相内柾樹
かつては武家屋敷が連なっていたという。
駿河台から神田へ続く坂道を駆け下っていく、書生風の青年がいた。金茶色の髪に濃色の袴。黒に近い紬の着物と、黒の兵児帯。懐にはこっそりピストルも。肩に担いだ大きな鞄には着物が二枚詰め込まれ、収まりきらなかったバイオリンが首を出している。室内の手近にあったものを適当に放り込んだら、こういう品揃えになった。これで暮らせるのかとか、そういうことは考えていない。
下駄を鳴らし飛ぶように駆けていた長身が、急停止して振り返る。銀縁眼鏡をずり上げ眺めていると、往来の人の間から耳障りな笛の音が飛んできた。白髪交じりの髭の巡査が棒を振り回し、何やら大声を上げ突進してくるのが見える。
「しつけぇ奴だな」
琥珀色に近い前髪の下、眉間に不機嫌を滲ませ舌打ちした。踵を返し、下駄とは思えぬ身軽さで再び走りだす。
機嫌の悪い青年は、名前を相内柾樹といった。湿り気を帯びた優しい春風も、たなびく白い雲も、道端や板塀の上から伸びる若い枝葉も、柾樹の目には映っていない。頭は不機嫌でいっぱいだった。大体、昨夜から不愉快続きだったのである。
昨日は行きたくもない夜会に引き摺って行かれ、好きでもない料理を食わされた。更に見たくもない紳士淑女の踊り狂っている様を鑑賞させられ、あちらこちらの令嬢に挨拶をさせられた。これだけでも辟易としていたのに、今朝は食事の席へ、次姉のよしのが乗り込んできたのである。
『今日こそは言わせて頂きますけどね!』
そう改まり、二人いる姉のうち『化粧の濃い方』が何をしに来たのかと思ったら、一族で経営している銀行の人事と配置について、当主である父へ文句を並べに来たのだった。ようするに自分の夫の立場を、もっと立派にしろということが言いたかったらしい。居合わせた柾樹にとっては、どうでも良い事柄だった。
『んなこたテメェらで何とかしろよ』
低い声で呟くと、よしのがキッと見返った。気の強い姉は、母譲りの豊かな黒髪に縁取られた美しい顔を惜しげもなく歪めると
『良いわねぇ、アンタは。猿回しの猿より能無しのくせに、何もしなくても餌が貰えるんだからねぇ』
たっぷり嫌味をこめてそう言った。それから柾樹などいないような顔をして、造船業の取引先のことから馬丁の扱いに至るまで、次々と自分の要望をぶつけていた。当主であり、血の繋がらない義理の父親を相手に躊躇いもなく、それは柾樹が感心するくらいの勢いだった。
しかし父の重郎は長身を椅子に静め、煙草をくゆらせるだけで何も答えなかった。そしてまだよしのの主張が続いている最中に、何か思い出した顔で立ち上がり、厳めしい口ひげを蓄えた顔の中、無感情な視線を娘へ向け
『早く帰りなさい』
一言だけ言い、部屋を出て行った。相手にされなかったのが悔しかったのだろう。姉は手近にあった物を床に叩きつけ、周囲はそれを止めるために大騒ぎとなったのである。
こういう場合、よしのの次の標的は柾樹だった。父が跡取りとして優遇している(らしい)自分のことを、気の強いよしのが嫌っている事実は、うんざりするほど知っている。よしのの八つ当たりが女中達へ向いている隙に、柾樹は難を逃れ自室へ避難した。それから数分考えた末、見張りの目を掻い潜って屋敷を抜け出してきたのである。
最近、急にこういった『面倒』が身の回りで増えた。
柾樹は家の都合により、行きたくない場所に連れて行かれ、したくないことをさせられる。見たくないものを見なければならない機会が増え、聞きたくない音が嫌でも耳に入ってくる。今や屋敷は金を得る以外では柾樹にとって何の魅力も無く、不愉快なだけの場所だった。少し前までは中々良い暮らしだったのに。
柾樹はこれまで、家でいくつかの『決まり』さえ守れば、後は何でも許されてきた。
決まりとは家の広大な敷地内に建つ、『離れ』に近付かないこと。そしてそこに住んでいる父親違いの姉達と関わらないことという、それだけだった。全ては数年前に他界した祖父にして家の絶対権力者、幸兵衛の意向である。無一文から政商と呼ばれるまでに成り上がった、当主の命に逆らえる者はいなかった。柾樹はその家を継ぐための、大事な嫡男である。生まれて間もなく母親から引き離され、以来ずっと乳母や子守に育てられてきた。
とはいえ、家の跡取りとして息も出来ないほど厳しく躾けられてきたかといえば、そんな事は無い。父の重郎は昔から「何でも柾樹の好きにさせるように」と、屋敷中に通達していた。だから幼い頃の柾樹は、殆ど放し飼いも同然だった。
小学校にも行っていないので、その時代は好きな時に起きて腹が減れば食べ、眠くなったら寝ていた。欲しいと言えば、バイオリンや暗箱の写真機など珍しい楽器やおもちゃもポイと買ってもらえた。家庭教師の部屋に花火を放り込むという悪質極まりない悪戯をし、家庭教師を辞めさせた事もある。それでも誰にも叱られない。誰も叱れなかったというのが実情だったか。
三歳まで一言も喋らなかった柾樹は、喋るようになっても大人の言うことに耳を貸さず、暴れ回って屋敷内のあらゆる物を破壊する子供だった。少しでも止められると癇癪を起し、気に入らない事があれば引っ掻き噛みつき、奇声を上げる。あまりの手の付けられなさに、『小鬼の坊ちゃん』と陰名されていた。
中学時代も友人達と芝居見物をしたり品川の遊郭へ行ったりと、遊んでばかり。面白半分で賭場に転がり込み、適当な相手を見つけては喧嘩をしていた。遊ぶための資金が必要で父に金をくれと言っても、理由を聞かれることは無い。父は昔から常に忙しく、時々食事をする程度の接触率。母も柾樹が五歳のとき、家を出て行ってしまっている。祖父だけは怖かったけれど、正月に顔を合わせるくらいの存在感。そして金については、祖父も父も使いたいだけ使えとしか言わなかったから、使いたいだけ使ってきた。
わりと近年まで、柾樹はこれが普通だと思っていたのである。疑問を抱いた事も無かった。違うようだと気付いてからは、何故自分の家はこんな状況なのかと疑問を持ったりもした。だが今では親も人であるのだから、何か事情があったのだろうと考えている。屋敷には使用人もたくさん居るので、生活する上で不都合を感じたこともない。こういう人生もあるかというくらいに考え、こんな暮らしがずっと続くと思っていた。
それがどうもこの一年ほど、おかしいのだ。
窮屈な服を着せられ、市中引き回しにされる回数が増えた。逃亡してもすぐ連れ戻される。『跡取り』の肩書きが、将来にちらつき始めているのを感じざるを得なかった。よしのが本館へ頻繁に乗り込んでくるようになってきたのも、恐らくこれが影響している。もう一人の義姉で、比較的親しい間柄である『やすの』は「そんなことないわ」と言うが、分かる。出来の悪い柾樹が血筋という理由一つで財産と家を継ぐのが、面白くないのだろう。
――――そんなに跡目の役が欲しけりゃ、くれてやる。
その意思表示も込めて、柾樹は今日こそ戻らぬつもりで屋敷を抜け出してきたのだった。
そして一時間ほど前まで、気分転換にその辺の賭場へ紛れ込み、花札で遊んでいたのだが一人で勝ち過ぎた。そうしたら賭場を出た先で、人相の悪い人々に囲まれた。一応柾樹なりに平和な解決を試みた。でも話が全然通じなかったため、仕方無く全員ぶちのめした。
するとそこへ騒ぎを聞きつけ、どこからか巡査が飛んできたのである。生真面目が髭を生やしているみたいな巡査は一人だけ無傷の柾樹を捕まえるなり
「故郷の親御がどういう思いで、お前を帝都へ行かせたか考えたことはあるのか」
と、いきなり説教を始め、終いには名を名乗れと言い出した。おそらく田舎書生が帝都に浮かれて調子に乗り、悪所に入り浸って一暴れしたとでも思われたのだろう。
名乗っても良かった。でも面倒くさかった。面倒くさいので柾樹が逃げ出すと巡査は怒って追いかけてきて、さんざん走り回って現在に至る。
どうにか巻いたかと足を緩め、柾樹が下駄を鳴らして坂道を下り終えたときだった。
遠くから、聞き覚えのある幼い少女の怒声が聞こえてくる。見ると道の向こうより、筋骨隆々な若者とその小脇に抱えられた小娘が近付いてきた。さっきからきーきー騒いでいるのは、おかっぱ髪に赤いリボンを載せた、この少女。
小娘を抱えている若者の方も、柾樹は知っている。屋敷の門番で、与八郎という若者だった。相撲取り並みに立派な体格に加え、坊主頭であるがゆえ、新米なのに『大入道』などと言われている。棒を手に門番をしている姿は、どこの仁王像かという迫力だった。
近付くにつれ与八郎も柾樹に気付いて立ち止まり、「お出かけですか」と頭を下げる。それには「ああ」と返したきりで、荷物のように抱えられている小娘へ柾樹は言った。
「また破獄したのか? 紅葉」
逃亡中の我が身の事は、綺麗に棚に上げている。その声に大きな瞳が若い叔父を見上げ、「柾樹にいさま!」と叫んだ。
「浅草に行こうと思っただけだよ!」
かわいい口を尖らせ、紅葉と呼ばれた少女は憤慨した様子で言った。大きなリボンに真っ赤な小花の着物という格好とは裏腹に、口調はまるで男の子である。まだ六歳だというのに、どうやら彼女は一人で浅草見物と洒落込もうとしていた模様。
「十二階を見て、すぐ帰ろうと思ってたんだ! なのに途中で与八郎が来ちゃった」
小娘は自分を抱えている青年をキッと見上げた。仕草が母のよしのにそっくりだった。でも睨まれている与八郎は知らん顔。彼は本当にただの門番なのだが、紅葉が脱走するたびに連れ戻す役回りになりつつある。お嬢様が泣こうが騒ごうが、命じられた仕事をきっちりこなす忠誠心を買われてのことだった。
「そいつは残念だったな」
お転婆で少しも大人しくしていない姪っ子に、柾樹は笑って答えてやる。よしのが良い顔をしないので、柾樹は屋敷で紅葉とあまり話さないようにしていた。けれど離れも本館も関係なく走り回っている少女は、たまにお菓子をくれる若い叔父を『柾樹兄様』と呼んで懐いている。柾樹の方も適当に可愛がっていた。
「柾樹にいさま、どこ行くの? 学校?」
柾樹が担いだ鞄を見て、紅葉が無邪気に尋ねる。姪っ子の質問に「いいや」と短く答え、柾樹は少し視線をそらした。
中学校を卒業後に入った音楽学校も、ここしばらく足が遠のきサボっている。『あいつは大した才能もないくせに、家のおかげで贔屓されている』という陰口を聞いて以来、嫌になってしまったのだ。陰口を叩いた連中はその場でぶん殴ってやったけれど、柾樹はその日を限りに学校へ行かなくなった。
贔屓されて恥ずかしかったわけではない。むしろ生まれる前から家に金があって、どこが悪いのかと考えている。たかが他人の財力如き優遇も越えられない、己が無能を勘定に入れず何を言うかと思う。そこを理解しないで文句を言う連中が愚かなのであり、どうして世の中は馬鹿ばかりなんだという、この点が柾樹には鬱陶しく、腹立たしく、こんな馬鹿者どものいる場所に通うのが嫌になったのだった。元々音楽学校へ入ったのも、「好き勝手が出来そうだ」といういい加減な動機だったため、少々のケチが付いたらもう全部嫌になって、惜しげも無く放り出してしまったのである。
「出かけてくる」
柾樹は言って一歩踏み出した。が、あることを思い出して振り向く。
「与八郎」
「へい」
呼ばれた与八郎は紅葉を小脇に抱えたまま、坊主頭を再び下げた。日に焼けた四角い顔へ、微かに吃驚した気配を滲ませている。この御曹司は極一部の者を除き、使用人に自ら声をかけることなど滅多にない。そのくせ名前は覚えているようだった。
「源右衛門はどうしてる? 知ってるか?」
柾樹は二、三歩歩み寄ると横柄に質問した。
源右衛門とはこの前まで相内家の屋敷にいた門番の老人である。彼は柾樹にとって爺やも同然だった。元気者で知られた爺さんだったものの、体調を崩しがちになり、体力も落ちてきたとのことで引退。代わりに与八郎が入ったが、以来この二ヶ月近く、源右衛門は屋敷へ顔も見せない。柾樹の方も学校やら夜会やら華族の会合やらに引っ張り回される日が続き、頭の片隅で気にしながらも源右衛門の様子を見に行くことが出来ないでいた。
尋ねられた与八郎は抱えていた紅葉を地面へ降ろし、「へい」ともう一回答えた。
「三日前、見舞いに行った親父の話じゃ、相変わらずだったそうで」
「酒でも飲んでるのか」
「いえ、病気です」
「何だ、本当に寝込んでるのか?」
「よく喋って達者は達者らしいんですが、やっぱり身体の加減は悪いんじゃないかと……」
ふんと答えて会話は止まる。柾樹が元々ぶっきらぼうなのに加え、与八郎も愛想が良い方ではないため大層淡白な会話になった。
「源さん、病気なの?」
青年たちの顔を交互に見上げ、紅葉が口を出してくる。それに対し
「アイツも歳だからな」
柾樹が独り言に似た言葉を呟いた時、またもけたたましい警笛が飛び込んできた。
三人が警笛のした方を見ると、巻いたとばかり思っていたさっきの髭の巡査が走って来た。随分健脚なようで、あれだけ走ってまだ顔色も変わらず「待てコラー!」と元気に叫んでいる。
「もういいぞ」
柾樹は言って軽く手を振り、門番と姪っ子を追い払うと巡査に背を向け走り出した。
「柾樹にいさまー! どこ行くのー? 紅葉も行きたいー!」
紅葉の甲高い声が追いかけてきたが、それはすぐに悲鳴へ変わり遠ざかっていく。見返らなくても、彼女が再び与八郎に屋敷へ連行されているのはわかった。やかましい笛に追われながら、速度を変えず背中で騒ぎを聞いていた柾樹は
「とりあえず、源右衛門のトコにでも行くか」
銀縁眼鏡の奥から薄曇りの空を見上げ、呟いた。