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幽霊画

 それは雨のそぼ降る昼さがりだった。


「何だコレ? 幽霊か?」


 銀縁眼鏡が、ランプのホヤを磨いている友人の方を向いて尋ねる。古道具屋の汚い壁には、古い軸が掛けられていた。長い黒髪を垂らした白い着物の女が描かれている。柾樹の声で、ランプのホヤを磨いていた千尋の厳つい手が止まった。胡座の足を解き、太い首を回して側らの掛け軸を仰ぐと言う。


「ああ、まるやま……おうきょ? とかいう絵師の絵だそうだ」

「ふーん」

 友人の答えを聞いても柾樹の感想はそれだけだった。壁の穴でも覗くように、幽霊へ顔を寄せている。『円山応挙』と聞いても「何となく聞いたことがある気がする」程度の認識しかない彼らに、その名は何の響きももたらさなかった。もし『狩野探幽』や『長谷川等伯』の名が挙がったとしても、似たりよったりの反応しかしないだろう。そもそも彼らは芸術文化及び、そういったものの『作者』に関心が無かった。


「こんなモン、どこから出てきたんだ」

「袋田さんが持って来たんだよ。『見ろ』と言ってきかないから、とりあえず掛けただけだ」

「またかよ」

友人が語る幽霊画の事情を聞いただけで柾樹は力が抜け、それ以上の言が出なくなる。


 この幽霊画を持ち込んだのは近所の理髪床屋の主、袋田氏だった。ここへ売りに来たのではない。女房に『坂田金時の米磨ぎ桶』その他諸々を始末された袋田氏はちょっぴり学習したようで、自宅に置いておくとまた怒られたり処分されかねないと、古道具屋へ預けに来たのだった。千尋曰く、床屋の主人は「木を隠すには森の中だ」と賢そうな事を言っていたそうだが、ようするに女房が怖かったのだろう。


 肝心の幽霊画は不気味な物怪というより、儚げで楚々とした武家の女といった風情の幽霊だった。しとしと雨の降る場景で、歪んだ黒い木の陰に佇む女の膝から下は淡くぼやけて消えており、ひとり物思いに耽るような、遠い眼差しをしている。


「偽物か」

 もはや偽物と確定しているかのように柾樹が言った。袋田氏の目利きを微塵も信用していない。それにこの幽霊の掛け軸は、柾樹の素人目で見ても何か違和感があった。


「何かこう……物足りない感じがしねぇか?」

「え、お前もそう思うか? 何だろう? 足が無いからか」

「それは普通だろ」

「まぁよくわからんが……たぶん偽物かな。そうだ、後で雪輪さんに見せてみようか?」

 この時間帯にはいつも蔵の二階に潜んでいる娘の名を、千尋が口にした時だった。ただいまぁという声と下駄の音がして、長二郎が戻って来る。畳んだ傘を勝手口の戸に立てかける長二郎の後ろに、もう一人人影があった。


「おう、邪魔するぜ!」

 張りのある大声と共に、弥助の日に焼けた丸顔が現れる。次の瞬間、中年男は掛け軸の幽霊が目に入り「ヒいッ!」と飛び退る。幸い、幽霊の苦手な中年男はそれが絵であるとすぐ気付いた。すると今度は戸の影からズカズカ出てきて、うろたえた事実を掻き消そうと必要以上の大声で喚く。


「コンちくしょうがッ、妙なモン掛けるんじゃねぇよ!」

「あははは、相変わらずだなぁ」

「馬鹿言え! こんなもの急に目に飛び込んでくりゃ誰でも驚くに決まってら!」

「そうかぁ?」

怒る弥助に笑い、千尋は幽霊の掛け軸を外す。そして掛け軸を巻きながら尋ねた。


「どうしたんです、今日は?」

その問いには、弥助より先に長二郎が苦笑いして答えた。

「そこで偶然会ったんだよ。来なくて良いって、言ったんだけどな」

框へ腰かけ古手拭で足を拭いていた色白の細面が、大袈裟に溜息をついた。


「へっ、テメェらが悪さしてるんじゃねぇかと思ってな。ま、こっちに仕事で用もあったからだが」

鳥打ち帽を取った弥助も腰を下ろすと、脂ぎった鼻先を撫でて言い返す。『仕事』と聞き、千尋は軸を巻く手を止めた。


「仕事ってもしかして、ゆうべの火事ですか? 川向こうの」

「それだ。『恵比寿屋』って葉茶屋でよ」

弥助は腰掛けた自分の膝を打ち、待ってましたとばかりに答える。


 『葉茶屋』とは、茶葉の販売をしている店のことだった。昔から単純に『茶屋』というと道沿いにある休憩所や、女がお茶を出す『水茶屋』を指す場合が多い。それらと区別をするために茶葉そのものを扱う店は、『葉茶屋』と呼ばれたりした。


「派手な火事だったよな」

対岸の深川区A町にある店の火が、隅田川のこちらからも見えたほどである。柾樹が言うと

「ああ、蔵も残さず丸焼けだ。死人が一人も出なかったのが不幸中の幸いだったな」

弥助は答えて、しかめっ面を横に振った。しかしそんな弥助の面など目に入らないように、長二郎が振り向き明るい顔で言う。


「ホントホント。おまけに店も蔵も残らず丸焼けになったもんだから、みんな『天罰だ』って騒いでいたよ。“日本永代蔵”に出てくる、『茶の十徳も一度に皆』みたいだって」

「茶の……何だって?」

顔を歪めた柾樹の質問に、長二郎は肩をすくめた。


「井原西鶴の本にそういう話があるんだ。コレに出てくる男と、死んだ葉茶屋の主がそっくりなんだよ」

弥助に「ねぇ?」と話を振る。長二郎の言葉に中年男が、ずいと身を乗り出した。そうして息を吸い込むなり、怒涛の勢いで語りだす。


「ああ、そりゃもう気味が悪いほど似てるのさ。まず葉茶屋の主の『斉藤茂平』ってのがな。親父が麦湯売りから始めた店をここまで仕上げた男なんだが。コイツが酒も飲まねぇ、嫁も取らねぇ。金を数えるのだけが楽しみってぇ、大した守銭奴だった。店の者の話じゃ弟が金を頼りに来た時も、自慢の鉄の煙管で殴りつけて追い返したってんだから本物さ。それでも金儲けに精を出し、早くから海外の輸出に目をつけたのが当たったりと、このところ羽振りも良かった。だがこの羽振りの良い商売が実は、茶葉に安い茶殻を混ぜて、荒稼ぎをしていたんだよ」


 輸出の茶葉に関しては、何年か前に亜米利加との間で悶着があった。茶葉に小枝や柳の葉を混ぜて売る業者があるとのことで、海の向こうで輸入反対運動が起きたのだ。お茶は大切な輸出品。何とかせねばと対策を講じた結果、粗悪品は取り除かれ問題も減った。けれどそうは言っても、まだまだ茶葉の信用は綱渡りである。そんな時分に、この茶殻不正の話が湧いて出た。生き馬の目を抜く帝都で、隠す事も放っておかれるはずもない。しかも不正の漏れ出てきた経路が、奇妙だという。


「僕、聞きましたよ? この事件て茂平が自分で言いふらしたんでしょう?」

長二郎からの指摘で、弥助は渋い表情を浮かべた。


「何だ、おめぇみたいな書生風情まで知ってるのか」

「やだなぁ、人を野次馬みたいに」

色白の青年は答え、また笑った。

「言いふらしたって、どういうことだ?」

柾樹が横から口を挟み、それを受けて弥助が一層難しい顔をしつつ答えた。


「茂平がな。憑かれたように『茶殻、茶殻』と喚きだして、店の不正を自らふれ回ったって噂があるんだよ」

「旦那様を大人しくさせるために、店じゃ医者まで呼んで大変だったんだってさ」

楽しそうに笑って長二郎も続ける。千尋が首をかしげた。


「自分の店の悪口言ってどうするんだ」

「さあ~? でもこの噂を聞きつけた新聞が一気に書き立てたらしいぞ」

「実際輸出する茶なんざ、下手すりゃ半分近くも茶殻を混ぜてやがったからなぁ……こいつは警察でも調べがついている」

長二郎に続き、弥助が短い足を組んで言う。


 暴かれた事実に世間は驚いた。時代の荒波の中でそれなりに成功者となり、羽振りの良かった店が起こした不正である。すぐさま客は寄り付かなくなり、得意先からは返品が相次いで恵比寿屋は窮地へ陥った。こうして力関係が一変するや否や、取引のあった茶農家や問屋をはじめ、それを売っていた恵比寿屋の者達も次々と口を開き始めた。


 曰く、「茶殻を混ぜるのは悪いと思っていたが、『取引をやめる』と言われると断れなかった」であり。曰く、「みんなやっていることだから、これを売れば良いんだと言われました」とのことだった。そして店の小僧や関係者まで参加して、恵比寿屋の横暴商売と茂平の吝嗇ぶりが、連日新聞の紙面と人々の口を賑わせる騒ぎと相成ったのである。


 たちまち『恵比寿屋の茶には、味を誤魔化すための悪い薬が入っている』という噂が広がった。茂平の状態についても『夜な夜な、枕元に金を並べて数えている』と囁かれる。嘘と真が入り混じり、悪事が千里を走って恵比寿屋へ帰って来た頃には、店が潰れるのも時間の問題となっていた。これは駄目だと、店の者達はどんどん逃げ出す。最終的には中年の女中と若い手代の二人が残っただけだった。そうして間もなく、主人の茂平が寝込んでしまったのである。


「警察でも支度を整え、いよいよ引っ立てようとしていた矢先だった。いや、アレは参ったね。俺たちもちょっとやそっとの事なら構わずやるが、あんなの引っ立てたら警察署へ着く前に死んじまわぁ。茂平の言い分じゃ歯を抜いてからおかしくなったそうだが、元々あまり丈夫な男じゃなかったようでな。あの騒ぎで、身体が参っちまったんだろう。


 それでも俺達が行った時にゃ、出せる限りの書面や帳面も、手代に言いつけてすんなり出して来た。茂平が言うには、茶殻を混ぜて売っていたのは昔からで、去年死んだ奴の親父が始めたんだそうだ。隠居してからも何かと店に口を出しちゃ、もっと稼げ上手くやれと煩い爺さんだったらしくてな。店の者も親父のやり方に慣らされて、中々改められなかったと……。


 ま、だからと言って今までしてきた事が軽くなるワケでもねぇわな。とはいえ茂平が観念しているのは見て取れた。すっかり衰えて身動きもとれねぇ。逃げ隠れする先もねぇ。これなら心配なさそうだと、少し快復するまで本格的な調べは待つことになったんだ」

けれど茂平の状態は中々快復しなかった。そして


「医者も嫌がって診たがらねぇ……そうこうしているうちにオダブツだ」

雨の音を聞きながら、弥助はそう言って物語を閉じた。


「それで『天罰』か」

白く煙る薄明るい外の景色を眺め、柾樹や千尋が頷く。弥助はしみじみ呟いた。


「そういうこった。挙句の果てに、昨日の通夜でこの火事だろ」

「いやぁ、盆と正月が一度に来たような騒ぎだね」

「騒ぎという意味ではそうかもしれんが……」

 へらへら笑っている長二郎へ、千尋が戸惑った表情を浮かべる。そこへ更に無神経な思考回路を持つ金茶髪が口を挟んだ。


「通夜の家が焼けたんじゃ、そこにあった死体は?」

「店と一緒に焼けちゃったよ」

「焼き場いらずだな」

そういう問題ではない……と顔面で訴えている千尋を気に留めることもなく、柾樹は更に尋ねる。


「西鶴の本でも、火事になるのか?」

その質問には、長二郎が返事をしてくれた。


「たしかあちらは雷が落ちるんだよ。それで死体が妖怪に浚われて消えるんじゃなかったかな? 茂平の死体も火事で無くなったようなものだから、こんなところまでよく似てるってことさ」

 面白そうに話している。どうやらここには、こういう感性の人間しかいないらしい。聞いているだけで頭痛がしてきたのか、千尋は諦め顔で右のこめかみ辺りを押さえている。そんな千尋に代わり、弥助が若造二人を一喝した。


「こンの罰当たりッ! 面白がるようなこっちゃねぇんだぞ!? それに真面目な話、ここしばらく恵比寿屋の近所で怪しい男が目撃されてンだ。店に入るでもなく、遠巻きに眺めたり裏手へ廻ったりしていたのを近所の連中が見ている。火付けか盗賊か知らねぇが、そいつが今回の火事に関わっているかもしれねぇんだ。妖怪変化なんぞより、人間の方がよっぽど気味が悪いってモンだぜ」


 探偵男はそう言って話しを締めくくる。外の風が少し強くなってきて、斜めに振り込む細かい雨が土を黒く濡らしていた。

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