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蕎麦屋閑談

 浅草御蔵近くにある蕎麦屋『野村庵』は、今日も賑やかな声が飛び交っていた。店の前の通りでは、青天から降り注ぐ透き通った日差しが輝いている。


 その蕎麦屋の一角を完全に陣取り、長い事居座っている三人組がいた。古道具屋の『数鹿流堂』に下宿している道楽書生たちだった。普段好き勝手に暮らしている彼らだが、この蕎麦屋に来るときには三人揃っている場合が多い。


 座敷の隅には外国語の辞書や筆記用具が、鞄などと一緒に散らばっている。ここだけ見ると、書生らしい。しかし彼らは昨今の政府や国情への不満や疑問を語り合うこともしなければ、それぞれの得意分野を教え合ったり勉強し合って、切磋琢磨する気配も無い。店内の雑音に紛れて雑談をしながら、頼んだ蕎麦が出てくるのをダラダラと待っている。


「まさか信じていたんじゃないだろうな?」

 持参した柏餅を頬張って、長二郎が切り出した。

「餅だぞ? 餅。餅を食って身体の震えが止まらなくなるって、一体どんな話だ」

 馬鹿にしきった顔で指摘され、彼の正面に座る柾樹はお茶を飲みつつ口をひん曲げている。


 それは古道具屋で雇う事になった女中の雪輪が、常に震え続けている件についての指摘だった。震えの原因を長二郎に尋ねられた柾樹が、『もらった餅を食べた』ためにこうなったと、以前雪輪が話していた旨を伝えたところ、この言い様である。蕎麦屋に来た当初は雪輪の給金について話していたのだけれど、いつの間にか話題が脱線していた。


 余談だが雪輪の女中働きへの日当二十銭の拠出は、『平等』を掲げて文明的に話し合った結果、柾樹と長二郎が六銭、千尋が八銭という割合になっていた。何ゆえ千尋が一番払っているのか。柾樹や長二郎から生活費以外に、居候代を取っても良いくらいだというのに。だが「雪輪の雇い主はお前じゃないか」と言われた千尋は「たしかにそうだ」と、拠出金の割合にも合意したのだった。平等とは儚いものである。


 そして雪輪は貰った給金二十銭の内、十二銭分を食費その他の分として古道具屋へ還元していた。最初から給金を八銭にすれば良いのでは? という意見も(主に柾樹から)出たけれど、労働と経済はそういうものではない、との千尋の意見によって却下され、こうなっている。この十二銭は金を出した書生三人で再分配していた。こちらは本当に三等分されていた。平等とはつくづく儚いものである。


 というわけで、今日は還元された金の分配作業のため、三人が集まっていたのだが。


「俺だって信じちゃいねぇよ」

 不貞腐れた面で柾樹が言い返すと、長二郎がまた言った。


「それならどうしてその場で雪輪ちゃんに詳しく聞かなかったんだ」

「面倒くさくなったんだよ」

「ふーん。それでもっと面倒くさいことになってるんじゃ、世話ないや」

「なんだと?」

 睨みつける柾樹にも長二郎は余裕の薄笑いで返した。ふんぞり返って柏餅を租借している。と、険悪になりかけた柾樹と長二郎の口論に、のんびりした声が紛れこむ。


「なぁ。何で餅を食べると、ああなるんだ?」

「だからッ! そこがおかしいって話しを今してるんだよ!」

「耳に穴が空いてねぇのかテメーはッ!」

 長二郎がバシバシ床を叩き、柾樹も一緒になって大声を出す。友人たちの間に漂う険悪さを感知していない千尋の質問で、二人は言い合いも後回しになった。ゆるく毒気を抜かれた柾樹は腹立たしさを宥め、先の指摘へ答えて言う。


「俺も変なこと言いやがる奴だとは思ったよ。でもあんなの嘘にもならねぇだろ。今どき誰が信じる? それを、あえてあんな胡散臭せぇ話しをするからには、よっぽど本当のところは言いたくねぇか、言えない裏の事情があるんじゃねぇかと考えるだろうが」


 あのとき真面目に話を聞く気が無かったという点については、言わない。


 ところで、今どきであったとしても何か“不思議”が起きたとき、それを『妖怪変化の仕業』とする説明は、まだ世の中で十分に説得力を持っていた。新聞も記事の一つとして、『妖怪』の目撃談や事件を扱うことが多々ある。雪輪のような娘が語る奇談すら、頭から疑ってかかる柾樹や長二郎の方が珍しいと言えば珍しい。ただし彼らは『妖怪変化のせいにしない』という結論は同じであっても、その原理は異なっていた。不思議を愛する感性が欠落しているだけの柾樹に対し、長二郎はもう少しややこしい。


「……毒でも盛られたんじゃないのか?」

 貧書生は、ちょっと癖毛気味の髪の下、ニヤーと笑って言い出す。


「毒?」

「な、何だそれ? 誰に盛られたって言うんだ?」

 俄かに顔色を変えた他二名へ、柏餅を食べ終えた長二郎は澄まし顔で肩をすくめてみせた。


「それはわからん。しかし病気でもないんだろ? あの震えの理由は、他にこれくらいしか無いじゃないか。それに雪輪ちゃん、元旗本家のおひい様なんだよな? どの程度の旗本か知らんが……」

「たしか、千五百石って言ってたぞ」

 柾樹が軽く言うと、今度は長二郎の顔色が変わる。


「せ、千五百? せいぜい二、三百かと思ってた……大したお殿様じゃないか」

「そうなのか?」

「そうとも。同じ士族と言ったって、ちっぽけな藩の御徒士だった僕の家なんかとは天地ほど違う」

 訳知り顔な長二郎の話しに銀縁眼鏡の青年は「ほー」と生返事をし、もう一口お茶をすすった。


 柾樹は『お侍』をよく知らない。絶対権力者であった祖父の意向により、柾樹は武士に代表される旧時代の文化や価値観には殆ど触れない幼少期を過ごしてきた。唯一の例外として、源右衛門の中に侍の残照を見ていた程度である。士族生まれの長二郎などと比べれば、外国人並に何も知らないと言っても過言ではなかった。


「まぁ旗本も殆どは落ちぶれたが……たぶん雪輪ちゃんの家は違ったんだろうな。この前、伝来の知行地に住んでいたとも言ってただろ? 旗本の知行地は、政府に上地されているはずなのにな」

 長二郎が言う。


 『上地』とは土地の接収、没収のことである。かつての大名や旗本を含める一定階級以上の武士たちには、『知行地』という領地があった。新政府は彼らの領地を全て没収した上で、失業状態にある元武士達へ土地を安く払い下げたのである。そういう時世に雪輪の生家は伝来の土地へ戻り、士族として生活することが出来ていたとは不自然であると長二郎は指摘した。


「つまりだな。土地を買い上げるくらいの金は持っていたって事じゃないのか? 既に相当な蓄えがあったか、何かの商才があったんだろうな。お殿様ともなれば金禄公債もそこそこ入ったかもしれない。もしかすると、政府の要人か何かと知り合いだったのかな? 或いは裏から手を回して貰ったか? いずれにせよ、一握りの成功者のうちの一人だったんだろう。おかげでそれなりに暮らしていたが……たとえば、その蓄えを狙われて、一服盛られたとかな?」

 にわかに真剣な面持ちになった長二郎の言葉で、千尋が前のめりになる。


「知り合いか何かが、跡取りの姉弟が邪魔になって……と、そういうことか?」

「そういうこと」

 何度か頷き、長二郎は更に続けた。


「芝居みたいな話だとは思う。だがこう考えれば、雪輪ちゃんの身体に起きている異常も、外に出たがらないのも、人との接触を避けるのも、天涯孤独な身上も、自分の事を話さないのも、突然家屋敷を失って帝都へ出てきたのも、全てに筋が通るんじゃないかと、僕は考えるわけだ」

「な、なるほど……そうかも、しれん、なぁ?」

 千尋は逞しい腕を組んで「ううむ」と唸る。すっかり感心している様子で、長二郎の説に聞き入っていた。だが


「だからって、あんなに世を忍ぶか? あそこまで隠れなくても良いじゃねぇか」

 納得いかない顔で柾樹が反論する。


 雪輪の隠れ方は徹底していた。あの娘は一日の殆どを、庭の隅に建つ黒漆喰の蔵で過ごしている。女中仕事も夜の引き明け前に蔵を出て掃除をし、一日分の飯を炊き、書生達の朝飯を作り、一緒に昼の弁当も作り、洗い物と洗濯をすると後は蔵へ引っ込んで日中はコソリとも音を立てずに暮らしていた。そして日が暮れた頃に出てきて夜食を兼ねた晩飯を作り、片付けと雑用をし、再び蔵へ戻っていく。このパターンを、毎日物凄い速さでこなしていた。ケチをつける隙も無い。尋常な隠れ方ではなかった。


 しかも古道具屋の敷地からは一歩も出ないのだ。食材などの買物は、書生どもの仕事になっている。買物は苦ではないし、適当な材料を買っても雪輪はちゃんとした飯を作るので問題ないとはいえ、そんなに人嫌いにならなくても良いのではないかと、下宿人たちは思っていた。


「ふむ……もしかすると、どこかで何か人に言えないような事をしてきたのかもしれない」

 また考え込んだ長二郎が、蕎麦屋の天井を眺めて呟く。


「何かって何だ?」

「ん? ああ…………殺される前に、殺していたりして」

 色白の面立ちに優しげな笑顔で、物騒なことを言い出した。長二郎の考える筋書きはこうである。


『田舎暮らしの旧旗本の懐に、金の匂いを嗅ぎつけて悪党が入り込んだ』

『財産をせしめようとする悪党にとって、跡継ぎの子供たちが邪魔だった』

『毒を盛って殿様や奥方様は亡き者にしたものの、姫君や若様の殺害は失敗。姫は不自由な体に』

『けれど姫や若の方も大人しく殺されると思ったら大間違いで、悪党は打倒すも仇討禁止の世の中』

『憐れ二人はお尋ね者となり、遥々帝都へ逃亡。だがしかし』……。


 歌舞伎ならこの辺りで幕の内弁当が出てきそうだけれど、ここは蕎麦屋なので出てこない。芝居染みた話に柾樹と千尋は現実味を感じられず、微妙な反応になった。


「いや、まさか……」

「ま、僕もそんな『まさか』なことは、無いと思いたいけどな?」

 自分で持ち出したくせに、長二郎は自説を茶化して笑ってみせる。


「『女に触ると、その女が孕む』って話はどうなるんだ」

 柾樹がもう一つの雪輪に纏わる奇妙な話を持ち出した。それにも長二郎は軽々と答える。


「アレは方便だろ。そう言っておけば、世間との関わりを減らせるじゃないか。今みたいに」

「じゃあ、あの家鳴りは?」

 続けて千尋も口を挟んだ。それはこの前、古道具屋に変な薬売りがやってきた際に起きた、奇怪な家鳴りを指している。あればかりは彼らも地震などとは思えないでいた。これについてはお喋りな長二郎も、返答に迷う顔になる。


「あれだけはよくわからないな……でも雪輪ちゃんも『風だ』と言っていたことだし、風じゃないのか?」

「そこだけは信じるんだなぁ?」

「僕は、より科学的で合理的な説明が可能な方を選んだだけさ。化物が家を揺らしたとは思わない。まぁ風じゃないにしても、それと似たような自然現象だろ」

 そう言って千尋の質問を片付けた長二郎は、やおら金茶頭の方を向く。


「……それで、どうするんだ?」

「あ?」

 話しの矛先を向けられた柾樹は、知性や品性の感じられない返事をする。


「このまま雪輪ちゃんの身の上について、ウヤムヤにしておくわけにはいかないだろう。柾樹が連れてきたんだ。ちゃんと責任持って調べてこい」

「ええ?」

 そんな厄介なことを言われると、柾樹は嫌気で一杯の顔になってしまう。


「……面倒くせぇな。そんなに知りたきゃお前が調べろ。俺は知らなくていい」

「あのな、毒の云々はさて置いても、あの人がもし何かの事件に関わっていたらどうするんだ? 僕らも片棒担いだ事になるんだぞ? 隠れ暮らす、もう少しまともな理由くらい知らなくてどうする」

「そんなに気になるなら自分で聞いてこい。雪輪も田上には懐いてるじゃねぇか」

「女に見向きされないからって拗ねるなよ」

「拗ねてねぇよッ! アレ相手に拗ねる馬鹿がどこに居るってんだ! 何ならアイツ追い出すか!?」

「どうしてそうなる!? (八つ当たりも甚だしいな!)」

「それは困るぞ、毎日糠床を混ぜてくれる人がいなくなるじゃないか!」

 千尋も参加し三人がぎゃあぎゃあ騒ぎだした、そこへ


「お待ちどうさんでございます!」


 明るい声と共に、鈴が蕎麦を運んできた。蕎麦屋の看板娘は盛り蕎麦のせいろを三つ、テキパキとした手つきで客の前に並べていく。地味な紺色の前掛けをし、格子模様の入ったたんぽぽ色の着物を襷掛けしていた。そして細い右手が、頼んでいない皿をもう一つ書生たちの真中へ置く。


「どうぞ。これ、お父っつぁんからです」

「お、卵焼き」

 食い物が増えて喜ぶ青年達を前に鈴はニコッと笑い、「ごゆっくり」と言って戻ろうとする。そこで


「そうだ。鈴」

「はい?」

長二郎に呼び止められ、おさげがしゅるんと振り向いた。


「そういう前掛け。他に持ってないかな?」

 これまでの口ぶりはどこへやら。いかにも文学青年風の柔和な笑顔を浮かべる長二郎は、紺の前掛けをした少女に尋ねる。鈴はチョコンと座り直すと、前掛けの裾を摘まみ、「これ?」と小首を傾げた。蕎麦屋の日々の仕事で使いこまれた前掛けは色あせ、あちこち綻んでいる。


「あたしはコレしか持ってないんです。すみません。田上さんが使うんですか?」

「いや、僕じゃなくて柾樹が」

「えッ!? 相内さんが……!?」

 水仕事など絶対しない御曹司が台所で働いていると思ったようで、鈴は目をまるくした。


「いやいや、柾樹が、連れてきたお女中が、使うんだよ」

「え……お、お女中? お女中さんが入ったんですか?」

 驚く娘の前で、色白の青年は悪戯っぽくクスクス笑っている。


 柾樹は「変な言い方するな」と苦言を呈してから、『女中』が前掛けも持っていないのを思い出した。昔から商家で丁稚や女中を雇う場合、『お仕着せ』と言って着物や履物を支給することは少なくない。雇う以上、前掛けの一枚くらい与えてやっても悪くはないかと思われた。


「どこに行きゃ手に入るんだ?」

 箸を手に取り訊いてくる柾樹の目と眼鏡越しに目が合うなり、鈴の顔が赤くなる。店内のあちらこちらへ視線を動かして答えた。

「こ、これはあたしが自分で拵えたんです。で、でも、皆さん繕い物なんて……」

 娘の言葉に、居並ぶ人々は揃って難しい表情になった。


「したことがねぇな」

「オレも無いなぁ」

「じゃあ僕も無いってコトにしておく」

「ですよねぇ……それじゃ、あたしが縫いましょうか?」

「そこまでしてもらっちゃ悪いよ」

「布だけその辺で買って帰るか。アイツも女なら縫えるだろ」

 柾樹が呟くと鈴が「あ!」と手を打ち、前掛けを握り締めて言った。


「そういえば、この前おっ母さんが何年か前に貰ったっていう前掛けが出てきたって言ってたような……それで良ければ、お譲り出来るかもしれません」

「譲っちまって良いのか?」

「はい。ウチの店じゃ使いにくい前掛けだって言ってたと思いますから。後で聞くだけでも聞いてみます」


 無邪気な鈴の笑顔につられ、「じゃあそうしてくれ」と答える柾樹まで、少し頬がゆるんでしまう。鈴は根っからの都市育ちなのに、町娘によくある気の強さや抜け目の無さを持っていない娘だった。素直過ぎるほど素直で、身構える必要が無いせいか、対峙している方も何となく気が緩んでしまう。するとその素直で痩せっぽちな娘が、顔の赤みが引かないまま遠慮がちに尋ねてきた。


「あ、あの、その……それで、そのお女中さんて、ど、どんな人……なんですか?」

 他所の内情を訊くなど、行儀の良い事ではないのは自覚しているのだろう。それでも知りたい気持ちが勝っている鈴を見て、長二郎が大袈裟に手を振った。


「そりゃあ柾樹が連れてくるんだからな。マドンナかヴィーナスかという、容姿絶色の」

「絶色の?」

「八十歳」

「はちじゅっさいっ!?」

「からかうなよ、長二郎」

 思わせぶりに何を言いだすのかと周囲が身構えていれば、何の事は無い。先に蕎麦を食べ始めていた千尋が、目を剥いている鈴を憐れんで窘めた。


「え……嘘なんですか?」

「嘘じゃないよ。こういうのは冗談ていうんだ」

「お、同じじゃないですか! 田上さんのいじわるっ」

 からかわれたと知った鈴は柔らかな眉を吊り上げ、出来るだけ怖い顔を作ってみせる。怒る娘を前にけらけら笑っている長二郎は、随分と楽しそうだった。

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