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真贋

 梅雨が気まぐれに少し早くやって来たような天気だった。灰色の空は低く、朝からしとしとと雨が降る。そんな中、陰気な蔵の二階に入り浸っている人々がいた。


「雪輪さんはどう思いますか」

胡座をかいた千尋が尋ねる。味も素っ気も無い蔵の壁に掛けられているのは、二幅の掛け軸。彼の視線の先にあるそれらは、どちらも幽霊画だった。


「両方本物か、片方が本物か。あるいは両方とも偽物か……」


 尋ねられているのは、色が白過ぎるほど白い女中娘。雪輪は背筋を伸ばして床に座し、沈黙している。身体は今日も細かく震えていた。千尋はこの女中に、画の鑑定をしてもらいに来ていたのである。すぐに答えない雪輪の態度にも、のんびり屋の若者は気分を害するでもなく独り言みたいに呟いている。


「オレはどっちでもいいんだけどな……」

次いで自分の膝に頬杖をつき、壁に掛けられた二人の幽霊を再び見上げた。


「このお軸は、どなたが?」

たっぷり時間を費やしてから、ようやく口を開いた雪輪が最初に言ったのは答えではなく、質問だった。向けられた質問に、身体の大きな若者は幾分膝を崩して答える。


「さっき来た人が持ってきたんです。声が聞こえませんでしたか? 池内さんといって、弥助の知り合いというか、同じく探偵をしている人なんです。ほら、桜が浚われたとき貴瀬川屋敷に居た禿げ頭……って言っても雪輪さんは会ってないか」


 千尋とてあの事件のときを含めて二度しか会ってない相手なものだから、他に説明のしようが無い。池内氏に関して何から話せば良いものかと頭を悩ませ、しばし悩み考えた末。説明の苦手な彼は、自分が知っている経緯を一から説明することにした。


「実はですね。弥助が池内さんに、この前ここで預かった袋田さんの幽霊の掛け軸のことを話したんです。そうしたら意外と書画骨董に一家言ある人だったようで……。『応挙なら自分も持っている』と言い出して、それも相当な負けず嫌いだったと見えて、わざわざ自分の掛け軸を持ってきたんです……オレに見せても仕方ないと思うんだが」


 早い話が、自分の持っている掛け軸と薀蓄を披露する機会が欲しかったのだろう。そんな池内氏が、有無を言わせぬ勢いで見せびらかしに来た幽霊画は、現在向かって右側に掛かっている。


 背景には何もなく、大きく描かれた長い黒髪の女が、中ほどにぼうっと浮かんでいた。白い着物に乱れ髪。下に行くほど霞んで消える身体。切れ長の目と円やかな頬の線が美しい。恨みつらみを残して死んだ女というより、優しげな妻や母の面影を漂わせる幽霊だった。


 池内氏が『本物を見て研鑽を積め』と言うので、千尋と弥助は大人しくコレを拝見する事にした。すると更に池内サンは千尋に命じて袋田氏の掛け軸を持ってこさせ、二幅の軸を並べたのである。そして他人の掛け軸を見て「これはいけない」と言い、『応挙にしては品が無い』、『柳の描き方が駄目だ』と良い気分でやっつけていた、その最中。タイミングの悪いことに、袋田氏までもが自分が預けた画の様子を見に、古道具屋を訪ねてきたのである。


 自分の幽霊がやっつけられているのを知った袋田氏も、黙ってはいなかった。理髪床屋の稼業で舌先三寸なら鍛えている。


 床屋の主は池内氏に一歩も引かず、相手の幽霊画に対し、こちらこそ贋作に違いないと主張した。そして『線が荒い』、『余白が素人』と言い、最終的には『目に精気が無い』とコテンパンである。精気みなぎる眼差しの幽霊画というのもあまり想像がつかないが、そこは問題にならなかった。薀蓄や発言内容はともかく、勢いでは袋田氏が勝ってしまったから事態は余計にややこしくなる。


 このように(割とロクでもない理由で)一触即発となっていた古道具屋の数鹿流堂。ちょうどそこへ若い探偵が飛び込んできた。


「幸い……って言うのも何だが、新入りの探偵が弥助たちを探して呼びに来たんですよ。いやー……助かった。それで弥助も池内サンも行かなければならなくなって、幽霊勝負はウチで預かることに」

短く刈った髪を掻き掻き、情けない笑みを浮かべて千尋が言う。よっぽど困ったのだろう。


 だがこれで終わりと思いきや、帰りがけにおっさん連中は思わぬ宿題を残した。荒んだ目で千尋に「どっちの本物に票を入れるか決めておけ」と命じたのだ。結果は後日聞きに来るという。千尋はどちらに軍配を上げても揉めそうなので決めかねて、雪輪の意見を聞きに来たのだった。放っておけばいいものを、それは出来ない不幸な性分なのである。


「しかし弥助も忙しいなぁ。恵比寿屋の事件は、この前犯人が捕まったようだが」

大急ぎで飛び出していった探偵たちの姿を思い出し、何気なく千尋は呟く。すると青年の言葉に


「……あの事件、御用となったのでございますか?」

意外と雪輪が反応した。日頃無口な娘が自ら話しかけてきてくれたのが何だか嬉しくて、つい千尋はにこにこしてしまう。


「ええ。茂平の弟の浄吉が捕まりました。そうだ、たしかこの新聞に……」

掛け軸達が雨に濡れないよう油紙の代わりに包んできた、昨日の新聞を手に取る。そして「あったあった」と言いながら、捲った新聞の一頁を「これです」と指差した。


『一昨晩の十時頃、A町を巡行せし巡査。葉茶屋、恵比寿屋の焼け跡にて、懐手に行きつ戻りつする男を遠目に認め、怪しからんと早足に近寄られると、男はそれと知らず「兄き、すまぬ」と言い泣き伏したり。巡査が「オイ、コヤ」と呼びとめるに、顔を手拭でかくし逃げのくのをすかさず巡査飛び掛かり、直に取り押さへれば、顔面青ざめし三十ばかりの男。手向かいもせずおめおめと召し取られ、最寄りの分署へ引き渡されしとぞ。是は先日の火事で焼き失せし恵比寿屋の主人、茂平が弟、斉藤浄吉なり』


 それは恵比寿屋の事件に纏わる記事だった。


「お店の前にいて、捕まったのでございますか?」

震える指で新聞を持ち、記事を見つめたまま雪輪が尋ねる。何を見ても無表情で反応の薄い娘が、どうやらこの件には興味があるようだと察して千尋は目を瞠る。そしてまるで、子供が蜻蛉に逃げられないよう息をひそめるような緊張感でもって、雪輪へ事件のあらましを説明しはじめた。


「それが、どうやら捕まる理由もそれなりにあって、警察も浄吉を探していたそうなんです。弥助の話だと、茂平と浄吉の母親は早くに亡くなって、二人とも子供の頃から父親を手伝っていたようです。でも麦湯売りが嫌だったのか、弟の浄吉は家を飛び出してしまい、一時は博徒をしていたとか……。


 そういえば十年前に茂平が弟を追い返したって話がありましたけど、あれは浄吉が兄貴のところへ、博打の金を無心しに行って断られた末に、喧嘩別れになったっていうのが真相なんだそうです。それっきり兄弟の関わりが切れてしまったもんですから、浄吉の働いていた植木屋では、浄吉に家族や兄貴がいることすら誰も知らなかったと言っていました」

と、先達て弥助から聞いた話を丁寧に物語る。


 相変わらず口の軽い弥助は、古道具屋の書生達に仕事の愚痴や手柄話をするだけでなく、事件や捜査の概要まで話していた。弥助はボンクラ書生三人組なら、事件のことを話したところで大して問題は無いと考えているらしい。下手をすると、牛馬や犬猫に喋るくらいの心持ちなのかもしれなかった。それはそれで酷い。


「真相と言えば、恵比寿屋の近所の人が見た、店の周囲をうろつく男の正体も浄吉だったんです。どういう風の吹き回しか、火事の一カ月ほど前から浄吉は恵比寿屋へ通って来ていたんですよ。父親の葬式のときには顔を出さなかったってのに。それで警察……というかまぁ、弥助なんですけど。これは怪しい、と。浄吉が茶殻の事件で兄貴が弱っている事を聞き知って昔の仕返しを企み、茂平を殺して店にも火を放ったんじゃないかと嫌疑を掛けているわけで……」


 雨が屋根を打つ微かな音と千尋の話を、雪輪は何も言わずに聞いている。そおっと青年が問いかけた。


「やっぱり……弥助の言う通り、浄吉が茂平を殺したんでしょうか?」

問われた雪輪は震えながら黙っていたが

「蔵の鍵は?」

ぽつりと尋ねた。


「え?」

「恵比寿屋の蔵は外より、中の方が酷く焼けていたと小耳に挟みました……兄弟とはいえ、家を出て長い浄吉でございます。火付けの犯人であるならば、どのようにして鍵を開けたのでしょうか?」

一言ずつゆっくりと並べられていく娘の疑問に、千尋が「ああ」と合点して頷く。

「それなら簡単です。蔵に鍵がかかっていなかったんですよ」

にっこり笑って答えた。


「これも弥助が言っていたんですが。最後の頃の恵比寿屋の蔵には、金目のものなんか入っていなかったそうです。せいぜい古い帳面が納められていたくらいで。あちこちから返品された山のようなお茶の葉が溢れて、扉なんか閉められなくなっていたと……。だから浄吉が茂平殺しと火付けの犯人であったとしても、おかしくはないんですよ」


 恵比寿屋が焼けて無くなる前。弥助たちが調べに入った際、佐市に案内された蔵は行き場を失った茶葉の箱や袋が天井まで積み上げられ、惨めな有様だったという。


「左様でございましたか」

千尋の話しに納得したのだろう、雪輪が静かに俯く。或いは頷いたのかもしれない。千尋は何だかとても『会話』らしい会話になってきた気がして楽しくなった。


「雪輪さんはどう思いますか? 実はオレは、女中のおみかが一等怪しいような気がしているんです。ずっと恵比寿屋の中にいて何でもよく知っていたし、茂平の死体の第一発見者もおみかだ。どうでしょう?」

身を乗り出して推理を披露してみる。が


「さあ? わたくしには、わかりかねます」

雪輪からは全く愛想無しの短い答えが返ってきた。言われた側は、『ありゃ?』と面食らう。少し馴染んでくれたように感じたのは自分の思い込みだったようだと気がついて

「あ、ははは、それはそうだ」

あたふた手を振り、適当なことを言った。そして


「じゃあ、こいつはわかりますか?」

壁に掛けられた二幅の掛け軸を指差し尋ねる。白い娘と居候下宿の責任者は、再び二人の幽霊を見上げた。雪輪が震える指先を伸ばし、掛け軸の端を摘まみながら画を見つめている間、千尋は白い横顔をこっそり眺める。


――――不思議なもんだなぁ。


 手品でも見ている気分で雪輪を眺めている。眺める対象は娘そのものというより、その佇まいだった。


 雪輪はいつも全身が小刻みに震えている。『餅』が原因という由来も奇妙だが、震え方も妙だった。手だけ、足だけが震えている人は千尋も見たことがある。体中が震えているのも具合の悪い病人ならまだわかる。しかし雪輪のように全身くまなく、一日中震え続けているというのは見たことも聞いたことも無かった。


 何より不思議なのは、絶えず震えていても雪輪はきちんと正座をしていられるのである。歩くのも問題ない。時には小走りしたりする。お茶や水を運ぶのも、上手にやってのける。あれはどういう仕組みになっているのだろうかと、柾樹や長二郎らと議論したこともあった。答えなど出なかったけれど。


 そんな考え事に耽っていた千尋の前では灰色の着物をまとった娘が不自然に身を震わせ、異様に切れ上がった黒い瞳で、尚も幽霊の掛け軸を見つめている。まるでこの娘自身が、古い掛け軸から抜け出てきたようにも見えた。そうして


「……真贋は、わかりませんが」

長らく画を観照していた雪輪は千尋の方へ向き直ると、床へ指先をついて言う。


「わたくしは、左の方が美しい画のように存じます」

「おお、袋田さんの方か」

「しかしながら、右の画には落款がございます」

「え、本当だ。そうか、だから袋田さんの方は何か物足りない感じがしたんだな……。それじゃあ、池内さんが持ってきたこっちが本物ですか?」

「わかりません」

少し頭を上げた娘はきっぱり言い切った後、またゆっくりと床に指先をつき、身を低くして先を繋げる。


「浅学非才の身で、このようなことを申し上げるのも恐れ多いとは存じますが、もし皆々様が、まことに真贋の見極めをお望みでございますならば。その筋にお詳しい方の元へこちらの軸をお持ちになり、雌雄を決するのが最も早道かと存じます」


 面白くも何とも無い正論を言う。それでも実際、素人が雁首を並べて議論したところで真贋も薀蓄もあったものではない。残念ながら千尋はこんな簡単な事を、この瞬間まで一度たりとも思い浮かばなかった。


「あ………そうだな」

間抜けな言葉と空気とが、溜息のように口から外へ流れ出た。

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