かくも多くを耐え忍び
そこはもう田園地帯と言って全く指し障りのない場所だった。昔ながらの田んぼが広がり、川向こうの緩やかな台地を茶畑が覆っている。水田は耕作の時期にはまだ早く、枯れた草や土が剥き出しになっていた。
細い畦道と川から水を引く水路が縦横に走り、所々に植えられた暦代わりの古い桜の木が、木肌を紅色に染めている。夕日で橙に色づいた白い花が、ちらほらと散っていた。藍から朱鷺色へ漸次的に移行する空の下、湿った土と水の匂いが空気に満ちている。
どこか懐かしい土の匂いに目を閉じていた柾樹は、低い空で瞬く一番星を見てから畦道を進んだ。目指す桜の下には、農夫が道具を入れておくための作業小屋が、ぽつんと建っている。その扉の前に白絣の若者が佇んでいた。紺野清五郎だった。
書生は空を仰いで何か喚いたかと思えば、興奮した様子でぐるぐる歩き回っている。髪を掻きむしり、大声を上げて小屋の壁を叩いていた。無意味な行動を続ける様は、見えない何かを相手に夢中で踊っているように見える。
「……あー、お前紺野か? 女を連れて行っただろ。そこに居るのか?」
柾樹はくつろいだ声で話しかけた。すると紺野が急に動きを止め、獣のように身構える。髪を振り乱し薄闇の中で目を光らせる様は、道端で見かけたら絶対話しかけたくない人そのものだった。紺野から十歩ほど離れたところで、柾樹は一旦立ち止まる。ここまで万事首尾通りだった。
紺野が立ち塞がるこの小屋に、桜が押し込まれている事は既に知っている。近所の百姓が一部始終を目撃し、付近を捜索していた人々に報せてくれたのだ。しかし小屋と下手人を前に、柾樹は何もかも知らないふりをしていた。
次の瞬間、白絣の青年が突然懐からピストルを取り出す。正面に立つ人間へ、ぴたりと銃口を合わせてきた。銃を扱ったことがなくとも、この距離で撃てば当たるだろうし、当たれば死ぬかもしれない。
「ぼ、僕はもうおしまいだ! 何もかも駄目だ!」
混乱真っ只中の青年は、青ざめた唇をわななかせて喋りだす。しかし柾樹は特に反応もせず、表情も変わらなかった。いきなり致命的な武器を突き付けてくる辺り、『こいつ喧嘩した事ねぇな』とそんな事を考えただけである。むしろ紺野青年の方が、自分で作り出した異常事態の中で舞い上がっているようだった。
「もう自分が何をしているのかわからない。わかりたくもない! 人が互いに解し合えることが滅多にないのは知っている。さんざん馬鹿にされて生きてきたさ。だが、これ以上に辛抱するのはもう無理だ。もう息を吸うのも吐くのも苦痛なんだ!」
乱れる呼吸を飲み込み、神経質そうな声とうまく回らぬ舌で紺野は闇雲に胸の内をぶちまけ始めた。たった一人の観客は、『なんだなんだ?』と思って眺めるしかない。
「奥さんまで僕を軽蔑した! 僕の熱病について今朝、貴瀬川家から報せが来たのが原因だ。あの恥知らずの書生をどうにかしろとさ! 奴らは僕の行状について、有ること無いこと言ってきた。無いことの方が多かった。でも僕はこの不条理を黙って聞いていなければならなかった。半分も言い返す事が出来なかった。もし僕に金や権威があったら、向こうの言いようも違ったろうに! いやそんなことはどうでもいい。もうどうでもいいさ!
故郷の父や母の不憫を持ち出されて、お前は親不孝だと罵られれば、僕は反論の余地も無い。大層お怒りの奥さんは父母にこの事を全て伝えるそうだ。両親は泣くだろう! 不肖の息子に! 違う、僕は努力した! 官吏になるために、ここへ来たんだ! でももう自分の心すら思うようにならない! それだけじゃない。学校の連中まで僕をずたずたにした。どうせ見えないだろう。だが僕は血まみれだ。感情や心を下賎なものと笑い、知識人の顔で冷静ぶって取り澄ましている奴らにはうんざりだ! 金勘定や地位の高低や、過去の栄光や血統の正当性の証明に明け暮れするのが上等だと!? 彼らの言う『理性』とやらの中は空っぽじゃないか! 虚無すら入っていないじゃないか!
それなのに人々は僕に、あの人を慕う心や感情があることを嘲ったり軽蔑したりする。理性と冷静を己の矮小なるプライドの逃げ場にする、自らの卑しさと卑怯はいつだって棚上げでだ! 訳知り顔で、そんな心は害悪であるから叩き潰せと言う。身の程に合わせて魂を削れという! それはつまり僕に死んでしまえと言っているのと同じことだ! 心を失えば死んだも同然だ! 僕の死が世の為になるというのか!」
桜の木の下、自らの声でどんどん昂ぶっていく紺野は、星の増えてきた天に向け泣くように吼える。赤らんだまなじりが微かに光っていて、その様は『若きウェルテルの悩み』の主人公を想起させた。「落ち着け」の一言である。
この大演説を、柾樹は遮らずに聞いていた。好きに喋らせている。紺野青年の懸命な主張に感銘を受けていたのではない。弥助から、ここで紺野の注意を引く役目を引き受けたためだった。簡単に引き受ける柾樹も柾樹だけれど、弥助も「危なくなったら逃げろよ」と言うだけ言って、自らは矢面に立たないのだから、イイ根性をしている。
でも柾樹はそんなことより、紺野がこちらを見ているようで実際は全然見ていないようだという、そこが気になっていた。ざんぎり頭の青年の目は、焦点が合っていない。目を開いたまま夢を見ているといった風なのだ。先刻道端で話した顔の濃い書生が、紺野が酒をあおっていたと話していたのを思い出す。じゃあコイツは酔っ払っているのかなと考えた。それにしてもドラマチックな酔っ払い方である。たまにこういう人間はいるものの。
考え事をしている柾樹の前で、長芋顔の書生はまだ一人で「そうだ、そうなんだ」とぶつぶつ言っていた。それから、やおら観客へ向き直ると口を尖らせ目を見開く。馬鹿にしてるのかと殴り飛ばしたくなる顔だったが、本人は深刻そのものなのだろう。それどころか深刻の度が過ぎて、表面的に愉快なことになってしまっているに違いなかった。そして愉快な顔の青年は、突然余裕ありげに笑う。
「ああ、わかったよ。もう何も感じない。何を見ても灰色だ。お望みどおりにしてやろうじゃないか」
挑発的に言い放った虚ろな目には、攻撃の色が浮かんでいる。その攻撃が向けられた先は柾樹ではなかった。ピストルを持つ右手は徐々に紺野の右側頭部へ向かい
「僕はかくも多くを耐え忍ばねばならないのに……ああ、人間は僕の前にも、既にかくもみ」
瞬間、乾いた銃声が鳴り響いて、長かった演説が途切れた。紺野の身体がゆっくりと背中から倒れていく。同時に弥助が小屋の陰から飛び出して叫んだ。
「や、やりやがったか馬鹿野郎が!」
火薬臭い空気の中、弥助は倒れた紺野へ駆け寄る。その後ろから桜を抱えた千尋も出てきた。小屋の裏の板を外して救出された桜はふらついてはいるものの、自分の足でちゃんと歩いている。囚われていた娘を助け出すまでの自分の役目が終わったのを確認し、銀縁眼鏡は一息ついた。
「おう、桜。無事か?」
普段と変わらぬ口調で尋ねると、桜は気丈に頷いてみせる。
「え、ええ。私は平気……だけど……」
「……し、死んだのか?」
地面で仰向けに倒れている白絣を見て、二人は息をのんだ。弥助が紺野青年を覗き込み、小声で「ん? あれ?」と呟いている。そして
「おい、コイツに何した?!」
顔を上げ、柾樹に怒鳴った。
「頭に穴でも開いてたか?」
「いいや、どこも怪我はしてねぇ! してねぇからおかしいんだろう!」
関心の薄い表情で答える柾樹に、弥助は尚も大声で問う。中年男の疑問へ、千尋も参加した。
「さっき銃声がしたよな? こいつピストル持ってるんだろう?」
「俺も持ってる」
「わー」
柾樹が取り出した拳銃に、弥助も桜も千尋も目が点になった。見せびらかすものでもないので出さないけれど、護身用にと柾樹は常に拳銃を身に着けている。祖父から譲り受けたそのピストルを手の中で回し、玩んで言った。
「テメェで頭撃とうとしたから、ピストルすっ飛ばしてやったんだよ。そしたら勝手にのびやがった」
酒と興奮で舞い上がっていた紺野青年は、予期せぬ衝撃と音だけでのびてしまったのである。上手い事ピストルを撃ち落としたのだからお手柄なのだろうが、柾樹にとっては結末として地味すぎてイマイチ面白くないのだった。
「つまんねぇ奴」
「いやいや、これだけやれば充分だろ……」
銃撃戦でも期待していたのだろうか。柾樹の言いように、勘弁してくれという表情で千尋が言った。
と、そこで我に返った桜が千尋の手を離れ、倒れている青年に走り寄って介抱し始める。弥助が「おいおい」と驚いた顔で声をかけた。何とかもう少しマシな場所へ青年を動かそうと苦労している桜を見かねて、千尋も手を貸しはじめる。揃いも揃ってお人好しな二人を眺め
「こんな奴放っとけよ。そのうち起きるだろ」
柾樹が非協力的な言葉を放った。しかし薔薇色の頬をした娘は、のびている人間への腹立たしさと諦めの混じった表情で振り返る。
「そうもいかないわよ! お願い、マサさんも手伝って!」
こうも躊躇なく頼まれると断りにくい。結局は労働力として、弥助も柾樹も駆り出された。そうこうしているうちに百姓たちから報せを聞いた警察の人員も集まってきて、気絶している青年は戸板に乗せられ運ばれていく。
「まぁ桜さんに大事は無かったし、大した怪我人も出なかったと。何はともあれ一件落着だな!」
事情を説明するため桜と千尋も一緒に引き上げていった後、残された柾樹に言い大満足の表情で弥助が笑う。一般人を囮に使った事は忘れた顔をしていた。
「ったく、小娘一人に相手にされなくなったくらいで大騒ぎたぁな。情けねぇったらありゃしねぇ! 挙句に人違いで関係の無い娘さんまで巻き込むなんざ、どこまでハタ迷惑な小僧だ」
容赦なく罵る口とは裏腹に、遠ざかる行列を見送る脂ぎった丸顔は笑っていた。騒ぎになった分、きっと明日か明後日辺りには新聞が書き立てるだろう。紺野の残したピストルをしげしげと眺め、弥助は更に言った。
「物騒なモン持ち出しゃあがって……」
「ふーん、コルトか」
「どうも下宿先の主人のものらしい」
「へっ、死ぬ道具まで借り物かよ。芥川の歌といい……」
弥助の話しに顔を歪めた柾樹は、芥川の物語を何とはなしに思い出す。
純粋無垢な姫君に恋するあまり、攫って逃げようとした男の物語。だが雷雨の中、男が隠したあばら家で姫は突然消えてしまった。悲鳴を上げたとされている。でも男は姫の声を聞いていない。物語では鬼が食ってしまったことになっている。でももしかすると、何も出来ない姫だと男が一方的に思い込んでいただけで
「あっちの姫様も、実はじゃじゃ馬か何かだったんじゃねぇのか」
「? 何だそりゃあ?」
「こっちの話だよ」
首を傾げる弥助に、金茶色の髪を掻いて答えた柾樹の声が、春の淡い夜へ溶けた。




