火事場跡地
ためしにマッチ箱の内職をやってみた柾樹だったが、自分で笑えてくるほど下手だった。次々とラベルを使い物にならなくするので、しまいには長二郎が怒りだす。千尋にまで、「オレだってここまで下手じゃない」と言われる。対価も『あれだけ作って、これだけか』というほど安い。
こんな作業に柾樹が耐えられるはずもなく、案の定すぐに投げ出して他二名と喧嘩になった。喧嘩の内容があまりに不毛で、見かねた(かどうか不明だが)雪輪が、「わたくしが要らぬことを申したのでございます」と、内職を薦めたことを自らの非として詫びたため、流血沙汰にはならなかったものの。
このような成り行きにより、下宿一番の役立たずには、深川区のA町まで完成品を届けてくるお使いが命じられた。これなら頭や手先の器用さは必要ないから、問題なかろうという判断である。
荷物を渡してきた時の長二郎の顔は、“呪い殺してやりたい”と言いたげだった。でも柾樹には、相手に腹を立てられている理由が皆目わからない。無事に用事を済ませて帰る道中も、あいつらは何であんなに文句を言うのだろうと不思議がっていた。本気でわかっていないのだから、手の施しようが無い。
こうして解せぬ思いを胸に通りかかった空き地で、柾樹はつと足を止めた。夕暮れに近付く黄色の光で包まれた木造住宅の中、ぽっかり空いた不自然な空間にぶつかる。
そこは葉茶屋の火事の焼け跡だった。焼け落ちて真っ黒になった柱や、焦げた大きな庭石がまだ痛々しい。川風が吹き抜ける広い敷地は、在りし日の立派な店構えを髣髴とさせた。
しばしそこで佇んでいた柾樹は、自分と同じく焼け跡の前に人が立っていることに気付く。小太りで手足の短い中年男。頭の上には見た事のある鳥打帽が乗っていた。
「弥助?」
声をかけると暑苦しい丸顔が振り向き、「おお」とギョロ目を丸くした。やはり小林弥助だった。近付いてきた弥助に「どうした」と問われ、柾樹は隅田川のこちら側へ用事があったワケを手短に述べる。マッチ箱の経緯を聞き、小太り男は腹を叩いて大笑いしていた。
「そっちこそ、こんな所で何を油売ってんだよ? また事件でもあったのか?」
笑われた柾樹がぶすくれて問いかけると、弥助は逆に質問で返してくる。
「おめぇさん、新聞は読むかい?」
「読むわけねぇだろ」
「ハーア……ったく、おめぇも一応書生さんだろ? 新聞くらい読んだらどうだ?」
「うるせーな。いいから早く言えよ」
「はは、わかったわかった。実はここにあった恵比寿屋の、元手代が死んだのさ。それでちょいと気になって、この焼け跡へ来てみたってわけだ」
言って、弥助はまたぎょろ目を剥く。
「手代が? 何でまた急に」
驚く柾樹の声を攫った川風に吹かれつつ、中年男は語り出したのだが、それは葉茶屋恵比寿屋に起きた『天罰』の続きのような話だった。
「うん。死んだのは『西野佐市』って男でな……みんな逃げ出した恵比寿屋に、最後まで残った律儀者だった。しかし主も店も無くなっちまったもんだから、今度は『河内屋』ってぇ小さな茶問屋で雇われていた。この河内屋も面倒見の良い男でな。昔から恵比寿屋と付き合いがあった縁が元で、佐市もすぐに拾ってやった」
「それがどうして死んだんだ」
「横浜の『お茶場』へ向かう途中だったそうだ。この道中でやられた」
弥助は眉を片方、器用に上げて言う。
『お茶場』とは、茶の再製工場のことである。主に茶の葉を焙煎したり、色を良く見せるために薬を入れたりという作業をする場所だった。
「殺されたのか?」
柾樹の質問に中年男は軽く頷く。
「ああ、後ろ頭を固い物で何度も殴られて殺された。その後、身ぐるみ剥がされて池へ放り込まれたって塩梅よ。死体の具合からして、横浜へ行くと言って出たすぐ後に殺されたようだ。ちょうどその時分、池の近くに住む棒手振の爺さんが、男たちの喧嘩の声を聞いている」
弥助は佐市の殺害事件について、そう語った。
佐市の死体が見つかったのは、当人の自宅からそれほど離れていない池だった。近所の人々が時々魚釣りで訪れる、水たまりのような池である。ただし周囲は草が高く生い茂り、見通しは悪い。しかも当時は雨が降っていて、人通りは無いも同然だった。男たちの怒鳴り声を聞いたという棒手振も、よくある喧嘩程度に考え外へ出て様子見などはしなかったという。そのため池に人が放り込まれていることも、中々気付かれなかったのである。
「佐市は持っていた財布も何もかも盗まれてやがった。盗まれた物もまだ見つかってねぇ。大方、強盗だろう。しかし恵比寿屋の火事から、まだ時間も経ってねぇもんだからな。世間じゃこれも『天罰』だ『恵比寿屋の祟り』だと騒いでやがってなぁ」
「まさか警察まで、それで片付けるつもりじゃねぇだろうな?」
眼鏡の青年が話の腰を折って尋ねると、中年男は陽気に笑った。
「馬鹿言え。祟りで片付きゃ、それはそれで楽だけどよ。あの火事はどうもおかしいってんで、警察でも調べてる最中だ」
「へえ、どこかおかしかったのか?」
「火の回りが早過ぎるんだよ。それに蔵も外より、内側の焼け方がひどかった。誰かが火を放ったってこった」
弥助は言って不敵な笑みを浮かべる。でも人の良い丸顔だから、どうしても微笑ましくなってしまう。そしてお人好しの丸顔は、尚も続きを語り出した。
「最後まで恵比寿屋に居た女中で、『おみか』ってのがいてな。先日この女にもう一度詳しく話しをさせたら、茂平の死に顔をよーく思い出すと『首に痣みてぇな痕があった』とこう言い出したんだ。おまけに今になって、他にもとんでもねぇこと思い出しやがった。茂平が死ぬ前の日、おみかは向島の親戚の家へ出掛けているんだが、そのとき恵比寿屋の前で『茂平の弟に出くわした』って言うのさ」
聞いている方がそこまで喋って大丈夫なのかと思うほど、弥助はどんどん喋っていた。この軽々しさだから仕事熱心なのに、不惑の歳になって未だ出世も出来ずにいるのだろう。火事の跡地を忙しげに歩き回り、中年男は更に続ける。
「弟は『浄吉』と言ってな。兄貴の茂平に家を追い返されて以来、おみかも十年ぶりの再会だった。おみかは喜んで店に入れようとしたんだが、浄吉はおみかを振りきって大慌てで逃げちまったと」
身振り手振りで言いながら、弥助は思いきり眉を持ち上げた。元々の構造が愉快なので、こんな表情をすると輪を掛けて愉快な顔になる。
「ふーん。それでおみかはどうした?」
かなり下の方にある面白顔を見下ろし、金茶に近い琥珀色の髪をした青年がまた尋ねた。弥助は大きく一度頷く。
「ああ、追うのは諦めてそのまま出掛けたそうだ。おみかが店へ帰ってきたのが、夜の七時半頃になる。こいつはおみかの親戚にも確認してあるから間違いねぇ。
すると茂平に客が来ていて、手代の佐市が取り次いでいた。医者も寄りつかねぇ店だってのによ。一体誰だと聞いても佐市は知らねぇと答えるんで、ハテ何者と思っていたら、何の事はねぇ。茶問屋の河内屋が見舞いに来ていただけだった。この世知辛いご時世に、まだこんな義理堅い男がいたんだな。
で、河内が帰ったのが九時頃だ。おみかが酒を下げに行くと、茂平が起きていた。やつれ果てて相変わらず加減は悪そうだったが、妙に元気を取り戻したようにも見えたそうだ。そのときおみかに茂平はぽつ、と、『おみか、俺は腹をくくったよ』と言った。何の事でございますかと尋ねたら、茂平は『おいおい話すよ』と言って寝てしまい、おみかも部屋を引き揚げた。布団に包まって茂平が死んでいるのが見つかったのが、この翌朝だ。見つけたのもおみかだった」
翌朝早く、おみかが主人を起こしに部屋へ行くと、既に冷たくなった茂平が布団の中にいたのである。驚きのあまり女中はしばらく呆然としていた。そこへ、手代の佐市が出勤してきたのである。
急ぎ事情を話して茂平の死体に会わせると佐市も項垂れ、「加減が悪くなったんだろう」と言った。元より茂平は長患いだった上、動転していたおみかは主の首の妙な痣に気付いていたにも関わらず、急死という結論でその場は納得してしまったのである。
「で、通夜の支度を始めたわけだが、ただでさえ茂平の病気は天罰だの何だのと言われていた最中だったからな。大掛かりに支度をするのも躊躇われて、仕方なくおみかと佐市はひっそり通夜を仕立てた。そこに、あの火事だ。そして続けざまに佐市まで死んだ」
弥助はふっと息を吐き、話を一旦止める。それから短い腕を組み、眉と声をひそめて再び先を繋げた。
「佐市が殺されたんでな……俺も今朝、署の連中と茶問屋の河内の店へ行って色々確かめてきたが、河内とおみかの証言は一致していたよ。ついでに恵比寿屋の近所で浄吉を見たかとも訊いたが、そいつは知らねぇとさ」
「しかしその茶問屋の河内が恵比寿屋に行った時間も、見舞いにしちゃ遅くねぇか?」
柾樹が首を傾げて疑問を呈すと、弥助は鼻をこすってつまらなそうに答える。
「ああ、そいつはな。人目を避けたんだとよ。ま、恵比寿屋に関わったってだけで、今は何を言われるかわかったモンじゃねぇからなぁ……現に今朝方、話しを聞きに行った時も、河内が額の真ん中に丸い火傷を拵えていたんでな。一体どうしたと尋ねたら、『先日熱い鉄瓶の口にウッカリぶつけまして』と、情けねぇ顔して言うんだ。
そんな話しをしていたら近所の餓鬼が店に顔を出して、『やぁい天罰!』なんて喚いて逃げていくじゃねぇか。河内屋の話しじゃ、ちょうど恵比寿屋が焼けたその翌朝に、額へ火傷を拵えたもんだから、こんな話が出ていて全く参っておりますとさ。しかも泣きっ面に蜂で、今度は拾ってやった佐市まで殺されちまった。『次はあたしですかねぇ』なんて暗い顔してたが、暗くもなりたくならぁな」
シリアスな表情で物語るその様は、探偵小説に出てくる名探偵のようだった。もっとも、名探偵らしいのは動作だけではある。柾樹も話しを聞きつつ火事の跡地を見物して歩きまわっていたが、弥助の話が途切れたので顔を上げた。
「額に傷か……弁天小僧みてぇだな」
「はっ、弁天小僧は女と見紛う美男だろ。河内は縮っ毛髭モジャの、六尺はある大男だよ」
柾樹のいい加減な感想に弥助は呆れ顔になり、さっさと一人で思索を再開する。
「他はまだ何もわからねぇのか?」
考え事に耽る丸っこい背に、若者が次の質問を投げた。問いかけに振り向いた弥助は律儀にも、苦笑いと共に答えてくれる。
「ああ、一つわかった事があるぜ。茂平が『茶殻茶殻』と喚いてコトが知れたって噂があっただろう? あれは全くの出鱈目だ。ここだけの話し、新聞社に無名の投げ文が投げ込まれて発覚したのさ」
「“投げ文”なだけに、投げ込まれたと」
「面白くねぇよ! ……まぁとにかくだな。新聞が騒ぎ出したのが先で、噂は後付けだ。恵比寿屋で医者を呼んでいたのは事実だが、茂平は元々病気がちで医者を呼ぶのは珍しくもねえ。医者が来たのを見た奴が早合点して、茶殻の噂が独り歩きしたんだろうよ」
弥助は額の広い丸頭を振り、話を終わらせた。
「投げ文ね……商売敵が、新聞屋に垂れ込んだか?」
柾樹は呟いて、何気なく空を仰ぐ。そこでたまたま目の前にあった隣家の屋根の上に変なものを見つけ
――――え?
思わず二度見した。
大きな鴉が、こちらを見下ろしている。それも距離感が狂うほど大きいので、一見して鷲かと思った。嘴から足まで全身真っ黒だから、間違いなく鴉だろう。しかしそれにしては大きい。鷲にしても大きい。大きさを間違えている鴉は置物のようにじっとして鳴きもせず、地上の様子を見つめている。
「いや、俺は弟の浄吉が怪しいと睨んでるね。野郎、おそらく十年前のことをまだ恨んでたんだろう。一度はおみかに見られて逃げたが、夜のうちに茂平の店へ忍び込んで兄貴を絞め殺し、証拠を隠そうと通夜の晩に忍び込んで火を放ったんだ……。実際あいつめ、働いていた植木屋から姿を消しやがった」
耳に入り込んできた弥助の話しで一瞬気を取られた柾樹は鴉から目を離し、それから再び隣家の屋根を振り仰ぐ。
羽音など聞こえなかった。にも関わらず、屋根の上から鴉の姿は消えていた。