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湾凪雪輪

『子授けの神通力』によって、雪輪の人生は一変したと意っても過言ではない。


 多くの人が子授けを願い、少女を拝みに来た。親の辻褄合わせや、金目当てだけの場合もあった。一方で切実な訴えや、同情に値する苦しい状況に置かれている人もいた。


 しかしどのような事情であれ、彼らに拝まれている幼い雪輪は、不思議だった。

 皆は何故、手に負えないと身に染みてわかっている世界に、新しい誰かを生まれさせたがるのだろうと不思議だった。


 祈願が成就したところで彼らの思い描いた光景にはならず、喜びも長続きしなかった。御室の里の子ども達は花芽が落ちるようにパラパラと死んだ。その親達も死んでしまった。

 亡骸の埋まった土の塚を眺めて、こういうものかと雪輪は思った。


 残念だが、人間だと言って何も偉いわけではない。条件さえ揃えば、簡単に殖えたり減ったりする。いなごや赤潮と同じなのだ。だから人も蝗と同じように、快楽は最大に、苦しみは最小にしようと動くのだろう。そのために他者を、世の何もかもを意のままにしたがる。


 その自由は全く正当で、誰も止められはしないと随分早くに覚えた。

 そう考えれば濁世が欲望と忘却の螺旋を描いて、無慈悲に囂々と回り続けるのもわかる気がした。


 これが普遍と思っていた。



――――本当に、一人になった。


 選択肢の失われた美しい焼野原で、雪輪は夜空を見上げていた。

 元いた世界との梯子は外された。自ら外した。下した決断の重大さが、粛然とあらわれている。


 嘘のような現実が黒い風となって駆け抜け、押し切られるのも同然に事実として認識する。

 黄金の梅林がどこまでも続いていた。巨大な満月に支配された夜の彼方に、『無名の君』が浮かんでいる。雪輪の身体は心臓が早鐘を打つことも、呼吸が乱れることもなかった。黙ったまま、右手に持っていた奇妙な古い拳銃を、懐剣代わりで懐へ挟んだ。


 そこへ、ぽとりと可憐な音がする。簪の玉が外れ、草陰に落ちていた。


《ほほ……“うた”が降りてきたのだな……?》

 瞬きながら、玉の華厳がゆったりと語り始める。


《引き潮じゃ……大鬼ダイダラボッチの影も滅びた。あの若者は、彼岸へ戻したぞ》

 雪輪が身を屈めて拾い上げると、眠そうな声はそう言った。藍玉の表面には、微細なひびが入っている。


「華厳様、皹が……」

 雪輪の掌の中、藍と碧に輝いていた美しい玉は崩れていく。


《よいよい……千年の時を経て、あわいまで来たれども。かようなまじないで、常世へ渡るは叶わぬ夢か》

 笑う老人の声には、喜色もあった。

 千年待ち望んだ『常世』。野望の成就を目前に、華厳は柾樹を結界から出して映し世へ戻すため、力を使い果たしてしまった。


「何故?」

 雪輪は玉簪に尋ねる。数多の命を貪婪に食い潰してきた者の行いとして、矛盾しているように見えた。


《さて……何ゆえであったか? わしが常世へ渡らんと欲した理由ゆえは……ホホホ、忘れたのう。大事ない、大事ない。少しばかり、死体の山を見過ぎただけじゃ》

 明るい華厳の声は、微笑が見えそうだった。


《わしも所詮、世にある時の在りし者……憂きにはもれぬ、我が身なりけり、じゃ》


 重ねられる限りの悪逆を重ねた我が身が、どうして憂いから離れられよう。無間の冥府こそ相応しい。


 藍と碧に光る玉はそういう意味のことを言ったのだが、悲壮さは無かった。話すうちにも華厳は、虫の抜け殻そっくりに乾いていく。最後には薄く透き通って砕け、その破片も風に飛ばされ消え去った。


「ほほう? 華厳のジジイ、くたばりよったか? 後一回くらい、何や言うてやったらよかったな」


 一陣風が吹き、毒舌と紫炎を吐いて赤毛の猫が現れる。

 虎のような巨体の猫は、緑色の瞳を輝かせて娘の傍らへ座った。


「火乱、御苦労でした」

「ホンマに苦労させてもらいましたわ」

 雪輪が頭を撫でると、火乱は恨めしげな上目遣いで答えた。


「こっちも大よそ、算段通りにいったらしいな? 予定とちゃうもんが、少々まざっとるが……」

 火乱が呟くと、青い繁みが揺れる。脚の生えた古道具が、ぞろぞろと出てきた。


 どれも数鹿流堂にあった古道具である。

 赤い目玉をぎょろつかせた笊や手桶を先頭に、破れた提灯に行灯、石臼、茶釜、五徳や床几が続く。槍や薙刀が左右にふらつきながら歩き、古い綿繰り轆轤ろくろや、陶器の手水鉢も行列に入っていた。車箪笥と、割れた甕と壷も並んでいる。他にも幾本かの柱や、瓦が紛れ込んでいた。


「何しとるんや、九十九神?」

 陽気に練り歩く古道具たちへ、火乱が尋ねる。

「お前たちも……常世への供をしたいのですか?」

 雪輪が訊くと、応と答えるように、古い道具達は虫みたいな脚を踏みしめて一際騒ぐ。


「分際っちゅうもんあるやろ。弁えなあかんぞ」

 化猫が威張ると、古い道具たちは聞こえない声でざわめいた。寄り集まり、何やら相談し始める。

 そうして何を思ったか、車箪笥を中心にお互い上に乗ったり重なったりし始めた。不恰好な乗り物らしきものが出来上がる。


「何や……? お姫さんの神輿みこしにでも、なってみせたつもりか?」

 察した火乱が、鼻面に皺をつくる。


――我らお役に立ってみせますゆえ、お使いなされ――


 九十九神たちはそう訴えていた。役立たずのガラクタは、連れて行ってもらえないと思ったようである。そういう意味ではなかったし、うまい陳情でもない。


「良いでしょう」

 しかし雪輪は苦笑する心持ちで頷いてやった。

「ま……ええか。どうせ道具がいらんようになっても、あの気ぃ利かへん道具屋じゃ、供養もしてもらえへんやろ」

 気楽な口調で、火乱も言った。


「さぁて……そろそろ出てきたらどないや? 土々呂」

 化猫の緑色の目が、別の藪を眺める。

 ぴいぴい鳴き声がして、出てきたのは白い鼠の集団だった。欠けた漆塗りの椀と、焦げたしゃもじに追いかけられている。


「まだ残っていたのですか」

 雪輪が呟いた。綿毛の塊みたいなものたちは、古道具にぐるりと囲まれてしまう。


《タ、タスケテー!》

 九十九神に脅かされた鼠たちは身を寄せ合い、縮み上がっていた。


『土々呂』の燃え滓、と言って差し支えなさそうである。真っ白な鼠たちはとても小さく、茅鼠かやねずみ程度の大きさしかなかった。映し世で見せた禍々しさは消え果てて、影さえ持っていない。

 鼠たちに鼻を寄せた火乱が、赤い口を開けて舌なめずりした。


「ほんならここらで、ぺろっと」

「おやめなさい」

 わざとこういうことを言いたがる猫を嗜め、雪輪は白鼠の前でしゃがむ。

 小袖の袂から、銀色の立方体を取り出した。箱を改め、どこに何の文字が刻まれているかを確かめると目を細める。


「……始まりの頂点を、左手ゆんでに。向き合った頂点を、右手めてたなごころへ……」

 呟いて特定の一点を見つけると、切れ目に沿って立方体を回し始めた。


右手めての側を奥へ四回り。次に、左手ゆんでの掌に入れた頂点を上へ。左手の点を掌へ。左を手前へ三回り。上を向いた頂点を右へ移し、向き合う頂点を左の掌へ。右手の側を手前へ二つ回し、左手の側を奥へ一つ……」

 正しい『解き方』でなければ動かない銀色の箱は、切れ目の辺と面とが替わり回るたびに、シャランシャランと涼しい音を奏でる。この解き方で正しいと、箱が応えているようだった。


《『幸運者ファウストの箱』……!》

《扱えるノか?》

《からくり仕掛けの解き方、誰に聞いタ?》

 背伸びをした白い鼠たちは、箱と雪輪を見上げて騒ぐ。


「この箱の……『前の持ち主』でしょう」

 表情の変わらない娘は、聞きたくもなかった人物の声に『正解』を教わりつつ、箱を回転させていた。『前の持ち主』は、『必中の賽』でもって、誰も知らない秘密の箱の解き方を探り当てたのだろう。

 パキリと透明な音がして、銀色の正六面体は二つの四角推になる。かつて『鬼のサイコロ』が入っていた箱の中は、そこに面があるか無いか迷うほどの漆黒だった。


「この箱の中に、隠れていなさい」

 白い綿毛の塊へ、開いた箱が差し出される。

《我らも、常世へ渡れるのカ!?》

 泣きべそをかきそうな土々呂たちは、叫んで奮い立つ。


「乗りかかった舟。古道具つくもがみ達も行くのです。供として連れて行ってやりましょう。お入りなさい」

 娘は静かに語りかけた。土々呂たちは軽過ぎて、『常世』への旅路に耐えられない。今の雪輪は、何故かそれを知っていた。

 惨めそのものだった境遇の思わぬ変化に、小さな白鼠たちは騒然となる。


《月の舟が出るぞオー!》

《皆モ来いヤイ!》

 涙を拭い、互いの肩を抱いて飛び上る。前足を精一杯振って、隠れていた他の仲間を呼ぶ。藍色の野草の陰から大急ぎで駆け出してきたのを含めて、土々呂の燃え滓は総勢で百ほどに増えた。


《さあサア!》

 小さな土々呂たちは、古道具の神輿へよじ登る。


《――西寺の、老鼠、若鼠》

御裳おむしょうむつ、袈裟けさむつ》

《法師に申さむ、師に申せ、法師に申さむ、師に申せ――》


 弱っているのと、まだ力のあるのとが助け合っていた。思い出した古い歌を歌いながら、二匹、三匹と箱の中へ飛び込んでいく。火花となり散る様は、線香花火のようだった。飛び込むたびに、漆黒の四角い面で銀色の波が立ち、散った七色の火花が溶けていく。


 こうして線香花火が消えた静寂の中。雪輪はもう一度、青い草陰へ呼びかけた。


「お前が……『土々呂』の首魁ですか? 何をしているのです。こちらへ出ていらっしゃい」

 呼ばれると、隠れていた場所からこそこそと、みすぼらしく痩せこけた白い鼠が現れる。後足で立ち上がった『土々呂』は、少し離れた場所で、赤い小袖の娘を見上げた。


《赦すのか……? 嫌わないのか?》

 他の連中とは違い、最後の土々呂は人の情が本来、どう働くかを理解しているのだろう。

 やつれた髭は、情けなくしな垂れていた。


「お前なんか嫌い」

 つり上がった目で軽く睨み、雪輪は子ども染みた口調で言う。意味のない意地悪なのだが、これくらいの棘でつついてやる程度には、まだ人間の感情感覚が残っていた。


「でも、『故郷』へ帰りたいのでしょう?」

 鼠を見つめて尋ねる。

「おいで」

 銀色の箱を差し出してやるが、尻尾を震わせた鼠は、ぺしょっと尻餅をついてしまった。


《こんな薄汚い有様では、辿り着けないのではないか……? 消えてしまわないか? 追い返されないか? 箱ごと、ここに置いていったりしないか?》

 小さな鼠は、打ちしおれた涙声で訊く。


「心配はいりませんよ……。さあ、身形を整えなさい。出掛けるときには、きちんとしていなければなりません」

 しょぼしょぼ泣いている鼠を、雪輪は励ました。

 指先で背を押された土々呂は立ち上がると、草花の露で頭を濡らして毛繕いをする。ちょっとだけ白くなり、小ざっぱりした。もう一度箱が差し出され、鼠は銀の縁へよろよろ縋りつく。

 そのまま、金魚が水へ潜っていくように黒の中へ吸い込まれていった。


「ひいさん、ええのか?」

 元通り閉じられた銀色の箱を抱えた雪輪へ、退屈そうに見物していた火乱が問いかけた。

「一人くらい道行を共にしてやらねば、筋が通らないでしょう」

 返事をした雪輪が袂へ玉手箱を仕舞うと、化猫は二本の尻尾を振る。


「土々呂やのうて、若のことや」

 緑色の目を光らせる火乱を、雪輪が横目で見た。

「狭霧ならば、心配はいりません。仙娥に聞いています」

「あんなんな、記憶を仕舞い込んでるだけやぞ?」

 部分的に人情を理解できる猫は、愚痴めいたことを言う。


「狭霧は間違えていませんよ。それは、わたくしが知っています」

 黒髪と赤い袂を無音の風に揺らし、雪輪は微かな声で答えた。しかし疑り深い猫は質問をやめない。

「弟に忘れられても、構へんのか?」

「信じられなくなっていた人の世へ、また入って行けるようになったのです。諦めかけていた人生を、再び始めることが出来ました。それで良いではありませんか」

 家族で暮らした頃の思い出まで消えてしまうが、姉はそこに触れず化猫の問いへ返す。


「戻られへんのやぞ」

 まだ火乱が言うので、さすがに雪輪も首を傾げた。


「さっきから何を言うのです。火乱は式神で、この時を待っていたのではなかったの?」

「まぁ何や……わいにはイマイチ、人助けだの人柱だのになろうちゅう意味が、ようわからへんのや」

 若干気まずそうに猫は緑の目を逸らし、二本の尻尾が交互にばたばた揺れる。


「あの兄ちゃんに、背負わせたったら良かったんとちゃうか? アレ一人を生かすために、『霧降』は盗まれたんやぞ。ほんなら鬼になるんも、巡る因果の応報や。人間はこないなの、『落とし前』とか言うやろ。ええのか? あっちが、人の世で生き残るんやぞ?」

 火乱が本音に近い部分を口にした。聞いた雪輪は、ふと口を噤んだ。


「あの人一人のため、里が滅びたのならば尚のこと。是が非でも、ただの人間に戻って生きてもらわねばならないでしょう」

 猫の緑色の瞳を覗き、灰色の世を見てきた娘は答えた。

 鬼の力と呪いを失えば、もう無傷ではいられない。食えるだけ食い尽くし、殺す者と殺される者がいる修羅の巷で、傷と病に苛まれ老いて死んでいく。その『人生』を強いたのである。


「鬼へ変じたところで、『箱』を守り続けられる確証も無かったのです。わたくしとて、あんな土壇場の口約束に縋るほど、弱ってはいませんよ」

 無造作に言い捨てると腰を上げた。

「これからは科学や技術の発展で、治らなかった怪我や病も多くが治るようになります。死ぬ者が減る。人が増える……。そのような世に『子授けの神通力』などとは、存在するだけ害悪となるやもしれません」

 静かに声を潜め、神に魅入られた娘は語る。


「『常世』から、少しの間だけ、力をお借りしていたのです。お返しする時代ときが、来たのですよ」

 背筋を伸ばし、頭上で美しく躍る金の花びらを見た。


「何よりわたくし自身が、わかってしまったのですから。“うた”が、降りてきてしまいました」

 そう言って瞼を閉じる。

 月が輝いたあの瞬間、歌うべき“うた”が降りてきて雪輪は知ってしまった。“うた”は、亡びた故郷の麦打ち唄と、少し似ていた。


「知っていながら、知らぬふりをすることは出来ません」

 瞼を開くと、胡散臭そうな顔をしている赤い猫へ言って聞かせる。

「へん、『名の誉れ』っちゅうやつかいな?」

「ええ。取るに足らぬ幻ですよ。これのために、今まで一体どれだけの人が、自ら死地へ急いだでしょうね?」

 舌を出した化猫のおどけへ、合わせるように答えてやった。


「それに、常世へ行っても、火乱は居るのでしょう?」

 腰を屈めた娘は、これまでもずっと傍らにいた赤毛の猫に尋ねる。

「…………まぁな」

 火乱は殊更難しげに返事をし、白いひげをむずむずさせた。娘は指先で、その鼻面を撫でてやる。こんなに困惑している猫の面は初めて見たので、少し面白かった。


 赤い裾が翻り振り返れば、月を背負う射干玉ぬばたま色の大きな影が舞い降りている。


 黒髪は茫々と長く、色も褪せた金糸銀糸のほうを纏っている。白い眉も髭も無い翁の面と似た顔は、初めて会った日と同じように微笑んでいた。“コヨーテの拳銃”によって破られた隙間から、金色の蝶が溢れ出し、夜の空へと飛んで行く。


「待っていて下さったのですね。時が巡り来るまで」

 夜の底で動かずにいた『無名の君』へ、雪輪は呼びかけた。

 重々しい動きで、神の長い右手が伸ばされる。その三日月形の爪の先端に載っていたのは、白くて丸いものだった。両手を伸ばし、授かったそれを受け取る。

 五歳の少女だったあの日を、再現したような光景だった。これをどうしても食べなければならないと思ったところまで、同じだった。


 唇を近付ければ、食べるというよりは吸い込まれる淡さで身体の奥へ消えてしまう。あまりにもやさしかったため、恐怖は無かった。

 冷たかった身体の芯が、ふわりとあたたかくなる。訳もなく、嬉しくなってくる。


「永らくお待たせを致しました」

 深く頭を垂れた娘へ、四方から分厚い闇色の風が押し寄せる。満月が一際狂い咲いた。


 四君子も鮮やかな赤い小袖の裾を引いた娘は、古道具で出来た滑稽な輿に乗る。

 露払いとなった化猫が、ぎゃーおと一声高く鳴いた。破れ太鼓が轟き、脚の生えた行灯と提灯に七色の灯が灯る。槍や薙刀が左右を守り、古いものたちを引き連れて、九十九神の輿が歩き出した。


 鄙びた道具立ての奇妙な行列も、目の狂めく絢爛の夜にあれば華麗に彩られる。輿に揺られる娘も、天空の煌びやかさに心が躍った。


――――何か、方法はあるだろ?


 行くな、と止めようとしてくれた人の顔が、雪輪の脳裏を過ぎった。

 掴んだ指の強さが蘇り、ぎゅっと自分の手を握り締める。

 自らの中にもあった正当な自由を、雪輪は捻じ伏せた。


『子授けの神通力』は、急激に人を増やす。それゆえ、政を司る者達に重宝された。遠い昔の湾凪家と御室の里も、使命に縛られると同時に、その恩恵は受けていただろう。


 もしも今一度『産児』の奇跡が人々の知るところとなれば、富国強兵を目指す国家もまた黙っていない。強兵となる者の頭数を大量に殖やすか。それとも理想的で好もしい“優秀な”者を殖やすか。いずれにせよ再び国や、それ以上の広範囲でこの力が用いられれば、小さな山郷とは比較にならない混乱が生じる。


 奇跡だった産児は、簡単に当たり前へと零落した。

 軽々しく殖える人間に、人の善意や共感はいつまでも寄り添わないだろう。軽々しく殖やされた人間も、無価値へ落とし込まれるのを喜んで受け入れはしない。“誓約”の反転による破局に勝るとも劣らぬ、酸鼻を極めた破綻が訪れる。

 生憎と映し世は、人の手に負えるほど軽くない。


 そのような事態を避けるために、確実に終息させる手段を自分は知っている。何もかもは出来ないが、より善く、より正しいならば、そちらを選ばなければならない。人が蝗や赤潮と同じになってしまうのを、雪輪は許さなかった。だから破局も望まない。


 いつも大事なところで間違えてきたから、これも過ちになるのかもしれないとは思う。


 それでも。

 未だ来たらぬ小さな誰か達に、暖かい陽射しや、薫る花を見つける日があってほしい。

 彼らにも、困っている人を助けたいという気持ちや、うやむやでも構わないから将来の話しがあれば良い。くだらないお喋りや、ちょっとした喧嘩や笑い声や、美味しいお菓子があれば、尚のこと良いのだ。

 いつかの、小さな古道具屋の縁側のように。


 それから、どこかでまたあの人が


――――バイオリンを弾いていたら良いのだけれど。


 崩れていく意識を繋ぎ止め、人形みたいになった娘は考えた。


 彼の演奏は取り立てて素晴らしくもなかったし、もうこの耳も消えてしまう。たしかなものなど何も無い。消えないのは寂しさだけで。

 たとえ愚か者が見た、泡沫うたかたの夢であろうとも。


「きれいね」

 幼い巫女が神の言葉を語るように囁いた。

 黄金の夜の果てでは、巨大な月が煌々と咲いている。闇は融けゆき、長い約束は果たされる。


 そして彼女は最後にひとり、まだ名も無きはじまりを言祝ことほぐ、終わりのうたをうたった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 妖達みんな可愛すぎる・・・もうみんなディズニーかジブリ風に脳内変換されるようになってしまいました。 [一言] 次回がとても楽しみです。 良いお年を。
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