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秘密のお雪さん

 外できゃんきゃん女の声がする。蔵の二階にいる雪輪は、震える指でそっと窓を開け下界を見下ろした。窓のすぐ外には大きな楠木があり、枝葉のお陰でこちらの姿は少し見えにくくなっている。


 勝手口の前では、背の高い中年の女性が千尋と押し問答していた。千尋の母親のおかるである。雪輪の場所から顔はよく見えないけれど、渋めの縞の着物と丸髷が見えた。『大女』と言われると烈火の如く怒るという話だが、たしかに同世代の女の中では相当大柄だった。


 白岡家の母と息子はさっきから、「帰れ」「帰らない」ともめている。先程おかるは得意先からたくさん貰ったという、カステラを届けにこの古道具屋へやって来たのだ。でもこれは建前だった。


 本当は何をしに来たのかというと、息子が何処かから雇い入れてきた女中の『お雪』を、見極めに来たのである。今までは銀右ヱ門がどうにか押さえていたけれど、倅の住居に女中とはいえ、『女』が入ったとなると居てもたってもいられなくなったと見えて、おかるは夫の制止を振り切り乗り込んで来たのだった。


 青年達は「今ちょうど買い物に行っている」と言って、『お雪』不在をのらりくらりと誤魔化している。しかし敵もさるもの。おかるはさっきから何だかんだと理由をつけて、帰宅の時間を遅らせていた。


「今日はもう、ここに泊めてもらおうかね」

 などと、書生一同が青褪めるようなことを言い出す始末。何が何でも『女中』を審査してやらねば、気が済まない様子だった。その女中が名前も産地も曖昧で、息子が妙に隠している風な(というか間違いなく隠しているのだが)女中だから、余計に怪しんでいるのだ。


「お前は人を見る目が無いからね!」

 何だか知らないけれど、おかるがきっぱりそう言い切る声が聞こえてきた。ちなみに「そんな見る目が無いように育てたのは一体誰だ」という問いには、「お前がお父っつぁんに似ただけだ」という一分の隙もない答えが返って来るので、言うだけ無駄である。


 勝手口から少し離れた井戸の近くでは、完全に蚊帳の外に置かれた柾樹と長二郎が薪割りをしていた。彼らの手に負える状況ではないので、適度な距離を保ちつつ、母子の攻防を見守っているのである。


――――どうなさるおつもりだろう?


 『お雪』こと、雪輪は下界のドタバタを他人事のように眺めていた。娘の足元では、僅かに開いた窓から差し込む陽光が、古い蔵の板敷きの床を細い四角に照らしている。


 これまで土間の横にある納戸で暮らしていた雪輪だったが、昨日からこの蔵に移り住んでいた。不幸な遭遇を二度も起こしている事実を踏まえ、不測の事態に備えて蔵で起居してはどうかと長二郎が言い出したのだ。それが功を奏し、おかるがやって来た時も出くわすことはなかった。でも眼下で繰り広げられている戦いを見ていると、いっそのこと出くわしてしまった方が、千尋の苦労は少なかったのではないかと雪輪には思えてきた。


 もう一度窓から覗くと、帰ろうとしない母親相手に困り果てている千尋の姿が見える。さっきまで『お雪』は買い物へ行っている事になっていたのだけれど、いいかげん苦しくなってきて、いつの間にやら親類の祝言へ行っていることに変更されていた。


――――何もそこまでして下さらなくても……。


 千尋に対し、雪輪は詫びや感謝の気持ちを越えて、困惑するような心持ちになっていた。何故なら雪輪を女中にするという、この構想。たぶん千尋なりに考えた末の策だろうと、雪輪は何となく気付いているからである。


 千尋はこの前、父親から『下宿で女中を雇ったらどうだ』と言われたと話していた。しかし古道具屋には女との接触を避けている雪輪がいる。かと言って提案を下手に断れば、今度はまた母親が世話をしに来かねない。それでは事態が混乱する一方である。そこであちらとこちらを両立させるため、彼は雪輪に『女中をしないか』と相談を持ちかけたのだ。まさかそれが理由でおかるが飛んでくるとまでは、予想していなかったようであるが。


 幼馴染の娘の事件で雪輪が助言をしたことに、千尋は恩を感じているらしい。それゆえ何とかして義理を立てようと苦労してくれているのだ。隠れているのは雪輪の都合である。ここで居候を一人追い出したところで、責める人などいないだろうに。お人好しなどという言葉では足りない気がした。こんな人もいるのかと、雪輪は軽い驚嘆の念を覚えたほどである。


 長い睫毛を伏せ、蔵の娘は静かに窓を閉めた。その背後で何かが動く。振り向くと大きな赤い猫が座っていた。


「火乱?」

 娘の声に、猫は尻尾で返事しながら音も無く寄って来る。雪輪はその場でしゃがむと、

「こんな事になるとは思いもしませんでした」

話しかけながら、震えの止まらない白い指で猫の頬を撫でてやった。

華厳けごん様の仰った通り、わたくしは世の中の事など何も知らないのですね」

小さな声で囁く。


「……でも、ここはもうおいとましましょう」

 雪輪は緑色の目を細めて大人しく撫でられている猫へ向け、静かに言った。


 千尋が母親に根負けするのも、もはや時間の問題である。事情を話せば、おかるも同情は寄せてくれるかもしれない。けれどここでの女中はやめてくれと頼まれるだろうし、銀右ヱ門もきっとその点では妻に同意するだろう。大事な倅の下宿の女中は、もっと普通の娘が良いに決まっている。冷酷なのではない。これが普通の親心である事は、雪輪とて知っていた。そして親と雪輪の間に挟まれたら、それこそ千尋が気の毒を通り越して不憫である。


 それに雪輪は、どうしても不安だった。おかるは中年とはいえ、見た限り健康そのものである。


――――まだ子供を産めるかもしれない。


 そう思った。桜と座敷の引き戸のところで鉢合わせた際も、肝を冷やしたのである。おおよそ平穏に暮らしていそうな千尋の身辺に、いらぬ波風が立つ事を雪輪は恐れていた。


「しばらくここで様子を見たかったけれど、仕方ありません」

 呟いて、壁に添うように立ち上がる。すると窓辺にあった葛篭へ火乱が飛び乗った。猫は鼻を窓の隙間に押しつけ


「ひいさん、見てみ」

人語で言って振り返る。猫が人のようにニタアと笑った。と、その時。


「あーッ!! お雪さん! 待ってたんだよ!」


 外から長二郎の大声が聞こえた。呼ばれるはずのないタイミングで呼ばれた蔵二階の『お雪さん』は「?」と再び窓を細く開ける。見ると、裏戸から入ってすぐの場所に、白髪交じりの女が佇んでいた。日に焼けた丸顔で、小柄だが手足は太く逞しい。手には風呂敷と、米を研ぐために使う小ぶりの桶と、古びた長い大数珠を持っている。


――――あの数珠は……。


 雪輪はちょっと目を瞠った。客人の持っている特徴的な長い数珠に、見覚えがあったのだ。あれは先日ここに来た袋田という男が、どこかで手に入れてきたという珍品ではないか。評価と判断に困った千尋が、「どう思う?」とコッソリ雪輪に見せにきたから、知っていた。


――――たしか、『武蔵坊弁慶の数珠』と言っていた……?


 胸の内で呟く。嫌な予感しかしなかった。


 正直困っているのだが、『楽茶碗』の鑑定をして以来、千尋は雪輪に鑑定眼があると思い込んでいるようなのだ。雪輪は骨董商のような目利きなどしないし、出来ない。最初に茶碗について尋ねられた時も黒い茶碗を手にとって、「良いものなのではございませんか」と述べたに過ぎなかった。箱書きや釉薬の云々など、価値判断における専門的なことも知らないから、一切言及していない。茶碗が見立て通りの一級品だったと報告された際には、「偶然でしょう」と言っておいた。


 それなのに、古い物に関して何故か雪輪は千尋から全幅と言って過言ではない信頼を向けられていた。雪輪の“鑑定眼”は、少々特殊な事情で成り立っている。あまり信用してもらっても困るのだ。


「わたくし、目利きは出来ません」

 ハッキリそう言ってある。にも関わらず、千尋にはどうも響かないらしい。『弁慶の数珠』についても、雪輪が「見当がつきません」と言ったら、あの若者はそれをそのまま「見当がつきません」と持ち主に伝えてしまった。思い込みや第一印象というものは一旦決まってしまうと、そう簡単に覆らないものなのだろう。


 で、ともかく先日見た数珠を持っている点からして、女は袋田氏の関係者であり、恐らく女房と思われた。女は後ろを振り返ったりキョロキョロしている。『誰の事を呼んでいるのか?』という顔をしていた。


 思わぬ第三勢力の登場で戸惑う周囲をよそに、薪を放り出した長二郎は「やあやあ」と言いながら、いやに親しげな態度で初老の女へ飛びついた。その勢いでずいずい押していく。飛びつかれた方は吃驚した顔をしていた。書生と女は敷地の隅の壁際まで行って、やっと止まる。


「な……何だい藪から棒に? あたしゃ『お雪』じゃなくて、『お滝』って……!」

「知ってますとも、袋田さんトコのおタキさんデショ? 近所の美人はみんな知ってますから! ええもう違うんですよ今のはエスペラント語の挨拶で近頃書生の間で流行ってるんですよ」

「はあ?? アンタさっきから何言って……」

「それより何ですか、この数珠? どうしたんですか? とりあえず話し聞きましょうか? ね?」


 訝る袋田の女房へ、長二郎は適当な事を覆いかぶせるように言っていた。そしてまるで自然な風に、話題を強制変更する。長二郎が声を潜めて話すものだから、答えるお滝も巻きこまれて小声になっていた。


「ああそうそう、それだよ、聞いとくれ。あたしゃほとほと困ってるんだよ! この前ここで見立ててもらった茶碗が、言われた通りの良い品だったとかでさ。高く売れたもんだから、ウチの人がすっかり骨董熱に罹っちまって、どうしようもないんだよ。見とくれ、こんな『松尾芭蕉が旅で使った風呂敷』だの、『坂田金時の米磨桶』だの買ってきてねぇ……。しまいにはホラ、こんな汚い数珠だよ? これを『弁慶の数珠』だとか真面目な顔して言うんだよ? あたしがどんな情けない思いをしてるかわかるだろう? このままじゃガラクタでウチが埋まっちまう! こんなことになったのは、茶碗の目利きをしたお前さんたちのせいでもあるじゃないか。そうだろう? まずはコレとコレとコレ、引き取っておくれよ! もう見てるだけで腹が立つったらありゃしない!」


 お滝はそう言って、数珠と桶と風呂敷という、一貫性の無い品々を揃えて長二郎に突き出した。距離がある上に小声なので、騒音に慣れた都市の人間の耳にはとても聞こえない。しかし猛烈に耳の良い雪輪だけは、蔵二階にいても彼らの会話を聞きとれていた。そこへ


「ちょいと、千尋」

離れた場所で長二郎たちがコソコソやっているのを見ていたおかるが、倅の袖を引く。建物の壁へ身を寄せると、先方の様子を伺いつつ言った。


「お雪さんって……あれのどこが十八なんだい。あたしより年増じゃないか」

「え、お雪?」

 声を潜める母親の言葉に千尋は目を瞬いた。しかしすぐに井戸の横で柾樹がニヤニヤしているのに気が付いて、ハッとする。


「……あ、あー……、ええと……八十だったかなぁ?」

 首を傾げてから空を見上げた。苦し過ぎる。苦し過ぎるのだが


「八十……?! お前ったら数もわからなくなったのかい? 全く情けないったら……! でも八十にしては若くないかい? 近頃は年寄りも若くなったって言うけど……。それにあの人、何だってお数珠や桶なんか持ってるのさ? …………ハッ! わかった!」

苦し過ぎる言い逃れを案外素直に受け取ったおかるは、勢い良く手を打つなり


「お葬式だね?」

神妙な顔で言う。千尋が額の辺りに「ん?」と疑問符を浮かべたのは見えないのか、輝く眼差しで話し始めた。


「祝言じゃなくて、本当は葬式で出かけてたんだろう? 見ればわかるさ、このくらい! お前は知らないだろうけどね、親戚や近所に不幸があったら一先ず米や野菜くらい持って行って、一緒に握り飯の一つもこしらえてやるもんさ。それで風呂敷だの米磨ぎ桶だの持ってるんだろ?! マァ……あんなにお辛そうな顔してるじゃないか……見てられないねぇ! 歳取ってからの葬式は堪えるって、うちのおっ母さんもよく言ってたもんだよ。まったく、それならそうと、お前も早く言えばイイだろうに。何で隠すような真似なんかしたんだい? どうせ『物要りになるから、おっ母さんが気を揉む』とか考えたんだろう? 馬鹿だねぇ、この子は! そんなこと半人前が心配しなくて良いんだよ!」


 一気に捲し立てたおかるは千尋の腕をバシンと叩き、勝手な結論へ着地する。そして思い込んだら一直線。自らの確信と勢いに乗って、建物の陰から身を翻らせた。


「マァマァ、挨拶が遅くなりまして……!」

 まだ長二郎と話し込んでいたお滝へ、営業用の笑顔でもって小走りに駆け寄る。割って入ってきた大女を見上げ、小女の方は「ハイ?」と再び吃驚していた。


「ああ、こちらは白岡君の母上で」

「いつも倅がお世話になっております、母のおかると申しまして!」

「は? はあ、これはご丁寧に、どうも……」

 自己紹介に、お滝はとりあえず挨拶をする。何のことやらという顔をしていた。そして小さな目をしぱしぱさせていたのが


「この度は、倅がとんだ事を……」

おかるが沈痛な面持ちで丁寧に頭を下げるから、下げられた理髪床屋の女房は「へ!?」と目を剥く。それから手や首を、大慌てで同時に何度も横に振った。


「いいええ! 何もそんな、おかみさんに頭下げて頂くほどのことじゃ!」

「お恥ずかしいお話ですが、今まで下宿もさせたことがないもんですから、物を知らない倅で……。大事な事なんだから一言くらい言えばいいものを、ぼんやり者でウッカリしていたようなんです」

「とんでもない! 元はと言えばウチの人が変な熱に浮かされて、馬鹿になったのが悪いんですから!」

「熱に浮かされて……! そうですか高熱で……近頃流行ってますからね。さぞかし大変だったでしょう」

「え? まぁそうさねぇ、大変っちゃ大変だけど、いつものことですよ」

「んまぁ! 傘寿を迎えるような方となると何があってもどっしりしたもんですねぇ!」

「? さんじゅ?」


 喋っているお滝本人も違和感を覚えているようだった。尤もなことである。『とんだこと』の意味合いが、双方の中で違っている。床屋の女房は『夫を骨董にハメた』事だと思っており、おかるの中では『葬式』その他を意味していた。滅茶苦茶なのだが、話そのものは微妙に噛み合っている。袋田の女房の言葉に、感情豊かなおかるは涙ぐんでいた。そして首を傾げている相手の手を取ると


「何も出来ませんで……これ少ないですけど、まずは取っといてくださいな」

懐から、千尋に渡すつもりだったのだろう懐紙に包んだ金を取り出し、握らせる。


「アレぇ! こんなもの頂戴するなんて、かえって申し訳ない! あたしもそんなつもりじゃ」

「いいんです、いいんです! これから何だかんだと、おあしも入用になってくるでしょうし」

「ええ、でも」

「いいんですよ、取っといてくださいな!」

「ハァ……ありがたいねぇ。実はココだけの話、今度の事で少しばかり借金まで拵えてまして……」

「借金! そうでしょうね、この頃は何でも派手好みですから、おあしばかりかかって」

「派手なんですか? へーえ……その筋のことまで、おかみさん色々とよくご存じなんですねぇ?」

「そりゃご存じですよ。ウチだって二親と、ご近所の世話まで何度もしてますから」

「親御さんにご近所まで!? それはまた、目の眩むようなお話で……」


 こうして。おかるとお滝の認識のズレは修正される事なく、会話だけが進展し


「ウチのがまた何かしでかしたら、遠慮なく何でも言ってやっておくんなさいましね」

「いえいえ、こちらこそすっかりお世話になっちまいまして、勿体ないったら……」

「そう言って貰えると気が休まりますよ」

修正されないまま、丸く収まってしまった。


 その後『見極め』を終えたおかるは「早く帰らないとお父っつぁんが待ってる」と上機嫌で帰っていく。おかるが帰るまで書生たちに羽交い絞めで引き止められていたお滝も、不用品を処分した上に、どういうわけだか臨時収入まで入ったものだから多少の不審など吹き飛んで、軽い足取りで帰っていった。


「また来たらどうしようか……」

「その時はその時だ。次は法事に行ってるとでも言っておけ」

「そうそう。十日祭だ二十日祭だと、色々あるぞ? 初七日や月命日でもいいか」

「お前らなぁ……」

「ま、とにかく良かったじゃねぇか、雪輪」


 日が暮れてからの夕餉の席で、柾樹は少し離れた板敷きで控える雪輪にそう言い、呑気に笑っている。


――――良いはずがないでしょう……。


 蔵から出てきた娘の方は小刻みに震える身の内で、ひとり悩みを深めていた。

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