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堀田源右衛門

 柾樹は現在十八歳である。その柾樹が気がついた時には、源右衛門は屋敷の門番だった。元は御家人だったと聞いている。今はただの禿頭だがその昔、髷を乗せていたのもおぼろげに覚えている。『堀田源右衛門直篤』という大仰な名前だった……とも、聞いている。


 それが将軍様がいなくなって久しい昨今、近所の子供にまで「源さん」などと呼ばれていた。おまけに源右衛門は武士だった過去を話題や顔に出さないので、柾樹も詳しくは知らない。しかし何年か前に屋敷へ強盗が押し入った際、刀を振りかざす賊を箒で追い払ってみせたから、こんな老人でも、昔はそれなりの侍だったのだろうと思っている。


 その源右衛門の住居がある神田区へ、柾樹が長い寄り道の末辿り着いた頃には、既に世界は夕暮れだった。夕餉の煙が漂う細い通路を抜け、挨拶もそこそこに源右衛門の住む長屋の戸を開ける。薄暗い空間の奥の方で、枯れ木のような老人が横たわっていた。うっすらと目を開け、首を巡らせてこちらを見た源右衛門は


「……おや、これは」

訪ねてきたのが相内家の御曹司と知り、目を見開いて、律儀に布団の上へ起き上がる。そして枕屏風を背に、行儀良く端座した。


「いいから寝てろ」

 柾樹はぞんざいに言って上がりこみ、畳へ荷物を放り出して老人の隣へ座る。痩せた禿げ頭の下、源右衛門が嬉しそうに笑った。孫を見るような顔だった。持ってきた酒を「見舞いだ」と出してやったら、歯の抜けた顔がもっと嬉しそうになった。枕元には水の入った茶碗と手拭が、箱膳の蓋へきれいに収まって置いてある。源右衛門のやる事にしては妙に小奇麗なので、誰かが見舞いに来たのかなと思うとなく思った。


 ここは柾樹の父が、源右衛門の長年の奉公への労いとして宛がってやった家である。駿河台の屋敷の隅に一軒家を建ててやるという話もあったが、固辞した源右衛門は現在ここに収まっていた。四畳と六畳の二間で日当たりも良好。奥には小さい庭までついている。年寄りの一人暮らしには十分すぎる広さがあった。むしろ十分すぎて空間の多い家の中は、どこか生活感が薄い。


「具合はどうだ?」

琥珀色の髪を掻き掻き柾樹が尋ねると、落ち窪んだ目を皺に埋め源右衛門は微笑んだ。


「だいぶ良うなりました。いやいや、すっかり風邪をこじらせたようです」

答える痩せ衰えた顔の中、老人は目ばかりぎょろぎょろしている。


 そうか、とだけ答え、その後は他愛ない天気の話や世間話となった。しかし世間話をしながらも、柾樹の胸にはコイツ本当に風邪だろうかという疑念が湧いていた。ただでさえ源右衛門はここ一、二年で変な咳が増え、めっきり痩せたのだ。しかも顔を見なかった僅かな期間で、急に衰えたように見える。人間八十年も生きればこれが自然かとも思うが、それにしても急速だった。しかもそのうち掠れた声で


「わしもようやく、この世をおいとまする番が来たのですなぁ」

しみじみとそんなことを言い出すから、さすがに驚いてしまう。柾樹はちょっと考えた後、持ってきた鹿子餅を自分の口へ放り込んで言った。

「おいとまの順番は知らねぇが、薬は飲めよ。金が無いなら出してやる」

投げるような言い様だった。だが、これでも柾樹なりに気遣っているつもりなのである。


 源右衛門は子供時代の柾樹にとって、唯一といえる話し相手だった。相撲の相手をしてくれたり、論語を教わったりと、実の親兄弟よりよほど親しくしてきたのである。源右衛門は相内屋敷の中で『小鬼』と呼ばれた柾樹に、職務以外で自ら近付いてくる、たった一人の人間だった。噛み付かれても物を投げつけられても、匙を投げなかった辛抱強いこの老人がいたお陰で、小鬼は人間としての振る舞いを身につける事が出来たと言って過言ではない。


 そういう源右衛門だから、言うのである。同じく病気で臥せっていても、祖父の幸兵衛の時は気にも留めなかった。というか、病気であることも知らなかった。でも源右衛門は違う。歳の離れた親友に近い間柄だった。そんな元御家人は、柾樹を苦笑交じりで眺めている。


「柾樹坊ちゃん、そろそろお帰りになりませぬと」

 そのうちに源右衛門はそう言った。子供に言い聞かせるときの口調だった。源右衛門にとっては、いくつになろうと柾樹は『小さい坊ちゃん』という感覚なのだろう。


 まだ春も浅い空は、紫色の夜の帳が下り始めていた。ランプを灯してきた青年は「ああ」と気だるげに返事をする。けれど腕を組んでまた座り込んだきり、動かない。銀縁眼鏡の奥からランプの光りを睨みつけ考え込んでいたが、やがて


「……家は当分、帰らねぇことにした」

ぼそりと呟く。老人のぎょろ目が一際大きく見開かれた。


「それはまたどういうわけで」

「よしのがのぼせてやがるんだ。家の事やら何やら、口出したくて仕方ねぇらしい。庭の植木の位置から銀行に誰を入れるかまで口出して、親父に相手にされなくて大騒ぎだ。うるせぇからあの女の頭が少し冷えるまで、しばらく家離れる」

 吐き捨てるみたいに言って、顔をしかめる。柾樹の前で源右衛門は微かに眉を下げ、ふ、と笑った。


「では今晩から、どこで夜露をしのぐお考えですかな? 賭場はいけませんぞ」

「賭場はもう行ってきた」

 簡単に言う眼鏡の青年に、老人は布団の上で溜息と共に嘆願する。


「坊ちゃん……爺の心配の種を増やさんで下され」

「何言ってやがる。俺を最初に賭場に連れて行ったのは源じゃねぇか。他にも吉原だの芝居小屋だの」


 いわゆる『悪所』と呼ばれる場所と、そこでの遊び方を柾樹に教えたのは源右衛門だった。しかし柾樹が十のときに芝居小屋へ連れて行き、十二で賭場、十五になるかならないかで吉原の作法まで教えた張本人は、すっ呆けた顔で「そうでしたかな?」などと抜かしている。


「このあばら家で宜しければ……」

 源右衛門はそう言ってくれた。柾樹は一瞬相好を崩す。そのつもりでいたし、そう言ってくれると思っていた。でも出掛けに紅葉と与八郎に鉢合わせた際、源右衛門の容態について訊いてしまったから、ここにいるときっとすぐ家の者に見つかってしまうだろう。そこで柾樹は源右衛門の申し出を断り、考えていた他の隠れ場所を口にした。


「白岡の奴がな」

「ははあ……中学校の同級生でしたか」

「ああ。アイツが両国橋近くの古道具屋で、留守番がてら下宿をしててな……そこに行こうと思ってる」

家のやつらに教えるなよ、と釘を刺しつつ言う。


 白岡とは『白岡千尋』といい、柾樹の尋常中学校時代の同級生だった。日本橋にある呉服屋、『暮白屋』の一人息子である。長身の柾樹よりも背が高く、柔術などやっていたため肩幅も広くて顔立ちも中々に精悍だった。それなのに中身は寝てるのか起きてるのかわからないといわれるほど、間が抜けている。下級生に『デクノボー』とからかわれても別に怒るでも泣くでもなく、翌日になってから「もしかしてオレは昨日、馬鹿にされていたのか?」と柾樹に相談してくる青年だった。


 短気な柾樹とは正反対。大変のんびり屋だから、普通なら双方毛嫌いしそうなものである。にも拘わらず、この『間抜け』の白岡千尋と、もう一人の『阿呆』として有名だった『田上長二郎』と、乱暴者の『馬鹿』で知られた柾樹の三人は何故か一緒にいたし、卒業してからも交流がある。


 そして千尋は親の強い勧めで商業学校へ入った現在も、本質的に変わっていなかった。立身出世の夢と希望に燃える若者達が多数集まる学校へ彼は折角進学しておきながら、相変わらずのんびりモッサリ、デクノボーな日々を過ごしていた。放っておくと一日中猫のノミを取ったり、ランプのホヤを磨いたりしている。


 当然、彼の両親は大事な一人息子の将来を心配していた。立身出世をさせるために学校へ行かせたわけではないけれど、成績が常に底辺を走っていても全く気にしない息子は、あまりにも覇気がない。これでは学校を辞めさせたところで、実家の店に出すことすら躊躇われた。田上長二郎などこの前、暮白屋に立ち寄ったら千尋の両親である銀右ヱ門とおかるに「何とかしてください」と揃って泣かれたそうで、「僕に言われてもなー」と笑っていた。


 そんな折、数年前まで暮白屋で下男として働いていた中野善五郎と、おのぶの夫婦が訪ねてきたのである。彼らは現在、両国橋の近くで古道具屋を営んでいるが、長期の旅行へ行くことになったので、『留守を頼めないか』と銀右ヱ門を頼ってきたのだ。


 そこで悩める暮白屋の夫婦は考えた。もはや倅に優秀になれなどと贅沢は言わない。それでも下宿暮らしの苦労をさせれば、千尋も少しはシャッキリするのではないのか? こうして渡りに船とばかり、暮白屋の夫妻は留守居として息子を『修行』に出したのである。


「留守居の家に居候なぞ聞いた事もないが……よろしいのですか?」

「別にイイだろ。田上も転がり込んでる。俺も前に『来ないか』って声を掛けられたからな」


 中野の夫婦としては、留守番役は何人増えてくれても構わないと言っていたらしい。それにこの話しが出た当時の柾樹は家や学校から遠くなると断ったのだけれど、今は学校にも行っておらず、家から遠くなるなら都合が良いくらいだった。


 老人は宙を見つめ、柾樹のそんな話を聞いている。と、


「……そちらでもう一人、お預り願うわけには参りませぬか?」

藪から棒に言い出した。老人の灰色がかった目は、宙を見たままである。


「何だ。源も来るか?」

 驚き半分、のんきな柾樹に源右衛門は少し苦しそうな息の間で「いや、そうではございませぬが」と勿体つけ、思案するように黙り込む。軽い咳をした後、沈黙が広がった。


「……何だよ?」

 柾樹がもう一度尋ねると、老人は骨と皮ばかりの顔で見上げてきた。


「爺の最期の頼み。聞いていただけまするか」

 目やにだらけの目の奥で、いつだか賊を追い返したときと似た光が揺れている。干乾びた老人の中にまだこんな力があるのかと、柾樹は意外に思った。


「だから何をだよ?」

「あいわかった、というお返事をいただけるまでは申せませぬ」

「わかった」

 二つ返事で答えた。


「何でも言え。約束する」

 頷いた柾樹を見つめ、老人は口元だけで微笑む。そしてランプの光が照らす周囲の気配を伺った。次いで前屈みになり声を落として「実は」と言ってから、また更に一呼吸置く。


「娘がおりましてな」

「……あ?」


 柾樹が返事にもならない声を出したくなるようなことを言い出した。銀縁眼鏡の青年の顔が、おかしなことになっている点は触れず


「何とか世話をと、思うておりましたが……この有様では最早どうにもなりませぬ」

源右衛門は心底困ったという風に、そう続けた。


 その昔、源右衛門に妻と二人の息子がいたのは柾樹も聞き知っている。息子達は父親の源右衛門に従って何度も戦地へ赴き、一人は北方で。もう一人は南方で戦死しており、残った御新造も息子たちの後を追うように貧の極みで死んだという。いずれも源右衛門が相内家の屋敷で門番を始める前後の話。それにしても『娘』の存在については、聞いた事がない。


「待て。娘? ……養女か? 隠し子か? まさか妾じゃねぇだろうな」

 無意識でひそひそ声になりながら柾樹が尋ねると、老人は「いやいや」と手を振った。それから再度、何やら考え込む風な表情になる。


「まぁ……、一度会うてみてくださらんか」

 存外軽い調子で言い、皺くちゃの顔を柾樹が座するのとは反対側へ向けた。視線の先には二間ほどの床がある。この床は開けると、下が広い物入れになっていた。それは住人ではない柾樹も知っている。二人の間に、また沈黙が広がった。


「………そこにいるのか?!」

 小声で叫んだ柾樹へ微かに笑い、老人はふらつきながら立ち上がろうとする。今にも倒れそうなので、「俺がやる」と引き止めた。しかし青年の肩に手を置き、源右衛門は静かに首を振ると一層声を潜め


「坊ちゃんは、腰を抜かさんように、していてくだされ」

ここで待てという風に諌め、ゆっくり枕屏風をどかした。そして改めて正座をするや、よれよれと曲がっていた背がしゃんと伸びる。


「雪輪様。開けまするぞ」


 呼びかけて、そろりと床を開けた。

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