壊れた思い出
薄雲の漂う空に、威勢の良い掛け声が吸い込まれていく。
印半纏に荒縄を締めた男達が歩き回っていた。大工や左官、瓦師といった面々である。その横を子守娘と、背に負われた赤ん坊が通り過ぎて行った。生まれて間もない赤ん坊は、まだ何も知らない瞳で世界を見ている。
それを横目で見送った柾樹は、振り向いて口を開いた。
「『元通りに忘れた』ってのは、どういうことだ?」
目の前には、老車夫が禿げた頭を垂れている。
古道具屋の門前付近にいる二人から少し離れた道の端で、塗りも剥げたオンボロの人力車が停まっていた。
「へい、申し上げた通りで」
落口久孝と名乗った老車夫は、肩を丸く縮ませながら更に体を折り曲げる。
「先の警察署で、狭霧の姉を知る皆様方と、運よく巡り会えました。失った記憶の取っ掛かり。これで狭霧も、チャンと元通りになれるに違いないと女房共々考えておりましたが……まるで逆さまとなりまして」
一週間前に猿屋警察署の近くで出会った、狭霧という少年。
雪輪の弟である少年の身を預かっている人の真っ黒な日焼け顔は、沈痛で曇っていた。
「あれから狭霧は口数も表情も、めっきり減ってしまいました。ひどく陰気というか、暗く鬱々と沈みこんで、ぼんやりと心もどこへ行ったやら。拾った頃に戻ってしまったと申しましょうか」
言い難そうに俯いて語る老人の話しを、さっきから柾樹は昼の青空の下で聞いているのである。
「じゃあ……他の記憶も、まだ思い出せてねぇのか?」
「へい、親戚のことはおろか、生まれ故郷の名前も、場所も」
「そこは『御室』だ。山崩れで潰れちまってもう無いが、新聞に載っていた。場所も教えただろ?」
話す金茶頭を、叱られた犬のような目で見て、久孝老人の丸顔がますます苦渋の表情を浮かべた。
「それが……狭霧は、覚えていられないようなんでございます」
皺だらけの手で禿げた額を撫で、微妙な言い方をする。
「覚えていられない? 忘れちまうのか?」
柾樹の質問に、老人は頭を横に振った。
「忘れてしまうのか、忘れてしまいたいのか……傍目にはわかりかねますが」
気落ちした声で語った車夫に、腕組みしている青年も「そうかもな」と小さく答えて黙った。
書生三人と直接話しをしていた時に、狭霧が氷水でも浴びたように顔面蒼白だったのを思い出している。はいはいと素直に口は返事をしていても、心にまで聞こえているのか怪しかった。
「自分の名前は……今も、『諏訪狭霧』と名乗っているのか?」
ぽつりと、銀縁眼鏡は尋ねる。質問に、車夫が首を傾げた。
「え? はあ、さようでございますが……あのう?」
「そうか。いや、いい。こっちの話しだ」
すがめた老人の目を、背の高い書生は片手を振って払いのける。
狭霧は自分の苗字を、『湾凪』ではなく、『諏訪』だと思い込んでいた。
間違いだと、柾樹達が教えても良かった。しかし少年はすでに姉の存在を思い出していた。記憶の手掛かりも増えたのである。他人が強いて騒ぎ立てなくても、自然と過去に向き合うだろうと考えていた。けれど、そう容易くは解決しないようだった。
「挙句に、思い出した『姉』のことまで、また元通りに忘れちまったのか」
飛んだ予想外れで、柾樹は軽く空を睨み息を吐く。
新たに他人から教わった情報は、少年の中に殆ど残らなかった。
車夫の夫婦が教えてやっても、素通りするみたいに忘れてしまう。自分の過去を知らない、ただの『狭霧』に戻ってしまうというのである。だが単純に、何も知らなかった状態に後退するのとは違うようだった。
「狭霧は昔を忘れたり、思い出したりを繰り返しているようでして。父母に申し訳ないと涙していたと思えば、自分は医学生になるのだと言い出したり。危なっかしくて、こっちもハラハラしっぱなしで。本人も頭の中が混乱しているようです。三度の飯まで食わなくなっちまいました」
「腹でも壊したのか?」
老車夫の嘆息に、柾樹が素で尋ねる。尋ねられた側はちょっとの間、唖然と口を開けていた。
「いやいや、そうではなく……食べられないと言うんでございます。理由も口にしません。骨を折って聞き出しましたら……『僕のようなのが、ご飯をいただいてはいけません』と、そこだけハッキリ申しました。まるきり自分で自分を、痛めつけているのと同じですよ。近所の口の悪い奴らには、『死にたいなら死なせてやれ』なんて言われもしましたが、冗談じゃあない。そんなのは御免です」
眉間を狭くし口をへの字にして、車夫はもたもた言っている。大人しい久孝老人もこればかりは周囲の悪態を怒って、腹に据えかねている顔だった。
「道端で拾って半年。やっと狭霧が飯を食ったり、笑ったり喋ったりするようになってきたと、喜んでいたところでした。少しは身体も丈夫になったと、安心しておりました。これがまた目に見えて痩せてきているもんですから。うちのカカアなんか、狭霧が死んじまうと騒ぐこと騒ぐこと」
乾いた黄金色の陽射しに光る額を掻く老人は、少年を心配する古女房の喧しさにも参っているようである。お梅という髪結い女が、女房だった。この車夫夫婦は自分たちと縁も何も無いところから転がり込んだ狭霧を、雛鳥を守るように慈しんでいる。それは彼らと知り会って間もない柾樹にも、何となく見て取れた。
「不運な事故とはいえ……ただ一人の身内である姉を置き去りにしちまったんです。弟としては、その辛さや罪悪感が、耐え切れない重荷となって心を押し潰しているんでしょう。狭霧は思い出した記憶の、些細な切れ端でも何でも、紙に書いてみますと言って筆を取るのですが……紙に向かえば手がわなわなと震えて、吐き気で夜もうなされております」
受け入れられない過去は吐き気となって表れ、昼も夜も狭霧を苛んでいるのである。
「ふーん……で? 何だ?」
事情を長々と語った人に向け、柾樹は続きを促した。一度考え込んだ久孝老人は、両手で痩せた太股をぽんと叩くと、皺も深い丸顔を上げる。
「先頃、お三方から狭霧の姉上について、親身に教えていただきました。ありがたい限りです。狭霧も、いつまでも間違えた記憶のままでいちゃあ、いけないでしょう。思い出すのが苦痛と言ったって、嘘だらけの幻に縋って暮らすなんざ、良いはずがありません。しかし今の有様を見ているのは、こちらも辛抱できません。無理をして本当の記憶を取り戻させたところで、狭霧の幸せになるとも思えません。それで、これよりしばらくの間……まことに勝手を申しますが、狭霧の過去に触れないようにしてやりたいのです。身体の方が、もう少し丈夫に回復するまで……」
申し訳なさそうに言って頭を下げると、着膨れた破れ半纏の丸い背中が、より一層丸くなった。貧乏車夫の頼みを聞き、柾樹はぼりぼりと自分の首を掻く。その左胸と首筋には、青紫色の大痣が出来ていた。大人の掌と同じ程度の大きさをした痣の形は、大輪の菊の花と似ている。
「記憶を取り戻そうとする限り、回復しないんじゃねぇのか。要するに、死ぬほど思い出したくねぇんだろ?」
情も薄い口調で述べた柾樹の指摘に、久孝老人は視線を上げた。否定はしなかった。
狭霧は寝食まで放棄している。生き死にと引き換えにしてでも、過去を思い出したくないのだろう。『思い出す』とは、過去を現在に登場させる、唯一と言って良い方法である。思い出しさえしなければ、過ぎ去った時間も事件も、そこにいた人々も、いつかの己の振る舞いすら、自分の中では無いのと等しくなった。
狭霧は家を守り導く立場の嫡男である。しかしまともな働きは得られないまま、路頭に迷った。盗みも喧嘩も出来ず、生臭も食べられない。正しく、きれいなままでいることしか出来なかった少年は、姉も過去も捨てて逃げ出した。
「親きょうだいを忘れるなど不孝者、不人情と呆れもしましょうが……。こんな世の中も悪いのですよ」
老人は、褒められるところの無い少年を庇って寂しく笑う。世間に振り回されるしか能のない人生を生きてきた、お人好しの顔だった。
柾樹は黙って、土埃の漂う地面を眺める。
「たぶん雪わ……アイツは、知っていたぞ」
「へえ?」
零れた柾樹の声を拾って、貧乏車夫が聞き返した。
「アイツは弟が、記憶を無くしているのを知っていた。生き別れたままで、良いと思っていたんだろ」
独り言に近い音量で、眼鏡の書生は言った。
狭霧が信じていた幻の『過去』については、柾樹たちも老車夫から聞いている。
顔も知らない親戚が、親切に自分を帝都へ招いて世話をしてくれる。実力を認められ、医学校へ入学する。人々に尊敬される自慢の父母。旅立ちを温かく後押ししてくれる故郷……どれも狭霧が、心のどこかで欲していたものだったに違いない。
そしてその幸福な幻の中に、『姉』は影も形もいなかった。
「外の人間が、とやかく言うことじゃねぇよ。忘れたままでも、別に構いやしねぇだろ。向こうがもっと姉について知りたいって言うなら、こっちも教えるのは吝かじゃなかったけどな」
秋光の下、柾樹の仏頂面が車夫に語る。久孝老人には不機嫌顔を見せられる理由がさっぱりわからないわけだが、青年書生は知らぬ顔をしていた。
かつて柾樹が弟を探さないのかと促しても、雪輪は否定し去って取り付く島もなかった。理由を本人は語らなかったから想像するしかないが、おそらくは弟の幸せな『過去』に合わせてやっていたのだろう。
次々と破れていった幼い夢の果て。せめて命と誇りと、すくい上げられた人力車夫としての生活とを、繋ぎとめてやろうとしたのだ。女中奉公の給金を猫の首に括りつけ、弟の元へ送っていたのもそのためだった。
このままでは疲弊しきった弟は、帝都にも新しい時代にも馴染めず、生ける屍となり、死に所を探して彷徨い続けることになる。そうなるくらいならば、全て忘れても良いと。
「お前、それを言いにここまで来たのか?」
話しの向きを変えた柾樹に、尋ねられた老車夫は小さな目を瞬かせ手を打った。
「これが他にもう一つ、お伝えしていなかったことがあったと、遅ればせながら参りました。もしや皆さまの知り合いではあるまいか、一先ずはお耳に入れておかなけりゃと」
藁草履の足を擦り、身振り手振りで車夫が始める。それは書生たちと会うよりも前にやって来た、奇妙な来訪者についての話しだった。
「牛島神社で土蔵破りの服部文蔵に会う、前の晩です。うちの長屋に、知らない子供が一人で訪ねてきました。『おひいさまに会いたい』と言って」
「何だと?」
聞いた柾樹の気色が、微妙に変わる。
「その子は人力車を牽いていた狭霧を見つけて、ついてきたようでして。押しかけてきたから、驚いたもんです。しかしどうも話しが通じない。気がすむだけ喋ったら、後も見ないでぷいといなくなっちまいまして、捕まえ損ないました。ええと、名前は何でしたかな? 見かけは、こう……」
夜の風に乗ってやって来た子供のことを、老人はたどたどしくそこまで説明した。だが年寄りは、後が出てこない。目を硬く瞑り、うんうん唸っていた。
「……麻の葉文様に柿色の帯をしてる、十二、三くらいの汚い身形の娘か?」
「へ、へい、その通り! ご存知でござんしたか!」
背の高い青年から示された心当たりを聞き、老人は喜んで目を輝かせる。
「わかった。帰っていいぞ」
勘が当たった柾樹は、特段の感動も無い顔で溜息をついていた。
そうして銀縁眼鏡の視線は横へ逸れて、すっかり景色の変わってしまった建物へと移る。
「それにしても、まぁ……噂には聞いておりましたが。こいつは一体、何があったんでございます?」
つられて一緒に建物を眺めた久孝老人が、曲がった背中を伸ばしながら尋ねた。
「家主が戻るまでには、格好だけでも元通りになるとは思うがな……」
柾樹が呟く。
数鹿流堂の主である善五郎がこの状況を見たら、気絶するかもしれない。
古道具屋の『数鹿流堂』は建物と、敷地を囲んでいた黒塀が殆ど無くなっていた。
解体されてしまったようなものである。屋敷があった証拠みたいに、門扉は建っていた。他には目印だった門の前の黒い松と、庭の木々。そして壁に罅の入った黒漆喰の蔵が残っていた。
急にこの辺りの見通しと風通しが良くなって、十日が過ぎている。
崩れてしまった建材と、溜め込まれていた膨大な古道具との仕分けは終わっていた。たくさんの古道具は外へ預けて運び出されたり、蔵の中へ押し込まれている。家を直す普請も進み、主だった柱は組み上げられていた。
「このお屋敷だけ、たった一晩できれいサッパリ飛んだとか。竜巻ですか?」
「あー、竜巻で良いんじゃねぇか?」
老車夫が興味津々で囁いたのは、近所の噂話である。
ここで下宿していた当事者は、全くやる気の無い態度で適当な返事をした。あまりにもやる気がなさ過ぎたのだろう。老人は相手の方へ少し身体を傾けた。
「はて、何か別の事情でもおありで?」
素朴な疑問を向けた小柄な老人を、腕組みした青年はつまらなそうな目をして見下ろす。
「大入道が、屋根を持ち上げて壊したと言ったら、信じるか?」
「いやいや、まさか……。いくら古物のジジイだからって、からかっちゃ困ります」
老車夫は苦笑まじりに返して、節くれ立った皺だらけの手を日焼けした丸顔の前で左右に振った。
「それじゃ、やっぱり竜巻だろ」
最も通用しやすい回答で話しを終わらせると、柾樹は建物の屋根があった辺りを再び見上げる。
「それでも皆さま、怪我も無くて何よりでしたな。家に誰もいなかったのは、不幸中の幸いでしたか」
「いや、俺はこの家の中にいたんだがな」
「ええ!? よ、よくぞご無事で……」
横の柾樹を見上げる老人は、顔も声も驚くのを過ぎて怯えていた。こんな崩れた家の中にいて、怪我もせず達者でいられるのは、運が良いでは片付かない。しかし柾樹は気にするでもなく、立ち働く人々を見物していた。
「落ちた瓦や倒れた建具も、家の中にあった古道具も、どーしてだか傷が無くてな。大工の棟梁が仰天してたぜ。『こいつは風で飛んだんじゃねぇ。屋根瓦や柱が、家をやるのを勝手にやめて、テメェで地面へ降りてきたんだ』ってな」
厳つい大工どもが変な顔していた様子を語る柾樹は、口元が笑っている。
お大尽の声掛けで集められた大工達は、奇妙な現場を見せられて一様に不思議がっていた。
崩れて積み重なった屋根瓦に、柱や梁。散らばったそれらがどれも、折れたり割れたりしていなかった。釘まで綺麗に抜け落ちて、下敷きになった畳や板も破損が無い。障子一枚破れていない。古い建物と家財道具とが、お互いに遠慮しながら雑魚寝しているといった状態だった。
「ハハァ……あの晩は風が強かった上に、恐ろしいほど星が流れていたと、車夫連中が話していましたっけ。何か関わり合いがあるんでしょうかね? おかしなことが、次から次と起こる世の中になりましたな」
「そうだな」
車夫老人がのんびりと微笑み、青年の方もまた適当に相槌を打つ。
数鹿流堂の建物は、バラバラに崩れてしまった。ばらけたものは、組み直せば良い。が、天井が抜けているため、生活するには日当たりが良過ぎた。
「俺たちは今はここに下宿してねぇ。また何か用事があったら、駿河台の屋敷まで来いよ。それと……」
貧乏車夫の老人にそこまで言って、柾樹は懐を探る。
「こいつは女中の給金だ。渡す奴がいなくなっちまったから、弟のいるそっちで使え」
真新しい紙入れを、丸ごと投げて寄越した。中に幾ら入っているのか渡した本人も知らないけれど、虚弱な老いぼれが人力車と働きまわるより、多いのは確実な分厚さがある。
「は、はあ、これはどうも……恐れ入ります」
施されるのが、かえって気味悪かったのだろう。戸惑いと恐縮しきりといった様子で、貧乏車夫は幾度も禿げ頭を下げた。
何でもない日々が過ぎている。帝都の秋は、退屈に長閑に深まっていた。




