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白岡千尋

 午前中はよく晴れていたが、正午を過ぎてから雲が厚くなってきた。帝都の春は全く天気が変わりやすい。そんな空の機嫌を、古道具屋の勝手口で伺っている男がいた。近所に住む床屋の主、袋田である。尚しばし、空を見ていた壮年男性は


「袋田さん」

名を呼ばれ、「はいはい」と陽気に答えて振り返る。いそいそと土間に戻って框へ腰かけるも、その腰はいかにも落ち着き無く浮き上がっていた。


 待ちきれない理髪床屋の主人の前へ、古道具屋の留守居役がのそりと出てくる。手にはまるで山伏が持っていそうな、木製の大きな数珠を持っていた。後ろ頭を掻き掻き正座した青年は膝の前へ数珠を置くと、ちょっと考えてから切り出した。


「よくよく拝見させて頂きましたが……ええと、『見当がつきません』でした」

 棒読みみたいな抑揚の無さで言う。途端に、高揚していた袋田氏の表情があからさまな失望へと塗り替えられていった。落胆を隠そうともせず、床屋の主人は上半身を乗り出して食い下がる。


「書生さん、ちょいと待っとくんなさいよ……それはつまり、価値がないってことですか? そんな筈ないでしょう? これはただの数珠じゃないんだよ? 『弁慶の数珠』なんだよ?」

「はあ……」

 袋田は熱っぽく説明している。聞き役である千尋の顔は困りきっていて、苦笑いにもなっていなかった。


 困惑の原因は数日前。袋田氏がこの古道具屋へ、茶碗を持って来た時点へ遡る。何とあの茶碗、本物の『楽茶碗』だったという。しかも、かなりの逸品であった。おかげで相当の値段を付けられて、どこかへ買い取られていったらしい。こうして袋田氏は今日、ホクホク顔で古道具屋にこのお礼というよりは、自慢をしに来たのだった。


 そしてこれだけなら良かったのだが、どうやら味を占めてしまったようである。本日、理髪床屋の主人はどこかで『武蔵坊弁慶が使っていた数珠』という、古い数珠を買いこんで来た。


――――是非とも見て欲しいものがあるんだよ!


 そう言って数珠を持って来た時の顔は、既に自信満々だった。長い数珠は木製の珠の一つにちゃんと、『むさしぼうべんけい』と書かれている。かつて吹き荒れた廃仏毀釈の嵐にも相手にされなかったのだろう古い数珠。


 これの価値を見てほしいという無茶な頼みを、千尋は断りきれなかった。仕方なく数珠を受け取り、「少し待っていて下さい」と言い置いて、さっきまで席を外していたのである。


「わざわざ奥座敷まで行って目利きしたってのに?」

 待たされた末に『見当がつかない』とかいう、大変つまらない返答しか得られなかった袋田氏は、到底腑に落ちない様子だった。


「まぁその……何というか、落ち着いて目利きが出来るんですよ、奥の座敷に行くと」

 しどろもどろで言いながら、青年はどうにか笑みを作る。それから改めて説明を始めた。


「茶碗のときも言ったでしょう。書生にはこういうものはわからないんですよ。あの茶碗が『当たった』のは、たまたまです。素人でもわかるくらい、良い物だったってことですよ。この数珠も、どうしても気になるようなら質屋か骨董商にでも行って聞いてもらえば、何かもっと詳しいことがわかるかもしれませんよ?」

 千尋は相手の気分を害さないよう気を使い、且つ過剰な期待感を宥めるように言い聞かせている。そんな話をしていたところへ、


「ごめんくださいまし」

突如、明るい女の声が入り込んできた。返事をするより先に、開けっ放しの勝手口から若い娘がひょいと顔を出す。ふわふわした薄茶色の髪にガーネット色の着物。風呂敷包みを抱えているのは

「え? うわ、さ、桜?!」

「皆様ごきげんよう……って、どうしたの?」

現れた桜に驚き、千尋はやたらとうろたえて対応が追い付かない。でも桜の方はそんな千尋を気にするでもなく、にこやかに微笑んだ。


「あら、お客さん? こんにちは。千尋、アンタまた何かやったんじゃないでしょうね?」

 客に挨拶すると、いつもの調子で笑いながら言った。娘につられたか床屋の主も笑顔で答える。


「いやいや、こちらの書生さんに、こいつを目利きしてもらっていたところでしてね……」

「へぇ、目利き……? それ、お数珠ですか?」

「ははは、お嬢さん、これはただの数珠じゃあないんです。武蔵坊弁慶の数珠なんですよ」

「弁慶って、勧進帳の? まあ、面白い!」


 あたふたしている千尋を置き去りに、数珠を挟んで幼馴染と理髪床屋の主は勝手に盛り上がり始める。嘘臭さ満載な数珠の由来や説明も、好奇心旺盛な桜は楽しそうに耳を傾けていた。綺麗な娘が楽しそうに話しを聞いてくれるものだから、袋田は嬉しくなったのだろう。話しのついでに先日の『楽茶碗』のことまで暴露し、喋りたいだけ喋ると、そのうちすっきりした顔で帰ってしまった。


「ヘーエ、千尋が目利きだなんてねぇ! 凄いじゃないの」

 床屋の主人が帰った後、疲れ果てた顔で溜息を漏らしている千尋をよそに、古道具屋へ上がりこんだ桜はそう言いながら縁側で腰を降ろした。

「いや、茶碗が当たったのはたまたまだ。『ノンコウ』がどうとか言ってたな……」

 一応口ではそう答えつつ、千尋は奥の座敷を覗いたり縁側を行ったり来たりして、何だかそわそわウロウロしている。


「どうしたの? さっきから落ち着かないけど」

「え? ………ああ、な、何でもない」

 青年は慌てて首を振り、不思議そうに見上げてくる桜の隣に座って腕を組んだ。「ハイ、これ」と桜が土産で持って来たアンパンを受け取り、縁側の柱に凭れて無言で頬張る。


「で、お前何しに来たんだ?」

 しばらくしてそう切り出した朴念仁な幼馴染の言い様に、看護婦見習いの娘はちょっと拗ねた顔になった。

「何よ、随分な言い方ね。お礼を言おうと思って来たのに」

 小振りなアンパンを自分も一つ頬張って、桜は言った。


 数日寝込んでいた桜だったが、明日からまた看護婦養成所へ戻るという。桜はお礼とその報告のため、アンパンを持って来たのだった。だがせっかくのお土産も、長二郎は賃訳仕事の納品で出掛け、柾樹も眼鏡の調子が悪いと修理で外出中だから、今のところ千尋しか食べる人間がいない。


 今日の桜は前回よりやや地味で、髪も比較的簡単に結えるイギリス結びになっていた。それでも薄茶の髪がガーネット色の着物に映えるから、人目を引かずにおかない。髪や肌も全体に色合いが淡いせいか、そこに居るだけでそれこそ花が咲いたように明るくなった。


「そう言えば桜は聞いたか? 長芋の話し」

 アンパンを一つ食べ終えた千尋が、改めて口を開く。

「ながいも? 何よソレ?」

 怪訝そうに小首を傾げる桜に、先日土々呂から聞いた『長いも』こと紺野の話を、人から聞いた話として伝える。すると幼馴染の娘は目を丸くした。


「故郷に帰る? あの、紺野さんが?」

 信じられないという顔をし、細い手を振る。キョトンとしている千尋の前で

「やーね、どこからそんな話が出てきたの? 世の中じゃそうなってるのかしら? 違うわよ。あのね、今までいた下宿先を出されたのは本当よ。でも学校の先生やお友達が世話をしてくれて、別の下宿に入ってまた学校へ通うのよ。本人の手紙にそう書いてあったんだもの。間違いないわ」

桜はハッキリそう言った。


 紺野青年は学校から厳重注意を受け、停学処分を仰せつかったという。だがここで、意外な援軍が現れた。紺野の友人知人から、助命嘆願の声が上がったのだ。


 恐らくあの顔の濃い青年と、仲間達だろう。彼らは紺野が当時酩酊状態であったことや、そういう状態へ至るまでに自分達にも大いに責任があったのだと証言した。そして今後はもっと真面目に彼の相談相手になり、生活その他までひっくるめて面倒をみてやるのでどうか寛大なご処置をと、各方面へ頼んで回ったのだった。そのお陰か、紺野清五郎はそれ以上の処分にはならなかったのだという。


「紺野から手紙なんて来たのか?」

 桜の話に、今度は千尋の方が驚きを交えて尋ねる。娘はこくんと頷いた。

「ええ。弥助さんが届けてくれたの。お詫びの手紙と『薬代です』って、少しお金もね」

「アイツも本当に手紙の好きな奴だな……」

 加害者にそう易々と面会に来られても被害者は当惑するだろうというのは、少し想像力があれば思いつきそうなものである。でもどうも思いつけなかったらしい長芋は、詫びの気持ちを届けに行きたいから桜の家を教えてくれと、弥助の所へ聞きに来たという。事情を聞いた弥助が紺野から手紙その他を預り、桜に届けてくれたのだった。それにしても相当な筆まめである長芋顔に呆れつつ、千尋はアンパンをもう一つ頬張った。


「受け取ったのか」

 謝罪やその品を受け取ったという事は、赦す事に繋がる。赦すにしても簡単過ぎないのか。すると桜は弱ったような笑みをのぞかせた。


「……そりゃね、怖かったわよ? あんな目に遭うの、二度と御免だわ。でもね、シスターに伺ったら『赦しておやりなさい』って言われたの。赦す事が導くことにもなるって。向こうもちゃんと反省してるみたいだったし? それに赦せるものならさっさと赦しちゃった方が、私だって気が楽だもの」


 紺野の手紙には

『これからは一度死んだつもりで学問に励み、自分を救ってくれた多くの人たちに救った甲斐があったと言ってもらえるような、立派な人間になってみせます』

と、あったという。

『恋は二度としません』

とも書かれていた。どこまでも極端な男だが、何も考えていないよりはマシというものかもしれない。「あの人お酒は二度と飲まないそうよ」と、桜は笑ってみせた。


「真名様のこともね……何かもういいかな、って」

 言いながら桜は曇り空を見上げ、小さく微笑む。

「いいのか?」

「うん……良いわけじゃないんだけど、何て言うか。サイドテーブルの引き出しに、紺野さんの手紙が挟まっていたでしょう? 真名様も、いらないだけの手紙だったらすぐに捨てたと思うのよね。どうして一度は引き出しに仕舞ったのかなぁって」

 考え込む表情で、娘は細い指を頬に当てている。


「もしかして、もしかすると……紺野さんのこと、憎からずは思っていたのかも?」

 大きな瞳が、ちろりと隣の青年を見上げた。「はあ?」と千尋の顔が崩れる。

「まさかぁ。あのお姫様が? 引き出しに入れた手紙の存在も忘れてたじゃないか」

「もちろん私もまさかと思うわ。偶然、他のものと一緒に引き出しに入れちゃって、挟まってただけかもね。でもそんなこと一瞬でも考えたら、何だか怒る気も薄れちゃったのよ」

 そう語る桜の顔には、いつもの明るい笑顔とは違う笑みが滲んでいた。勝手に色々慮ってしまい、怒って当然の事柄まで怒れなくなってしまったらしい幼馴染に、千尋は眉尻を下げる。


「まぁお前がそれでいいなら、いいんじゃないか?」

 そう言って微笑む千尋を見て、桜もホッとしたように微笑み返す。でもその直後、湯呑を置いた桜は急に、千尋の顔を下からじいっと覗き込んだ。


「それにしても……何か怪しい」

「え?」

「千尋が目利きとか、やっぱり何か変よ。最近アンタ妙に勘が良いわね?」

 幼馴染の怪しむ眼差しに射抜かれ、逃げ出すわけにもいかない千尋は視線を泳がせる。泳いだ視線は、広い庭の軒先を行ったり来たりしていた。昔は風流だったのだろう広い庭は今や生活感に溢れ、洗い物だけでなく、今日は使い古した掻巻や衾まで干されている。怪しむ桜は尚もじりじりと大柄な青年に近付いて、もはやお互いの鼻先がくっつきそうになっていた。


「マサさんやチョーさんの入れ知恵でもないんでしょ? だとしたら余計に変。冴え過ぎてる」

「あ、あのなぁ、オレを何だと思って……」

「貴瀬川様のお屋敷の事だって、私より先に気が付いたし」

「そ、それは別に良いじゃないか! おかげで桜も無事だったんだろ!」

 恐ろしく勘の鋭い娘に責められた千尋が苦し紛れに言い返すと、桜はすいと離れた。娘はそのまま庭の方を向き、背を向ける。


「それはね……うん。助けに来てくれて、嬉しかったもの」

 急にしおらしくなり、指先をいじって呟いた。乳白色のうなじもほんのり朱色に染まっている。が、

「そうだろうそうだろう、ありがたく思えよ?」

千尋は冷や汗まみれで、うんうんと頷いている。他に思うことは何もないようだった。手ごたえが無い短髪青年の態度に、「もういいわよ……」と桜は肩を落とす。


 そんなやり取りをしていた二人の上に、バラバラバラと叩きつけるような音が響いてきた。


「わ、雨だ」

 まだ当分平気かと思われていた灰色の空から、水の粒が落ちてくる。千尋は庭へ飛び降り、干されていた洗濯物を掻き集めはじめた。

「手伝うわ!」

 桜も一緒になって、千尋が縁側に放り込んだ洗濯物や掻巻や古い衾を次々と奥へ運び込む。


 ここで千尋はもう少し、注意をすれば良かったのである。桜が掻巻を抱えて隣の座敷へ向かったことに、全く気が付かなかった。何も知らない桜は掻巻を仕舞わなければの一心で、薄暗い座敷の方へと向かう。そして建てつけの悪い引き戸を開け、ふっと顔を上げると。


 真っ暗な引き戸の中で、カタカタ震える女が、真っ白な顔でにこりともせず座っていた。にっこり笑っていても何の解決にもならなかっただろうが、兎にも角にも一瞬の間があって。


「キャアアアアァァアアアアアアアーーーーーーーーーッ!!!!!」

 耳を劈く悲鳴が響き渡る。吃驚した千尋が座敷へ飛び込むと、その場で桜が失神していた。倒れた娘の隣で雪輪がゆっくり振り向く様に、「うわ」と思わず慄いたのは不可抗力である。


「桜ッ!? 桜! おい、しっかりしろ! ………雪輪さ~ん」

「申し訳ございません」

「うう……でもまぁ、ここにお前さん放り込んだのはオレか。ああ……気を付けてたつもりだったんだがなぁ」

 千尋は広い肩をがっくり落として項垂れる。


 先ほど袋田氏が来た際、大慌てでここへ雪輪を押し込めたことを後悔しても、後の祭り。桜は眉間に小さな皺を寄せ、固く目を閉じている。揺すっても「ん…」と呻いただけだった。乳白色の首筋が力無く伸び、はち切れそうな胸元を窮屈に押し込めている襟の隙間から芳しい匂いが立ち上ってきて鼻をくすぐる。ぼーっとしていた千尋は、横顔に突き刺さってくる雪輪の冷たい視線で我に返った。


「あ、ええーと……ど、どうすればいいだろう? オレ、怪我人の世話はしたことがないんです」

「…お怪我はしていらっしゃらないかと存じますが」

 おろおろしている千尋へ無感情に答えた雪輪は、しばし憐れな娘を見下ろしていた。そのうち「お水をお持ち致します」と言い立ち上がると、滑るように土間へ向かう。


 その直後。意識を取り戻した桜の瞼が開いた。目を開くやいなや、バネ仕掛けみたいに飛び起きる。


「い、いいい今! そっそこ! そん! ゆっ……ゆうれっ! 座っ! キャーキャーキャー!」

「さ、桜! 桜!! は、話しを聞けって!」

 半べそでぶんぶん首を振り、娘は一人で大混乱。胸倉を締め上げてくる桜に翻弄され、千尋は息も出来ない。


「落ちつけよっ!」

 どうにか宥めて引き離すと、混乱状態だった桜は目が覚めたような顔になる。

「……え?」と呆けた声を漏らし、肩から力が抜けていった。横を向いた彼女の隣では、空っぽの押入れが間抜けに黒い口を開けている。桜は涙ぐんだ目で再びおそるおそる引き戸の中を見、次いで道具だらけの座敷を見回した。雨のぱらつく庭の景色を横切り、目の前の千尋まで戻ってから


「え……今、その中に人が……女の人が……」

独り言を言った。そこで自分が事実上、千尋にしがみついていると気が付く。


「きゃああ!」

 先ほどよりは小さめの悲鳴と一緒に手を離すと、蒼白になって飛びのいた。

「ご、ごごごご、ごめんなさいごめんなさいっ!」

 桜は夢中で謝ると飛び上がるように駆け出して傘と荷物を引っ掴み、雨も構わず数鹿流堂を飛び出して行く。あんまり慌てていたので千尋が呼びとめた声にも、駆け抜けた戸の影にもう一人人間が立っていたことにも気付かなかった。


 途中まで千尋は幼馴染を追いかけたが、結局桜には追いつけなかったのだろう。しばらくすると一人疲れた顔で戻って来る。やれやれと框に腰掛けた留守居役へ、知り合いを二度も失神させた雪輪が頭を下げた。


「重ね重ね、まことに申し訳ございません」

「はは、気にしなくていいですよ」

 詫びる娘に、千尋は軽く手を振った。

 それきり古道具屋は雨の音に支配され、静まり返る。すると春の雨に閉じ込められた薄暗い空間で何やら考え込んでいたボンクラ書生が、ふいに真面目な顔で尋ねた。


「ときに雪輪さん。これからどうするか決まりましたか?」

 向けられた質問に娘は雨音の中、黒い目を少し伏せて答える。

「いいえ」

 それを聞いた途端、何故か千尋はパッと嬉しそうな顔になった。


「お、ちょうど良かった! ……って言うのもおかしいのか。あの、雪輪さん。ここで女中働きなんぞしてみる気はありせんか?」

 一段明るい声で提案する。突然そんな提案された娘の方が「え?」と声を漏らし、黒炭のような目を瞬いた。千尋は自分の膝を叩き、にこにこしている。


「ああ、人が来た時は表に出なくて良いですよ。炊事と洗濯と、家屋敷の掃除を頼みたいんです。この前帰った時、父に水仕事を頼む女中を一人、雇ったらどうだと言われたんですよ。ただし雇う算段から給金の支度と払いまで、自分でするって話だが……」


 留守居頭はそのように状況を説明した。つまるところ、息子の世話をしたくてしょうがないおかるに、銀右ヱ門が先手を打って出たのだろう。暮白屋の主は、人を雇うとなれば倅が金や人の使い方を考える機会にもなると考えたのかもしれない。男所帯や書生の下宿で女中を雇うのは、珍しくもなければ特別な贅沢でもなかった。


「だから給金も出しますよ。一日二十銭でどうです?」

 千尋は笑って言う。日当二十銭は昨今の庶民にとって良心的な給金と言えた。払うのが千尋なので実際の支払い能力は未知数だが、一先ず建前は立派である。と、そこで

「あの……」

雪輪が口を開いた。細かく震える娘は「うん?」と首を傾げる青年を見て、短く躊躇った後

「……出て行ってほしいという、お話しではなく……?」

ゆっくり問いかける。娘の声の中には、そこはかとない戸惑いが滲んでいた。


「? 何で?」

 トンマな顔と声で、能天気な青年の方が逆に問い返した。問い返された娘はまた少し考え込み

「わたくしは、こちらで人様を二人も失神させておりますし……」

そう言った。無表情なりに、住民へ迷惑をかけた以上は、ここを出て行かなければならないと考えていたのだろう。それと察した千尋は元々の性格も手伝い、同情の念が湧いてきた。


「悪気があったわけじゃないでしょう?」

 慰める口調で語りかけた。それから

「雪輪さん。オレはあのとき色々教えてもらって良かったと思っているんですよ。雪輪さんに言われなかったら、桜の身に何が起きているのか、オレは考えもつきませんでしたから」

言いながら厳つい顔に情けない笑みを浮かべる。


「あの薬売りの言う通り、放っておいても何も起きなかったかもしれません。桜は無事だったかもしれない。でもそれは運が良かっただけだ。今回は結果として、誰も彼もが無事だったってだけの話でしょう。桜もあんな性格だからなぁ……平気そうにしているが、アレは相当引き摺ってますよ。きっと相当怖かったんだと思うんです。だからせめて、早く助けてやることが出来たのは不幸中の幸いだったんだ。それに紺野も、薬売りが言っていたほど酷いことになったわけじゃなさそうじゃないですか。後でああだこうだと言う事は出来るけど、解決の仕方として、オレはそう悪くもなかったと思うんです」

 お喋りが得意でもない千尋なりに、一生懸命話していた。


「それに雪輪さん、道具の目利きも出来るでしょう? また何かあった時には頼みたいんですよ」

 若者は朗らかな口ぶりで付け加えた。雪輪は頭を小さく横に振る。

「わたくしは、お道具のことは何も存じません」

「でも良し悪しはわかるみたいじゃないですか」

 悪戯っぽく答えて笑っている。そこへ、外から下駄の音がやかましく聞こえてきた。


「チックショー、降られた! 間に合うと思ったのに!」

「あーあ、僕の一張羅が……」

 文句タラタラの大声と共に、揃ってずぶ濡れの柾樹と長二郎が帰ってくる。


「おかえり。一緒だったのか?」

「いーや、今ちょうどそこで会って………何してんだお前ら?」

 笑顔で出迎えた千尋と、土間に佇んでいる雪輪を見比べて柾樹が尋ねる。


「どうする?」と千尋が雪輪に尋ね、話の見えない銀縁眼鏡と鳶色癖毛は顔を見合わせた。黙りこくっている娘の震える足に、どこかから出てきた赤毛の大猫が長い尻尾を絡めて「ぎゃお」と鳴く。やがて色白過ぎる娘は顔を上げた。


 そうしてこうして、この日から。古道具屋の数鹿流堂には、住人以外誰も会ったことのない女中が一人、棲みつくようになったのである。

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