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Melt

 その晩、柾樹は夢を見た。

 今まで何度も見た、例の『知らない街』の夢ではない。


 隅田川の西岸沿いを歩いていた。

 古道具屋を出て、黒塀の並ぶ小路を抜ければ見えてくる場所。土手の左には旧大名屋敷の森。右には広い川の水面が黒く光っていた。灯りは一つもないが、川に架かっている大きな橋の影は見える。


 夢の夜道を歩きつつ、柾樹は「あれは両国橋だな」と考えていた。


 川を覆う巨大な木橋の方へ、土の道を懐手に進んでいる。

 寒々しい水の匂いに包まれ、裸足で、下駄も履いていない。だが泥道でもないから、まぁ良いかとまた歩き出す。周りに人の気配はなかった。一切が闇に沈んでいる。もう少し行けば百本杭の河岸があったな、と独り呟いた。


 自分はどこへ行こうとしているのか。あの橋を渡って、向こう側へ行った方が良いのか。考えようとする傍から、考えは乾いた砂ほどの脆さで崩れ、まとまらない。音らしい音も無く、耳は塞がれているかのようで、夜の水底を歩いているみたいだった。


 どうも両国橋は見たくないと、視線を地面へ落とす。


 橋を見れば、雪輪を思い出した。出会ったことから全部、丸ごと捨ててしまいたいが、あんな別れでは当面は捨てられそうもない。


 雪輪は見えない宿命に従った。どういう覚悟や宿命の感覚であったかは、見当がつかない。しかし少なくとも、あの娘の冷め切った眼は、永遠の夜へ連なることに救いや慰めを見出してはいなかった。

 我が身目がけて落ちてくる終焉を、一人で見つめ続けていただけだろう。


 雪輪は武家という、意地と痩せ我慢の果てに自ら腹を掻っ捌くことを善とする人々の末裔だった。無論、末裔というだけで意地や覚悟が身につくはずはなく、咄嗟に行動へ移せるものでもない。

 おそらくは、自分で鍛えてきたのだ。理不尽に叩き尽くされた果て、焼かれた玉鋼が刃となるように、まだ耐えて残った魂の欠片を白刃にして己が宿命に立ち向かった。


 柾樹に助けられるなど、御免蒙りたかったとしか思えない。

 神剣は壊してしまい、チョコレートも持って来忘れた。『お使い』も満足に出来ない、つまらない奴だと呆れていたに違いない。


 そしてやっぱりあいつにとっては、共に過ごした時間もみんな、世を離れない理由にはならなかったのだなという結論へ辿り着いた。


 見ず知らずの他人の境遇や行く末にも心を寄せ、「辛かったろう、助けてやるよ」、「何の、俺のためさ」と動く者もいる。あの下谷の老車夫夫婦のような人間は、数は少なくとも存在する。雪輪の近くにもそんな奴がいたら、結末はこのような無様ではなく、もっと違う形になったのではないかと考えてしまう。


 雪輪が拳銃を渡して欲しいと訴えてきたとき、柾樹は然程疑わなかった。

 いなくなると考えなかった。驕っていた証拠で、傲慢の裏返しだろう。お陰でこのざまになり、全ては手遅れで、出来損ないの小鬼に出来ることはもう何も無いのである。


 思えば源右衛門が死ぬ直前、昏睡状態になっていた折も、柾樹はまた目を覚ますと考えた。もう一回くらい話す機会はあるだろうと、勝手に決め込んでいた。その晩に源右衛門は死んだのである。状況を理解していたようで、そうではなかった。自分に都合の良い想定と解釈をし、同じ状況と日常が当たり前に続くと疑っていなかった。

 雪輪のときにも、また同じ失敗をしたのである。


 重く冷たい水の匂いの中を漂い歩くうち、河岸へと近付いた。


 そこに白っぽい人影を見つける。

 辺りは紺青一色で、照らす光源は何も無いのに見えた。結い上げた長い黒髪と華奢な後姿に、覚えがあった。


――――雪輪だ。


 柾樹は瞬間で、そう思った。

 直感に貫かれるのと一緒に、足は走り出している。腰まで届く土手の草を掻き分け、暗い坂を真っ直ぐに降りて行った。近付いた百本杭の近くには古びた小舟が二艘連なり、川辺に女が立っている。


 灰色の着物で、髪には牡丹柄の赤い布が結われていた。真っ白な足は裸足で、川の方を向いて心持ち身を屈めている。生い茂った葦の枯れ藪を覗き込んでいた。


「雪輪」

 残り五歩という距離を置いて、立ち止まった柾樹が声をかけると、相手は振り向いた。


「柾樹さま」

 名を呼ぶ澄んだ声が、痛いほど懐かしく耳の奥に響いた。


「捜したんだぞ」

 言いながら、柾樹は足早に近寄る。

 今の発言によると、どうやら自分はこの娘を捜していたらしい。でも雪輪までちょうど一歩半という位置で、また足は自然と止まった。何をどう切り出せば良いのか、わからなくなってしまった。


 ついさっきまで、どちらかというと腹を立てていたはずだった。言ってやりたい文句や、確かめたい事柄があった。しかしそれらはことごとく融けて消え、どうでも良くなってしまった。

 ただ会いたかった。もう声を聞けない。会う事は叶わないと、知っていたのに。


「いないから、おかしいと思ったんだ」

 握り締めていた手の力がゆるむ。伸ばした指が、雪輪の肩を滑る黒髪へ僅かに触れた。

 すると引き寄せてもいないのに娘の身体が傾いて、柾樹の腕の中へすっぽり収まってしまった。


「何故にございますか?」

 もたれた雪輪が、首筋に顔を埋ずめて囁く。少し舌足らずの、とろんとした、眠そうな声だった。


「何故でもだよ」

 面倒なことを訊くなと言う代わりに、腕を回して抱きしめる。

 腕の中の雪輪は拒絶を示さず、身を委ねて動かなかった。それだけで柾樹の内側に、温かい血が通ったような安堵が広がる。よくわからないが、根本的な何かを許された気がした。


「帰るぞ。田上や白岡も心配してる。お前の弟も無事だったんだ。捜してたぞ」

 頬を寄せ、白いうなじに触れながら声を潜めて語り掛ける。

 時間を忘れている今のうちに、この娘をどこか見つからない場所へ隠してしまわなければと思っていた。


「左様でございましたか」

 雪輪は答えたが、声も身体もどこにも力が入っておらず、身体を他者へ預けている。

 この娘がこんなに何もかも、柾樹にゆだねきっている姿は、初めて見たので驚いた。まるで幼子と同じだった。驚いたが、本来はこのように無防備な心根の娘だったのかもしれないな、という気がしてくる。


 託された仄かな重さは、逆に心地良かった。身体の芯から湧き上がる熱で、心の角までとろけて丸くなっていく。今さら距離の近さが、妙に気恥ずかしくなった。

 長い絹糸を思わせる黒髪に指を絡めると、するりと指の隙間で解ける。


 それにしても男に抱かれたら少しは柔らかくなればいいものを、娘の身体は無機物的だった。身動ぎもせず、肌や髪の匂いもしない。今までも、触れた手指や首筋は青白くひんやりしていたけれど、奥には湿り気と温かさがあった。二の腕や背中はふっくらと柔らかかった。

 それが今は、丸太と同じなのである。


 どうしてだろうと柾樹は腕を解き、娘の顔を見て、あれ、と眉根を寄せた。


「お前、顔はどこにいったんだ?」

 両手で娘の頬を包み、上を向かせる。前髪が触れ合うほどの距離から、無遠慮な言葉と仕草で尋ねた。


 雪輪の顔がわからない。目鼻の無いのっぺらぼうとも違う。水溜りの水を棒切れでかき回しても、こうはならないと思った。目を凝らすが、『顔』として認識出来ない。でも、そこにいるのが雪輪だというのはわかっている。そのため恐怖は無く、不気味とも思わず、うやむやな混乱だけがあった。


 白い娘は何も答えない。ゆるい動きで触れたか細い指先に促され、柾樹は手を離した。

 雪輪は面を伏せてしまう。見ないで、と語る風な仕草だった。


「ここで、何してたんだ?」

 黙ると、またいなくなってしまいそうな予感に突き動かされ、柾樹は意味のない言葉をかける。どうして言葉というのは意味無く言っても、発した瞬間に意味を持ってしまうのだろうと、妙にやる瀬なくなった。


「泣き声が……聞こえたものですから」

 意味の無い柾樹の質問に、顔のわからない雪輪が消えそうな声で答える。

 それから再び、暗い川の方を向いた。白い手をゆっくり持ち上げ、先程まで覗いていた葦の藪を指差した。


「何だ?」

 柾樹は指し示された先の、葦の藪を眺める。

 何かあるのだろうと近付き、草を掻き分けた。生臭い水辺に頭を突っ込み、枯れた草の根元で見つけたものに目を瞠る。


「……赤ん坊?」

 葦原の中にいたのは、片手に乗るほど小さな赤ん坊だった。

 生まれたばかりにしても小さく、子犬程度の大きさしかない。赤裸の頭でっかちで、弱々しい。紅色のそれが短い手足を縮めて丸まり、草を寝床に微かな声できゅうきゅう泣いている。


「この子の中にも、小鬼がいるのです。お腹が空いた、消えたくないと、泣いておりました」

 柾樹の背後に佇む雪輪が、静かに語った。


「小鬼か。ああ、それで捨てられたんだな」

 道理で可愛くないわけだと、葦の寝床でむちむちしている『小鬼』を見て、柾樹は答える。

 近頃はただでさえ捨て子が増えているのに、小鬼では仕方がないと思った。


 川辺に流れ着いていた哀れな小鬼を見かけた雪輪は、見捨てられずに困っていたのだ。それで帰ってこなかったのかと、夢の中の柾樹は理解した。


「じゃあ、こいつも連れて帰るか。飯食わせてやれば良いんだろ?」

 そうしなければ、雪輪も帰ってこない。柾樹は言いながら立ち上がった。

 そこへ一陣、青紫色に湿った風が吹く。


 風に吹かれた雪輪は、無言で立っていた。灰色の影そのものといった娘には不安定な静けさと、迂闊に触れれば簡単に消えてしまいそうな空恐ろしさがあった。


「嬉しい」


 水の匂いと不安定な均衡を保って、木偶人形めいた娘はそう言った。

 顔はわからないから、表情もわからない。でもこれまでの冷たくよそよそしい礼の言葉と、明らかに異なっているとは柾樹にもわかる。

 言葉の余白には、あられもない悲哀があった。


――――そういうものか?


 柾樹は不思議な気持ちで、目の前の娘を眺めていた。

 出来損ないの小鬼を拾ってやるのが、雪輪は哀しいくらいに嬉しいというのだ。


「こんなの、大したことじゃないだろ?」

 何も難しくないのに、どうして雪輪が哀しいのだろうと首を傾げたくなった。


 そのとき視界の端で何かが動く。反射的に、柾樹の注意がそちらを追い駆けた。


「お前、あの時の……?」

 思わず呟いた。少し離れた場所に、白い山鼬オコジョが立っている。


 たしか、『スクナビコナノミコト』といった。仔猫くらいの大きさで手足は短い。頬は丸く、瞼の厚ぼったい子どもの顔がついていた。今日は、お供の蟾蜍ひきがえるの姿はなかった。


「これで、もういいだろう」


 小人のようなそれは、おそらく雪輪に言ったのだ。

 告げると素早く草叢の中へ入り込み、見えなくなってしまう。


 柾樹が振り返ると雪輪の姿も消え、夢はそこで断ち切られた。

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