」
「わああああああああ!?」
猛然と突進してきたお滝は、縁側に置かれた『紙と墨の塊』へ包丁を振りかざした。袋田と長二郎が逃げ出す。柾樹は刃物が自分に向ってこないことがわかっているので動かない。池内と弥助は職業柄か、咄嗟にお滝を止めた。そこに千尋も加わっていた。人柄はこういう時に出る。
男三人がかりで止められれば、さしもの般若も敵わない。暴れるお滝の手首を掴み包丁を取り上げた池内が、叱るのではなく、懇願するように言った。
「ま、待ってくれ、おかみさん! 腹が立つのはもっともだ! 苦労してるんだろう、いや本当にすまん。しかし男なんてのはこういうものじゃないか。アンタも長いこと女房をやっているならわかるだろう? だからというのもおかしいが、今回だけはどうか一つ、俺に免じて大目に見てやってくれんか?」
「だ、旦那……!?」
懸命に妻を宥めてくれる禿げ探偵を見た袋田氏は、小さな目を見開き感激に震えている。
「一度惚れ込んだら、後先なんか忘れてソレっと買っちまうもんなんだよ。こんな名品だったら尚更なんだ。俺も何度か女房に殺されかけた覚えがある」
「あるんですか……」
「しかも何度も」
脱力気味の千尋と一緒に、何食わぬ顔で縁側に戻ってきた長二郎が呟いた。庇われた袋田氏は池内の前で涙をにじませ、「旦那、申し訳ない」と頭を下げている。池内はその肩を叩き、「良いってことよ」と渋く笑っていた。ついさっきまで罵り合っていた間柄だったのが、思わぬところで分かり合えた男たち。
しかし。一先ず落ち着きを取り戻したかに見えたお滝が、まだ瞳の奥に怒りの炎を宿して口を開いた。
「……それじゃあ親分さん。その掛け軸、百円で買って下さいませんかね。そうしたらあたしだって、いくらでも大目だろうが大目玉だろうが、見ようってものでございますよ」
縁側の掛け軸を指し、池内入道に詰め寄り始める。自分より遥かに大柄な男相手でも、もはや怖いものなど無い様子でお滝は主張した。
「い!? ……いや、百円はさすがに……」
「じゃあお前さん。今すぐそれ、百円で売って来ておくれ!」
慌てて首を振る池内を離れ、夫へ向き直った小柄な女は続けざまに言う。無理難題を吹っ掛けられ、ただでさえ弱り切っていた袋田は干乾びたみたいな声を上げた。
「い、今すぐ百円になるんじゃあない。きっと何年か後の世には、という……」
「そんなの駄目に決まってンだろ! その頃あたし達が生きてるかどうか、わかりゃしないじゃないか! 今すぐだよ! さっき言ってた、その偉い先生のとこにでも持ってって、百円で売ってきなッ! 見立てた張本人なんだから買うだろうよ! 売り払うまでウチの敷居は跨がせないからねッ!!」
「お、お前亭主に向かって何だその口のきき方は!? 下でに出てりゃつけ上がりゃがって……ッ!」
「ふんっ、へりくだりたくなるような亭主になってから言えってんだ!」
「な、何だと、この……!」
事ここに及んで、聞き捨てならぬとばかりに袋田氏は反攻に出た。こうなったら破れかぶれである。床屋の夫婦が他所の家の庭先で、殴り合いの喧嘩を始めそうになった、その直前。
「よし、わかった。俺が買う」
柾樹の声が、人々の動きを止めた。取っ組み合いを始めようとしていた夫婦も、それを止めようとしていた者も、みんな揃って止まってしまう。
「い、今……な、なんて……?」
床屋の主人が、おそるおそる聞き直す。
「俺がこの幽霊の掛け軸、買うって言ったんだよ」
縁側で胡坐をかいた柾樹はあっさり答えた。
「良いんだろ? 百円なら売るんだよな?」
「へ? ……へえ」
柾樹に確かめられた袋田は、魂が抜けたような顔でひょいひょい頭を下げている。周りの人々も、急なことで呆気に取られていた。いち早く気を取り直した長二郎が、癖毛頭を掻き掻き言う。
「あーあ、イヤな奴だなぁ」
「何がだよ?」
「人が二十円や五十円でモメてる時に、ポンと百円出すなんて、野暮というか無粋というか……」
「うるせぇな、何ぶつぶつ言ってんだ。金で片付くならそれでいいじゃねぇか」
斜め後ろから聞こえる悪口に対し、柾樹は蠅でも追い散らす風に手を振った。
その隣で柾樹が政商相内家の嫡男であることを弥助から聞いた床屋の夫婦は、買取話が本物だと合点したものの、金額が金額である。
「ええ……あの、ほ、ほんとうに宜しいんで?」
まだ半信半疑といった表情の袋田氏が、丸めた軸をおずおずと柾樹へ差し出して尋ねた。それを受け取り、派手な金茶頭は易々と言う。
「ああ。これから一っ走りして、金持ってくるよ………弥助が」
「な、なにぃ!? どうしてそうなる!?」
突然名前を出された弥助は、唾を飛ばして柾樹へ食ってかかった。しかし柾樹の方は果てしなく横柄な態度で、家の柱に凭れたまま銀縁の眼鏡の中心をずり上げると、弥助の鼻先へ軸を突き付けて命じた。
「俺が下手に戻ると、今度は屋敷から出られなくなりそうだからな。帝都の探偵なら、一応信用もあるだろ。一筆書いてやる。この軸持って弥助が行って、金持ってこい。大山に言えばすぐ出てくるから心配すんな」
ここまで堂々とされると、怒り方までわからなくなってしまう。一瞬怒りを見失いかけた弥助だったが、生意気な若造へ唾を飛ばして猛然と言い返した。
「じょ、冗談じゃねぇやッ!! 嫌だぞ俺は! こんな小僧の使いっ走りなんざ……!」
「弥助さん! 面目ない!」
「え」
ガバッとその場へひれ伏した袋田の姿に、小太り中年男が固まる。
「小林……帝都の平安を守るのが俺たちの仕事だ。ここは仕方ない。頼むぞ」
「え………えええええ~~~?」
池内にまで追い打ちをかけられ、せっかく立て直した心も空しく、周囲の圧力によって弥助の使い走りが決定していく。するとまだ悶着を続けている男たちをよそに、顔も般若から初老の女に戻ったお滝が、縁側の柾樹へ申し出た。
「あのう、百円はあんまりですから、元値とウチの人が借りた分、合わせた五十円で十分……」
自ら値下げを進言するお滝の態度が気に入った柾樹は、少し表情を緩める。
「遠慮するなよ」
優しく言ったが、そのうち床屋の女房へすいと身を寄せ肩を抱くと
「それでな? お滝。後で、ちっとばかり頼みがあるんだが……」
悪い笑顔で囁いた。