老い鼠 1
「――西寺の老鼠、若鼠、御裳喰むつ、袈裟喰むつ――」
古道具屋の畳廊下で、雪輪が微かな声で歌っている。
娘は歌いながら古い提灯や傘、木製の車輪などを青紫色の縁側へ並べていた。
催馬楽という、古い歌である。千年以上も昔に民草の歌から始まり、いつしか宮中にまで取り入れられた。かつては今様の歌などと同様、琵琶や笙の演奏に合わせて宴の席を華やかに彩ったという。
守るべき『針の先』と離れるのを渋った化猫が、忘れられたこの古い歌をお守り代わりに置いていった。馴染みの薄い古歌を体へ馴染ませるため、雪輪は呪文の如く繰り返している。
座敷の少し離れた場所で、柾樹はさっきから聞いていない顔をしてその歌を聞いていた。ゆるやかな旋律のせいか、雪輪の声の性質か、子供の遊び歌のようにも聞こえる。油断したら、このまま酔った気分で寝てしまいそうだった。
しかし護衛役は寝てはいけない。銀縁眼鏡は、手元に寝かせてあった槍を手に取った。土蔵の二階で眠っていた古い武具である。長年手入れをされていなかったため色もくすんでいるが、まだ壊れてはいなかった。
以前、黒い犬が現れた時に普通の拳銃は動かなくなり、柾樹は負傷している。そのため今回は火器よりも、仕組みが単純な武器を掻き集めた。
「雪輪、あれ嘘だろ?」
と、槍をいじっていた銀縁眼鏡の青年は、いきなり考えなしに喋り始める。
「はい?」
答えて振り向いた娘の傍らには、ランプと火鉢の他に、行灯にも火が入っていた。
橙色の灯りに照らされていても、雪輪の肌は血の気がなく青白い。細身の身体には、四君子の赤い小袖を纏っていた。
いつも着ている太織は、千尋達が変装のために持って行ったのである。代わりに着るものとして、長二郎がこれを持ち出してきた。赤い小袖の所有権は彼にはないはずなのだが、長二郎は押し付ける。おかげで雪輪は着ている物から髪の牡丹柄の布まで、ほぼ赤一色となっていた。夜と灯火に浮かび上がれば、古色の赤も照り映えるように鮮やかになる。
目が眩むようで、柾樹は無意識に眉間へ皺を寄せていた。
「白岡に言っていた、助太刀だの親の仇がどうこうって話しだ。アイツは気付いてなかったろうけどな」
手持ち無沙汰といった気だるさで、槍や薙刀を並べ直しながら話しを続ける。
「本音は、どうでも良かったんじゃねぇのか?」
視線を手元から、おめでたい赤尽くめの娘へと向けた。
「土々呂が親の仇も同じであるのは、違いありません」
「それを言ったら、俺だって仇じゃねぇか」
無表情の雪輪が嘘か真かの二択で答えないので、柾樹はわざわざ際どい言葉で言い返す。
「柾樹さまは、ご存じ無かったではございませんか」
でも娘は、これも事実の確認といった口調で受け流してしまう。言われる側は、手応えの無さが一層面白くなくて顔を顰めた。
「今は知ってる。知っちまったから、動かなきゃいけなくなったんだろ。うまくいったかどうかは別だが」
神剣を壊したことを思い出し、琥珀色の髪を掻いて柾樹は面を伏せる。
「はい。わたくしも、白岡さまのご事情を知ってしまいました」
更に雪輪は白けた声で、あっさり返した。
「その上で……お断りすることも出来ました。たとえ皆さまのお手を、煩わせたとしてもです。きっと、わかっていただけたでしょう」
小刻みに震える身体を赤い着物で包んだ娘はそこまで言うと、虫の声がりんりんと鳴る青い秋の庭へ視線を移す。
千尋は雪輪を古道具屋から連れ出したいと、一度は願い出た。けれど、引き下がった。罪悪感と気の弱さゆえであり、あのお人好しの間抜けに限って、芝居や深慮遠謀は無いだろうとは柾樹も思う。
「で、どうなんだよ?」
千尋の頼みを完全に断わらなかった動機を尋ねると、再び雪輪の白い顔が柾樹の方を向いた。
「今どうするべきかでしょう。お笑いにもなりましょうが、零落れようとも旗本の娘でございます」
「……考えたら、そうなるのか?」
示された回答にも、まだ柾樹は満足しないで繰り返す。
「卑怯未練というものではございませんか」
黒い瞳で見つめ返した雪輪が、剃刀で切るような怜悧さで言った。利他的、自己犠牲的な理由ではないという意味になる。我が身と命を惜しむのは恥であり、だからこそ危険を犯してでも千尋を助勢し、仇討ちもするのだという論理が組みあがった。
言い切られてしまえば、そうですか、としか柾樹は言いようがない。あるいは土々呂と千尋を天秤にかけて、雪輪が善と感じる方を選んだだけと考えられなくもなかった。
しかし、である。
「如何なさいました?」
「お前が言うと、何か嘘くせぇんだよな」
眼鏡の仏頂面は舌打ちした後、目の前の娘へ疑いの眼差しを送る。言う事が、あまりにも古臭かった。それにこの娘が嘘に嘘を重ねてきたのは、柾樹も嫌になるほど知っている。
「柾樹さまは、つくづく新しい時代の方でございますね」
僅かに力が抜けた、古道具を見立てる風な声音で雪輪が呟く。言われた方が、何のことかと驚いた。
「? 俺が?」
「わたくしは、他に何も持っていないのですよ。バイオリンも、何も」
真っ白な能面みたいな顔も、角度や光の当たり方によっては、微妙に表情が変わった。そして何故かわからないが、その時の柾樹には長い黒髪に縁取られた雪輪の横顔が、少し寂しそうに見えた。
「……覚えたいなら、教えてやってもいいぞ」
ぼそっと柾樹が言うと、雪輪の異様につり上がった目が振り返る。
「教わるのでしたら、きちんとした先生が良いのですが」
「頼まれてたって俺は教えてやらねぇよ馬鹿ッ!」
澄んだ声が叩いた憎まれ口を即座に叩き返し、金茶頭はそっぽを向いた。弄ばれたみたいな気分で、余計なことを言わなければ良かったと若干ふて腐れる。
そこへ、すっと風のような違和感が忍び込み、庭の虫の声が一斉に止まった。
「雨か……?」
鼻の奥に、水の匂いが掠めたときみたいな湿った感触を覚え、柾樹は外を見る。
「いや、違うな……何か変だぞ?」
雨音は無く、感じた匂いもすぐに消えた。雨どころか風も無い。だが突然に世界から色が消え去り、あらゆる雑多な音が彼方へと遠ざかっていた。
「土々呂が来たようです」
立ち上がった雪輪が縁側から屋内へ下がり、偽物めいて渦を巻く夜空を庇の下から眺める。
「……ってことは、白岡たちは上手くやったのか?」
「わかりません。手筈通りであれば、仙娥がここまで土々呂たちを追い立ててくるかと思いますが」
縁側から泉水のある庭の向こう、黒塀の外へと目をやる柾樹の傍らで、白い娘は静かに言った。
策は極めて単純である。まず千尋が一芝居打つ。そして蔵の扉を開けさせ、雪輪に成りすました長二郎と火乱が近付く。蔵へと押し入り、隠れた土々呂を追い出す算段である。火乱と仙娥を味方に付け、その上でまだ化物を相手に、どこまで素人芝居が通じるかは賭けだった。
「何か、似てるな……俺が『黒い犬』に襲撃されたのも、こんな夜だった」
以前の見知らぬ雨の街角で起きた事件を思い出す柾樹は、ねっとりと紫紺に淀んだ夜空を見る。
「常世の者の、『結界』にございます。引き摺り込まれれば、簡単には出られません」
一段と冷やかな声音で、雪輪が囁いた。
「実在の場であると、火乱は申しておりました」
「何だそりゃ?」
「異界の者達の縄張りで……出口と入口が繋がった、八幡不知のようなものとしか、わたくしも」
尋ねる柾樹に、娘は小さく頭を振る。時間と空間の捻じ曲がった迷路というそれは、雪輪にもわかりやすい例えで語れるものではないようだった。
「ふうん、家屋敷ごと、閉じ込められたようなもんか?」
「はい。おそらくはこの辺り一帯、全てでしょう」
つまるところ、古道具屋とその中にいる二人は、外と切り離され幽閉されてしまったのである。辺りは不自然な圧迫と、閉塞感で包囲されていた。
「土々呂の縄張りか。じゃあ何やっても良いんだな」
背の高い青年は気楽に言い、薙刀を手に取り立ち上がる。何となく視線を感じて見下ろすと、そこで雪輪が柾樹を見つめていた。
「何だよ?」
「弁慶の七つ道具のようでございますね」
「うるせえ」
小首を傾げる雪輪の感想を聞き、柾樹は嫌な顔をして目を逸らした。槍や薙刀、袖搦など、ずらりと取り揃えていると荒法師のようである。七つ道具に鋤や鍬が入っているのが、愛嬌だった。
――――キイイイィィィィーーーーー……。
と、濁った空の果てから、鋭く甲高い、犬笛に近い高音が聞こえてくる。
音は途切れることなく、段々と近付いていた。最初は笛と思われた音は、やがて荒れ狂う音塊となって迫り、不快で柾樹は耳を塞ぎたくなる。紫の夜は次第に黒ずみ、床や畳は水を染み込ませたように冷たくなっていく。
数秒もすると、不協な音の正体が判明した。
空っぽな悲鳴の合唱だった。




