表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
162/164

月やは物を思わする

 深夜を過ぎた空は雲が低く垂れ込め、霧状の細かい雨が音も無く漂っていた。往来の人数はよほど少ない。酔っ払いや寄り添う如何わしげな人影や、人力車がたまにすれ違う。


 通常、こうあるべきなのだ。両国橋界隈は昔からの繁華街で、夜中も人が通る。初めて雪輪を連れて歩いたあの晩が特別だったのだと、走りながら柾樹は考えていた。


 先刻見た夢に、追い立てられている。

 隅田川の河岸で、雪輪に会った。


 柾樹は着替えもそこそこに、寝床も部屋も飛び出した。庭下駄を引っ掛けると、真夜中の隅田川へと駆け出したのである。家の誰にも、どこへ行くかも告げていない。霧雨が降っていることにも、途中で気付いた。灯りすら持っていない。月も星も無いが慣れた道で方向はわかるし、都市の人工的な光が助けとなってくれた。


――――俺に何の用だ?


 それだけが頭にある。

 逢瀬と呼ぶにも短い時間だったけれど、雪輪が柾樹の夢に現れた。現れた場所は、古道具屋でもなければ柾樹の枕元でもない。隅田川の河岸である。


 何か用事があって会いに来たのだという、根拠のない確信だけが手掛かりだった。確かめなければならないと、霧の雨に隠されたような夜をひた走っている。


 息を切らせて走り道を越え土手へ上がると、川上である北の方角を眺めた。

 僅かな街灯と家々の灯のみながら、これもどうにか見渡せる。


 辺りは溺れそうな水の匂いと、覆い被さる雨雲の夜に沈んでいた。左側には旧大名屋敷の森があって、右の眼下には墨汁のような水面が広がっている。冷たく霞む霧の向こうには、大川を跨ぐ巨大な木橋の影が架かっていた。

 夢で見たのと同じ景色だった。


「ここだ」

 濡れた顔を拭うと柾樹は深呼吸して、群青色の夜風を一度肺の奥まで吸い込む。夢で自分はこの辺りから、上流の両国橋へ向かって歩いたのである。


 土の道を、一歩踏み出した。多少ぬかるんでいるものの、水溜りが出来るほどには雨は降っていなかった。


 闇と霧雨の彼方に、そのうち白い人影が見えてくる。そう信じて進み始めた。土手には人もおらず、対岸で人家の灯がぽつりぽつりと光るのだけが見えて、暗い水上は行き交う舟影も無かった。


「……何やってんだ俺は」

 しばらくすると、雨で濡れた頭が冷えるのに比例して冷静さを取り戻し始め、柾樹は掠れた声を地面に落とす。


 たかが夢に翻弄されて、こんな時間に、こんなところまで来てしまった。

 頭がおかしくなった奴のようだと呆れたが、考えてみればあの娘に会って以来、自分はずっとおかしくなっていたようにも思う。今もこうして、幻の影を追っている。


「もう一回くらい……騙されてやってもいいぞ」

 黒く濡れた土の地面を見つめ、密かに呼びかけた。その呟きにも返事は無い。

 しかしここまで来たなら、引き返す気もしなかった。まだ帰る気分にもならない。やっぱり両国橋まで行ってしまえと歩くうち、百本杭の近くへ辿り着いていた。


 足が無意識に止まる。闇夜の中で、そこだけ浮き上がって見えた。

 並んだ二艘の小舟が揺れている。これも、夢で見た景色と同じだった。土手の草を掻き分け、草と水とで滑りやすい坂を用心して降りていく。


 泥が青黒く照る河岸まで辿り着いた。そこに白い娘の姿は無かった。


「……そうだよな」

 人の胸ほど高さのある枯れた葦の藪を眺め、声に出すことで確かめる。霧の雫で視界の悪くなった眼鏡を外し、袖で顔を拭った。己の見苦しい振る舞いにますます軽蔑と悔しさが湧いてきて、より一層不機嫌になる。


 何も無い。そう確認して、踵を返そうとした。

 そこで、鋭敏になっていた耳が小さな声を捉えた。


「――――」

 川音か風音かと、一瞬やり過ごしそうになった。

 だが、あることが頭の中で火花となって爆ぜた柾樹は踵を返す。


 泥に近い地面を蹴り、川辺に生い茂った葦原へ乗り込み草を掻き分けた。

 先の夢に現れた雪輪は、真っ白な足は裸足で、川の方を向いていたのだ。身を屈め、生い茂った葦の藪を覗き込んでいた。


 葦原の中で、何かの呼吸と動く気配がする。魚や動物でなく、人間だと本能が告げた。


「誰だ!?」

 逃げようとしていた相手の動きを、大声で制止する。動物であれば更に逃げるか逆に襲い掛かってくるが、身を潜めている何者かは動かなかった。そして夢の通りなら、『小鬼』が出てくるはずだった。


 バシャンと水音がして、掻き分けた枯れた葦の隙間から出てきた『それ』に、柾樹は目を瞠る。


「……ひっ」

 葦の陰で息を呑み、縮こまっていたのは十二、三歳の子どもだった。


 夜目にも肌は荒れて浅黒い。痩せた顔の中で、猫のような目がやけに目立っていた。ぼさぼさの髪は蓬のようで、頭の天辺に結ってまとめてある。汚れた麻の葉模様の着物に、柿色の帯。痩せた手足は泥にまみれていた。裸足の足も着物の裾も、水に浸っている。


 銀縁眼鏡の青年と目が合った子どもは、パッと自分の頭を抱えた。

 殴られないよう、身を守ろうとしている。その様子を見て、柾樹は唖然としていた。


 初めて会った子どもに、ある種の既視感を覚えたのである。

 桔梗色の着物と、痩せた手足。何よりも、そんな記号よりもっと別の、匂いのような。


「……お前、もしかして……『鹿目かなめ』か?」

 葦の根元で蹲っているものを観察する青年は、喉を嗄らして尋ねた。柾樹の足にも、濁った川の水が染みてきている。


 与八郎が話していた古道具屋の『空き巣』。雪輪が語っていた同郷の『子ども』。これらの情報は一旦は繋がったが、またすぐにぐちゃぐちゃと絡まってしまう。


「え……?」

 と、名前を呼ばれた子どもが顔を上げた。

 面が薄汚れている上に反っ歯で、お世辞にも綺麗でもなければ可愛くもない。性別さえもわかりにくく、どうやら少女であるらしいが、みっともないと評していた与八郎は全く正しかったなと、柾樹も思った。


「違うのか?」

「ううん、違わない。おいら、鹿目だ。御室の里の、おしんの子の鹿目だよ」

 青年の横柄な質問に、外見よりも随分あどけない仕草で、鹿目は首を横に振り答えた。これで通じると、信じきった眼差しをしている。


「どうしてこんなところにいる? 何してるんだ?」

 夜の川辺に潜んでいた子どもへ、柾樹は問いかけた。


「……お父が殴るから」

 膝を抱えた鹿目は、小声で答える。

 親に殴られ、ここへ逃げ込んだのはわかった。逃げる場所として適当であるかは、ともかく。


「何かあったのか? いつも殴られているのか?」

「ううん。いつもじゃないよ。お母が、死んじまったからさ」

 青年に尋ねられると、みっともない小鬼みたいな少女は唇を尖らせ、聞き取りにくい口調で言った。


「お母がさ……井戸で水汲みしていたら、倒れたんだよ。それで、そのまま死んじまった。だから、お父が怒った。お前が馬鹿で、いつも心配ばっかりかけるから、お母の寿命が縮んだんだって。お前がちゃんと言いつけ守って水汲みだってしていれば、お母の余計な苦労を減らして助けていれば、こんな早く死ななかったって……」


 話しの末尾へ至るほどに、少女の声は弱々しく沈み、落ち込んでいく。

 鹿目は家の手伝いで水汲みをするよう言われたが、やらなかったのだろう。日常でよくある、些細な甘えやいざこざだったに違いない。それが不幸な偶然と重なった。


「おいら、お母が死ぬなんて思ってなかったんだよう……」

 そう言うと猫みたいに大きな目から、ぼろぼろと大粒の雫が溢れて零れる。


「大きな蜻蛉とんぼを捕まえたんだ。青と銀の目玉のやつだよ。銀杏の木に見せてやろうと思ってさ。そうして長屋へ戻ったら、お母が井戸端で倒れてたんだよう……。だけどそう言ったら、ますますお父は怒るんだ。いい加減にしろ、つくづく馬鹿だ、もう出て行けって。やっぱり……おいらは、いけないようだから」


 しゃくり上げ、そこまで話した鹿目は抱えた膝に顔を埋めて、おんおん泣き始める。

 一般的に、子どもも労働力だった。自力で動けるようになれば、家事や手伝い、子守といった労働をする。鹿目は、それをしなかった。


「殴られて、家を出て……ずっとここに隠れていたのか?」

 静かな声で柾樹は尋ねる。鹿目は目や鼻を拭い、頭を振った。


「ううん。おいら、ひいさまに会いに行こうと思ったんだ」

「ひいさま……?」

 鹿目の言うそれが雪輪を指していると、聞いている方は半秒遅れて気が付く。そういえば、あいつは『お姫様』だったと思い出していた。


「言うなって言われたけど、もういいやい。子授け観音様なんだよ。どこかの古道具屋の、お蔵に隠れておいでだったんだ。それでおいら、今度こそ旅のお供をさせてくださいましって、お頼みしようと思ったんだ。だけど古道具屋がわからなくなっちゃったんだよ。薬売りも、尼様もいなくて……みんなで、旅に出ちゃったのかなぁ」


 首を捻っている鹿目は、薬売りも八百比丘尼も、皆まとめて仲間か何かと考えているようだった。倒壊した古道具屋が、探していたそれだったとは思っていないらしい。


 己をこの世に産ましめた、『子授けの神通力』を持つ姫御世。山の神に魅入られた娘。

 拳を振り上げられ追われた鹿目は、その膝へ逃げ込もうとした。傷ついて弱っていても許される場所で、休みたかった。だが辿り着けないまま、『旅』には置いていかれてしまったのである。


 沈黙を守り聞いていた柾樹は、やがて薄く息を吐いた。


「そうか……今はもうそんな神様みたいなやつが、いるような世の中じゃねぇからな」

「何だぁ……」

「でもな、きっとそいつは、お前のことは心配してたと思うぜ」

 青年が言うと、子どもは珍しものを見る目で瞬きをする。


「ほら、行くぞ」

 柾樹は立ち上がり、手を差し述べた。

 しゃがみ込んでいた鹿目の手を取り、葦の藪から地面へ引っ張り上げる。掴んだ手は、何か果物でも盗んで食べたのだろう。変な感触で、改めて見たくもないくらいべたべたしていた。


「お前、その格好で何日歩き回ってた?」

「知らない」

 青年の問いへ興味無さそうに答えた鹿目は、鎖骨が浮き出ている。肩の細さといい、並んで立つと少女がどれだけ痩せているかわかった。


「これからどうする。家に帰るか?」

「ううん、帰らない」

 柾樹に促されても少女は俯いて即答し、口を引き結ぶ。

「いなきゃいないで、家でも心配してるかもしれねぇぞ」

 自分らしくもないと面映い気分を誤魔化しつつ、柾樹は常識を言って聞かせた。すると鹿目は、視線を黒い川面へ投げる。


「大丈夫だよ。すぐ慣れるよ。だってね、この世界は、おいらのいない時間の方が長かったんだよ。元に戻るだけだから、平気だよ」

 どんな時間の尺度で話しているのか不明だが、わかりきっているという顔でそう言った。鹿目は全体が、こうなのだろう。従順さや、聞き分けの良い可愛らしさというものがない。

 柾樹には、それが誰かと似ているようにも、その面影のようにも見えた。


「まぁ……そうだな」

 少女の口答えもどうでも良くなってきて、金茶頭は浅く頷いておく。

「兄ちゃんこそ、何してるんだい? どうして、おいらのこと知ってるの? お父に聞いたの?」

 今度は薄汚い少女の方が、視線を上げて尋ねてきた。


 鹿目にとっては、突然現れた知らない青年である。名前を呼ばれた理由も、ここへ来た経緯も、事情を尋ねてくる理由もわからなくて当然だった。柾樹は瞼を閉じて考え込んだ後、再び開いた目で鹿目を見下ろす。


「俺はお前に、飯を食わせてやらなけりゃいけなくなった」

 踏ん反り返ってそう言った。


「? どうして?」

「どうしてもだよ。腹が減ってるんだろ?」

 答えになっていないのだが、柾樹が言うと鹿目はよほど空腹だったのか、ここは意外と素直に「うん」と返事をする。


「俺の屋敷に行けば、何か食う物はあるからな」

 霧のような雨が降る夜の中、柾樹は少女と手を繋ぐ。両国橋へ背を向けると、また歩き始めた。鹿目の手は骨と薄い皮ばかりのようで、何やら怖いくらいだった。


「鹿目、食いたいものはあるか?」

 柾樹は夜道の先を見たまま、雪輪に一度も尋ねなかったことを尋ねる。


「豆腐の味噌汁」

「そんなものでいいのかよ……」

 鹿目が大真面目に返事をするので、柾樹は思わず心の呟きが外へ漏れ出た。欲望の軽さに、苦笑いしてしまう。だが、


「兄ちゃん……泣いてるの?」

 傍らの少女が、不思議そうに尋ねた。

「そうかもな」

 質問には、不真面目な声で答えておいた。

 泣いているはずはない。頬が冷たく濡れているのも雨のせいに決まっていると、決めつけた。


「おいら、味噌汁じゃなくてもいいよ?」

 子どもは気を使ってみせる。そうとしか解釈のしようがなかったのだろう。出来もしないことをやろうとする様は、それなりに健気ではあった。とはいえ柾樹も別に、味噌汁を嘆いてはいない。


「いや……味噌汁にしよう。でも俺は作ったことがねぇから、たぶんまずいぞ」

 真剣に忠告をした。

 すると聞いた途端、少女がおかしそうに声を立てて笑ったのだ。笑われた青年はちょっと苦い顔になったものの、握った手は離さなかった。


『連れて帰る』、『飯を食わせる』と、約束してしまった。

 これは大変な約束をしてしまったかもしれないぞと、少々後悔していなくもない。


 それでも


――――嬉しい。


 淡い夢の逢瀬が、幻影となって柾樹の眼底に浮かんだ。


 古い神の名の下に生まれた子どもの、最後の一人。

 その泣き声が聞こえた雪輪は、小さな神に頼んで、映し世の河岸へ戻ってきたのだ。


 もはや確かめる術はないから想像に過ぎないが、きっと雪輪はかなしんでいたのだろう。『子授けの神通力』によって生まれた子らは、人生の花も、果実を得ることもなく皆死んでしまった。小さな亡骸と、別離の悲哀が残った。

 自分は不幸をばら撒いただけだったと、あの娘はかなしんでいたのだ。

 ならば、柾樹がやることは決まっている。


「疫病神にさせてたまるか」

 この子ども一人だけは、意地でも寿いでやると小さく呟いた。


 子供の世話や相手など、見当もつかない。問題は山積みであるにせよ、怯んでいる暇はないのだ。今この瞬間に掴まなければ、掴みきれなかった手のように、この手もまた消えてしまうだろう。

 見送るのは、もうたくさんだった。


 新しい世界の食べ物も、楽しい景色も、綺麗な音色を知ることもなかった雪輪。

 鹿目には、それらと出会わせてやらなければならない。

 預かった小さな手を、雨と夜の向こう側まで、必ず連れて行こうと思った。


「雲が晴れてきたねぇ!」

 鹿目が、まだ真っ暗な空を見て嬉しそうに言う。

 少女の小さな手を握り直した青年も、一緒に夜の空を見上げる。


 夜明け前の透明な藍の底が、一欠けらだけ見えた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ