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Apron

 鈴が古道具屋を訪ねてきたのは、書生たちが内職でスッタモンダしてから二日後の、午後をだいぶ過ぎた頃だった。


「それで、この前お話しした前掛け。持ってきたんです」

「わざわざ悪いなぁ」

「いいえ」

 一人で留守番をしていた千尋が迎え入れると、鈴は一度はそう言って屈託なく笑う。


「ただ、あのぉ……あたしが考えてたのと、ちっと違う前掛けで」

 その後、少々気まずそうに断りを入れた。

「コレなんですけど……」

 言いながら風呂敷包みを開き、板敷きへ広げて見せる。

 それは西洋風の真っ白なエプロンだった。裾にはひらひらしたフリルの縁取りが施されている。白いエプロンを真ん中に、二人ともしばし沈黙した。


「よく聞いたら、あたしの親戚のおばさんが持ってきた前掛けでした。おばさん神戸に住んでるんです。何年か前まで異人さんの家で働いていて、そこをおいとまする時にもらったんだって、おっ母さんが……」


 鈴にそう言われて見慣れぬ白い布を見下ろし、千尋は途方に暮れた顔になる。白いエプロンを、恐々と手にとってみた。繊細な見た目よりゴワついた質感。呉服屋の倅は布に対して、丈夫そうだなという印象を受けた。


「西洋料理の店で見たなぁ……どうやって結んで使うんだコレ? 柾樹なら知ってるかな? ……知らないか、アイツは」

 最も西洋に近い暮らしが身近にあるくせに、あんまり役に立たない銀縁眼鏡の友人を思い浮かべ項垂れた千尋を、痩せっぽちのおさげ娘が励ました。


「そこは心配御無用です、教わってきました! やってみますね。この紐を、こうやって肩から背中に垂らして……」

「ふんふん」

 説明して白いリボンをくるくると器用に背中で結び、濃鳶色の長いおさげが振り向いた。元気なたんぽぽ色の着物に、大きめの白いフリルがよく映える。


「こんな塩梅です」

「おお! 面白いなぁ、こうなってたのかぁ。それにしてもよく似合うじゃないか。いいのか、こっちで貰って?」

「はい。うちで仕舞いこんでいても勿体無いですから」

「店で鈴が使えばいいじゃないか」

「やややや、こんな舶来物、あたしには無理です! 恥ずかしくって……!」

 娘は照れたみたいに微笑んでいた。

 そして師範役の鈴と弟子の千尋が、何度か蝶結びの練習をした後。


「あ、そうそう……昨日の話しなんですけどね、ウチの近所に泥棒が入ったんですよ」

 蕎麦屋の看板娘は、思い出した顔で言った。

「ええ? 野村庵は無事だったか?」

 千尋が尋ねると、エプロンを畳んでいた娘は健康的に日に焼けた顔で頷く。


「はい、お蔭さまで。それにウチは盗まれるようなモノなんてありませんから」

「そうは言ってもな。近頃物騒な事件が多いなぁ?」

「ホントに」

「それにしても、近所って一体何処の家に入ったんだ?」

 本格的に話を聞く体勢になり、千尋がまた尋ねた。


「西野さんていう家です。女房が『あさひ』さんていうんですけど。昨日の夜、ウチの店にあさひさんが坊やのヨシオちゃんを抱えて飛び込んで来たんです。お湯屋から帰ったら、家の中が荒らされて滅茶苦茶になっていたんですよ。それで吃驚してウチの店へ逃げてきて……もう大騒ぎ」


 鈴の両親は幼子を抱えて取り乱す若妻の分まで、あちこち走り回ってやった。

 警察を呼び、周辺に怪しい人物がいないか捜索し、荒らされた家に近所の人々と乗りこんだりもした。手に手に棒や箒を握って人々が向かった狭い長屋の一室は、酷い有様だったという。障子は破られ小さな戸棚や火鉢はひっくり返り、ご丁寧に畳まで裏返しにされていたとのこと。


「被害はどうだったんだ? 何か取られたのか?」

 千尋の問いに、鈴は迷ったような何とも言えない表情になる。

「それが……何も盗まれなかったそうなんです。戸棚に入れてあった十五円も無事だったって」

「へぇ? 家探ししたくせに金に気がつかなかったのか。間抜けな泥棒だなぁ」

「ええ、お調べに来た警察も呆れてました。そのくせ、犯人の手掛かりは殆ど残っていないんです。その時、長屋にいたのも耳の遠くなったおばあさん一人だけだったもんだから、気がつかなかったみたいで」


 泥棒は相当騒がしかったろうに目撃者は無く、耳の遠い老婆への聞き取りも徒労に終わった。僅かに残っていたのは現場の草履の跡と、足跡の大きさからして余程力持ちの大男ではなかろうか? という頼りない憶測だけだった。


「命にかかわるような害が無かったなら、不幸中の幸いかなぁ」

 後ろ頭をぼりぼり掻いて千尋が言うと、幼さの抜けない丸顔を暗くして鈴も俯く。

「はい……でも、あさひさんは、これも天罰じゃないかって気にしてて……」

 細い指は、長いおさげの先を無意識でいじっていた。


「それにあの家、今はあさひさんとヨシオちゃんしかいないから、尚のこと気の毒なんです」

「亭主は? いないのか?」

「それが……」

 青年の質問に返答の淀んだ鈴だったが、今度はやや声を控えめにして言う。


「佐市さんていうんですけど。白岡さん、葉茶屋の恵比寿屋さんが火事になった話は知ってます?」

「ああ、知ってるが……え? もしかしてこの前、殺された? ……あ、それで『天罰』か」

 恵比寿屋の名が出てきて、千尋も色々と合点がいった。西野佐市が殺された件は、先日の新聞で目にしていた。


「はい。佐市さん、最後まで恵比寿屋で働いていたんです」

「あの人か……あれ? でもたしか手代じゃなかったか? もう嫁取りしてたのか」

 別の部分でも少々驚いている青年の言葉に、おさげ娘が微笑んだ。


「二年くらい前って言ってたかなぁ? 女郎上がりだったあさひさんと佐市さん。お互い惚れ合って、どうしてもすぐに一緒にさせて下さいましって、恵比寿屋の旦那さんに頼みこんだんだそうです。そうしたら恵比寿屋さんも、所帯のある方がよく働く、古いやり方に縛られちゃあいけないと言って認めてくだすったそうなんですよ」

「自分は独り者だったのに?」

 話しを聞いて千尋は思わず笑ってしまった。それを見て鈴もまた小さく笑い返す。


「ウチのお父っつぁんは、だからこそ勧めたんじゃないかって言ってました。自分が古いやり方の中で、誰かと所帯が欲しくても中々持てなかったのかもしれないって……。あたしはよく知らないんですけど、大きなおたなはそういうものなんですか? 手代じゃ所帯持てないんですか」

「うーん……まぁ、人や店によりけりじゃないか?」

「へーえ、そうなんですか」

 感心したような鈴の話を聞き、千尋はささやかな驚きでぼうっとしていた。


「そうか……そんな人が、欲に目が眩んだばっかりになぁ」

 呟いていたその横で、娘は更に事件の続きを説明する。


「あ、それで結局、恵比寿屋さんはあんな事になったでしょう? でも佐市さんは幸いすぐに、茶問屋の河内屋さんていう店で働けるようになったんです。あさひさんの話だと、以前河内さんが恵比寿屋さんに借金が返せなくて困っていたとき、佐市さんが気を利かせて、コッソリうまく取り計らってやったことがあったって。そうしたら今度の事件で、女房や赤ん坊もいる佐市さんに職が無いのを知って、『今度はうちが借りを返す番だ』と、河内さんが雇い入れてくれたとか……」

「そうだったのかぁ。情けは人のためならずってやつだなぁ」

 千尋が言うと、鈴は目を伏せた。


「あさひさんも運が良かったって、喜んでいたそうなんですけどね……佐市さんはあんなことになるし、ひどい空き巣まで入るんだもの」

 近所の住民達が駆けずり回っている間、蕎麦屋の中であさひは泣きっぱなしだったという。話を聞き、千尋も頷いた。


「これだけ重なれば、泣きたくもなるよなぁ」

「随分と落ち込んでいました。だからあさひさんが落ち着くまで、あたしがヨシオちゃんを預かって」

「子守りまでしてやったのか? 大変だったな、鈴も」

「いいえ、ちっとも! ヨシオちゃんてね、おっ父つぁんのでんでん太鼓さえあれば、ご機嫌でいてくれる子なんですよ」

「でんでん太鼓?」


 千尋も久しぶりに聞く固有名詞だった。でんでん太鼓。柄のついたおもちゃの太鼓は、左右に小さな振り子がついている。振ると振り子が太鼓を叩いて、可愛い音がした。


「これがね、ちっと特別製の太鼓でヨシオちゃんの大のお気に入りなんですよ。横浜へ行く前の晩、ぐずるヨシオちゃんのために佐市さんが細工してやったとかで。太鼓に紙くずが入れてあってね、振ると太鼓の音の他にシャラシャラ音が聞こえて楽しいんです。でもまさか、それが親の最後の思い出になってしまうなんて……」

「そうだな……これからあさひさんはどうするんだ?」

「ヨシオちゃんを連れて実家に帰るそうです。親御さんも戻ってこいと言ってくれてるそうですし」

「そうか。せめてこれからは、穏やかに暮らせると良いな」


 微かに笑った千尋につられて鈴も「はい」と頷き微笑み、葉茶屋の話が一旦落着したときだった。

 裏の木戸の方から、賑やかな話し声が聞こえてきた。若い娘と、鈴も聞き覚えのある若い男の声。誰が来たかと考える暇も無く、勝手口から顔を出したのは柾樹と桜だった。


「うげ」

「どわ」


 お互いの状況を視認した瞬間、野郎二人が揃って変な声を出す。でも鈴は彼らの声より、柾樹と一緒に戸を潜って現れた美しい娘に目が釘付けになっていた。


 色白で整った顔立ち。すらっと伸びやかな身体は女らしい曲線で、鈴みたいな痩せっぽちではない。『いぼじり巻き』風に編み込まれた薄茶色の髪には、赤いリボンが飾られていた。束髪と和服の組み合わせは「頭と身形が別物」などと言って笑われる事もまだまだ多いのに、この娘の上ではそれらが違和感なく調和している。鮮やかなパステルカラーに包まれた娘の登場で、薄暗い土間周辺が一気に華やいだ気がした。柾樹一人でも派手なのに、こんな娘が並んで立っていると、彼らの周囲だけ別世界である。


 娘に見惚れ、鈴は挨拶も忘れてしまった。ホケ~ッとしていたその矢先。何となく目の合った柾樹が、にっこり笑いかけてくる。


「いま帰った」

 らしからぬ笑顔を向けられ心臓が飛び上がった鈴は、同時に身体も飛び上がった。


「お、お帰んなさいましッ!」


 女中でもないのに。真っ赤な顔で直立不動し、物凄い速さで身体を深々と二つ折りする。

 すると鈴の裏返った大声で金縛りの解けた束髪の娘が、のろのろと柾樹の方を向いた。ピンク色の唇を無駄に何度も開けたり閉めたりしながら、銀縁眼鏡に確認する。


「……こ、こ、この子、が?」

 つんのめるような問いかけに、柾樹はさっきから引き続いての笑顔で答えた。

「可愛いもんだろ?」

「え」

 柾樹に『可愛い』などと言われて鈴は頭が真っ白になった。呼吸を含めて動作が止まる。だが実はもう一人の束髪の娘、つまり桜の方が石化は深刻だった。ただでさえ大きな目を見開き、せっかくの整った顔はおかしな具合に崩れた状態で固まっている。


 その桜が、突如グラリと傾いた。そして後ずさった次の瞬間、外へ飛び出して行く。


「ああああああッ! ちょッ! 待て! お前何か誤解してるだろーーーッ!!」

 千尋が大慌てで娘を追いかけ、下駄を突っかけて勝手口を飛び出した。叫ぶ声が、屋外から聞こえてくる。人々の声と足音はみるみる遠ざかり、古道具屋の土間には鈴と柾樹が取り残された。


「え……と……あ、あの……今の、方は……?」

 嵐のような出来事で呆気にとられる鈴に、普段の仏頂面に戻った柾樹が溜息と共に答えた。

「この前、鈴にもここの女中の話ししただろ? それでな……」

「ええッ!?」

 柾樹が言いかけた言葉を聞くなり、長いおさげがビックリ顔で叫んだ。


「じゃ、じゃあ、あの人が!? あ、あんな綺麗な人が女中働きを……!?」

『女中』という単語が出てきただけで桜と女中が直結してしまい、鈴は一人で大混乱していた。蕎麦屋の娘はあたふたして、髪を撫でたり着物の裾を直したり。


「な、なんだぁ……田上さんの言ったこと本当じゃないですか。八十歳はともかく容姿絶色って。や、やっぱり相内さんたちは、住んでる世界が違うなぁ……」


 早口で呟き、おさげ娘は一人で混乱が加速している。

 鈴の言葉の意味がまだわかっていない柾樹は「?」という顔をしていた。見上げた先でその表情を見つけた蕎麦屋の娘は、もっと弱った表情になってしまう。


 そしてもっともっと慌てた様子で

「そ、それじゃ、あたし……これで! お、お邪魔いたしました!」

力一杯お辞儀して顔の赤みが引くのも待たず、小走りで古道具屋を出て行った。


 やがて鈴と入れ違いに千尋が戻ってきたわけだが。いつもなら穏やかな青年は汗にまみれ、胸倉を掴む勢いで柾樹に食って掛かってきた。


「どうしてくれるんだ桜の奴、完全に勘違いしていたぞ!? 何だか知らんが往来の真ん中で『良かったわね可愛いお女中さんじゃないの! あれじゃ隠したくもなるわよね、そりゃそうよね! わかるわかる! 安心してちょうだい! おかるおばさんに何か聞かれてもスペシャルビゥティな八十歳だって答えるから! 女に二言はなくってよ!』とか喚き散らした挙句、人力車追い越す速さで帰っちまったんだよ、うああああああ! どうしてアイツはあんなに俊足なんだ! いやそんな事どうでもいい! アイツ本当に大丈夫か!? うちのおっ母さんに余計なこと言う気じゃないのか!? 何だか物凄くマズい気がする、馬鹿野郎どうして連れてきたーッ!」


「うるせぇ、成り行きだ成り行き! 帰ってきたら表の板塀にへばりついて中を覗こうとしている奴がいて、とっ捕まえたら桜だったんだよ! そしたらテメェのお袋に聞いたとかで、『千尋のところの女中に会わせろ』だの言い出しやがってだな! どうしても一目見なけりゃ帰れねぇって言い張って聞かなかったんだから、しょーがねぇだろッ! テメェがもうちっと躾けとけこの阿呆! それにこうなったら、ああするのが一番害が少ねぇだろうが! そもそも俺は鈴を『女中だ』なんざ一言も紹介してねぇんだよ! 嘘は言ってねぇじゃねーかバーカッ!!」


 怒れる千尋へ、柾樹も負けずに怒鳴り返す。こちらは怒っているというよりは、迷惑そうだった。自分より体格の良い千尋に鬼の形相で詰め寄られても、ビクともしない。元々己の非など、たとえ指摘されても認めない性質であるため反省もしていなかった。


 こんな彼らには、周囲が思う以上に桜が自分の茶色い巻き毛や大きな目を気にしており、その彼女が『華奢で、か細くて、艶やかな濃鳶色の髪をした愛くるしい少女』という自らの理想像そのものの娘に出くわし、しかもそれが幼馴染と仲良さそうにしている場面と遭遇した際に受けるショックの大きさなど、わかるはずもなかった。


「鈴はどうするんだよ? あっちも何か勘違いしてるんじゃないのか?」

「あ? あー…………まぁ、そのうちなるようになるだろ」

「いい加減な奴だなっ!」


 柾樹の思いつきに振り回されっぱなしの千尋は、嘆きの声と共に天を仰いだ。

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