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捨て駒 2

 辺りは水を打ったように静まりかえっていた。静寂に時折ぱちりぱちりと、爆ぜる篝火の音が混じる。張り詰めた緊張は危うい均衡を保ち、僅かな切欠で破れてしまいそうだった。


「女の人……?」

「誰だい?」

 蔵を遠巻きに眺める人々が、顔を見合わせて囁く。

 千尋が連れてきた灰色の影のような人物は、おもむろに蔵の扉の前まで歩み寄ると立ち止まった。


「『針の先』の扱い方は、わかりましたか鼠? わからない? そうでしょうね」

 灰色の衣を被ったまま、きれいな声と抑揚の薄い口調で、蔵に隠れている者へ話しかける。


「そなた、轟刑部の配下になれと囁かれたのでしょう?」

《何を……?》

 奥に潜む首魁の動揺が伝播したのか、黒い鼠たちがざわりと波打った。


「それゆえ、正しい『兆し』が現れたと考えたのでしょう? たしかに、もしもその通りであるならば『針の先』で千載一遇でしたね。でも……考えてもご覧なさい。あれは狸なのですよ。伊予の御大が、“残り滓”の行く末など、気に掛けると思ったのですか?」

 決まった台詞を読み上げるように、灰色の人は喋り続けている。


 その場の誰もが、話しを聞きながらぽかんとしていた。知らない外国の芝居を観せられているようで、意味もわからず、ただ聞いている。

 蔵の中で座っていた桜も同様に、固唾を飲んで見守っていた。

 と、おかるが手を軽く引き、看護婦見習いもハッと気付く。鼠たちは、灰色の被衣の語りに注意を引き付けられていた。


 小さく目配せした二人は座ったまま、じりじりと扉の方へにじり寄っていく。普段なら三歩で出られる外界が、ひどく遠い。それでも扉まで、残り一歩半という位置まで来たときだった。


「浄蓮尼を化かしたお前も、化かされていたのですよ土々呂。お膝元が忙しいのです。その片手間に、播摩の姫御世の悪戯。陣取り合戦のお相手……そのための人形代わりで、お前は捨て駒なのですよ」


 それに続いて蔵の屋根の上から、カアーと鴉みたいな声が高らかに響く。


「“残り滓”は残り滓だぁ! 映し世は諦めが肝要だべ。おめぇらどんだけ騒いだって、何も出来やしねぇんだぁ。常世どころか、映し世さえ影響しねぇ。それを勝った勝ったと思い込んで、喜んでるようじゃなあ」

 しわがれ声が、ぎゃあぎゃあ笑う。そして


「そなたまるで、無力な人間と同じではありませんか」

 被衣の人の澄んだ声が、刃で切るように言い切った。途端に黒い絨毯が、ぶわりと膨張する。


《キサマアアアアアアーーーーーーーー!!!!》

 牙を剥いた黒い鼠たちは大波となり、扉のすぐ外にいる灰色の小柄な人物目掛けて殺到した。


「じゃッかぁしいわああああーーーーッ!!」

「うわああ!?」

 野太い怒鳴り声が喚き、灰色の太織が捲れ舞い上がる。


 被衣の中から飛び出したのは赤い大猫と、猫に後足で蹴り飛ばされた長二郎だった。犬と見紛う大きな猫は、黒い鼠の大波へ頭から突っ込んでいく。


「きゃああああ!?」

 入口近くにいた桜とおかるは、黒い鼠の大群と猫の激突に飲み込まれた。鼠達の凄まじい奇声と、獣の唸り声が飛び交う中で、息も出来ず必死に身を伏せ必死に這って進む。

 空を掻いた傷だらけの手を、誰かが掴んだ。黒い鼠を掻き分け、桜を助け上げたのは千尋だった。


「千尋……!」

「桜、しっかりしろ! おっ母さんこっちだ! 誰か手を貸してくれ!」

 失神しているおかるを抱え、意識も朦朧としている桜の手を引いた。

「お内儀かみさん、怪我はござんせんか!」

「桜お嬢様! ご無事で!?」

 箒を持った丁稚や女中たちも駆けつける。人々の手を借りて、人質二人が蔵の外へ逃げた時だった。


「ぎゃあああああーーーーー!! 猫ォオオオオオオーーーーーーーーッ!!!!」

 闇夜を劈いて、物凄い絶叫がした。


 まだ一人で蔵の中に残っていた千尋は、振り返る。同時に、濁った黒い風にどうと押され咄嗟に息を止め目を閉じた。

 一瞬の後、少しずつ目を開く。


「か……火乱なのか?」

 蔵の奥にいたのは絢爛たる紫色の炎を纏う、虎と見紛う巨大な赤い猫だった。化猫は本性を現し、緑色の瞳を爛々と輝かせている。二本に割れた尻尾を揺らして、白い薬売りの喉笛に噛み付いていた。


 噛み付かれた薬売りはだらりと手足を垂て、白尽くめだった姿は黒へと変わり始める。末端から中心へ向け、全身が黒へと塗り潰されていく。真っ黒になった体から燐粉に似た青白い光りが噴出し、二秒も経たず燃え尽きた星のように空中へ消えた。


「た……退治したのか?」

 髪も着物もぼろぼろになった千尋は、化猫に尋ねる。紫色の炎は蔵の隅々まで眩しく照らしても、熱は無かった。


「ケッ、こいつはいわゆる影武者やな……首魁は逃げよった。あーあ、やれやれ。結界から出たら崩れて負けやて、わかってたやろ。阿呆やなぁ」

 伊達な渋い声で答えた化物の猫は、長い二本の尻尾を優雅に振る。

 蔵から討って出た土々呂に対する火乱の言葉には、非合理な選択をしたことへの嘲りと、もはやそうするしかなかったものへの微量な憐憫があった。


「残党は仙娥が追撃しとる。後は古道具屋へ辿り着くまでに、土々呂がどれだけ減るかやなぁ」

 すでに鴉の飛び去った天井を、ちらりと見上げて猫は呟く。

 土々呂たちは籠城していた蔵を捨てて落ち延びた。鴉に追撃された残党の向かう先は、『針の先』が隠れている古道具屋しかない。


「数鹿流堂に」

「ったく、ひいさんもなぁ……他に手が無い言うても、アイツが一番信用出来へんちゅうねん」

 奇襲に駆り出された火乱は、不満そうに言った。喋る巨大な化猫の周囲では、紫色の炎が薄くなり消え始める。千尋は床にへたり込み、膝をついた。


「火乱……オレは」

「しゃあないしゃあない。気にせんでええ。助かって良かったやないか」

 俯く青年に声をかけた化猫はだんだんと小さくなり、元の『大きな猫』になる。闇の中で、猫の緑柱石の瞳が爛々と光っていた。


「大事な母親と、可愛い幼馴染や。そらそうや、何が何でも助けたなるわ。人間らしゅうて結構結構。人間は執着するもんや。腹減らして、獣の骨の髄を食おうと執着しとったのが、えらい出世しはってなぁ?」

 にやにや笑ってからかう化猫に、青年は唇を噛んだ。火乱の侮蔑が刺さるのは、誰よりも千尋自身が己を責めているからに他ならない。


「ま、執着は悪ないんやで? 大事にしたらええわ。楽して生きたいなんて、そんなん嘘やぞ? 苦しみこそ、生きる寄処よすが。執着が要らんなんて言っていられるのも、この一瞬だけや。またすぐに、獣の骨を砕いて齧らなあかんようになるから、安心しいや。それも、運が良ければの話しやけどな」


 黄金の毛先を光らせた赤い猫は人間みたいに笑ってそう言うと、一本に戻った尻尾を翻らせる。


「後始末は、お前らで何とかしい。さてと……両国へ戻るかい」

 旋風となり、化猫は蔵の外へ駆け出した。外にいた奉公人や下女が、「わあ!」「猫!?」と口々に叫ぶ。


 そして駆け抜けた赤い猫と、走り回る人々の足元には、奇襲に駆り出されたもう一人である長二郎が転がっていた。


「痛てて……おかるおばさんと、桜ちゃんは?」


 起き上がり癖毛頭を撫でた長二郎は、顔を顰め、痛む左腕を擦る。

 長二郎は右手で灰色の太織を被り、ずっと左腕だけで重い猫を支えなければならなかった。それなりに負担だったのである。


「はい、お二人とも気を失っていらっしゃいますが、大きなお怪我はございません!」

 近くにいた女中が、涙ぐんだ声で報告する。そこへ銀右ヱ門が駆け寄ってきた。


「や、ありがとう田上さん助かった! 賊は逃げてしまったが、みんな無事なら、まずはそれで良しだ。しかし……よくこんな策を考えたものだなぁ。それにしても、さっきのあれは何だったのだね?」


 労をねぎらう銀右ヱ門は膝をつき、尋ねてくる。

 これらを仕組んだのが、長二郎だと思っている顔だった。奉公人達も興味深そうな目をして集まってくる。


――――ここからが本番だぞ。


 周囲を伺った痩せ書生は、落ちていた灰色の着物を拾って丸めた。両腕で抱え込んで、へらっと笑う。


「ええ、実は、こちらの蔵に鼠の大軍が襲来して災難していると、千尋君に聞いたものですから」

 冷や汗が出そうな本心は底へ押し込め、例によって平気な顔色で『事情』を語り始めた。


「それなら鼠には猫だろうと、鼠をよく取りそうな大きな猫を探したんですよ。そうしたら浅草六区の見世物で、『大化猫』を扱っている人がいたんです。これが『大イタチ』なんかの馬鹿げた奴じゃないんですよ。檻に入っているのを見せてもらったら、先ほどお目に掛けた通りの立派な赤毛の猫でした。そこでその飼い主に事情を話して頼み込んだんですよ」


 事前にこのように言うよう、化猫とその主である女中に命じられてきた。無茶な役目だと、長二郎も思っていた。だが大法螺も喋っているうちに呼吸を掴み、気持ちが入ってくる。


「それがあの猫でしたか!」

「はい! しかも『化猫屋』の話しだと、蔵にいるそいつは商売敵の『鼠使い』に違いないと言うんです。鼠を使って、あちこちで悪さを働いていたそうなんですよ。それで一緒に取っちめてやると、一肌脱いでくれました!」

 主人の銀右ヱ門が信用しきった顔で頷くから、長二郎の話しにも磨きが掛かった。


「呆れた奴がいたもんだな!」

「猫も逃げちまったようですけど、良いんですか?」

「屋根の上から聞こえた、あの声は?」

 書生の語る『事情』を聞きに小僧や女中も集まって、横や後ろから口を出してくる。


「さっき屋根の上にいたあれが、飼い主の『化猫屋』です! 僕は何もしてないんです! 女の声で喋っていたのも、全部あの人なんですよ大したものだなぁ。芝居好きな人で、せっかくだから口上付きでやって欲しい、それなら猫を貸すと、そういう話になって芝居仕立てになったんです」

 笑みを貼り付けた顔で、長二郎は勿体つけつつ言った。雪輪の声色を使い、灰色の被衣に身を隠して喋っていたのは火乱である。


「それで炎みたいなものが見えたのかぁ!」

「すごかったねえ!」

「近頃は見世物の仕掛けも凝ったもんだよ。縁日で見掛けたら贔屓にするのにさ」

 化猫の妖術にでも、かかっているのだろうか。話し合う人々の表情は、どれもみんな感心していた。


――――世の中なんて、こんなものか?


 見ている長次郎こそ若干、気が抜けてしまう。

 難しいと思っていた世の中が、他愛ない操作で狙い通りに回っていた。こんな話しを信じるのかと、不思議な気持ちになってくる。しかし考えてみれば、炎を纏う化猫や、蔵を乗っ取る鼠の化物の方が、何倍も不自然で説明のしようが無いのだという考えに、一周回って辿り着いた。


「ところで芝居というのは、何の演目だったのかね?」

「さ、さあ~……? 田舎芝居だそうで、僕もそこまでは……なぁ千尋?」

 打ち合わせしていなかった部分を暮白屋の主人にほじくられ、小柄な書生は苦笑いした。


「千尋……? どうした?」

 銀右ヱ門が息子に呼びかける。蔵の扉近くで、千尋は座り込んでいた。


「すみません……すみません。申し訳ない……」

 暮白屋の倅は誰もいない方角へ頭を下げ、擦れた声で途切れ途切れに詫びを述べている。

「助太刀だって? ……嘘だ。オレに、言わせないようにしてくれたんだ」

 千尋の呟きの意味がわかったのは、同じ古道具屋で居候している痩せ書生だけだった。


「オレは、何も出来なかったのか? いや、違う…………助けるフリだけしたんだ」

 周りの人達がご立派でしたよと慰めても、千尋は動かない。

 膝で握り締めた両手の甲に、ぽたぽた涙が落ちていた。

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