最終話 晴天楽日
鹿目の母親は、名を、おしんといった。
都市的な美女ではなかったが、丸顔と素朴な笑顔が可愛らしく、真面目でよく働く。嫁いだ『与野』の家では姑たちに気に入られ、夫となった源助との夫婦仲も良かった。
ただ一つ周囲を困惑させたのは、その生まれ故郷の存在である。
里の血が濃すぎるのか、情が深すぎるのか。
とにかく繋がりが強かった。田舎へ行けば、どこも似た景色が見られるものとはいえ、それにしても強い。母胎たる故郷と、見えないへその緒で繋がっているかのようだった。常に生まれ故郷の影響を受けている。
おしんは何かというと、首も据わらない娘を背負い、山道を歩いて二日は掛かる実家へ帰った。赤ん坊には無理だ、危ないからやめろと家族が止めても、何だかんだと理由をつけて帰ってしまう。
娘の鹿目は、この母親の教えを強烈に浴びていた。
「お前は、山の神様の子だよ」
おしんは子守唄のようにそう言い聞かせ、娘を育てた。
古い『山の神』に連なる者というこれは、おしんの故郷では誇りだったようである。
それは『子授けの神』であり、土地を守り豊穣を与えてくれる存在として、遥か昔から祀られてきたとのことだった。与野の家へ嫁いですぐに子を授かったのも、その名前もわからないほど古い神のお力なのだと、おしんは言いきって憚らない。
だが一歩外界へ出れば、事情も聞こえ方も違った。あれは父親のわからない子なのかと、噂されるようになる。
昔から『御室』というその山郷は、極めて閉鎖的、且つ保守的だった。聞くところでは、どこかの旗本殿様の知行地だったようだが、むしろ自治の気配が濃厚で固く閉ざされていた。御一新と、その後に鉱山開発の話しが出てきて開かれるまで、近隣では近付くことさえ危ないと言われたりもしていたのである。
嫁いできたおしんは人々に可愛がられていたものの、やはり奇矯な言動をする女だと、だんだん周囲で囁かれ始める。
鹿目の父親となった源助も、妻の言動に若干うんざりしていた。
初めての我が子の誕生を喜んでいたのが、まるで自分の子ではないように言われるのも愉快ではない。育つうちに鹿目も母親に従って、己の出自を『御室の里』だと言い出す。
些細なことではあるものの、塵も積もれば山で源助は負担に感じ始めた。妻の不貞を疑うつもりは無くとも、娘の反っ歯まで自分の子ではない証拠に見えてくる。
そこで両親の死去に伴い、田畑を売り僅かな元手と家族を連れて、帝都へ出た。新しい時代に自ら仕事を始めたかったのと、妻の故郷の影響から離れたかったのもあった。妻は抵抗して渋ったが、丸め込んで外へ出た。
帝都で、牛乳配達の仕事を得る。
与野家の夫婦は力を合わせ、二年、三年と経過した。時流に乗ってそれなりに生活を切り回し、『山の神』の子ではない、息子の恵、娘の雫という子どもたちも生まれる。
忙しい日常に追われるうち、やっとおしんの心も、遠い故郷の旧習から離れてきたように見えた。
しかし鹿目だけはいつまでも、覚えていないはずの『故郷』を、自らの出自と定義し続けた。
田舎自慢は見っともないからと、父親はやめるよう言ったが、勝手気ままな山猿娘は耳を貸さなかった。普段は鹿目の奔放に手を焼いているおしんも、ここは味方して応援する。母子で仲が良いのは結構だが、これでは終生『よそ者』扱いされそうで、源助は閉口した。親としての立場がない。折り合いをつけ、家族は帝都の小さな長屋で暮らしていた。
そうしたある日、おしんが小さな新聞で、とある事件を知る。
字は殆ど読めないため、近所の人に聞いた。
おしんの生まれ故郷である例の里が、大雨の山崩れで埋まったというのである。
まさかと驚いているうちに、源助の故郷からも報せの手紙が届く。御室の里が潰れたことで、どうやら間違いないと確認された。何年か離れている間に疫病もあり、里人は減って、とどめの山崩れで壊滅したという衝撃的な内容だった。
突然の報に接した、おしんの落胆は大変なものだった。
「あたしのせいだ」
何故か、おしんはそう言って泣き崩れ、己を責めた。
そんなことは無いでしょうと周りが慰めても、嘆きは消えない。何も手につかなくなった。
あれだけ情の濃かった故郷である。親戚や知り合いもいるのだし、無理もないと、源助は妻を休ませることにした。隣近所に頭を下げて助けてもらい、生活や子供たちの世話は、どうにかなった。
けれどこれ以降、おしんは元通りには快復せず、炊事や針仕事も離れがちになった。
魂が抜けたように、ぼんやりしている日が多くなる。更にどうしてか、鹿目を身辺から微妙に遠ざけ始めた。娘の遊ぶ姿を見ては、重く溜息をついている。
何もかも億劫になってしまった母親に、鹿目の羽織は仕立てるのを省略された。
すると鹿目は親の気を引きたいのか、大声で歌ったり踊ったりし始める。この愛嬌が娘の取り柄とはいえ、裸で道へ飛び出したりと、突飛な振る舞いが目立つようになった。事情を知らない鹿目なりに、『故郷』の異変の何かを感じ取っていたのかもしれない。
理由がどうであれ、娘が騒げば騒ぐだけ、おしんは鬱陶しがって、くどくど叱る。
叱られた挙句、鹿目はとうとう家出をしてしまった。しかし蝶々を追いかけて、帰ってこない日も珍しくない娘。
案の定しばらくして、旅の尼僧に連れられ帰ってきた。
尼様たちにくっついて歩いていた、楽しかったと鹿目が得意げに話すのを聞き、両親は呆れた。
「お母の辛さも、わかってやれ。もっと助けてやらんか」
源助はそう言って聞かせたが、猫のような目をして首を傾げているだけの鹿目に、変化は見られない。
相変わらず親の説教など、屁とも思っていないようだった。
「お前の思い通りになど、なるものか」と『山の神』に言われているようで、源助は久しぶりに嫌な気分になったが、元々の辛抱強さでそこはぐっと飲み込んだ。
とはいえ最近のおしんは、燃料の補給が途切れたように、がっくり老け込み動きが悪くなっていた。
父親も仕事と家の事とで、へとへとになっている。
役に立つ気のない鹿目より、幼い弟妹の方が家族を助けようとしていた。
恵や雫が、家の手伝いや飯の支度をしている。それを尻目に、鹿目は路上の角兵衛獅子や黄金虫に気を取られて遊んでいた。いつも同世代の子たちより、何をやらせても一つか二つ足りない鹿目。そのくせ叱れば、ひどく傷ついた顔をしてめそめそ泣く。困ったものだと、親は頭を痛めていた。
そしてあの日、おしんが井戸端で倒れ、そのまま死んだ。
「いいかげんにしろ!!」
急の報せで家まで飛んで帰り、妻の亡骸を前に茫然としたのも束の間。
仔細を知った父親は怒りで顔を紫色にして、娘を殴りつけた。
おしんが倒れたとき、鹿目は言いつけられた水汲みを放り出し、蜻蛉を捕まえて遊んでいたのである。せめて近くにいれば、助けを呼ぶのが早ければ、おしんの命も助かったかもしれない。
幼児ではなかった。奉公に出る子もいる年頃である。
「お父、やめてよう!」
「姉ちゃんがかわいそうよ!」
「おれがもっと手伝うから」
「仲良くしなくちゃ、あの世でお母が心配するわ」
幼子たちが懸命に涙を堪え、そう言って手足に縋る様を見て正気に戻り、再び振り上げかけていた源助の拳は止まった。しかし殴られた頬を押さえて怯える鹿目より、庇おうとする弟妹の方が、父親の目には哀れに映った。
賢く気が利くこの子たちにこそ、もっと勉強や遊びもさせてやりたい。それなのに鹿目は下の子の面倒を見るどころか、幼少者の甘い特権を貪り、平然としている。いつまで経っても『大人』になろうとしない鹿目へ、父親は怒りに任せて、出て行けと言い放った。
こうして追い出された娘は、また何日経っても家へ戻らなかったのである。
源助は、どうせそのうちに帰ってくると思っていた。でも今回ばかりは、理由が理由である。「捜した方が良い」と、周囲の大人たちが宥めたり諌めたりした。
源助とて親として娘を心配する気持ちも、確かにあった。葬式一切の慌ただしさが片付けば、今度はひどく落ち込み、もっと多く稼げない自分こそ力不足なのだと、自責の念にかられたりもした。町内に届け出て、一石橋と湯島天神の『迷子しるべの碑』へ張り紙もする。
だが妻が骨になってしまった今、夫自身も疲労困憊していた。
近所の人々は、「女房が若死にして心細かろう」、「次も支度してやるから気を強く持て」と、早速寄ってたかって言う。無責任にかれこれ言われても、まだそんな気にはなれなかった。内心の怒りと失望も消えていない。
あの『山猿』が戻ってきたとして、親父としてうまくやっていく自信すら失いかけていた。
だから娘が帰ってくると同時に、その話が舞い込んだ時の驚きといったらなかった。
「鹿目を女中として、こちらの屋敷で奉公させたい」
本郷の牛乳屋に鹿目を伴いやって来たのは、子爵様のお屋敷のお使いだった。
ぴかぴかに磨かれた人力車から降りてきたのは、赤い縞模様の絣の着物に身を包んだ我が娘。真新しい昼夜帯と、結われた天神髷。着物も髪もすっかりキレイになって戻ってきたそれが、ちんちくりんだった娘と、すぐには父親もわからなかった。
反っ歯は隠しようもないけれど、馬子にも衣裳とは、よく言ったものである。
娘を拾って連れて来てくれたのは、この前の尼様ではなかった。
相内家という、華族様のお使いだったのである。源助もその名を知っている、駿河台の大屋敷だった。
更に使いの家令殿の話しは、どうにも信じがたいものだった。
総領様が、たまたま川辺で鹿目を拾われて、気に入ったので屋敷に置きたいというのである。どうしてもお譲りにならないから、急で申し訳ないけれど折れてもらえまいかとのことだった。
給金前払いの、下女である。奉公人なら何十人といるお屋敷で、人手が足りないわけはなく、酔狂としか言いようがなかった。
まず鹿目のどこを、どうお気に召したのか。
親にさえわからないけれど、お気に召したのならば身分に余る幸運だった。華族屋敷など、相当な口利きがなければ入りたくても入れない。そこに拾われ、給金まで頂ける。娘は大出世で、痩せ所帯には降って湧いた話しだった。
源助は最初は驚き、次第に親心には喜びよりも不安と心配が増した。
親の言う事さえ聞かなかった娘。教育は無く、行儀も作法も知らない。大きなお屋敷で、奉公をやっていけるとは到底思えなかった。鹿目が粗相をしはしまいか、そのしくじりで親兄弟まで責められたりはしないか。そもそも何故に、この子なのか。
多少のおどけと愛嬌はあれど、見目麗しいとは言い難い娘である。いっそ断ろうかとも考えた。
でも近所のご隠居に、「金持ちには変わり者が多いんだ」と説明される。その通りだと、他の人々も急かして吹っかけたりした。
鹿目本人にもどうしたいかと尋ねれば、「行きたい」と答える。
何でも総領様と、お屋敷のお勝手で味噌汁を作り、ああでもないこうでもないと騒ぐのが、なかなか面白かったのだという。
要するに鹿目は、変わり者の総領様の遊び相手になったかと、父親には想像された。
たとえ身分が悪く、行儀作法を知らずとも、犬猫代わりの遊び相手ならば山猿の娘にも出来るやもしれない。下女でも何でも、お屋敷に上がれば、鹿目も少なくとも飯は食わせてもらえた。
「姉ちゃん良かったね!」
「すごいわ、玉の輿よ!」
幼い弟妹も我がことのように、手を叩いて喜ぶ。
やがて父親の気持ちも動いた。先様へ、改めてお願いに上がる。数日後には支度をし、少ないながら風呂敷に包んだ荷物を持たせた。
「誠心誠意、奉公せい。逃げて帰れると思うな」
これよりは、親子で顔を合わせるのも稀になる。鹿目に何度も繰り返し言い聞かせ、狭い長屋から送り出した。
わざわざお屋敷から迎えの人力車まで来てくれる。饅頭が届いて配られたため、他の町内の連中まで見物に来て、嫁入りのような騒ぎだった。通りすがりに「何のお祝いですか」と、尋ねる者もいる。
近所の子供らが手を振り、「ばんざぁい!」と囃し立て、声を揃えて歌っている。
鹿目は少し照れ臭そうにしながらも、嬉しそうな表情は輝いていた。
屈託無く笑う娘の晴れ姿を見るうちに、源助も気付いた。
こんな晴れやかな気持ちは、一体いつ以来か。
どす黒い怒りに任せ娘を殴って追い出した時には、こんな日が来るなど想像も出来なかった。あのまま鹿目と縁が切れたり、ましてやこの子が事件や事故で不幸にならなくて良かった。
胸の奥へ深く染みるように、そう感じた。
一歩間違っていたら、こんな日は決して来なかったのだ。あの時の自分がつくづく間違えていたのだと、正直に恥じることも出来た。
稼ぎなど、どうでも良い。自然と何かに、手を合わせたい心になってくる。
「やっぱり姉ちゃんには、『山の神様』のご加護があったんだねぇ!」
「『子授けの神様』が、ついてくだすってるのよ。そうなんでしょ、お父?」
子爵家の若奥様より届けられた真新しい紬の着物で、大はしゃぎの恵と雫が、父の袖にしがみついて笑う。
「そうかもしれないな」
源助は涙と苦笑交じりに答え、手を合わせて深々と頭を下げた。
間もなく冬が近付く、どこまでも晴れた空の下。
遠い地にいたという名も知らぬ神に、父親はこれからの我が子の、無事の旅路を祈った。




