種明かし
服部文蔵という男は、土蔵破としてちょっとは名が知られている。
ここしばらくは下総へ働きに行ったと見せかけて、密かに帝都へ戻ってきていた。狙いをつけていた商家があったのである。しかしそこの主人が虫のしらせか、用心深くなってしまい、これは駄目だと中止して、他で少し稼ぐことにした。
目をつけたのが、両国橋近くにある古道具屋。元は料亭だったそうで、黒漆喰の古い蔵が建っていた。『数鹿流堂』とかいう、名前だけは一人前に洒落たガラクタ屋敷である。昼間はがらんとしている時も多い。土蔵破りの目から見れば、どうぞお入りくださいと頼まれているのも同然だった。
忍び込んだのが、晴れた秋の午後である。
古い鍵は気休めに等しく、馴れた者の手にかかると一分とかからず開いてしまった。一歩踏み入れば、蔵の中の空気が思った以上に冷たい。何かぞくぞくして、肌寒いなと感じた。しかし季節も秋だからなと、気にしなかった。
同業から「行くだけ無駄だ」と聞いていた。開けてみればその通りで、蔵の中は価値も無い古い品物が大量に詰め込まれていた。持ち出せないほどの大きさだったり、どうしてこれを仕舞ってあるのかと呆れるガラクタしかない。文蔵は品定めしては、道理で真面目な鍵じゃないと舌打ちした。
期待はせず梯子段を上り二階へ上がれば、窓が僅かに開いていた。開けてしまえと窓を開く。昼の光りと川の風が、さっと流れ込んだ。
そこで文蔵は、白いものが視界の端に映ったのである。
「何だ!?」
つい大声を出して振り向くと、床の大長持に凭れて、灰色の太織に身を包んだ若い女が座っていた。
最初は、娘の活人形かと思った。
年の頃は十七、八。血の気の無い肌は青白く、華奢な身体つきをしていた。漆黒の長い髪を結い上げている。髪の根元に結われているのは、牡丹柄の紅い布だった。俯き気味の白い顔の中にある目が異様につり上がり、漆で塗り潰したような黒い瞳が、ついと動いて泥棒の姿を捉えた。
土蔵破りでご飯を頂いている身だから、それなりに色々な物を見て、修羅場も潜ってきている。でもこればかりは初めてお目にかかった。人間驚きすぎると声が出なくなるというが、文蔵は声が出た。ただし喉から発したそれは
「イ゛っ、イ゛イ゛ィーーーーーーーッ!?」
という、お産の女みたいな声だった。言うまでもなく、産気づいた経験どころか孕んだこともない。全身総毛立って尻餅をついてしまった。足だけが逃げようと空を掻いている。
「…………」
蔵にいた白い娘は指一本動かさず、静まっていた。
怯えたり、逃げる様子もない。煙となって消えないので、人間で間違いなさそうだと泥棒は真空状態の頭で考えた。気味の悪い娘は微動だにせず、危害は加えてこない。そうとわかると、それなりに冷静になってくる。
「……病人か?」
生唾を飲み込み、文蔵は話しかけてみた。
でも娘は無言を貫いている。常人離れしているというか、小娘らしからぬ冷たく気圧される感じがあった。何かしらの理由で、家族が病人を蔵などへ幽閉してしまうことは間々ある。コレもたぶん病人だろうと、文蔵は勝手に結論付けた。
「気の毒にな、白鯰のお嬢さん」
口角に笑いを貼り付かせる余裕も出てくる。うら若い娘だが、触れようという気にもならない。腰の太い女が好みという事情も、ないではなかった。
「悪いが、そうして大人しくしていてくんな。騒いだらコレだ」
懐から刃物を取り出し、切っ先を娘に向けた。古い懐剣である。ちなみに当人、口は威勢が良いけれど格好だけで、頼むから飛び掛ってきてくれるなと願っていた。
「その懐剣は」
ここでやっと、娘が声を発する。悲鳴ではなかった。
「え?」
文蔵は驚いた。随分と、きれいな声だったのである。本当に、この顔色の悪い娘から出た声かと疑うほどに澄んでいた。
「その懐剣は……わたくしの物です。それを持っていたから、ここへ来たのですね」
娘は静かに、変なことを言い出した。
意味はわからないが、声は幸せな少女のように曇りが無い。やっぱり頭の具合が悪い娘なのだなと、泥棒は目をぱちくりさせていた。
「道具屋で手に入れたのでしょう? 盗んだのやもしれませんが」
その言葉で、どきりとする。たしかに、とある道具屋で仕事をした際、片隅で埃を被っていたこの懐剣を見つけた。
「あんたの? こいつが?」
「家紋が」
思わず男が繰り返せば、黒い瞳が懐剣を見ている。
「ああ……俺も珍しいとは思ったんだ。何だい、お前さんのだったのか?」
文蔵は、引きつり気味の笑顔を浮かべた。
黒漆の鞘に金で装飾されているのは、『九曜に陰六角と割四石』という、これまで見たこともない紋。珍しいそれが目にとまり、何とはなく気に入って持ち歩いていた。
「へえ……そうかい。そうなると、ここで瞼と口を閉じてもらわなきゃならねぇな。こういう所からバレるんだ。隣が空き家だったのが不幸だったんだよ。悪く思うな」
抜けていた腰を立て直した文蔵は、懐剣を強く握りなおす。
この娘は、売った先の道具屋を知っているかもしれなかった。そこから足がついてしまう可能性がある。運が無いのは文蔵の方で、こんな下手をやったのは初めてだった。「他言しませんご勘弁を」と、相手が言ってくるのを期待していた。
それなのに、変な事態は重なる。
ズシン、と地鳴りみたいな音がした。
「な、何だ……? 地震か?」
蔵の気温が急に下がりはじめる。古道具が一斉に、キシキシかたかた鳴り始めた。こういう現象を昔から『家鳴り』といった。でも文蔵が親から教わったのは、夜中に家が軋むという話で、こんな昼間に出て来ないでほしい。
「何だ? オイ? ……誰か隠れてるのか? 何なんだよッ!?」
辺りを見回し男が慌てて騒ぐ間にも、がたがたと古道具の振動する音が騒がしくなった。古びた蔵の床や柱は動いておらず、どうも尋常ではない。泥棒が片手で頭を庇い、また腰を抜かしそうになった矢先だった。
「おやめ」
床に座っている白い娘が、誰かへ命じる。
娘の声へ応えるようにぴたりと音が止み、冗談みたいに土蔵は静かになった。
「あなたも、もうお帰りなさい。その懐剣は、わたくしに会いに来ただけです。持って行って構いません」
気が抜けた泥棒へ、娘は真っ黒な瞳で一瞥をくれて言う。口調は冷やか、且つ恬淡としていた。
小娘ごときにお帰りなさいと言われてしまうと、大の男として情けなくなってくる。それも丁重にお願いされるのではなく、命令だった。下男か中間かという扱いである。目下扱いされたのが、文蔵の気に触った。
「ああ、何だと!? 小娘が馬鹿にすんじゃねぇや! 何が何して何だってんだ! 言われてハイ左様でと手ぶらで帰れるかい!」
怒鳴っても、娘は意味がわからなかったのか反応しない。こういうのは勢いだけで言っているので、意味などない。言っている方も、何を言おうとしたんだっけと考えた。
「お金が欲しいのですか?」
数秒後、微妙にズレた回答が出てくる。浮世離れした娘を、泥棒は鼻息も荒くせせら笑った。
「欲しくねぇなんて抜かす奴がいたら、蹴っ殺してやれ! どうせまともな人間じゃねぇや!」
たまに買えないものもあるが、金で買えるものの方が多い世の中である。誰が決めたか知らないが、そういう決まりなのだから仕方ない。
「では……楽にお金を手に入れる方法を、教えてやりましょうか?」
「あん?」
長持に凭れた白い娘が、物静かに話しを持ちかけてくる。堂々としているというか、一向にへりくだる素振りが無かった。まず思ってもいない言動をされると、調子が多少狂う。
「うまい稼ぎの手立てでもあるのかい?」
もしやどこかに隠し金庫でもあるのかと、聞いてみた。
「この古道具屋の品物は、盗らずに出るのですよ。わたくしも、あなたが来たことは他言しないでやりましょう」
首から下が動かせないらしい人形娘は、表情も変えず高々と答えた。ここまで来ると泥棒も苦笑いしてしまう。膝を折り、視線を合わせて相手の顔を覗いた。
「よしよし、まずは聞いてやろうじゃねぇか。土蔵破の腕にかけて、一っ働きしてやってもいいぜ?」
「もっと簡単です。蔵を破る必要はありません。あなたは、『名前』を名乗れば良いだけ」
娘は異様に眦のつり上がった目で、文蔵を見つめてくる。あんまり珍しい種類の娘だったから、土蔵破りは黙ってしまった。白粉をべとべと塗って男とじゃれている女とは、だいぶ違う。
「隣の空き家に潜んでいると言いましたね。そこから、外の様子を伺っていなさい。この古道具屋には、若い書生が三人下宿しています。その中に、銀縁の眼鏡をかけている人がいます。金茶色の髪をしていて、背が高いのです。大体いつも黒の紬を着て、堂島下駄を履いています」
大長持に凭れた娘は、細く白い喉でゆっくりと言う。
「近々、ここへ帰ってくるでしょう。目立ちますから、すぐわかるはずです。その人を捕まえて、『自分は狭霧だ』と名乗りなさい」
「狭霧?」
奇妙な指図に、泥棒は毬栗の頭を傾げた。
「それ以上は、何も言わないことです。後は融通して欲しいと言えば、お金を出すでしょう」
娘は清しい口調で語る。文蔵も当然すぐ返事はせずに考える。
「ははあ……さてはアンタ……その書生とやらに、何ぞ恨みがあるのかね?」
やがて太い眉を片方上げた泥棒は、青白い人形娘へ鎌をかけてみた。
「その男に騙されて、ここへ閉じ込められたのか? 借財のカタに、身請けでもされたか? てぇことは、御大尽の息子か何かだな? それが不運の病で、蔵へ放り込まれて……とか、そんなとこだろ? 違うか?」
娘の提案と現在の状況から、文蔵はそこまで探ってみたのだ。
「仔細を明かすのはやめましょう」
曖昧な言い方ではあったが、娘は否定はしなかったのである。
蔵で身動きも取れない若い娘が、忍び込んできた泥棒に変な企てを持ち掛けた。言動は冷静で、それでいて恐れるものなど無いといった態度。余程これは男に惨く扱われ弄ばれたか、口にも出せないほど辱められて恨んでいるのだと泥棒は思った。
「悪い奴がいたもんだ! よっし、まぁいいぜ!」
空元気で、強く手を打った。
「ここまで聞いちまったら、引けねぇや。こう見えて、世直しだ自由民権だと騒いだ時期もあったんだ。盗賊を使って意趣返したぁ、いい根性だ。乗ってやらぁ!」
宣言した文蔵は、踏ん反り返る。下卑た輩の自覚はあるにせよ、そこらの下衆と一緒にされたくない意地もあった。でも後で思えば、娘に呑まれていたかもしれない。それか、芝居の見過ぎだった。
「壮士だったのですか?」
ようやく文蔵の人となりに関心を示し、娘が尋ねる。
「遊んでおまんま食いたかっただけだよ」
泥棒男は懐剣を仕舞って、そう答えた。
文蔵は、伊豆の生まれである。
彫刻師の家の子に生まれた。職人仕事の無い時は百姓をする暮らし。手先は器用だったので、職人をしていれば良かった。これが、仁王様の如き体つきに育ってしまう。力自慢で自信があった。学は無いのに目端だけ利くから、従順に暮らしていられない。帝都へ出てしまったのが、運の尽きだった。
酒問屋の手伝い、船の荷運び、料理屋の下働き、糞尿の下掃除まで、奉公巡りはしてきたから苦労は知っている。大店の手代や丁稚など、なれるはずがなかった。雇う側は奉公人のことを詳しく知らないため粗雑に扱うし、雇われる方も親しみなんぞ特にないため、簡単につけあがって文句を言う。お互い油断も隙も無い。
せっかく入った雑誌社でも、偉そうな先生と大喧嘩になり、ぶん殴って首になった。長屋暮らしで家財は無いし、持っているのは無駄に頑丈な身体一つ。汗水流し骨を折ったところで、景気は悪いし面白くもない。
くさくさしていた矢先、自由民権なる存在を知った。
これだ、と勇んで運動に入った。しかし『政治』や『権利』の意味は知らなかった。派手な暮らしをして調子の良い奴がいるようだと、甘い話しが小耳に入る。関われば美味いものを食えるのではと、そんな地点から始まった壮士の活動だった。
掃き溜め同然の木賃宿で、狭かろうが非衛生だろうが似た者同士である。好きなだけ富と名声を夢見て、居心地よく楽しいから、それだけが嬉しかった。剣舞で騒ぎ、茶碗酒を飲み、わかった風なことを口走れば何者かになれた気がした。新政府のあれが駄目だ、殿様連中はここが足りないと言い合う日々。
だが文蔵は次第に、夢中になっている演説も政治活動も、虚しくなってきた。
無力で無責任だからこそ、騒ぎ立てていられる。一旦そう見えてしまったら、力みきることも出来ず崩れてしまった。周囲が「普通の方法じゃ足りない」、「暗殺だ」、「爆裂弾だ」と殺気立つのを見ていたら、ますます嫌になった。頭の悪い向こう見ずなりに、恥をかきたくないという思いが残った。
仲間と別れるも、堅気には戻れず故郷にも帰れず、土蔵破りで暮らしてきた。
お粗末な仕事にせよ、警察探偵に名前が知れてくると、いっそ箔が付いた気になってくる。鬱憤を晴らしたい。高級に先覚ぶって、威張っている奴らに一泡吹かせてやりたい願望があった。そういう野心を、蔵で隠れていた娘に、まんまと利用されたのだ。
もっとも、まさかあれほど上手くいくとは、文蔵とて策を実行する瞬間まで思っていなかった。あの娘の言ったとおりにしたら、大金入りの財布がすんなり手に入ってしまったので驚いた。
調べてみると、標的にした眼鏡書生は駿河台の屋敷に住む、華族のお坊ちゃんとわかった。かなりの放蕩息子である。相内家といえば、軍と繋がりのある政財界の影の大物だった。これは良い金蔓を掴んだと、文蔵は喜んだ。自覚していたより、欲の皮がピンピンに張っていたのだろう。
一つだけ、気になる異変もあった。牛島神社の道端で、『狭霧』と呼ばれている少年を見かけたのである。出来心で懐剣を見せたら、相手は卒倒してしまった。少年はあの娘と、どことなく似ていた気もするが知ったことではない。とっとと逃げた。
特定の名を名乗るだけで、金が出てくる。棚から牡丹餅が落ちてくるなら、遠慮してないで食べなければと思った。俺にもとうとう運が向いてきたと、涎が止まらない。
たちまち金を使い果たすと、今まで隠れ暮らしていたのも忘れて文蔵は駿河台まで赴き、華族屋敷の門の前に立った。
「俺は、『狭霧』というんだがねぇ」
勿体つけて、偉そうにどすを利かせた。しかし二人の門番達は、怪訝そうにしているだけだった。門番では話しにならないと、どっかり座り込み、家令や番頭たちを呼んで来いと言いつけた。
役者が揃ったところで、再び『狭霧』の名を出す。まだ動かないから、懐剣も出して見せた。先と同じ手段で「金を出してもらおうか」と切り出す。門番や屋敷の者達が、顔を見合わせた。
ようやく急いで金を運んでくると思った。
それがどうして
「強盗だ!」
連中は飛び掛り、文蔵を地面に組み敷いてしまったのである。五人力が自慢の大男も、座っていた上に数で圧し掛かられては手も足も出ない。門番に手強い若造がいたのが、特にまずかった。
『狭霧』という名前が通用する相手は、蔵の娘が教えた書生一人だけだったのだ。捕まってからわかった。
「……やい、文蔵! どこ見てやがる!」
猿屋警察署の一室で記憶を手繰っていた泥棒を、小太りの探偵が叱りつける。
駿河台で捕まった文蔵は、ここへ送り込まれていた。相方になったのがガチャガチャうるさい中年男で、名前は小林とか弥助とかいうようだが、もうそこはどうでも良い。
椅子に座った文蔵は、横の壁へ目を向けて尋ねた。
「旦那。さっき隣にいた若ぇのは、やけにメソメソしてやがりましたが……何があったんですかい?」
耳が良いのと壁が薄いのとで、聞こえたのである。
「あ? ああ……姉さんと、生き別れたんだとよ」
「へえ? 生き別れにしても、大した嘆きようでござんしたね?」
隣室で泣いていたのは、少年の声だった。大男が言うと、弥助は渋い顔になる。
「詳しい事情はわからねぇが……つい最近まで、殆ど記憶を無くしていたそうだ。今もまだ、頭が混乱しているようでな。名前もハッキリしねぇ。でも急に自分に姉がいたのを思い出して、置きっぱなしにしたお社へ戻った。だが姉さんは、どこにもいなかったんだとよ。半年近くも前じゃ、仕方ねぇや」
短い腕を組んで、探偵は黒光りする机の上を見つめていた。
「半年? じゃあ置き去りにされた姉さんとやらは、死んじまったんで?」
「それらしい死体は見つかってねぇ。しかし姉と弟の二人旅。木賃宿を渡り歩いて、頼れる先も無い身の上だったようでな」
聞き上手の文蔵が促すと、弥助は易々と乗る。口と頭の軽い探偵さんらしいと思いつつ、土蔵破りは眉間を狭めて頷いていた。
「それにしたって、男のクセにあんなだらしないのはいただけねぇやなぁ」
「へい、仰るとおりで」
「色が白くて、お内裏様みてぇだったが」
「ハァ~、それはそれは」
「あいつ、どっかで見た気がするんだよなぁ~……?」
「旦那がですかい?」
後ろで手を縛られた泥棒の前で、小太り探偵はうんうんと唸り、両手で頭を抱えている。
「……文蔵、何か知ってるのか?」
「あっしが? 何を?」
ひょっと顔を上げた弥助は相手を睨んだが、文蔵は鼻の穴を広げただけだった。
「お前、『狭霧』と名乗っていたそうじゃねぇか。あの坊ちゃんの名前も、『狭霧』というんだよ」
弥助の言う通り、先ほど隣室の少年が『狭霧』と名乗っているのが聞こえた。声に覚えもある。ああ、牛島神社のアイツかと、泥棒は聞いていたのだった。でも、おくびにも出さず驚いてみせる。
「そいつは奇遇でござんすね」
「奇遇にしちゃ、出来過ぎてねぇか?」
「旦那……あっしもこれで、盗賊でして」
「盗賊だから捕まってンだろうが」
「へえ、それで恥ずかしながら……実は、あの時」
面と面を突き合わせ、捕まった者と捕まえた者とが、声を潜めて睨み合う。
「『月も団子に叢雲の、狭霧と霞む秋の空』と、当て込んでみたつもりだったですが……どうです?」
「どうもくそもねぇよ! 何だそりゃ!? ひでえ出来だな! あきらめて、落ちた牢屋で厄落としでもしてこい!」
ニヤニヤしている文蔵に、弥助は怒鳴って机を叩いた。
歌舞伎で人気の美貌の盗賊、『お嬢吉三』を気取るには、むさ苦しさが過ぎている。腕の太い大男は、小さく肩を竦めた。
誰も怪我をせず、両国の古道具屋も荒らされず、帝都を騒がせていた土蔵破は捕縛された。文蔵も五年やそこらは、外へ出られないだろう。
さっき並べて見せられた罪状の中に、件の古道具屋は入っていなかった。
娘は他の者に、文蔵が忍び込んだことを言わなかったのだろう。盗まない保証は無かったのに、信用されたものだと感心した。自分は蔵の娘に騙されたと、ここで打ち明けても良い。
でもそれでは、あの娘の信用を裏切ってしまう。
他人に教えてしまうのも、少し惜しいように思えた。
終わった時代のお姫様の、幽霊か幻かと思わせる娘。
何もかも理詰めで開明される文明の世に、一つくらい種明かしをしないまま残しておきたかった。
「あのお嬢さんに、一杯食わされたかねぇ……?」
名前を聞かなかったなと、文蔵は囁く。
古びた黒漆喰の蔵の二階に、人形みたいな娘は今も座っているだろうかと泥棒は一人考えていた。




