大鴉仙娥
その晩、柾樹は夢を見た。
夢の中で、柾樹は知らない町にいた。日本橋の本町通に似ていた。でも道幅が三倍ほども広く、左右には等間隔で赤いガス灯が並んでいる。柾樹は目抜き通りのようなその場所で、影を映す足元の白い石畳が綺麗だなと考えながら歩いていた。
白昼と思しき街角に人影は無く、物音もせず、戸が開けっ放しの店らしき建物にも気配がしない。どうして自分はこんなところにいるのだろう? とは、少しも考えなかった。ただ知らない場所で、「昼時なのに、これじゃ飯も食えないな」とだけ思った。
人影が無いのも変だが、それ以外でも変な町だった。
通りに並ぶ家々は皆、やけに大きかったり、反対にとても小さかったりして町並みがデコボコ。どれも二階建てか三階建てで古びた硝子の瓦屋根を乗せ、色とりどりの提灯が軒先を縁取っている。頭上では紐で繋がった旗が家と家とを結んで、満艦飾のように幾重にも道の上でたなびいていた。
しかしよく見ればそれは旗ではなく大小の着物や帯や布で、小袖幕みたいになっている。どの着物も目に刺さりそうな鮮やかさ。模様も様々だった。華やかさが売り物の遊郭だって、ここまでケタタマシイ色は中々見ない。
他にも何か軒先にぶら下がっていると思って近付いてみたら、きらきら光る薄い金物のお面だった。銀色の狐の面である。それが魚の干物の如く、荒縄で何枚もまとめられてぶら下がっているのだ。
――――なんだこりゃ?
怪しみながら隣の家の方を見ると、そちらの壁には緑色の天狗の面がぶら下がっていた。こちらは物凄く大きい。子供が中に入って行水できそうな大きさである。でも面の大きさには関心が向かわず、「ああ、ここは天狗の家なのだ」と、極自然に理解していた。
こんな調子で家々の軒先にある猿面や風車をふらふら見て回っていくと、曲がり角で声が聞こえる。
――――誰だろう?
声に導かれ細い路地に入り、道を抜けた先で一気に空が広がった。
空は青藍に輝き、彼方では石灰で作ったような入道雲が幾つも峰を形成している。そして眼下には今まで見たのと同じ風な家々が、地平線まで地面を埋め尽くしていた。都市全体が薄い水の中に浮かんでいるようで、柾樹はその高台にいる。横を見ると、目の前には小舟の浮かぶ涼しげな水路があった。川沿いの柳の下には、赤い傘を差しかけた縁台。そこに大きな赤毛の猫と、これまた大きな鴉が座っていた。
「火乱じゃねぇか」
知り合いに会った気分で柾樹は声をかけた。名を呼ばれた赤猫も顔を上げ、こちらを見た。
「何や兄ちゃん、来たんか」
大きな猫は緑色の目を瞬き、上方の言葉に似た変な人語で答える。無駄に男前な声だった。いつもは柾樹が近づこうとすると逃げる猫だが、火乱は長い尻尾を揺らし、青年へ親しく声をかけてくる。そして揺れるその尻尾は、二本だった。
「よう来たなぁ。道に迷わへんかったか」
「ああ、舟で来た」
「おー、舟か。あれが一番やな」
舟に乗った記憶も無いのに柾樹はそう答え、火乱もうんうんと頷いている。頷く火乱を見下ろす柾樹は、こいつはこんなに変な上方訛りで喋る猫だったのかと驚いていた。
ちなみに上方の言葉について、柾樹は殆ど無知である。でもこの猫の上方言葉は何か変だと感じた。だが猫だから仕方ないかと、わかったようなわからないような理屈で柾樹は腑に落ちてしまった。それに猫とのやり取りがおかしいことや舟云々以上に、縁台に腰掛けて(というか蹲って)いる大鴉の存在感が有り過ぎて、どうしても注意がそちらへ向く。柾樹は鴉と猫の隣に腰掛け、少し身を屈めて鴉に尋ねた。
「お前昨日、恵比寿屋の所にいた鴉だろ?」
「ありゃー……、やっぱり見でだんだべな」
柾樹の指摘に巨大な大鴉は首をすくめ、枯れたような声で呟く。
鴉なんぞはみんな真っ黒で、この鴉も個性を示す特徴といえば身体の大きさだけだった。おまけにあの時より大きいけれど、恵比須屋の焼け跡で見た鴉と同一人物(?)だったようである。こちらも火乱と同様、イントネーションが不自然だった。別の言語体系に属しているのかもしれない。その上、言葉には東山道方面を彷彿とさせる何かが混ざっている。
「そりゃ見えるだろ。これだけデカけりゃな」
「はーあ。これでもいづもよりかは、こぢんまりしてるづもりだったんだどもなー」
「……お前らもっと普通に喋れねぇのか?」
「何言うてんねん、仙娥もわいも普通やないか。なぁ仙ちゃん?」
「んだんだ」
猫と鴉は少々憤慨した様子で言い返してきた。どうやらこの鴉は名前を『センガ』というらしい。それにしても大きな鴉だった。火乱もそうだが、猫や鴉にしては規格外のサイズなのである。火乱は虎と見紛う巨体になっており、大鴉の方もこれに等しいのだ。でかい。でか過ぎる。しかし何故か柾樹は、これも特におかしいと思わなかった。
「そないなことより、眼鏡の兄ちゃん。甘酒でも頼んだらどうや?」
藪から棒に火乱が甘酒を勧めてきた。猫と鴉の傍らには、それぞれ団子と甘酒が並んでいる。どちらも鮮やかな赤や青の色をした硝子の器に入っていた。
「ここ、ヒトいるのか?」
「柏手打ったら出てくるで。お賽銭無いなら、おにぎり放ればええんや」
「おにぎり? 握り飯か? 持ってねぇよ」
「ほな、その辺の草でも引いてきたらええやん」
とにかく何でもいいから供出すれば、甘酒が飲めるシステムのようである。夢の中の柾樹は、この無茶苦茶な火乱の言葉を素直に信じた。
――――草ねぇ……?
そう思いながら、綺麗に石畳で舗装されている川辺で草を探し始める。道端をうろつく柾樹をよそに、縁台の火乱と仙娥がボソボソ話しの続きをしているのが聞こえてきた。
「まだ動く気配はねぇんだ。だがらそれほどご心配はいらねっすと、ひい様にお伝えを……」
仙娥が重々しい言を述べている。火乱は丁寧に舐めていた前足を下ろすと、大きな目を細めた。
「時間はあるっちゅうこっちゃな」
「だどもなぁ、『無名の君』の結界が二つも消えたべ? お陰で土々呂がぞろぞろ集まって来てんだぁ」
「古峰ヶ原もか。一々追い払っとるんか? そら難儀やな」
唸った火乱は右前足の肉球で自分の狭い額を押さえている。
全体的におかしな二匹のやり取りは、人間には非常に聞き取り辛く、柾樹はイライラしていた。だが話の途中で聞き取れた『無名』の名にハッとする。これはもしや雪輪が以前話していた、山の主のことではないだろうか? 草を探す手は止めることなく、猫と鴉の深刻そうな会話に聞き耳を立てていた。二匹は縁台の上で箱座りをしたり、黒い羽毛を震わせたりしながら話しを続けている。
「そういーば、轟刑部が動いだんだぁ。ひい様の輿入れ話さ、進めんだど」
「何や、御大まで口出しするんかいな?」
「んだ。それで轟刑部のお使者の二重殿が、この前古峰ヶ原へお出でになってよ。『ワンナギ姫のお輿入れを恙無く進めるため、貴殿とその郎党はくれぐれも手出し無用』と、わざわざ釘刺して行っだんだー」
しわがれた低音で仙娥が言う。『ワンナギ姫の輿入れ』と聞き、柾樹は「ほお」と完全に手を止めた。雪輪が嫁に行くという。眼鏡の青年は収穫であるネコジャラシを手に縁台へ戻ると、どかっと腰掛けた。
「火乱、そのトドロキギョウブってのは何だ?」
「ん? 伊予のお狸さんに決まってるやないか」
割って入ってきた青年に、猫は一応そう返してくれるも
「それで、古峰ヶ原の大将は、どない答えたんや?」
またすぐ仙娥へ話し相手を戻した。仙娥は黒い嘴で巨大な自分の羽を撫でつつ答える。
「あいわがっだど」
古峰ヶ原の何者かは、『相分かった』と答えたのだろう。
「雲竜坊ならそう答えるやろな。それにしても、伊予の御大も随分慌ててはるなぁ?」
「まぁいづもの事だべさ~。布引姫との力比べだべ。それに近頃じゃ、刑部子飼いの者達も露西亜と戦う、戦わねぇでモメでるっで噂だぁ。周りにお力を見せつけておく必要もあんだべ」
「はー、伊予のお膝元も浮足立ってんねやなぁ……」
ゴソゴソと縁台で座り直した火乱が、気の重そうな声音で呟いた。
まさか狸たちが露西亜の動向で紛糾しているとは思いもせず。意外と真面目な狸の政治情勢に感心していた柾樹は、いつの間にか自分の傍らに甘酒の入った黄色い硝子の茶碗が置いてあることに気が付いた。見れば地面を水のように這って来た影が、お代として縁台に置いたネコジャラシを持ち去っていく。柏手は打たなかったが良いのだろうか? と思いながら店の方へ消えていく影を見送っているうちに
「布引姫の奥女中が、こっちさ来でるって話しだけんど?」
今度は鴉の方が思い出した風に、赤毛の猫へ別の問いを向けた。
「あの役立たずな。『霧降』を探しとるらしいで。播磨の姫御世も何であんなんに命じたんや。食い意地だけのアホに出来るんかいな」
猫と鴉はそう言って互いに首を捻り合い、ここでようやく会話が一旦止まった。器用に甘酒を飲み始めた二匹に、柾樹は「テメェら」と、およそ誰かに質問をする口調ではない口調でもって声をかける。
「その『無名の君』とかいうのは、もしかして雪輪に餅を食わせた奴か?」
目つきの悪い銀縁眼鏡が再び向けた質問に、赤毛の大猫が舌なめずりして目を瞬いた。
「もち? 餅か。ははぁ、なるほどそう見えるわなぁ……」
「何なんだ、そいつは? どういう奴なんだ?」
柾樹の問いかけには、仙娥が黒い嘴をぱたぱたと開け閉めして答える。
「映し世に『形』のある、最後の大物だべ」
「オオモノ?」
呟いた柾樹の声に、火乱が白いヒゲを撫で撫で顔を上げる。猫は左右の耳を一回ずつ回すと
「無名の君に喧嘩売るんか? せいぜい気ぃつけや、兄ちゃん」
緑色の双眸を光らせ、ニヤと笑った。
………という。ここまでが、柾樹が見た夢の内容である。
***
目を覚ました柾樹は紺碧の闇の中、埃っぽい天井をしばらく睨んでいた。一人部屋として占拠している四畳半の離れの中は、まだ夜と言って良い暗さである。微かに聞こえる鳥の声でそろそろ朝だとわかったが、身体に力が入らず、だるくて動かない。動かない身体の中で、今見た夢をなぞっていた。
夢というものは大体、目が覚めた途端に記憶が薄れて泡のように消えてしまうものだけれど。どうしてか今の夢は火乱達の声など、細部まで気味が悪いくらい生々しく思い出すことが出来た。『人は見たいと思っているものを夢に見る』という、どこかで聞いた話し思い出した。あんな景色を見たいと思った事など、一度たりともないというのに何故。そして今まで感じたことが無いくらいの、この重い疲労感は一体何なのか?
不愉快で眠いので、このまま二度寝してしまいたかった。だが今朝に限って猛烈に喉が渇いてくる。仕方なくだるい体を持ち上げ起き出した柾樹は、渡り廊下を越えて台所へ向かった。
「うん……?」
寝起きの顔で覗き込んだ薄暗い台所では、既に雪輪が朝飯を作っている。竃の煙と赤い火が、ぼやけた目に映った。雪輪は今まで襷掛けのみだったのだが、今日は白い洋風のエプロンを着用している。先日鈴が持ってきてくれて、千尋から改めて支給された例のエプロンだった。これがまた、奇跡のように似合わない。
寝惚け眼で佇んでいる青年に気付いた白い娘は、まな板で大根を切っている手を止めた。柾樹の方へ向き直り、板敷きへ指をつく。
「お早うございます」
お辞儀する雪輪の身体全体が、常と変わらず震えているのが離れていてもわかった。聞こえなかったわけでも無いけれど、柾樹は挨拶を返さない。この娘にわざわざ返事をしてやるなど惜しいという気分が、初めて会った日からずっとある。
無言で土間へ下りると、柾樹は柄杓で水を飲んだ。これでかなり目は覚めたつもりだった。しかしまだこの時、柾樹は寝惚けていたのだろう。眼鏡を外し眠い目をこすると、隣で野菜を鍋へ投入していた雪輪に
「……お前、嫁に行くのか?」
掠れた声で、ボソッと尋ねた。夢現で自分が何を言っているのか把握していなかった。いきなり『嫁に行くのか』などと質問をされた娘の方は、鍋の蓋とおたまを手に、一瞬その震えまでもが止まっていた。
「……は?」
「……え?」
互いの目が合う。ここでやっと、柾樹は意識が通常の状態に戻った。己が発言を理解すると同時に、顔から火が出そうになる。夢を真に受けるなど馬鹿者のやることだと考えている方なので、尚の事だった。「違う、違う」とうわ言みたいに言い訳した末、寝癖でぐちゃぐちゃな金茶色の髪を掻き毟ると
「何でもねぇよッ」
言い残して台所から逃げだした。




