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よしあしびきの 1

 風音と似た遠吠えが闇に響く。

 景色は塗り替えられ、空の中央には巨大な月が咲いていた。月下には野の草花がやさしく揺れて、淡い金粉と花弁の舞い散る黄金の梅林が果てしなく続く。


 全身に紫色の稲妻を絡ませた柾樹が雄叫びを上げ、裸足で飛ぶように駆け出した。


「柾樹さま、待って……!」

 雪輪も外へ走り出たが届かなかった。


「『止まれ』!!」

 叫んだ言葉と伸ばした手を振り解き、銀色の銃口が黄金の月を指す。紫銀の稲妻が煌き、炸裂音が空を破った。

 分厚い硝子を微塵に砕いたような轟音が、夜の彼方を埋め尽くし落ちてくる。


 柾樹に追いついた雪輪は、触れた感触のない風が吹き渡る異界の平原の中で来臨したものを見上げた。星は無く、何もかもが古の闇に沈没している。


「無名様……」

 白金の巨大な月の前に、大きな影が浮かんでいた。逆光で輪郭はぼやけ、影は所々皹が入っている。鬱金色の細かな光りが噴出し、粉々になって飛んでいった。


《これにて……三つ目の『人の形』の封印も壊された》

 頭の中で、老いて鄙びた柔らかな声が告げる。今まで簪のまま眠っていた華厳だった。

《月は満ちた。波を踏み、常世へ続く大潮ぞ。間もなく空が破れる……有限なる『映し世』へ、無限の『常世』が、かんばせを出す》

 異形の呪禁師は、歓喜の声で謳う。


《彼岸と此岸のあわいまで来た……さあ、湾凪の姫よ、“うた”は浮かんだか?》

 人の限界を超えてこの瞬間を待ち続けてきた呪禁師は、娘の髪で尋ねた。

「いいえ何も」

 雪輪は短く返事し、やっと捕まえた柾樹の袖を掴んでいる。手や身体の震えは消えていた。


《何と? では、月は満ちておらぬと申すか……?》

 娘の答えに、呪禁師は待ち侘びているものがまだ訪れないのを覚ったのだろう。少しの驚きと、やや得心しかねるといった気配で呟いていた。


「向こうが動かないなら、好都合じゃねぇか」

 鬼に変異しつつある柾樹が、押し潰されたような声で呟く。

 輝く月光に照らされた足元には、影が長く伸びていた。影の中には奇妙な細かい模様が赤く光り、蠢いている。雪輪の言霊と呪禁師の呪術が、鬼の残影を抑えつけ、最後の弾丸が放たれるのを寸前で食い止めていた。


「目を覚まされましたか?」

「俺は起きてる! これで終わりだ、ぶち込んでやれば良い。離せ、雪輪」

 影をまじないで磔にされた柾樹は、袖を掴んでいる娘をぎろと睨みつける。口角から長い牙を剥き出し、眼光と敵意は娘の簪で青く白く明滅を繰り返す碧玉へと向けられていた。


《またしても、大鬼ダイダラボッチの影が物申さるるとは……》

「だから寝ぼけてるみたいに言うんじゃねぇ、俺は起きてる!」

 碧玉の華厳に言い返す柾樹の様子は普段通りで、書生として喋っているときと変わらない。

 だが外貌は僅かずつ変異していた。爪は黒く色を変えて伸び、身体は溶岩のように熱を発して黒く赤く膨張していた。雪輪の瞳は、ただならぬその変わり様を見ている。


「柾樹さま、何を……?」

「俺は、俺のしたいようにするんだよ。自分が持っている力を使って、何が悪い?」

 雪輪の問いかけに柾樹が答えると、持ち主と呼応するように古い拳銃のシリンダーが回った。銃身に埋め込まれた赤や緑の玉が、稲妻を発して光り始める。


《そなた、破約すると申すか? 『無名の君』は、いにしえの“妣神ははがみ”。如何に軽くなろうと、『産児』の奇特を捨てた反動は見当もつかぬぞ? 天災か疫病か。はたまた海が凍るか、星が降るか……》

 簪の華厳は、悪魔のような親切さで忠告をした。それでいて声の中には隠しきれない興味と、楽し気な気配があった。


「まだ、そうなるとは決まってねぇだろ。『無名の君』を相手に、どれだけ“コヨーテの拳銃”が通じるかもわからねぇんだ。銀の弾丸も一発しか残ってない。やってもやらなくても同じなら、試してみたって悪くねぇ」

 鬼になりかかっている柾樹は、金色の炎が揺らめく瞳で天を見上げて言う。


《こは、されば……いつかの己を見るような》

 呪禁師が、どこか懐かしげにほろりと零した。

「華厳様?」

 眉を寄せた雪輪が尋ねると返事の代わりに、柾樹の影を縛っていたまじないの赤い文字が火を消すように消える。自由を取り戻した大鬼ダイダラボッチの残影が、地表で黒く逆巻き始めた。


《ふふ、よかろう小鬼。箱の扱い、わしは知らぬ。しかれども、箱の秘密の声を聞ける者は、用いる術も知っておるか? のう……湾凪の姫?》


 鬼を解放してしまった華厳は、悪戯めいた告げ口をする。柾樹は自らの左隣へ視線を移した。まだ肩袖を掴んでいる娘と、目がかち合う。


「……使えるのか?」

 信じられない、という驚愕で確かめられた雪輪が下を向いた。

「開けられるんだな!? どうして言わなかった!? 箱が使えれば、あいつを封印出来るだろうが!?」

 柾樹の声が大きくなる。この娘は『玉手箱』の使い方を知っていた。土々呂が扱い方を教えないことまで織り込み済みで、茶番劇を演じていたことになる。すると雪輪が、顔を上げた。


「封印した『箱』はどうなるのですか?」

 真っ白な無表情と、射るような冷やかさで尋ね返す。


「これまでも長きに渡り、『針の先』への到達を引き伸ばして参りました。この到達を、更に変形させるということに他なりません。そのようなわざが出来ましょうか? もしも無名様を封じおおせたとして、どのようにしてこれより先の世界で、箱を守り続けよと仰せになるのですか?」

 語尾へいくほど悲嘆の色合いを重ねて、諌める口調で雪輪は言い募った。

 しかし


「そんなの……俺がこのまま、鬼になれば良いじゃねぇか」

 譲る気配を欠片も見せず、柾樹が突拍子もない提案をする。今度は娘が、「え?」と目を瞠った。


拳銃コイツで『無名の君』を撃って軽くする。俺がその『箱』の番人になれば良い。鬼なら二百年でも三百年でも、見張り役が出来るだろう? お前の先祖がやってきたみたいに、今度は俺が山の鬼になれば」

 金色の瞳をした鬼の囁きに、雪輪が肩を強張らせて息を呑む。尖った爪で弄ばれた“コヨーテ”が早くやれと急かしているのか、稲妻をパチパチと発していた。稲妻に弾かれ、袖を掴んでいた雪輪の指が離れた。


《湾凪の姫よ……月は満ちたが、“うた”は降らぬ。これが『無名の君』の神意とあらば、事情は異なるぞ》

 簪に宿る外道の呪禁師が、独特の運命観で囁く。穏やかな華厳の言葉を聞く娘は、赤い袖を風に吹かれて愕然としていた。


「異なる……?」

「そうだ。お前はここから離れられる。もう他の誰かの幸せに、付き合わなくて良い」

 優しい声で言った柾樹の左手が、雪輪の額に触れた。指先は耳と頬をなぞると、首筋を伝って肩甲骨から背中へ辿り着く。

 別の奇跡が提示されていた。しかし雪輪は怯えたように頭を横に振る。


「いけません。駄目です。人としてのあなた様が、いなくなってしまいます」

「一人減ったら、もう一人産めば良いだろ」

 それ聞いた瞬間、今までにない鋭さで娘がキッと相手を見上げた。


「他に何人生まれようと、あなたは一人しかおりません!」

「それはお前も同じだ! 何もやらなけりゃ、今確実にお前がいなくなるんだろうが!? それなら俺は鬼や悪人になる方がマシだッ!!」

 娘の大声に被せ、鬼の形相になった青年が怒鳴り返す。


 その刹那。白金の月が一際眩しく輝き、見えない大波が押し寄せて周囲を浚った。


「あ……ッ」

 黄金の花びらが舞う中で雪輪が小さく声を洩らし、びくりと肩を縮めた。細い両の二の腕を握った娘は黒い虚空を振り仰ぐ。

「雪輪……?」

 訝る柾樹が尋ねても、月に呼ばれた娘は夜の空を見たままだった。華奢な身体も視線も、大きな衝撃と動揺で固く硬直している。畏怖と衝撃の入り混じった黒い瞳は、君臨する巨大な月に引き寄せられていた。


 しばし夜を彷徨っていた雪輪の目が、ぎこちない動きで地上へ降りてくる。

 そしてつり上がった黒い瞳は、青年顔を穴が開くほど見つめた。吹抜けたように虚ろな声で「そうですか」と言うと、また沈黙してしまう。


《潮が引き始めるぞ……如何する?》

 碧色の簪玉が瞬いて、華厳が選択を促した。永遠のような青い夜が無言で埋まっていく。


「……宜しいのでございますか? 鬼となっても?」

 やがて項垂れた白い娘が、弱々しい声で銀色の沈黙を終わらせた。

「悪かったら言わねぇよ。因果が俺に廻ってくるだけのことだろ」

 言い出した青年は、琥珀色の毛先を光らせて返事する。


 鬼となった自分が何百年か先まで箱を守るなど、現実感の無い話しだった。しかし柾樹は疑問も浮かばない。赤目御前の如く、永遠と刹那の隙間で世の変遷を眺めると想像すれば途方もないが、未知なる世界への高揚もあった。


「それは、まことに柾樹さまのお考えなのでしょうか?」

 と、呟いた雪輪が赤い袖で顔を覆ってしまう。

「どういう意味だ?」

 まさか泣いているのかと、柾樹は驚いて尋ねた。


「いいえ……あのお約束を守ってくださるのかと、心配になったものですから」

 月影と長い髪に隠れて細い肩を落とし、下を向いたままで雪輪がのろのろと口を開いた。まるで言いたくないと言っているみたいに、その口調は重かった。

「約束?」

「失われた御神刀の、『霧降』の代わりとなるものを返してくださると仰いました」

 そうして娘は、白過ぎるほど白い顔を上げた。


「“コヨーテの拳銃”、わたくしに撃たせてくださいませ。自らの手で、介錯をさせてくださいますか」

 切羽詰った声が願い出た。雪輪の漆黒の目は濡れて光っている。柾樹はしばらく見惚れたみたいに、それを眺めていた。


「わかった」

 一言答えると、尚も甲高く咆えている“コヨーテの拳銃”を白い手へ託す。

 雪輪は両手でもって捧げ持つように、奇妙な拳銃を受け取った。不慣れな動きで持ち直す。この瀬戸際だというのに、何だか場違いに小首を傾げた。


「何だ?」

「“コヨーテ”が……喋っているものですから」

 息苦しいほどの月光を浴びて、馬鹿馬鹿しいまでに普段通りのやり取りをしていた。

「……『私は“コヨーテ”』、『教え導く、大詐欺師』、『梯子を外して大笑い』」

 娘は手にした古い狼の秘密を、ぽつりぽつりと語り出す。


 それは柾樹が以前、紙切れに書いてみた内容と同じだった。だからこの続きも知っていた。


――私の最後の持ち主は、戦い、裏切り、終わりの扉を閉ざすだろう――


 その時には銃口が胸へ突きつけられていた。速さなどは無関係で、雪輪の動作が全て至極さりげなく行われたせいだろう。


 撃たれたと解る前に、紫銀色の稲妻で視界は一面真っ白になった。長かったか、短かったか。


 雷光が消え去った後。それまでとの景色の見え方の違いで、柾樹は自分が地面に膝を付いていると理解した。痛みは無いが視力は殆ど奪われて、全身が痺れている。


「お命は、長らえたようでございますね」

 冷静な声が聞こえた。柾樹の視線に高さを合わせて膝をつき、雪輪が抜け抜けと確かめる。


「雪輪、お前……」

「“コヨーテ”は、連れて行きますよ。あなた様には、もはや必要のないものでございましょう」

 顔を歪めて呻く柾樹へ、娘は要件を一方的に述べた。“コヨーテの拳銃”を子犬を抱くように抱えている。最後の役目を終えた拳銃は古びた骨董品となり、静まっていた。


「ふざけるな。俺の身にもなれ」

 柾樹は喋ろうとするが、息も出来なくなってくる。嗄れる声を、無理に絞り出していた。

 身体の状態が変化している。浜へ打ち上げられた魚のようだった。呼吸もままならず、ここが人間の暮らす世界ではないという現実の感触が、恐ろしい寒気となって骨の芯へ染み込んでくる。


「誤解されるのもやむを得ぬことですから、今のうちに申し上げておきましょう」

 雪輪の声で目だけどうにか上げれば、見慣れた漆黒の瞳がそこにあった。


「わたくしは、恵まれた娘でございましたよ。あなた様が、あの数鹿流堂へ連れてきてくださいました。叶うまいと決め込んでおりました女中奉公も、させていただくことが出来ました」

「何でお前はそうなんだよッ!!」

 怒鳴りつけた柾樹は、勢いで身体が前へ傾いだ。

 倒れかけた青年の身体を、娘の細い両腕が抱きとめる。柾樹の鼻先に襟首と白い肌が目の前にあり、香しい匂いがした。


「もしも、あなたが山守の鬼になられたとして……“誓約”の消滅を見届け、お役目を終えた後はどうするのですか? 再び彷徨い出し、我を忘れるのではありませんか、大鬼ダイダラボッチ?」

 耳元で綺麗な声が尋ねてくる。触れた布越しに、柔らかなぬくもりと呼吸が伝わってきた。


「無理に起こされて怖かったでしょう。おやすみなさい。もう悪い夢を見なくても良いのですよ」

 琥珀色の髪を指先で撫でる雪輪の仕草は、泣いている幼子を慰めるようだった。


「でもこの人は、かえしてくださいね」

 詫びる口調で頼む。

 何だそれは、と抱えられたままの柾樹は聞き返せない。溢れていた熱と力は虚空へ霧散し、失われていく。しかし手足の末端から凍りついていく身体より、胸の奥が潰れそうに苦しかった。


 雪輪は静かに身を離すと、間近で柾樹を見つめて薄い唇を開いた。


「御室の封印も、山守も。この“誓約”を最も安楽に、静かに終わらせるため、つくられてきたはかりごとでございます。遠い昔から数多の人々が、出来る限りの献身をしてきたことでしょう……。山守の最後の一人として、やはり、わたくしが結び目を閉じねばなりますまい」


 日々の考え事の続きといった落ち着きで物語る。個人の想いは一言も語らない。柾樹はそこが歯痒かった。悪夢にうなされていた鬼を慰めるほどには、この娘は感性豊かなはずなのだ。痛みも悲哀もないなど、有り得ないとわかっている。


「まだ……時間はある。何か、方法はあるだろ?」

 声を絞り出し、思うにならない身体で柾樹は左の手を持ち上げると差し出した。


 こればかりは、思ってもいなかったらしい。

 雪輪の指先が、躊躇いながら宙を迷った。逡巡した真っ白な右手は、そっと柾樹の手を包む。相変わらずひんやりとしたその手が離れないよう、握り返した。

 娘が微かにはにかんだように見えたのは、自惚れだったろうか。


「ありがとう存じます」

 そしてこれ以上言うことは無かったのだろう。


「鬼になっては、なりませんよ」

 その声を最後に握っていた手も黄金の月も、泡が融けるように消えた。

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