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鳴くや関路の夕烏

 隅田川に掛かる両国橋と厩橋の中間あたりには猿屋町というのがあって、警察署もあった。


「この近所だった気がするんです」

 机を挟んで向き合う巡査の前で、狭霧は話し始めた。

 牛島神社付近で突然昏倒した少年が回復し、動けるようになって二日後である。


 ここまで連れて来た久孝老人は、心配そうな目をして沈黙を守っていた。聞き役たる髭の巡査も、顰面で腕を組んでいる。さっきまで壁一枚隔てた隣室で探偵と泥棒だか強盗だかが、わあわあやっていた。それも静かになっている。


「この辺りは、寺も多いからのう……」

 やっと黄昏らしく落ち着いた警察署内で、厳しい髭の巡査が重い口を開いた。感情と表情が溢れてしまう人は、髭の隙間から溜息を洩らす。


 先日、狭霧は思わぬ切欠で記憶を取り戻した。


 これまで信じ込んでいた、叔父の屋敷で世話になっていたという記憶も、医学校へ行くという話しも事実ではなかった。本当は住む家も無く、浮浪の生活をしていたのである。

 そして狭霧には、『姉』がいた。


 猿屋町を北へ行くと寺が多く、広大な墓地もある。半年前まで少年は姉と二人、その近辺を行き来して暮らしていた。大小様々の稲荷社の他、小さな池や空き地も散在している場所は人目を憚り身を隠すには悪くない。しかし雨露を凌ぐには心細かった。

 そんな場所へ、少年は姉を置いてきてしまったのである。時期は春の初めだった。


 狭霧は事故に遭い一切合切を忘れ、下谷の車夫の夫婦の庇護下でせっせと暮らしていた。帝都の季節は、すでに秋となっている。


「そちの名前は、『諏訪すわ狭霧』というのだな?」

「はい、そうです」

 巡査の質問に、貧しい車夫の身形の少年は礼儀正しく答える。

 名前と現住所、拾われた場所や状況は説明していた。『記憶喪失』で届け出ていたのもあり、親切な巡査は人を使い、書類も調べてくれた。


「残念だが……『諏訪』という名の捜索願は出ておらん。その年頃の娘で行方不明という者も、調べた限りは見当たらんな」

 髭の巡査は結論を述べる。車夫にしては華奢な少年の顔は青白く、表情も虚ろだった。


「他に思い出せることはないか? 姉は、何かの病を患っていたのだな? 名前は思い出せんのか?」

「……はい」

 机に手を置き尋ねた巡査へ、狭霧は頭を垂れて答えた。

「そこがわかれば、少しは違うのだろうが」

 髭の先を片手で捻り上げ、巡査は天井を見やる。狭霧は自分に『姉』がいたことは思い出したが、顔と名前は思い出せないままだった。


「申し訳ありません……」

「ああ、やむを得ん、気を落とすな! こうして弟が無事だったのだ。姉さんの方も、捜しているやもしれん。きっとどこかで、息災にしておる! な、元気を出せ、泣くな泣くな!」

 巡査は少年の肩を叩く。口喧しく品はなかったが、威張っているなりに年少者を励まそうとしている。この巡査は、こういう気質の人物らしかった。


 手掛かりは増えないままに、用事を済ませた二人は警察署を出る。

 朱鷺色の空に緑の雲が橙色の斑模様を作り、空は全体が薄い青色で覆われていた。帝都の夕景には家路を急ぐ人、居酒屋へ向かう労働者。メンコ遊びに興じる子供たち、夕河岸へ向かう商人、荷車や人力車も交差している。


「すみません、おじさん……。こんな所まで、足を運んで頂いて」

 狭霧は同行してくれた久孝に、頭を下げる。


「何の、大したことじゃない。今日のところは、これで帰ろう。お梅にちょいと、土産でも買って帰ってやろうじゃないか。狭霧は、何がいいと思うかね?」

 老車夫は日焼けした丸顔で笑った。意識的に明るい口調で、別の話題を持ちかける。


 その二人の背後へ、人影が差した。


「おい」

 荒っぽい声がかけられる。二人が振り向くと、知らない青年が立っていた。


 銀縁眼鏡に、琥珀色の髪。狭霧より、おそらく三つは年上だろう。

 肌は地黒で長身痩躯。見た感じ書生と思われる身形だった。眼鏡の奥の目つきは非常に悪いが、着ている物は悪くない。声をかけてきた青年は左襟から覗く鎖骨と首筋にかけて、菊の花と似た大きな青痣があった。


「え?」

「は、あの……何か、ご用で?」

 下等車夫達は、今日は人力車を牽いていない。変なのに絡まれたかと身構えた。いざとなったら警察署へ飛び込もうという心積もりで、相手の出方を伺う。


「お前……『狭霧』っていうのか? それが名前か?」

 何か差し迫った眼差しで、眼鏡の若者は話しかけてきた。金茶色の髪の先が、斜陽で金属みたいに光っている。するとその背後から、別の青年が二人顔を出した。小柄なのと、大柄なのと。


「あ!」

「うわ……ッ」

 揃って声を上げる。どの目玉も、狭霧に釘付けになっていた。


 突然現れた三人を前に狭霧は動けなくなる。混乱と、凍りつきそうな恐怖が全身を覆っていた。何が怖いのかも判然としない。しかし緊張で圧迫された身体は、もう少しで再び意識が飛びそうだった。


「へ、へい! この若いのは、名を『狭霧』と申します……!」

 少年に代わり、横にいた老車夫の久孝が答える。この声で、狭霧は地面に足の着いた感覚が戻った。

「もしや、これをご存知なのでございますか!? お頼み申します、些細なことでも構いません! ご存知でしたら、教えてはいただけませんでしょうか!? 一体どちら様で!?」

 両膝に手を当て頼み込む老人の姿に、書生達は顔を見合わせている。


 三人は同じ年頃という他に、服装から雰囲気まで共通項が見当たらなかった。小奇麗なのもいれば、着古した木綿を着ているのもいるし、行儀が良さそうなのから、先の通り柄の悪そうなのもいる。通行人が不審そうに一同を眺め、通り過ぎて行った。


「ええと、僕らは……両国にある『数鹿流堂』という古道具屋で、下宿をしていた者です。今日はちょっと野暮用で、知り合いのいる、この警察署へ来たところでして」

 後から出てきた小柄な書生が説明する。


「ここに捕まっている強盗が、うちの下宿に入った土蔵破りと同じなのではないかと……顔を確かめに来たんですよ」

「はあ……隣の部屋で派手に騒いでいた、あれでしょうか? どこかのお屋敷に、押し込もうとしたとか」

「まぁ、そうですね。あの男が、『狭霧』と名乗っていたと聞いたんです」

「え?」

 円らな目を丸くした老人を見て、癖毛頭の痩せ書生はやや困った風に笑っている。


「君が……狭霧なのか?」

 最も図体の大きなのが、のっそり前へ出てきて尋ねた。厳つい体格に似合わず、穏やかで優しげな目をしている。


「は、遅くなりましたが手前は下谷の車夫で、落口と申します。こちらが諏訪狭霧と申しまして、何の因果か難渋して、今もまだ記憶をあちこち無くしております」

 書生達へ、久孝老人が話し始めた。


「何だって……?」

「君、記憶が無いのかい?」

「……諏訪?」

 老車夫の話しに、書生達からは驚いたり戸惑ったり訝ったり、三者三様の反応があった。


「へい、話しの初めが半年ほど前。この者が八丁堀の辺りで運悪く事故に遭い、行き倒れておりました。強盗に襲われ、金も荷物も奪われて、死ぬ間際のていだったんでございます。しかしこれも何かの縁と、手前の長屋で共に暮らして飯を食い、今も警察の巡査方にご厄介になって参りました。身元の手掛かりは無いかと、調べていたところでして」


 震えている狭霧の肩に手を添え、禿げた額に汗を滲ませた久孝は物語る。人々に観察される少年は、怖いのと気味悪さとで逃げ出したい。その衝動と吐き気は、何とか堪えていた。


「それは……大変でしたね」

「今日は、どうしてここへ?」

 短い黒髪の青年と、痩せた貧書生とが尋ねる。彼らの顔から最初の驚きは消えていた。


「姉が……姉がいたことを、思い出したものですから」

 狭霧は何も話したくない。話したくないのだが、口が話し始めていた。


「別れたのが……冬の頃です。おそらく、この辺りだった。姉と一緒に、日光街道を上ってきたように思うんです。でも、名前も顔も思い出せない。姉は何か、病があったと思います。身体がいつも震えている人でした。だけど、あれは伝染するような悪い病気じゃなかったと……」

 狭霧の声の最後は、もう殆ど消えかけていた。


「書生さん方、何か狭霧これの預かり先など、ご存知でしょうか?」

 再び老車夫が、三人を見回して尋ねる。それまで黙っていた銀縁眼鏡の青年が、口を開いた。


「……そいつの事情は知らねぇが、『姉』ってのは知ってるかもしれねぇ」

 横柄な態度の金茶頭は、狭霧を見ようともしないで答える。


「ほ、本当でございますか!? 今その方はどこに!?」

「こっちが聞きてぇよッ」

 顔面に期待を浮かべた老人へ、青年が苛々した口調で言い返した。不機嫌な人を隣に見て、図体の大きいのが躊躇いがちに話しを引継ぐ。


「確かなことは言えません。あの人は、身の上について殆ど明かしませんでしたから。でも、弟の名前は『狭霧』だと言っていました。身体の震えだとか、今の話しを聞いた限り……うちの下宿にいた女中は、君の姉さんだったんじゃないかと……」


 表情も硬く、慎重に言葉を選んで、小奇麗な身形の青年書生はそう言った。

 身の上もろくに明かさない娘を、彼らは女中として雇っていたという。変わった人達だなと、狭霧は心も遠く考えていた。


「その方の、お名前は?」

 老車夫が身を乗り出せば、銀縁眼鏡が答える。


「『雪』。そうだったよな?」

「え? ああ……」

「うん……」

 確かめるように言われ、友人二名も頷いていた。これでやっと狭霧の姉が、『雪』と名乗っていたと判明する。


「どうだ狭霧。わかるか? 何か思い出せそうか?」

「雪……? そう、だったかな……?」

 久孝に促されても狭霧は反応薄く、黒い前髪を片手で弄っていた。


「あ、あのう……そ、それだけでございますか? 他に何か、女中奉公の世話をした、受宿などは?」

 背中の曲がった人は、書生三人への質問をやめない。狭霧は銀縁眼鏡が不機嫌丸出しの面をしていて、怒り出すのではと肝が冷えたのだけれど、彼は意外と怒らなかった。

「無い。道で拾ったようなもんだったからな」

 金茶頭は他所を向き、興味なさそうに言い放つ。


「道で……? はあ、そうでしたか……。あちらも、そういう境涯になっていたということでしょうな」

 少々変人らしい若者の言で久孝が頷き、狭霧も黙り込む。弟が車夫夫婦に道端で拾われたように、姉もこの青年達に拾われたのだ。

 そこで狭霧は、あることに気付いて顔を上げる。


「あの……どうして今、僕に声をかけたんですか? この前の人と、知り合いですか?」

 先程、いきなり声をかけてきた背の高い青年へ、色の白い少年は掠れる喉を開いて質問した。

「この前?」

 聞かれた人は琥珀に光る髪の下、眼鏡の上の眉を寄せている。


「牛島神社のところで、僕に声をかけてきた男です。大柄で、坊主頭で、派手な棒縞の着物を着ていた……僕の、母の形見の懐剣を持っていた、あの人です! あの人も、さっきのあなたと同じでした。『お前は狭霧か』と、話しかけてきたんです。懐剣を見て、それで僕は姉を思い出して……!」


 うまく話せない口で、狭霧は必死に説明した。あの時も知らない人に、狭霧は名前を確かめられたのである。今の状況と何故か似ていた。

 眼鏡の人は、考え込む顔で話しに耳を傾けている。そのうち


「あー……そういうことか」

 薄い青の残る夕空を仰ぎ、一人で納得し始めた。右手で琥珀色の髪を掻き毟っている。

「騙された」

 荒んだ目で、地面へ向けて吐き捨てる。言葉は車夫達ではなく、隣にいる友人二人へ向けられたものだった。


「な、何のことだ?」

「俺のいない間に、土蔵破りが入っただろ? あれとこれとそれが、同一人物だ」

 銀縁眼鏡にそう言われても、大きいのは何だかわからないという表情をしていたが、小柄な文学青年風の方が閃いた顔になる。


「あっ、そうか! あれが服部文蔵だったのか! 証言自体が嘘ってことか!?」

「へ……? 何が? どうしたって?」

「ほら、古道具屋うちの蔵に入った例の土蔵破りだ! 彼女の目撃証言と、今見た犯人の実物と、特徴が何一つ合わなかっただろう? 左手の指が一本無い……僕らに、わざとわかりやすい嘘の『目印』を言ったんだ!」

 三人の書生たちは、傍らに人無きが如しといった騒ぎで喋っていた。


「ええ!? 何だってそんなことしたんだ!?」

「知らねぇが。土蔵破りは俺が道端で会ったときと、駿河台の屋敷と、こいつの前とで、同じことしてやがる。そういう風に言えと、あいつに吹き込まれたんだろ」

「ああ……妙な感じはしたんだよなぁ。泥棒の顔は見えなかったと言いながら、指の本数は見ている。『何も盗らず逃げた』と言い切る。盗まず逃げたか、蔵の中じゃ見えなかったはずなのに」

 狭霧の話しで、彼ら三人の方は何かが繋がったようである。


「しかしそれが元で、文蔵は最終的にお縄になったのか」

「何がお縄だ! どのツラ下げて、見かけたのかだの、俺に屋敷へ戻れだの!」

「君なら確実に捕まえられると踏んで、向こうから近付くように仕向けたんだろ?」

「どうだかなッ! ただの意趣返しじゃねぇのか!?」

 紺絣の貧書生に指摘され、銀縁眼鏡は地団駄踏んでいた。

 事情が見えない狭霧と久孝老人は、置き去りにされてしまう。怒っていた眼鏡の青年も、やがて観客の存在を思い出してくれた。


「牛島神社のその男は、俺たちと関係ねぇ。今はそこの警察署にぶち込まれてるよ」

 低い声で質問の答えに戻り、猿屋警察署を指差した。


 捕まった強盗が『狭霧』と名乗っていたと知った彼らは、今日ここへ来たという。前後の文脈からして、狭霧が牛島神社の近くで会った陽気な大男は、土蔵破りで強盗で犯罪者だった。愕然としている車夫の少年へ、金茶頭の人が視線を向ける。


「それと……お前の姉貴は、もう下宿にいねぇ。また勝手にどっかへ行っちまった。探すだけ無駄だと思うぜ」

 野良猫を一匹見かけなくなったというような、ひどく突き放した口ぶりで言った。


「え!? そんな……」

 狭霧の姉、『雪』は、既に奉公先を出てしまっていた。弟は膝から力が抜け、その場にへたへたと座り込んでしまう。

 せめて、姉に謝りたいと思っていた。それすらも叶わないというのだ。


「な、何ぞ、行き先の心当たりだけでも、ございませんか? 生国か、親戚の所か何かでしょうか?」

 老車夫が狭霧を支え、書生三人へ問う。少しの沈黙があった後。


「川の向こうじゃねぇのか。大事な約束があったらしい」

 烏が飛んでいく空を見上げ、呟いたその時だけ、青年の眼鏡の奥で僅かに水色が揺れていた。

「約束……?」

「ああ。全部放り出して、いなくなりやがった」

 眼鏡の人はそう言ったきり、口を固く閉じてしまう。


 狭霧の姉は拾われた古道具屋で、女中として奉公していた。しかし誰かとの約束があって、世話になっていた彼らにも告げず、何処かへ行ってしまったという。そんな話しは簡単に信じられない。

 重大で核心的な部分が、狭霧の目に映らないよう隠されている気がした。だが書生達の言葉と表情には深刻な真があって、狭霧を騙す必要も無い。おそらく真実なのだろうけれど、この手応えの無さはどういうことか。


 川というからには隅田川か、利根川か、多摩川か……と、のろのろ考え始めた少年の前で、厳つい青年が身を屈めた。


「お雪さんは無口で……でも、よく働く人だったよ。うまく飯も作るし、庭の掃除から針仕事までする。オレの些細な相談事も聞いてくれた。だが、自分の身の上や過去については話さなかった。言いにくかったんだろう。それとも……ボンクラは頼りにならないと、呆れられていたかな?」

 図体の大きな人は弱り気に、小さく笑う。ボンクラの目の端は少し滲んでいた。


「姉上が……」

 無意識で狭霧は呟く。

 一緒にいた頃、ひたすら世の中を避けていた姉が、人と親しく関わっていた。


「すまない……。期待させただけで、役に立てなかった。申し訳ない……力に、なれなくて」

 狭霧に向かい、身形も良い青年は詫びる。謝られた車夫の少年は項垂れ、力なく頭を横に振った。


「いいえ……姉を忘れていたのは、僕ですから。僕が置いていってしまったんだ。僕が悪いんです」

 姉の存在を丸ごと忘れ、今まで暮らしていた自分が、彼らに何を言えたものだろう。

 狭霧は唇を噛み締めた。自分がもう少し早く思い出していれば、再会する機会もあったかもしれない。後悔と慙愧が、喉を突き刺した。

「お前は悪くもないだろ」

 他所を向いている金茶髪の青年の、小さな声が聞こえた。


「うーん……しかし思っていた以上に、似ていないなぁ?」

 と、そこで痩せた小柄な書生が言って、狭霧の前へしゃがみ込んだ。


「え……? 僕が? ……姉と、ですか?」

「いいや、僕と君とが、どうしたって似ていないって話しだよ」

 面食らっている狭霧の顔を眺めて、文学青年風の彼はしきりに小首を傾げていた。


「君の姉さんは、弟の君と、この僕とを、似ていると思っていたようでねぇ」

 困惑している少年へ、小柄な書生はお互いの顔を交互に指差し、明るい口調に乗せて笑う。

 赤の他人なので、似ていないに決まっていた。だが、姉の目に両者は似ていると映っていたようだった。しばらくして「ふむ」と息をつき、狭霧と似ていると評された人は雑踏へ視線を投げる。


「似ているとするなら……たぶん、あれは君に言いたかったんだろうなぁ」

 そうして、一つずつ思い出すように話し出した。


「僕が、父を亡くした時にね。言われたんだよ、君の姉さんから。『貴方様は、お一人でよくなさいました。この一事だけは、お疑いにならないで頂きたいのです』、とね」

 狭霧が顔も思い出せない姉の言葉が、他人の口を通ってここへ届く。


「君もこれまで、色々と背負ってやってきたようじゃないか。きっと姉さんは、みんな承知していたよ。ごめんな。他には荷物も何も残っていないものだから……。せめてこれだけ、伝えさせてほしいんだよ」

 片手で癖毛を掻いた青年は、そう言って微笑んだ。


「それから僕に、こうも言ってくれた。『お優しいご子息でございますとも。これまでも、今も』……。あれも本音は、君に言いたかったのだと思うよ」

 陽気な声と笑みは、感情の揺らぎを誤魔化してもいただろう。


 寡黙に働き続けた娘は、離れた場所にいる弟を「優しい」と言っていた。それ以上は何も語らず、一人で川の向こうへ行ってしまった。


 狭霧の心と頭は、麻痺してしまったように静まっていた。埃っぽい帝都の夕映えが黄金色に一際輝いて、遠くから烏の鳴く声が聞こえる。

 表情を失っていた少年の頬に、ぽろりと涙が伝っていた。

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