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老い鼠 2

「『起きよ』」

 雪輪に呼ばれると、縁側の桶や傘、茶碗にぎょろりと赤い目玉が現れる。

 すり鉢や柄杓などにも、黒い蟋蟀のような脚がめりめりと二本三本と生え始めた。長持や箪笥も武者震いの如く震動する。数鹿流堂の古い壁や柱に、九十九神の赤い目玉がふつふつと湧いて出た。


「蔵までは届かなかったか」

 縁側に出て、動かない黒漆喰の蔵の方を眺める柾樹が言った。娘の『言霊』で九十九神を呼び出せたのは母屋の範囲のみで、蔵まで届いていなかったのである。


「俄仕込みの、一夜城でございますもの」

 九十九神たちに囲まれ、渦巻く空を見上げて雪輪が答えた。必ずしもこちらの都合に合わせて動いてはくれない蠢く黒い蟋蟀の脚に囲まれた古道具屋は、さながら化物の胃袋の中である。

 そんな異様の真っただ中で、娘が歌い始めた。


「――西寺の老鼠、若鼠、御裳おむしょうむつ、袈裟けさむつ――」


 場違いに穏やかなな旋律と長閑な歌詞が紡がれていく。口ずさんだのは、あの催馬楽さいばらの歌だった。しかし聞こえてくる悲鳴が止む気配はない。

 そして


「ここへ来たのは誰です?」

 歌を止めて娘が問えば、秋草の生い茂る庭の向こうから呼ばれた『それ』が現れた。


 黒塀を越えた闇の中で、黒い何かが空を覆わんばかりに伸び上がる。

 夜の一角を占拠し次第に広がっていく影は、切れ端がぽろぽろ千切れて落ちていた。切れ端は青白い流れ星となって夜を走る。その度に見えない壁にぶつかり、刹那の間だけ眩しく燃焼しては消えた。

 時に緑や赤に光り、尾を引いて空を彩る様は美しくもあった。


《よくぞ……我らのところへ来て下さいましたなぁ》

 低く高く歪む声が、辺りに響く。不真面目を装う口調にだけ、薬売りだった頃の面影があった。

 聞くところでは、かつて『老いた鼠』だったはずのもの。だが言霊を宿す娘の歌を聞いても、もう何も思い出せないようだった。


 そこへ燃える星屑の一つが飛び、庭先の地面まで到達する。地表で火花を散らして跳ねた青い火球は、建物の中へ飛び込んできた。身構えた雪輪へ届く直前、閃いた薙刀が青白い火炎球を二つに切り裂く。斬られた星屑の鼠は「キッ!」と鳴き、爆ぜて消えた。


「続けろ」

 星屑を切り捨てた柾樹が、柄に赤い目玉湧いて出た薙刀を翻して、背後の娘に言った。次に飛んできた火球も刃を返して切り上げる。青白く細かい火の粉は熱が無く、跡も残らなかった。


「浅ましい姿になりましたね、土々呂」

 蠢く古道具に周囲を守らせた雪輪は、外の巨大な黒いものへ再び話しかける。

 そうする間にも、星屑たちは次から次へと上空の透明な壁を通過し、激しく庭や屋根へ降り注いだ。脚の生えた鉢やしゃもじ、屏風の九十九神が忙しく走り回り、青い火球の鼠に飛び掛る。雑兵代わりの古道具たちは、騒々しく食らい付いては、流れ星を消していた。


《ハテ……浅ましいのはどちらでございましょうねぇ? お幸せそうで、良うござんすな。ああ、お憎らしい。また一段と、欲深い謀りをなさっておいてサァ?》

 薄っぺらい黒山は、何重にも声を揃えて同じことを言う。


「そなたの気持ちは察します」

 柾樹の後ろで雪輪が答えた。


《何を仰います? 慈悲と道理を装い、私欲そのままで。それとも人間が浅ましいのだけは、致し方なしと仰るんで? まるでお優しい健気の証、美しいかの如き申されよう。驚いたもの》

「相変わらずベラベラ喋りやがるな、テメェは」

 虚ろな独り言を連ねる土々呂へ、いらいらと柾樹が吐き捨てる。


《雪輪様、そちらの小鬼を信じて宜しいんで? エ? きっとまた後悔をなさいますよ? 何とマァ、そちら様がご立派になられたワケときたら、修行の賜物や持って生まれた才覚でもなく。ましてや神の加護でも何でもなく、大鬼ダイダラボッチの祟りだったというのでございましょう? 何せあの巨大な力。人の脆い理性如きが手綱を握り、抗えるわけもございませんで、ヒヒヒ……》


 絶え間なく降ってくる青い火球の向こうで、黒い鼠の巨塊は高音と低音を乱反射させて笑った。柾樹の背中に隠れた雪輪が、陰鬱な表情で沈黙する。


「俺のジジイに『古井戸』の話しを吹き込んだのは、テメェだろうが! 何も出来ずに屁理屈こねてるだけの奸物が、偉そうに言ってんじゃねぇよ!」

 金茶頭が一歩踏み出し、淀んだ空へ向けて怒鳴った。


《控えろおおおおーーーー!!》

 轟いた土々呂の咆哮で、紫の空間がぐにゃりと歪む。庭先を守っていた九十九神までもが吹き飛ばされて転がり、屋内の人間も衝撃で五感が痺れ身を伏せた。


《全て我らが仕組んだのだ!映し世を操っているのだぞ! そうだ! 轟刑部も、布引姫も、無名の君とて我らの思うままなのだ。人が動いた、映し世が変わった、因果は巡った! 神話の時代の再来ぞ! ここまで動いたのだ! 我らの力は失せてなどいない、常世は感応しているということ!》

「うるせぇぞクソ鼠ッ!!」

 怒鳴り返した柾樹が右手の薙刀を投げつけると、黒い影は霞のように脆く突き破られる。奇怪な悲鳴が響き渡った。黒い鼠の巨塊から八方乱れ飛ぶ流星で、濁った紫の闇が七色に揺らいだ。


《おのれ、いつまで使役されるか九十九神!? 人間など、言葉を聞いてやる価値もないというのに!? 何故我らの言葉を聞かない!?》

 赤い目玉と脚の生えた古道具たちを、土々呂が罵る。


「お前が弱過ぎるからじゃねぇのか!?」

 怒鳴り返した柾樹の足元では、黒い脚が六本生えた瀬戸物の丼と、青い火球が取っ組み合っている。手にした槍で柾樹がその青火の鼠を突くと、一瞬で火の粉となって消えた。


「柾樹さま、“コヨーテの拳銃”は最後の手段。どうかお使いにはなりませんよう」

「わかってる。だからこんな面倒なことやってるんじゃねぇか!」

 後ろで囁く雪輪に、柾樹は燃える星屑の鼠が牡丹雪のように降り続ける空を睨んで答える。


 どれほど喚こうと、土々呂は数鹿流堂を守る九十九神の結界すら破壊出来ない。そして土々呂の縄張りの後ろには、鴉天狗の仙娥が控えている。隠れる場所を捨てて外へ出てしまった以上、既に退くことも不可能であり、条件と状況を考えれば土々呂の方が苦しい。時間が経過するのを、立て籠もる側はひたすら待っていた。


《人間は、言葉など持つべきではなかったのだ! 嘘を覚え、神とのちぎりすら破る。果ては魔物と卑しめる! 有為転変だけが唯一変わらぬこの映し世で、誓約など守れるはずがないものを……!》

 猛り狂う土々呂へ、九十九神が群がっていく。

 更に瓦屋根の上や蔵の周囲、庭や池の辺で降ってきた青い星屑の鼠を、追い掛け回し消し去っていた。


「土々呂。お前は映し世を鏡に、己が姿を見ているだけなのですよ」

 化物鼠の囮である『針の先』が赤い裾を引き、縁側まで進み出て巨大な影を見上げる。


「お前は、人間を己の延長として使いました。人に近付き、手足の如く使って憚らない。人ならば、それも珍しくはないです。人の赤子は、皆そうなのですから。か弱く無力で、何も出来ず、誰かに世話をさせます。それでいて、世界は己に都合よく動くと疑っていないのです」

 姿を見せて語り掛ける雪輪の方へ、夜空を覆っていた黒い巨塊が徐々に傾いできた。切れ端の星屑が雨あられと降り注ぐ。青い鬼火が燃え盛り、古道具の散乱する庭の眺めは落城寸前の城のようだった。


「しかし、人の赤子と同じことを求める“神”は……もはや“神”とは呼べないでしょう」

 青い炎に照らされながら、惨い静けさで娘が告げた。もはや罵倒に近かった。


《黙れえエエエエェーーーー!!!!》

 絶望的な雄叫びを上げると、ただの薄っぺらい黒一色の塊だった土々呂に腕のようなものが現れる。

 巨大な塊はいよいよ傾き、全体が家屋敷を守る九十九神の『結界』に激突した。残された時間も、後も無い化物に敗走は有り得ない。捨て身の突撃で、結界を突き破ろうとした。


《何だ……!?》

 すると結界という縄張りに入り込んできた『敵』へ、赤い目玉と脚を持つ甕や壷が一斉に群がり始める。膨大な数の壷が這い回る様子は、樹液に集まる昆虫のようだった。


九十九神テメェら、そいつ逃がすんじゃねぇぞ! 時間切れまでそうしてろ!」

 柾樹が四本足の鋤を掴むと、怒鳴り声と一緒に土々呂へ投げ付けた。びゅんと飛んだ先端は、迷わず黒の中心に突き刺さる。


《キャアーー……!!》

 古道具の『鼠捕り』にかかり、逃げることも叶わなくなった化物は悲鳴ごと蝕まれていく。九十九神に食いつかれた土々呂から青白い星屑が迸り、滝の飛沫のように流れ落ちた。結界に激突し、集合体の形状も留められなくなっていく。


《『針の先』! そうだ『針の先』さえ手中にすれば、糸が連なる! 絡まった虚しい数が解けるはず! 時と空とが折れて重なる……!》

 雨垂れのように青い火の玉を零して崩れる土々呂が喚いた。


「何言ってんだアイツ?」

「わからなくなっているそうでございますから……」

 地表に届いた眩しい星屑は九十九神の間隙を縫い、尚も雪輪を目掛けて飛んでくる。背後を庇う柾樹に、娘も小さな声で返事をした。


「土々呂、この『箱』の使い方を知っていますか?」

 と、夜を焦がして青白い火の粉が飛び散る最中、雪輪が銀色の小箱を取り出し捧げてみせる。


《『幸運者ファウストの箱』だと!? 教えてどうなる!?》

 幾重にも轟く声が、怒り叫んだ。


「ここに『無名の君』を閉じ込めるんだよ。使い方を教えるなら、その鼠取りから逃がしてやってもいい」

 いよいよ動けなくなった土々呂へ、交渉を持ちかける柾樹が薄っすら笑っているのを、雪輪の黒い目が見る。


《嘘だ! 嘘だ! 我らをそこに閉じ込めようというのだな? そうして、また捨てるのだろう!? 置き去りになるだけだ! 月が満ちる! 大潮だ! 来臨だ! もうオシマイだ……!》

 悲惨な声が、虚空へ向けて咆哮した。


「ああ、そうかよ。じゃあそのまま滅びてろ」

 そう言って柾樹の投げ付けた銛が黒い影へ命中する。再び化物から哀れな悲鳴が上がった。だが化鼠は足掻き、突撃を止めない。

 強引に結界を突き破りかけた、その時だった。


「来た」

 弾かれたように、雪輪が呟く。誰よりも早く『それ』の出現を感じ取ったのは、魅入られている娘だった。


「九十九神、下がりなさい!」

「お前もだ!」

 縁側まで飛び出しかけた雪輪を、反射的に柾樹が腕に抱え引き戻す。


 瞬間、全ての火が消えた。あらゆるものを隠した闇が一転、白い光と大音響で粉々に打ち砕かれる。


 爆音と真の闇夜を引き連れて、映し世に残る最後の“神”が来臨した。

 空間と時間が急速に凝固していく。九十九神の赤い目玉は蒸発するように消し飛び、古い建物の柱や瓦までもが音も無く空中で分解し始めた。引き合う力と上下が、奇妙にねじれて失われていく。


 幽顕した圧倒的な“神”に押し潰され、化け鼠が絶叫を上げた。


《キイイイイイイイィィィーーーーーーッ!!》


 狂い叫び、土々呂の巨体が砂山の如く崩れていく。その上でまだ結界の内側へと身を乗り出そうとしていた。青い鬼火の波頭は砕け、燃え盛る岩山のような塊が他の全てを犠牲にして透明な結界を突き破る。

 化物が食らおうとしたのは『常世』と繋がる存在であり、追い求めた『針の先』の娘だった。

 伸ばした牙が届きかける。その間際、紫色の稲妻が辺りを走った。


《ぎャアアーーーー……!!》

 稲妻に砕かれた青い炎が八方へ飛び散り、化物鼠の『頭』が地面へ落ちて四散する。


「柾樹さま」

 振り仰いだ雪輪の白い顔が強張った。

 化け鼠を撃ち抜いた“コヨーテの拳銃”を握り、柾樹がその場に立っている。瞳には金色の炎が揺らめき、牙を剥く形相は人と異なる形へ変わり始めていた。


《ほおーら……やっぱりだ。言ったことじゃない……もう人から離れておりますよ。脆いものでござんすねぇ。戦わせず、そんな危ない武器おもちゃは手放して、一刻も早く逃がしてやっていれば良かったものを。それとも、新手の仇討ちでしたか、雪輪様?》


 ぐずぐずと燃え朽ちていく土々呂が、薬売りだった頃の口調に戻って言った。


《いくら禁じようが、止められるものじゃアないんだ。そんな小さな火打石さえ、使わずにいられぬ。所詮は『針の先』を横取りしたいのだろうよ……蘇った大鬼ダイダラボッチ。消えきらぬ残影。人間、使いこなせぬ道具なんざ、最初から持つもんじゃございませんねぇ》

 おどけて喋る自らを燃やし、土々呂は蒸発していく。名残の火花が、雨粒のように地表で弾けた。


《そちらの鬼に、お姫様が食い潰されなきゃ良いんですが、どうでござんしょうねぇ? ヒヒヒ……》

 土々呂が笑う声を聞きながら、雪輪は柾樹を見上げる。

 周囲を細かい紫の稲妻が周囲を走り、遠吠えと低い唸り声が聞こえた。燃える“残り滓”たちは、そこかしこでケタケタと高笑いしている。


《人は道具と言葉によって、ここまで栄えましたがね。同じ理由で、滅びるでしょうよ》


 自分のこと以外なら何でも知っている化鼠は、そう予言して姿を消した。

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