蔵二階
数鹿流堂の庭の隅には黒漆喰の蔵があり、横に大きな楠木が聳えている。朝っぱらからその木によじ登り、蔵二階の窓を叩いて怒鳴っている人がいた。ただし音量は心持ち抑え気味で。
「雪輪ッ、雪輪! おい、開けろッ!」
呼ぶ声で、観音開きの窓が少しだけ開く。内側から、真っ白い顔と異様につり上がった黒い目が覗いた。見なかった事にして窓を閉めたとしても、行動としてそんなにおかしくない。でも柾樹は今、窓を閉めている場合ではなかった。
「さっさと開けろよ、この馬鹿っ!」
中の人物を叱りつけ、狭い窓から蔵の中へと飛び込んだ。蔵の窓は通常、盗賊防止の為に鉄や木の格子がついているけれど、この窓は格子が無い。格子があった跡だけは残っているので、何かの折に外れたか壊れたかして、それっきりなのだろう。
ところで何故柾樹が窓から訪問しているのかというと、扉が三重構造になっている為だった。頑丈な夜戸と外戸と昼戸をいちいち全部開けて入ろうとすると、そこそこ手間なのだ。窓の方が、ある意味手っ取り早い。それに扉の鍵を外せば、中に誰か隠れていると一目で分かってしまう。
無事に蔵二階へ到着した金茶髪の青年は、指一本分ほど隙間を残して素早く窓を閉めた。外からは、「柾樹様! お戻りください!」という大声が聞こえてくる。相内家の三太夫、大山が涙ぐみながら御曹司を探しまわっているのだった。様子を伺っていた柾樹は、探す方の気も知らないで舌打ちする。
「来るなって言ったのによ」
言い捨てるなり、外に興味を失った顔で振り返った。振り向いた先には、この蔵で起居している女中が深沈と佇んでいる。雪輪はさっきから黙りこくって、小刻みに震えていた。白に近い灰色の着物が仄暗い蔵の中でかすかな光を反射し、浮き上がって見える。
「邪魔するぞ」
柾樹は遠慮の欠片も見せずに言った。そして床に一枚だけ敷いてあるオンボロの畳へ、「あーあ」と溜息交じりで寝転がる。そこはさっきまで雪輪が座っていた場所なのだが、そんなことはお構いなしだった。傍らの雪輪は不貞寝する柾樹を切れ長の目でちらと見ただけで、『どうぞ』とも『駄目』とも言わない。板敷きに座すと、書見台の位置を移して本を読み始める。
蔵二階は八畳ほどの床面積の内、半分を古本や絵草子、昔の浮世絵といった紙束が占めていた。それらの多くが風呂敷や油紙に包まれ、高く積み上げられている。壁面は古い槍や薙刀が数十本かけられ、天井近くまで埋め尽くしていた。他にあるものと言えば、古い唐櫃と木箱が二つ。そして生活出来なくはない余白だけ。
床は掃除され、黒光りしている。さっき柾樹が飛び込んだ窓の反対側にあるもう一つの窓は開いていて、淡い光が差し込んでいた。こちらはまだ木の格子が残っており、床にぼやけた日差しと影を落としている。近くには、階下へと続く階段が一際黒い口を開けていた。覘けば車箪笥やら帳場机やら屏風やら、その他諸々の母屋に置ききれない物品が放り込まれた一階が見える。
しばらくすると、聞こえてくる大山の声が遠くなってきた。お尋ね者が古道具屋の敷地を抜け出し、どこかへ逃走したと判断した模様。大山の声が途絶えて三十秒後。柾樹は飛び起きて窓に貼りついた。追手を巻いたか確認するため下界を覘く。その耳に
「大概になさいませ」
静かな声が聞こえた。銀縁眼鏡は驚いて背後を見る。そこには震えの止まらない華奢な指で、書見台の本の頁をゆっくりと捲る雪輪がいた。肩へと流れ落ちる結い上げた長い黒髪のせいで、頬や首が余計に白く見える。黒髪の中、藍色の玉飾りの付いた簪が静かに光を反射していた。
――――今、俺に話しかけたのか?
柾樹は胸の内で自問した。これまで雪輪は自ら話しかけてきたこと自体、数えるほどしか無い。それにいつも必要最低限のことしか言わないし、答えないのだ。でも今のは雪輪の声だった。この娘以外、発言をする人もいない。一通り納得すると、慢性的に機嫌が悪い若者の腹の内で、不愉快が渦を巻き始めた。
「うるせえ。俺に命令するな」
言うと、畳の上で乱暴に胡坐をかき、プイと横を向いてしまう。相内屋敷の中ならば、これで大体みんな黙る。しかし
「左様に駄々をこねるものではございません」
諭すにしては冷淡に、頭の高い女中は答えた。
「何言ってやがる、テメェに言われたかねぇんだよッ!」
柾樹は長身を丸めて自分の足の指をいじり、言い返す。すると、やや間があってから
「何がそれほど、お嫌なのでございますか?」
珍しい事に、雪輪が更に尋ねてきた。青年はちろっと目を上げる。震え続ける白い娘が膝へ手を置き、こちらを見ていた。柾樹は不貞腐れた顔のまま、一度は上げた視線をまた下へ向ける。
「嫌なもんは嫌だ」
拗ねきった声を口中で転がした。これではまるで母親に叱られている子供である。下を見ていた柾樹は、このとき雪輪が微かに溜息をもらしているのは目に入らなかった。やがて畳へひっくり返ると、自分の手を枕代わりに、天井へ向けて喋り始める。
「お前の知った事じゃねぇだろうがな。俺の家は爺さんの代からの成り上がりなんだよ。その爺さんからして、何処の馬の骨かもわからねぇ。昔はどこぞの村の番太郎だったらしいがな。それが何を思ったか鉄砲を売り始めて、時勢に乗って運良く一財産になったってだけの話なんだよ。そんな男の孫が、ちっと世の中が変わった途端にお坊ちゃんなんざ、笑わせんじゃねぇや。遺すなら金だけ遺しゃいいものを、家だの何だの、いらねぇもんまで山ほど遺しゃがって」
ぶちまけた柾樹のそれは、いわゆる出自への劣等感とは少し違っていた。かと言って、祖父の幸兵衛が築いた富を恥じるほど、潔癖でも純粋でもない。過去も未来も関心が無い青年は、自らに纏わりつく不自由とわずらわしさのみに腹を立てていた。柾樹の言い分が一通り並ぶと、再び雪輪が口を開く。
「そうは仰せられましても、お家から、お小遣いは頂戴しているのでございましょう? それでは御身が自由自在とならないのも、至極自然の事ではございませんか」
こちらはこちらで、先の言い分の抒情的な部分には掠りもせず、事実のみを指摘した。なまじ正論だから、ますます始末が悪い。
「うるせえって言ってンだろ!」
吐き捨てるように言って金茶頭は顔を顰め、背中を向けて寝てしまう。これでいつも通りに会話が終了すると思われた。のだが。
「お小遣いがお入用でしたら、内職でもお始めになられては如何でございますか」
本のページを捲る雪輪が言葉を続けた。この娘、今日は会話をする気があるようだった。こんな日もあるのかと、柾樹は驚いたついでに首だけ背後へ向ける。
「……どこにあるんだよ、そんなもん」
「こちらに」
雪輪は目線で『そんなもの』の場所を示す。それは近くに置かれた木箱の一つだった。柾樹が起き上って蓋を開けてみれば、中には内職道具とマッチ箱の材料がたんまり入っている。
ちょっと前から、巷では『マッチ箱に包装紙を貼る内職』が流行っていた。マッチの箱に人力車や動植物の描かれた紙を一枚一枚、手で貼っていくというものである。マッチは生糸やお茶と同様、貴重な輸出品だった。それにしても、いつ内職を請け負ったのか。
「どうしたんだ、コレ?」
「田上さまが、退屈しのぎにと」
柾樹の質問に、雪輪が事務的に答える。長二郎がやりそうなことだった。あの男、金になりそうなことや流行ってそうなことなら、何にでも飛びつくのだ。流行りもの嫌いの柾樹は苦い気分で、鮮血のように赤いラベルの貼られた箱を手に取った。薄い木の板には綺麗にラベルが貼られている。
「お前が貼ったのか?」
「はい」
「その手でよくやるな」
何気なく言ってマッチ箱を戻しかけたそこで、先日の蕎麦屋で友人達と交わした会話が頭に浮かぶ。「おい」と声をかけ、柾樹は娘の傍らに胡坐をかいて座り込んだ。今度は相手の方を向いていた。
「お前、その体の震えは『貰った餅を食べたから』だとか言ってたな? アレは本当なのか?」
柾樹の問いに、本の文字を追っていた雪輪の視線が反応する。娘は震え続ける白い両手を、自らの膝の上に重ねて「はい」と小さく頷いた。でも今日は柾樹の方も、雪輪の『はい』で終わらせない。それ以外を引き出そうと揺すってみる。
「医者には診せたのか?」
一先ず、思いつくまま尋ねてみた。すると意外と素直な再びの「はい」という返事に続き
「お薬も、たくさん飲みました……でも、治りませんでした」
白い娘は斜め下を見つめ、静かに答えた。医者も原因がわからず、本人も病気のような不調も無ければ、発熱や身体的な苦痛も特に無い。つまり全身震える以外は特に問題無いという。
「となると……たとえばお前が食った餅に、誰かが一服盛っただとか、そういう話か? そんな症状の出る毒があるかどうかは、知らねぇけどよ」
極めて単刀直入ではあるが、柾樹は口ぶりだけは意識的に穏やかに尋ねた。日頃から柾樹は普通に話しているつもりでも、喧嘩腰と受け取られがちなのだ。それに雪輪は共に暮らし始めてから一月近く経った今も、未だに周囲へ気を許す様子が無い。長二郎が言ったとおり、他人に言えない過去でもあって、警戒しているのかと考えたのである。
引き上げる気配の見えない柾樹の前で、白い娘はしばしの間沈黙した。その後、緩慢に口を開いたが、それはいかにもやむを得ずといった感じだった。
「たしかに、毒と申せば毒であったのやもしれません」
こじれたことを丁寧に述べる。それから柾樹の方へ僅かに正面をずらした。
「退屈の虫のお鎮めに、昔語りでも致しましょうか」
寝物語を聞かせるように言う。そして
「あれは、わたくしが五つの頃でございました」
世界から切り離されたような蔵の中。不思議な物語はゆっくりゆっくり始まった。
「わたくしが生まれ育ちましたのは、日光街道を下った先の、小さな山郷でございます」
胡粉のように白い肌をした娘は薄暗い蔵の中、ぽつりぽつりと物語る。
話しによれば、幼い頃の雪輪は至って平均的に健康的な子供だったようである。赤ん坊の頃から大病どころか風邪一つひかず、体も震えず。前時代と何も変わらない山々と、元旗本である両親が買い取った古くて広い農家の屋敷の中。周囲からは渾名代わりに『ひいさま』と呼ばれ育てられていた。
しかしこの『ひいさま』が五歳の時、災難が降りかかったのである。それは何の変哲もない、ある平穏な午後のことだった。
「その日は、帝都からお客様をお招きしておりました。母の話では、村の開拓と鉱山事業について、お話しにいらしたという事でございました」
新事業に関わる大事な客人を迎えるため、湾凪の家中は忙しかった。人を多く雇う余裕は無かったため、子守り娘はぐずりがちな弟の狭霧にかかりきり。部屋に戻された雪輪は座敷で一人、毬をついて遊んでいた。だが、一人遊びはすぐに飽きてしまう。ちょうど退屈してきた頃だった。
《―――――》
座敷にいた雪輪の耳に、誰かの声が聞こえた。何を言っているかは聞き取れなかったものの、呼ばれたような気がした。目を向けると、僅かに開いていた障子の外を見た事もない金色の蝶が数匹、横切っていく。
――――わあ……!
嬉しくなった幼い雪輪は、毬を放り出して部屋の外へ駆けだした。「お行儀が悪い」と叱る人は、いなかった。開いた障子の向こうは広い庭。風は無く、明るい水色の空が広がり、天気も上々。
「庭の中央には、大きな松の木が生えておりました。蝶はその木の近くに集まっていたのでございます」
金色の鱗粉を振り撒き、ひらひらと舞い飛ぶ蝶々たち。そちらの方角から、またさっきの声が聞こえてくる。引き寄せられるように、雪輪は松の木へ近付いた。……と、そのとき。
「突然辺りが暗くなり、雷鳴が轟いて……気付けば知らない所に、一人で立っておりました」
語る娘の黒い瞳は、遠いどこかを見つめている。
「知らない場所?」
「はい。景色も夜になっていたのでございます」
訝しげに眉を寄せた柾樹に、雪輪は微かに頷いて言った。
「金色の梅林が広がっておりました。空にかかる白い月が十倍ほどの大きさで……それでも大層美しゅうございました。その中にわたくしと庭の松の木が、並んで立っているのでございます。何が起きたかわからず、しばらくその場でぼんやり戸惑っているうちに、空から何か聞こえました。見上げると松の木の上に、知らないヒトがいたのでございます」
樹上に居たそれは、大きな“ヒト”だった。
巨大な月を背に、松の樹上から覗き込むようにして雪輪を見ていた。地面で立ち上がれば一丈はあるかという巨体。その巨体がどういう仕組みか、小鳥みたいに松の木の天辺へふわりと乗っている。
やがて大きなヒトは、木の輪郭をなぞるように滑り降りてきて、雪輪の前でしゃがみこんだ。風に舞う黒髪はボサボサと長く、金糸銀糸の袍を纏い、木彫りの翁の面に似た面を被っていた。しかし彫り途中のようなその面には眉も、白い髭も無い。小さな娘は巨大な異形の存在を前にしても、何故か怖いと思わなかった。
――――だれ?
尋ねるも返事は無く。大きなヒトは無言のまま、鈍重な動きで袖の中から白くて丸い餅に似たものを差し出した。差しだす手は大きな熊手の如く、爪は三日月を思わせる曲線を描いて鋭く、長かった。
大きなヒトは何やら仕草をしてみせる。『これを食べろ』と言っているようだった。
不思議と、このとき雪輪は何もおかしいと感じなかった。むしろどうしてもこれを『食べなければいけない』という気がした。そこで大きなヒトの指の先に載っている、餅のようなものを受け取ったのである。それは子供の掌にすっぽり収まるくらいの大きさで、真ん丸の球体であり、もちもちと柔らかく温かく、白粉を塗したように真っ白だった。
「……で? 食ったのか?」
自分の右膝に頬杖ついた柾樹が尋ねると、雪輪は少し考え込む。それから
「覚えておりません」
周囲が真っ暗になり、記憶がぷっつり途切れているのだと娘は言った。
その後、幼いひいさまがどこをどう運ばれたのかは謎である。雪輪を探していた子守り娘が、松の木の下で倒れている少女を見つけ、悲鳴と共に駆け寄った時には人影もなく。目を覚ました雪輪は、鬼が来たと言って泣きじゃくった。大騒ぎになった。一大事と人々は手分けして下手人を探したものの、足跡一つ見つからない。
そして結局、“鬼”の手掛かりは何も掴めなかった。これ以来、湾凪家の姫君は頭から足の先まで、震え続けるようになってしまったというのである。
「へぇ……」
元は自分から話しを持ち出したくせに、話を聞き終えた柾樹の返事と感想は、以上だった。口角を下げ、琥珀色の髪を掻く。数秒思案してから
「そのデカい奴に、心当たりはねぇのか?」
おもむろに問いかけた。柾樹の質問に、雪輪は引き続き表情を変えることなく答える。
「里の者たちは、『無名様』に相違ないと申しておりました」
「ムミョウサマ?」
また変な言葉が出てきやがったと、柾樹の顰め面がひどくなった。しかし相手の態度を気にする様子も無く
「山の主でございます」
雪輪は淡々と続ける。
湾凪家が住んでいた里の近くには、特別な山があったという。知行地の一部として代々受け継がれてきた山であり、湾凪家の人間以外は絶対立ち入り禁止とされていた。いわゆる『禁足地』である。山には『主』がおわし、他所者が足を踏み入れれば激怒すると言われていた。里ではこの『山に棲んでいる古い何か』を、『ムミョウサン』や『無名様』と呼んでいたという。
――――お山に入るもんでねぇ。ムミョウサンに喰われちまうぞ。
里の者は子供の頃、みんなそう聞かされて育っていた。雪輪が会ったのは、この山の主と思しき“何者か”だったのではないかというのだ。
「要するにだな。お前はそのとき鬼に食わされた餅が原因で、身体が震えるようになったんじゃねーかと、そういう事か?」
顔から口調まで、やる気の無さ全開で柾樹は確認した。だが雪輪はすらりと「はい」と答える。
「皆、そのように申しておりました。父も母も……わたくしの身の異変は、無名様のお餅の仕業であろうと」
身体は震えながらも声は震えず、平坦に言葉を並べていく。銀縁眼鏡の青年は、露骨に呆れの表情を浮かべた。
「いい大人が雁首揃えて、よくもそれで納得したもんだな? まずは人間の仕業を疑うのが道理ってモンじゃねぇのか?」
柾樹の言葉に、静かな娘は僅かに顔を上げる。
「……あの時はこう申す他、無かったのでございましょう」
「どういうことだよ?」
解せないといった風な様子の銀縁眼鏡に、雪輪の真っ白な顔が少し相手の方を向く。
「里は山の奥地で、他所者が入り込めばすぐに知れ渡るような小さな集落でございました。周囲は川に囲まれ、山も急峻で隠れる事は難しゅうございます。事件の後には山狩りも行われました。それでも下手人は見つかりませんでした。そうなりますと、庭のわたくしに毒を含ませた者は、里の誰ぞということになりましょう」
雪輪は切れ上がった黒い瞳を伏せて答えた。
「里人達は、里からそのような不埒者が現れるなど、夢にも思っておりませんでした。決して認めようとも致しませんでした。またわたくしの父母も、里人達を下手人扱いするなど、出来なかったのでございましょう。あの時は“無名様の仕業”とするのが、最も理にかなっているとされたのでございます」
淀むことなく、そこまで言う。
「は……そんなもんか」
柾樹は諦め気味に呟いた。
しかし言われてみれば、『毒』を盛った犯人を取り逃がしている以上。辺境の小さな集落にとっても、他に居場所の無かった旧旗本一家にとっても、謎の『山の主』の仕業として片付けてしまった方が、生活を続ける上で都合が良いとも言える。少女の身体が異様に震えるという現象が現れているとはいえ、被害はそれだけと言えばそれだけなのだ。誰か一人が犠牲になれば、他は丸く収まる。
だからと言って、こんな芝居か見世物小屋にありそうな話を鵜呑みにする気にはなれなかった。
「お前はどう考えてるんだ? 実は目星くらい、ついてんじゃねぇのか?」
じろりと向けた視線と一緒に、柾樹が問いかける。全体の様子からして、雪輪に柾樹を騙す意図や悪意は無さそうに見えた。幼い頃に奇妙な『誰か』と遭遇した記憶自体に、嘘は無さそうなのだ。雪輪は数秒沈黙していたが、そのうち
「いいえ、何も」
はっきりした口調でそう答えた。
どこまでも霧の向こうに霞むような話である。