よしあしびきの 2
ひやりとした何かが、頬に触れた。
粉々になっていた意識が五感に導かれて集まり、柾樹の身体の中で一つに結ばれていく。微かな音を耳が捕まえ、土と草と、埃っぽい木の匂いが嗅覚を刺激した。ついでに肉体の重さが、ずっしりと肺に圧し掛かる。
寝心地が悪いから、自分はよほど変な場所で寝ているなと、柾樹は寝たまま考えた。
考え事に頭を働かせるのさえ、煩わしい。
骨が軋み、特に背中の痛み酷かった。息を吸い込もうとするだけでも、肋骨の周辺を鋭い痛みが刺す。ここがどこなのかの確認も身動きも出来ず、唸りながら転がっているしかなかった。
呻いていると、水中みたいに渦巻き濁っていた周りの音が、精錬されていく。ここには時間があるとわかった。日常のざわめきと街の騒音が、塵芥と一緒に空から降ってくる。
「大変だ、大変だ!」
「何事だね?」
「竜巻でもあったのかい」
音は男や女の声となり意味を持ち、ざわざわと騒ぎながら近付いてきた。
これはいつもの両国の古道具屋だと確信する。でも相変わらず、頭は働くのを拒否していた。柾樹は手足を伸ばし、寝たふりをしている。
まだ目を開けたくなかった。夢の片鱗を、揺蕩っていたい。巨大な月が狂い咲く、美しい黄金の夜の夢だった。
ここで起きてしまえば夢は消え失せ、見たくないものを見なければならない。そのことを意識よりも、身体感覚で先に知っていた。所詮は無駄な抵抗とわかっている。しかし目覚めてしまったら、それで確定してしまうのだ。
惨めで間抜けな役回りは、引き受けたくなかった。俺に押し付けたのは誰だと考えると、閉じたままの瞼の裏へ、ぼやける白い面影が染みとなって浮かんだ。
ばかやろうという苦い言葉は痺れた舌の上をすり抜け、声にはならなかった。
「おい、人が寝ているぞ!」
「何だってこんなところに」
「建物の下敷きじゃないのかい?」
「生きてるのか」
近所の人々であろう、慌てふためく声は数を増して寄ってきた。
生憎と、生きている。
証拠として、こんなに身体が痛かった。
柾樹は唸っているうちに、もしや痛いのは背中ではなく、肋骨の内側に収まった心臓ではないかという気がしてくる。
それはまずいなと条件反射的に思考して、自分に呆れた。落胆に近かったかもしれない。
黄金の夢の中にいたときの柾樹は、鬼になるのも構わなかった。
肉体も生命も、多少の誤差はあれどいつかは滅びる。人間はいつかは死ぬ。そう考え、自分を使い果たすならこの瞬間と信じ、我が身などどうでも良いはずだった。捧げ尽くすという行為の荘厳さに触れた瞬間には、得体の知れない恍惚感すらあった。
だがどうやら、実はそうでもなかったらしいと自覚させられて驚いているのである。
苦痛に直面した肉体は、自らの維持と継続のために全方位へ一気に働き始めて、既に柾樹の自由にさせてくれない。自由意思は液体のように、平然とその有り様を変えてしまっていた。
これでは『破局の入った箱の番人』は務まらない。離さないはずだった手も、掴んでいられなかった。
それじゃ、やっぱり今回もあいつが正しかったんじゃないか、と思う。
「怪我ぁしてるのかい?」
「血は無さそうだがね」
「オヤ、首の辺りにひどい痣があるじゃねぇか」
騒がしくなってきた人の声は、ますます近くで聞こえた。柾樹を取り囲んで、話し合っているようである。
「おおい、兄ちゃん、無事かい?」
誰か一人が、怖々と声を掛けてきた。
呼ばれた柾樹は、尚も反応を渋った。でもとうとう、溜息と一緒に重い瞼をゆっくり開く。ぼやけてよく見えなかった視界に、人々の持つランプの眩しい光が射し込み、色と形が明確に分かれて物の形を成していった。
まずそれと認識出来たのは、硯よりも滑らかに黒光りする天穹。そして真珠みたいな白い月が、ぽつんと小さく輝いているのを見つけた。
それも束の間で、夜空と眼球の間に上や横からたくさんの顔が割り込んでくる。
どいつもこいつも下世話な好奇心と多少の心配と、砂埃と日常の垢にまみれていた。汚い面で、つくりも至極ありふれている。特別な価値はどこにも無さそうな、他にいくらでもかけがえのありそうな連中だった。
「無事じゃねぇよ」
まだ痺れの残る手で自分の顔を拭った青年は、不機嫌に掠れた声で、遥か遠くの月へ訴える。
柾樹の世界の軸は、もう完全に傾きを変えてしまっていた。
落ち続ける巨大な穴へ、投げ出されたみたいな気分になる。これから一体どうしたら良いのだろうと、ぼんやり考えた気がする。
だがそこまでで、意識は再び閉じてしまった。




