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さがしもの

 群青色の空の縁には、まだ黄昏の光が残っている。街の灯りの数が増えていくのに比例して、両国界隈の賑やかさも増していた。舟遊びにはまだ早いものの、夜の街を歩くにも良い季節になってきている。


 そんな昔からの繁華街から、道を一本入った場所にある旧料亭の古道具屋。数鹿流堂とその周囲だけが、静寂に取り囲まれていた。まるでここだけ時間や時空が凹み、置き去りにされているようである。そういう古道具屋に、おんぼろ袴の長二郎が下駄音と共に戻ってきた。


 青年は裏戸を潜り勝手口を通って古道具屋へ入ると、持っていた荷物を板敷きに放り投げる。それからランプに火を灯し、灯りを手に再び勝手口から顔を出してきょろきょろ周囲を見回した。


 辺りに人がいないことを確認し、裏庭に建つ黒漆喰の蔵へと近付く。そして錆の浮いた重厚な錠前を外して三重の扉を開き、蔵の中へ足を踏み入れた。物がごった返している蔵の奥。暗くて見えない階上を覗くようにして呼びかけた。


「ただいま戻りました」

返事はない。


 しかしやがて、微かに床の軋む音が聞こえ、闇の中から白い娘が溶け出て来る。暗くて殆ど何も見えないはずなのに、娘は苦も無く階段を下りていた。物の隙間を縫ってくる娘の、漆黒の長い髪に縁取られた青白い顔が、長二郎が持つランプの僅かな光にうっすら浮き上がって見える。その様は、最近古道具屋で預っている掛け軸の幽霊画を思い出させた。


「お戻りなさいまし」

 つり上がった黒い目を伏せ、雪輪がゆっくり述べる声を聞き、青年は笑みを浮かべた。


「遅くなったね。ああ、柾樹たちならこれから浅草に行ってくるってさ。さっき銭湯の前で会ったんだ。柾樹の奴、今日は妙に機嫌が良かったんだよなぁ……たまにあるんだよ。でもああいう時はかえって危ないんだ。おみくじみたいなものでね、吉凶があるんだよ。凶の時は羊羹を十本も食わされたり、いきなり水泳しろとか言いだして川に蹴落とされたり酷いモンでさ。吉と出れば幾らでも豪遊できて、極楽浄土なんだけどねぇ。この辺の見極めが難しいんだ。で、本日の僕は相内大魔神を『凶』と踏んで、後は白岡君に任せて帰って来たというワケなんだよ」


 長二郎は雪輪を外へと導きながら一人でよく喋り、再び扉を閉めて錠をかけた。隣で佇む雪輪は沈黙している。揃って母屋の土間に入ると、長二郎は紙で包んだ油揚げを取り出して娘へ差し出した。


「はい、コレ。油揚げ。これで良かったかい?」

 これは長二郎が昼間出掛ける前、「何か入用のものはある?」と尋ねた際、雪輪に頼まれたものである。雪輪は小刻みに震える手で、慎重にそれを受け取った。


「厚かましいお願い事をお聞き届け下さいまして、恐れ入ります。大変結構でございます」

「お褒めに預かり、恐悦至極に存じ奉ります」


 能面より表情の無い娘の礼に、若者は笑いをかみ殺してお辞儀した。たかが油揚げ一枚で、どれだけ馬鹿丁寧な応答をしているのか。だが長二郎は雪輪とのこういう会話を、案外面白がっていた。面白ければそれで良い。雪輪がどこまで本気で喋っているのかは、気にしていなかった。


 家に上がった長二郎は火鉢の火を掘り起こすと、定位置の縁側に移り本を読み始める。でも恰好だけで本の文字など見ておらず、ランプの灯りに横顔を照らされながら考え事をしていた。庭の樹木の向こうから、どこかの賑やかな笑い声と三味線の音が風に乗って微かに流れて来る。


 そのうち長二郎は「よし」と独り言を言って腰を上げ、ランプと共に台所へ向かった。


 台所を覘けば、七輪に乗せた小さな鍋で雪輪が葱と油揚げとを煮ていた。光源といえば炭火の小さな赤い光のみ。暗闇の中で娘の白い手や顔ばかりが浮き上がって見えるのは、それだけでちょっとした異様だった。昼間より目が役に立たない分、煙に混じる酒と醤油の湯気が鼻をくすぐる。夕餉の匂いの中、佇む長二郎の脳裏を、先日の雨宿りの際に聞いた土々呂の言葉が過ぎった。


――――雪輪様のアレだけは正真正銘、霊験あらたかな本物の神通力!


 そんな話し、信じる方がどうかしていると長二郎は思っている。子供が大勢死んだのは不幸だが、不運な流行り病であったと考えるのが合理的だろう。第一、情報提供者の土々呂が胡散臭過ぎる。でも、こうして暗闇の中に白くぼんやり浮かぶ雪輪の姿を見ていると、少し油断しただけで


『神通力というものも、もしかしたら実在するのかもしれないな?』

そんな気持ちが胸に浮かんできた。長二郎もハッキリとは言語化出来ないけれど、雪輪という娘は何か暗く冷たく、静謐な空気を常に纏っている。


 だが小柄な青年は隙間風のように入り込んできたそんな奇想を、頭の中から追い払う。そうして娘に近づき「美味そうだね」と声をかけた。


「食べて良い?」

 おどけた顔でねだると、雪輪の視線が動いた。

「まだお支度が……」

「ああ、良いよ他のは後で。こう旨そうな匂いをされたら、待っていられない」

 今にも手を出しそうな長二郎の様子を見て、雪輪は火から小鍋をおろすと皿を出してきた。箸を揃え、それらを膳に載せて出す。横に刻み海苔と七味唐辛子まで添える気の利きようなのに、微笑みもしない。


 雪輪は青年が座敷にも行かず、板敷きでがつがつ食べ始めるのを見ていたが、そのうち竈の前へ戻って削り節をごま油で炒る。しばらくすると冷や飯の上に梅干しと炒った削り節を乗せ、出し汁をかけたものが沢庵と一緒に出てきた。


「そうだ、雪輪ちゃん」

 さっそく出汁茶漬けを半分ほど頬張ってから、長二郎が声をかけた。口の中の物を飲み込むと、話しの起点を探すように「ええと」と小さく迷い

「恵比寿屋のことなんだけどね」

茶碗を置いて改めて話し出す。長二郎より一段低い場所に座る雪輪が、僅かに視線を上げた。近頃の数鹿流堂は、すっかり『恵比寿屋』の話しで持ちきりである。


「さっき両国橋の近くで、たまたま弥助さんにも会ってさ。新しい話しを色々聞いたんだよ。それを聞いていたせいで帰りが遅くなったんだ、うん。しかし聞いたところで僕もよくわからないものだから、未だに何だか落ち着かなくてさ」


 帰宅が遅れた理由を、そう説明する。銭湯の前で柾樹たちと別れた後、道端で弥助にまで捕まった長二郎は、中年男の話の聞き役にさせられたのだった。無論、延々と話を聞く仕事をタダで引き受けるはずがなく。ちゃっかり団子などご馳走になっている。


「この前、恵比寿屋の弟の浄吉が捕まっただろう? でもこれがどうしても罪を認めないんだ。それで弥助さん困ってるらしいんだよ。浄吉の言い分だと、恵比寿屋の近所をウロついていたのは悪さを企んでいたのではなく、茶殻騒動を新聞で知り、矢も盾もたまらず恵比寿屋まで来たと、こう言ってるそうなんだ。それで店に来たは良いが、今更どのツラ下げて兄貴に会えばいいかわからなかったってね。


 それじゃあ最近になって植木屋から姿を消したのは? と聞いたら、兄の茂平の不審な死に様を知り、昔、博徒だった自分が疑われるのではと考え、恐ろしくなって逃げてしまったと……。しかしいつまでも隠れているわけにもいかず、父親に続いて兄貴の弔いも出来ないままで申し訳なく思い、店の焼け跡に立ち寄った所を巡査に見つかったっていう」


 恵比寿屋の事件のその後について、長二郎はそこまで一気に語った。手の中の箸をいじってそれを見つめていたが、続きを語り出す。


「弥助さんの話しだと、浄吉は兄貴を恨んでなんかいなかったと言い張ってるそうなんだ。それどころか恩を感じていると主張しているんだよ。『あのとき兄貴が心を鬼にして、金を渡さずにいてくれたのが切欠で、堅気の道に戻って来られた』、『意地を張らず、生きているうちに恩返しの一つもすれば良かった』……と、涙ぐんでるって」

長二郎は箸を持ち直し、七味唐辛子をふりかけた葱を口へ放り込んだ。沈黙に沈んでいた雪輪が番茶を出しつつ、久しぶりに口を開く。


「……では、浄吉が焼け跡を歩き回っていたのは、何ゆえだったのでございますか?」

「ああ、形見を探していたと言ってるそうだよ。茂平が使っていた鉄の煙管の事なんだけどね。知ってるかな? ホラ、兄弟喧嘩した時に茂平が浄吉を殴りつけたっていう、いわく付きのアレだよ。親の形見で、鉄製だから焼け残っていないかと探していたんだとさ」

「それは見つかったのでございますか?」

「見つかるはずないさ。焼け残り品として、警察で保管していたんだもの。あ、そうだ! 見つからないと言えばね、今度は河内までいなくなったらしいよ」

長二郎は何だか楽しそうに報告している。


「新たに佐市を雇っていた、葉茶屋の主人でございますか?」

 雪輪が静かに尋ねると、小柄な青年は無邪気に「うん」と頷いた。


「二日前、近所の人に『祟りが怖いからお祓いに行く』と言ってふらっと出かけて、それから戻って来ないそうなんだ。佐市みたいにどこかで殺されてるんじゃないかと、近所の人が心配して警察へ届けたんだよ。一応、三十間掘の辺りで見たとか、増上寺の辺りで見かけたとか細切れの目撃はあるみたいだけど、まだ行方知れずなんだよね」


 小皿に残っていたものを全部口へ入れている書生をよそに、雪輪は小首を傾げている。もぐもぐと口を動かす長二郎はお茶で全部を流し込み、また口中を空っぽにしてから話しだした。


「で、まぁ話を戻すと、とにかく浄吉は無実を主張しているんだ。でも分は悪い。たしかに今の状態じゃ難しいよなぁ。弥助さんは新聞社に茶殻不正の投げ文をしたのも、茂平の首を絞めたのも、ついでに佐市を殴り殺したのも、全部浄吉の仕業じゃないかと踏んでるんだ。弥助さんの推理だと、まず浄吉は兄貴の悪さを何処からか聞きつけ、仕返しに新聞社へ投げ文をした。その後、店に忍び込んで茂平を殺し、実は佐市にも顔を見られていて、後日口封じで殺したんじゃないかって言うんだ。


 たしかに浄吉は店の周囲をウロついていたし、茂平を恨んでいてもおかしくない。佐市が殺された時、池で棒手振が聞いていた男たちの喧嘩の声もあるだろう? だから弥助さんはもうこれで決まりだと、信じ切っているんだよ。それで浄吉自ら『参りました』と言わせる方法は何か無いかと、勢い余って僕に打ち明けたっていう」


 弥助は自分が考え付いた“浄吉犯人説”が気に入っており、手放したがらないという。そこまでの話を聞き、雪輪が尋ねた。


「田上さまは、何か違うお考えがお有りのご様子」

 思わぬ娘の指摘に一瞬驚いた表情を見せた長二郎は、すぐに笑って手を横に振る。

「いやいや、僕はカラっきしだよ」

でもそのうち、少し考える顔になって続けた。


「とはいえ、僕もいくつか不思議に思うことはあるかな。ああ、天罰とか祟りとか、そんなんじゃないよ? 例えば浄吉が兄貴を恨んでいたとして、十年も前の恨みをどうして今ごろ持ち出してきたんだろう? それに葉茶屋の不正を、何で植木屋で働いていた浄吉が知ってるんだろうって思わないか?」


 長二郎の口調はまるで、観てきた芝居の感想でも喋っているような明るさだった。表情がころころ変わる青年とは対象的に、雪輪は尚も変わらぬ無表情でそれを聞いている。そんな娘に


「ねぇ雪輪ちゃん。君ならこの事件、どう見立てる? 聞いてみたいんだ」

 長二郎は馴れ馴れしく声をかけ、好奇心の強い眼差しを向けた。途端に娘の青白い顔は俯いてしまう。


「わたくしの如きが、天下の御用に口を差し挟むなど、滅相も無い事でございます」

「いいよ、そんなの。どうせこの辺の探偵なんて弥助さんみたいなのしかいないんだから」

 笑って言う長二郎の態度を目の当たりにしても、震え続ける娘の姿勢は崩れない。けれど鳶色髪の書生に「油揚げ買ってきたじゃないか~」と笑顔で言われると、多少の義理を感じたのか。数秒考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。


「田上さまは、長屋の泥棒のお話は、お聞きになられましたか?」

「泥棒……? ああ、もしかしてこの前、西野佐市の長屋に入った空き巣の話? うん、聞いた聞いた。全く泣きっ面に蜂というか、ひどい話だよなぁ」

 娘の問いかけに長二郎が頷く。野村庵も巻き込んだ空き巣の件は千尋の口から伝えられ、数鹿流堂の一同の耳にも届いていた。と、


「おそらく長屋に入った泥棒は、佐市殺しの下手人でございます。そして茂平殺しの下手人でもありましょう」

「は?」

 突然雪輪が言い出した。長二郎は動きが止まってしまう。しかし目の前の人の反応には無反応で、雪輪は先を繋げた。


「まず、お金が盗まれておりません。最初から泥棒は、金品目当てではなかったのでございます。それでも畳を裏返すほど熱心に家探しはしておりましたから、佐市の長屋に用があったことは間違いございません。更に長屋へ泥棒が入る直前に、佐市は殺されました。泥棒は元々、佐市が『何か』を持ち歩いていると、そう思い込んでいたのでございましょう」


 雪輪はそこまで言うと視線を横へ滑らせ、隣の青年を瞳に映した。娘の身体は細かく震え続けていて、その輪郭通りに延びた影も同様に板敷で震えている。


「そこで泥棒は佐市を殺してでも、その『何か』を奪おうとしたのでは? 或いは殺すつもりはなく、『何か』の在り処を白状させようとしただけだったやもしれません。しかしながら、佐市はそれを拒んだのでございましょう。拒んだが故に、殺されたのでございます。その上、佐市は肝心の『何か』を持っておりませんでした。そこで下手人は佐市の長屋へ忍び込み、家捜しする事と相成ったのであろうと考えた次第なのでございます」


 語る娘の黒々とした瞳が、ランプの小さな灯りを反射して濡れたように光っていた。長いようで短い時間、ぼうっとして

「はぁ、なるほどね」

長二郎は口中で囁く。気を持ち直すと

「何を探していたんだろう?」

夜闇に包まれた橙色の狭い空間で、眉間に皺をよせ腕を組んだ。傍らの雪輪が、長い睫毛を伏せて再び言う。


「茂平の手紙か、何かの書状ではございませんか。下手人にとって不都合な事が書いてあるのでしょう」

「ど、どうしてわかるの?」

 長二郎の少々裏返った声で、雪輪が目線だけ横を向く。


「佐市は疑り深く、用心深い男だったようでございます。嘘も上手だったように見受けられます……疑り深い人間は、大切な物になればなるほど、出来るだけ肌身離さず持っていたいと思うのが常でございます。そして用心深い人間は、もし大切な物を何処かに隠すと致しましても、よく知っている所へ隠します」

黒光りする長い髪が、肩を幾筋か滑り落ちた。


「うん、それで?」

「佐市の子のでんでん太鼓には、『紙屑』が入っているそうでございますね?」

「あ……!」

 オンボロ袴の青年は小声で叫ぶ。


 世界はいつしか、完全な夜になっていた。

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