薬売り土々呂
「結局、紺野はお咎め無しになったんだな」
桜の誘拐騒ぎから数日後。古道具屋の庭先で、留守居頭と居候三名は古道具の埃払いと虫干しをしていた。その一休みの最中、千尋が新聞を広げて話し出す。新聞の隅にある記事を、頭を突っ込むようにして読んでいた。そのうち溜息交じりで紙面から離れる。
「警察でコッテリ搾られたようだが……」
縁側に腰かけて言う様は、不満とは言わないまでも、少し腑に落ちないようだった。
「それだけなのか? ピストルでうら若い娘さんを脅して連れ去ったんだぞ?」
同じく縁側でハタキを手に、長二郎が聞き返す。
「でも怪我はしてないからなぁ。それに本人が何をしたか、全く覚えていないそうだ」
「覚えてないだぁ?」
千尋の言葉に長二郎と、横で柱に凭れていた柾樹がほぼ同時に言った。奥の座敷を箒で掃き掃除していた雪輪も、僅かに振り返る。
「ああ。ここに全体の事が書いてある。まずあの日の朝、紺野は貴瀬川のお嬢様への付き纏いを知った下宿の奥さんから、随分厳しく叱責されたらしい。それで申し訳なく思って死のうと考え、下宿先の主人のピストルを持ち出した。だが死に場所を探して彷徨っていたら、いつの間にか昨日お嬢様を……まぁこれは桜なんだが、これを見かけた道端へ辿り着いていたと。そこでたまたま友達に会って話しをしているうちに、今度はだんだんわけがわからなくなってきた」
「何だよ、わけがわからないって?」
千尋が語る新聞の解説を遮って、長二郎が尋ねた。問われた千尋は、ちょっと困惑顔になる。
「オレだってわからん。そういえばあの時、『彼女が自分に会いに来た』とかナントカ言っていたようだからな……色々と追い詰められて、願望と現実がごちゃ混ぜになっていたんじゃないのか?」
「ふーん。そして頭が混乱状態のまま酒をあおり、前後不覚に陥って走り出し、貴瀬川の屋敷へ飛び込み、人違いで桜ちゃんを攫ったって?」
「大したもんだな……一から十まで間違ってるじゃねぇか」
柾樹の呟きにも、他二名は特に異論を述べなかった。目隠しで全力疾走していた状態の紺野青年の行動に怒るのも忘れ、少し感心すらしている。
「しかも酒をあおった後から記憶が無いらしい。それでも大層悔やんではいるみたいだ。『皆々様には面目次第もございません』と平身低頭の平謝りだそうでな……貴瀬川のお嬢様を追いかけ回していたのも、『ご迷惑になっているとは夢にも思っておりませんでした』と話しているとさ。自分達は相思相愛だと、本気で思い込んでいたみたいだ。つくづく傍迷惑な話だな……だが貴瀬川家の方も娘の縁談に響く前にこんな話しは片付けたかったと見えて、さっさと放免だ」
バサバサと新聞の紙の端を揃え、千尋は答える。
「貴瀬川の姫様の方が、よっぽど男を手玉に取っていたようなもんだよな?」
長二郎が笑って言った。それを聞くや、新聞を折り畳んでいた千尋が食いつく。
「そうだろ!? そう思うよな? アレでよくも桜のことを『品が無い』だの何だの言ったもんだ!」
千尋は大層不服そうに、口を尖らせて言う。柱に凭れていた柾樹が、バイオリンの弓を手にして鼻で笑った。
「まぁ、あんなの珍しくもないぜ。男の扱いなんざ慣れたもんだろ。役者買い漁ってる華族の奥方も、掃いて捨てるほどいるしな」
投げやりに言い、バイオリンを弾き始める。彼らの頭上では、軒先へ枝を伸ばす庭木のソメイヨシノが花弁をちらほら零していた。欠けた茶碗や火鉢も、花の魔力でどこか風情が漂って見える。
それにしても何故彼らが急に古道具の手入れを始めたのかといえば、発端は桜の事件の後にあった。
千尋と柾樹は桜に付き添って、一旦千尋の実家である暮白屋にも寄ったのだ。よくやったと人々に称えられ、桜の両親からも涙ながらに感謝されてそれは良かった。だが帰りがけ、千尋の父親の銀エ門に
――――お前たち、善五郎の店の掃除くらいしているんだろうな?
と何気なく刺された。当然やっていない。そのため道楽書生たちは、今日になってからアリバイ作りと気分転換を兼ねて、少しばかり道具の手入れと座敷の掃除をすることにした。
でも実質的に行動しているのは千尋と雪輪だけで、長二郎は手伝い程度の事しかしていない。長二郎以上に飽きっぽい柾樹など、既に虫干し作業に飽きてしまっていた。片づけの途中で自分の持ってきたバイオリンが目に入ると、良く言えば自分に正直に、仕事も自制心も投げ出して気に入りの曲を弾いている。『バッハの無伴奏パルティータ三番のガボット』と聞いても、柾樹以外は誰一人知らない。軽やかで機嫌の良い曲だから、柾樹が弾いているとそれだけで似合わなかった。
「雪輪ちゃんはどう思う? あいつの腕前」
長二郎がにじり寄って尋ねる。いつしか縁側へ出てきて、木魚(一体どこから出て来たのか)を拭き始めた雪輪は手を止めた。青白い顔をほんの少し柾樹の方へ向け、震える耳でしばし聞き入る。縁側や庭先に出した道具は全体の十分の一程度だが、足元を埋め尽くしていた。
「光るものが無い……」
「悪かったなッ!!」
雪輪の一言で演奏を中断した柾樹が怒鳴った。いっそ『下手くそ』と言われる方がまだマシだった。
「楽器も楽譜も知らねぇ分際で、知った風な口きいてんンじゃねぇよッ!」
そう言って睨みつけるも、雪輪は素知らぬ顔で木魚を拭いているから、ますます苛立ちが募る。横で腹を抱えて笑っている長二郎へ、銀縁眼鏡は腹立ち紛れの蹴りを食らわせた。蹴られた青年は千尋の横へ逃げてきて、一緒に新聞を覗きこむ。
「えーと、それで紺野はどうなったんだ? こんな騒ぎになったら、もう下宿先には居られないだろうが」
「たぶんそうだろうなぁ。田舎に帰ったんじゃないのか?」
千尋が軽く答えたときだった。
「ええ、まことにお気の毒な事でございますねぇ。紺野さんは遠いお故郷へお帰りになるそうですよ」
ガラガラに掠れた男の声が割り込んでくる。影も足音も覚らせず、湧いて出たとしか思えない男の声に、千尋が「わ」と驚きの声を上げた。若者達が一斉に見ると、庭の隅に全身白尽くめの薬売りが佇んでいる。
「お前、あの時の……?」
柾樹は目を瞠った。以前、道端で柾樹が紺野を助けたときに見た、あの薬売りである。薬売りは柳行李を「よいしょ」と背負い直し、笠の下から親しげに声をかけてきた。
「こんな所に隠れていらしたんですねぇ、雪輪様」
にたにた笑っている。青年たちは、今度は揃って雪輪の方を見た。縁側の娘は無言で動かない。だが暖かな快晴の空の下、急に辺りの気温が下がった気がして柾樹は両腕がざわりと粟立った。青白い顔をした娘の周りの空気が俄かに緊張し、まるで空気中で薄氷が張っていくように感じられる。
「知り合いだったのか?」
尋ねても雪輪は切れ上がった眼で薬売りを見つめ、返事をしない。代わりに薬売りの格好をした男が答えた。
「へぇ、土々呂でございます。どうぞお見知り置き……して下さんなくても良いんですけどね」
つまらない事を言い、ひひひと笑う。無性に鼻につく笑い方で、柾樹は思わず眉をひそめた。
すると突然、縁側や軒先に並んだ道具たちが小刻みにカタカタと振動し始める。更に家の天井や壁からパキッ、メキッ、という軋んだ音が響き、家鳴りと共に家が揺れ始めた。
「何だ?」
「地震?」
長二郎と千尋が同時に言う。地面は揺れていなかった。家屋と道具だけが、細かく振動している。見た限り隣近所は常と変らず平穏で、庭の泉や木々も穏やかなのにここだけ異様なことになっていた。その間にも家鳴りは大きくなり釜や茶碗は震え続け、カチカチかたかたと騒々しさを増していく。
「何用です?」
ここでようやく雪輪が口を開いた。声に明らかに嫌悪が混ざっている。普段無感情な娘の口調が、がらりと変わり、青年たちは「え」と驚いた。でも土々呂と名乗った薬売りはいよいよ口を横に広げて笑い、突然大きな声で話し始める。
「いや全く、世の中にはつくづく運の悪い方がいらっしゃるものだと思いましてねぇ! あの紺野という書生さん、下宿先には『警察沙汰になるような人は置けない』と言われて追い出され、通っていた学校では笑いもの。かくなる上は、自ら退学する他なくなったそうでございますよ。故郷の親御にはもはや合わせる顔が無い、あの時死ねばよかったと泣きの涙に暮れる毎日。洋々だと思われた若人の前途。それがたった一つの間違いで台無しとは、正に人の一生一寸先は闇。
元を正せば紺野さんは故郷じゃ知られた秀才青年。幼い頃より親も自慢の種という方でございました。苦しい中で金を作り、息子が帝都で存分勉強出来るよう方々に頭を下げて送り出したのでございます。紺野さんも親の恩に報いなければと帝都に出てからこの二年、流行り遊びの一つもしないで毎日それはもう熱心に勉学に励んでいたと申しますから、立派なものではございませんか。
そんな真面目な書生さんがお嬢さんとの恋に破れて、少しばかりヤケを起こしたばっかりに。生真面目だった分、加減が分からなくなっただけでございましょうに。嗚呼どこぞの誰かが余計なことを触れ回り、運悪く警察の耳に入ったがため大騒動となりました。酒で前後不覚になるなんぞ、誰にもあることじゃあございませんか。どこかの娘を屋敷から連れ出したとはいえ、紺野さんはその娘に傷一つ負わせてはおりませんよ。ピストルを盗んだと言っても誰に怪我をさせたわけじゃなし。自分が死ぬために少々拝借したという。
こんなの罪に入るはずがございません。それを悪事の如く言い立てられて、世間とは何という不条理か。貴瀬川様の侍女殿も事件が起きた時、何とか隠そうと苦心惨憺を致したそうでございます。この侍女殿の奇策が上手くいきさえすれば誰も彼もが無事なまま、穏便に事を終わりに出来たでしょう。もしあの人攫いを隠し通していたとして、悪い事なぞ何も起こりは致しませんでしたよ、ええきっと! 死んだとしても紺野さんただ一人。死なせておやりになれば良かったんじゃないのでしょうか。あんな惨めを味わうくらいなら。ああ紺野さんのお人柄を知っているあたしは、気の毒で気の毒で……」
長い。その長い土々呂の語る話しの調子が、何故か講談めいているのは構っていられない。書生三人は互いに様子を伺った。これでは何だか自分たちが悪者の風である。土々呂に気を取られている三人をよそに、沈黙していた雪輪が口を開いた。
「相変わらずですね」
冷たい娘の言を聞くなり、土々呂は肩を揺すってゲゲゲゲと笑いだす。
「そう怖いお顔をなさらないでおくんなさいまし。雪輪様のご心痛なら、あたしもよーく存じておりますよ。いじらしくてお優しい弟君でございましたからねぇ。それが姉上様を見捨てて行方をくらますなんぞ」
短い首を横に振る。土々呂の言葉に柾樹は小声で雪輪へ尋ねた。
「おい、弟は死んだんじゃねぇのかよ?」
その小さな声を聞き止めた土々呂が大声で喚く。
「ええええーーーーッ!? イヤイヤそんな、死んだなど! これはまた何ということを! 帝都に来て一等最初に堀田様とお会いになったのは、弟君の狭霧様の方でございますよ?」
「源右衛門に?」
柾樹は無意識で呟いた。土々呂は「ヘェヘェ」と何度も頷く。
「あれは一月以上前、夜更けの鍋焼きうどん屋でのことでございましたっけねぇ、雪輪様? そこでお見かけした狭霧様のお姿に、堀田様はかつての友たる抛雪様の面影を見つけられまして。さぞかしお懐かしかったんでございましょう。ついつい若君の後をつけたんでございます。そして忘れ形見のお二人に出会ったわけでございますが、その喜びも束の間、あまりに悲しい湾凪家の方々の身の上を聞き、涙涙のまた涙。堀田様はお二方を家へ招き寄せようとなさったんでございます。でも、お断りになったんですよねぇ? 仮にも旗本のお家柄。これ以上お家の名に泥を塗るような振舞は出来ぬとおっしゃって……。
しかしそれからしばらくして狭霧様は働き口を探しに行くと言い残し、僅かな金子と荷物を手に出て行かれ、それきりお戻りになりませなんだ。そうしてそのまま三日経っても五日経ってもお戻りになられず、残された姉の雪輪様がとうとう……」
大きな声に乗せ怒涛の勢いで土々呂がそこまで言いかけた、その途端。家がゴウンッ! と一際大きく鳴って横に揺れる。居並ぶ道具がけたたましい音を立てて飛び跳ねた。身の危険を感じた長二郎が、「うひゃあ!」と庭先へ飛び降りる。
瞬間、家の奥から大きな赤猫が唸り声と共に飛び出してきた。火乱だった。全身の毛を逆立てたその猫が、凄まじい声と勢いで薬売りに飛び掛かった。
「ギャアアアアアーーーーーッ!! ネコオオオオオーーーーーーーーー!!!」
獣に笠の上から襲われ引っ掻かれた薬売りは、転がるように逃げていく。咄嗟に柾樹も「待て!」と叫び、土々呂と猫を追って駆け出した。
――――バシンッ!
雷のような光と音が閃く。
「何だ!?」
驚き振り仰いだが、落雷の痕跡も何も無かった。我に返り急いで裏の戸を潜り建物の角を曲がる。
「……あ、あれ?」
もう土々呂の姿が消えていた。表通りまで出てみても、普段と変わらぬ賑やかな通りがあるだけだった。一瞬出遅れたとはいえ、逃げ足が早過ぎる。だが薬売りは猫もろとも、それこそ煙のように消えてしまった。
――――おかしいな?
解せないが、いないものはどうしようもない。化かされた気分で柾樹は首をひねり縁側へ戻った。戻ってみると古道具屋も元の通り、すっかり静かになっている。家屋や道具達は大人しく佇んでおり、小さな白い蝶がひらひら飛ぶ下で長二郎と千尋が座り込んでいた。
「おい、何なんだあの野郎は!?」
何事も無かった顔で縁側に正座している娘へ詰め寄ると、柾樹は怒鳴った。怒る柾樹の前で雪輪は震えながら考え込んでいる。それから薬売りの居た辺りに、黒々とした瞳を向けた。
「……あれは、『土々呂』でございます」
ぽつ、と言う。
「素性はわたくしも存じません。あの者の真の名であるのかどうかも、わかりません。どこにでも現れ、何でも知っているのです。でも、自分の事だけはわからないそうでございます」
妙ちきりんな薬売りを、そのように説明した。この説明も十分に妙ちきりんだった。
「い……今の揺れは?」
長二郎がふらふらと立ち上がり、上ずった声で尋ねる。千尋も同じ意思表示で何度も頷いた。問われた雪輪は彼らの方へゆっくり視線を動かした。
「さぁ……? 雷のような音も聞こえた気が致しましたが」
「う、うん。それはたしかに聞こえたな……」
「では、急な風でも吹いたのでは?」
「は? 風?」
「春は青天の霹靂が起きやすいと申します。突風で、家と物とが揺れたのではございませんか? 迷信撲滅のご時世に、妖怪変化でもございませんでしょうし」
白けた無表情で言ってのけた。
世の中では今でも妖怪や幽霊などが、常識としてまかり通っている。最近では西洋から入ってきた『テーブル・ターニング』が『こっくりさん』と名を変え大流行し、各地でちょっとした騒ぎになったりもした。こういった現状を変えようと、某学者が『迷信打破』の論を掲げるという出来事もあった。
雪輪はこの事を言っているものと思われる。それにしても一番迷信の塊みたいな人に言われ、他三名は二の句がつげない。『そんな馬鹿な』と思いつつも、明るい光が遊ぶ春の庭先でそれこそ狐に摘まれた状態になった。しばし間抜けに広がった沈黙を破ったのは、柾樹だった。
「それよりアイツが言ってたのは本当か? お前、何で弟が死んだなんて嘘ついた?」
先程土々呂が言っていた雪輪の『弟』について尋ねる。娘の真っ白な顔を覗き込むと、ここで雪輪は出会って以来初めて、少しだけ困った風な気配を覗かせた。
「死んだも同然でございますので」
でもすぐ普段通り、愛想の欠片も無しに短く答える。
「弟を捜しに行かねぇのか?」
「はい」
「いや、ハイじゃなくてだな。捜しに行った方が……」
「もう良いのです」
何もかも拒否するみたいに、会話の先が閉じられてしまう。鼻先で戸を閉められたが如き返答に、柾樹は少々ムッとした。もしこれが自分より非力で弱そうな相手じゃなかったら、たぶん考えるより先にぶん殴っていた。雪輪は尚も無表情に徹している。ちっとも言うことを聞かない元お姫様を前に、どうにか腹立たしさを宥めすかした若者は
「そうかよッ。じゃあもう勝手にしろっ!」
殊更に関心の無さそうな口調で言い、そっぽを向いた。