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貴瀬川屋敷

 飯田橋まではすんなり行けたが、牛込の貴瀬川屋敷まではそこからまだ行程がある。船着場へ到着するや千尋が何の迷いもなく突っ走り始めたので、自然と柾樹も友人の後を追う格好になった。しかし途中でハッと立ち止まった千尋が、振り向いて尋ねた。


「こっちで良いんだよな?」

「わからねぇのに走ってたのかよ!?」

柾樹は呆れて思わず怒鳴った。間違っていなかったから良いものの、いきなり出鼻をくじかれた気分になる。


 肝心の貴瀬川屋敷は探すまでもなかった。神楽坂を少し離れると、かつて大名の下屋敷があった場所に田畑が広がっている。その長閑な田園を遠景に建つ立派な建物が、貴瀬川家の屋敷だった。門だけが白い洋風に建て替えられている門前に幾つかの人影があり、農民が遠巻きに眺めている。


 ようやく辿りついた青年二人は、人影の中に巡査の黒い制服を見つけ大急ぎで駆け寄った。すると巡査より先に彼の前にいた男が振り向き、突然現れた書生どもに目を剥いて「何じゃお前ら!?」と大声で叫んだ。汗だくで返事も出来ない二人が、ゼーゼー息切れして佇んでいれば驚きたくもなる。しかし二人が息を整え、事情を説明しようとするより早く


「ああ!? 若旦那じゃねぇか! 何でこんな所に!?」


 馬鹿でかい声がして、小太りの男が巡査の影から顔を出す。なんと小林弥助だった。弥助を隠していた若い巡査の横には、小柄で品の良い老女がおり、怪しむ視線で書生達を見ている。さっき目を剥いた男は探偵風の格好をしていて、どうやら弥助の上役らしかった。やや横柄な口調で「知り合いか」と弥助に尋ねる。眼光鋭い大柄なツルッ禿げの男に睨まれ、弥助は妙に言い淀んだ。


「いや、まぁ……、こいつは何と言うか、あの娘さんの幼馴染でして……」

「何っ!?」

「やややや、違います違います! もしそうならノコノコ出てきたりしやしませんて!」

禿げとチビの探偵二人のやりとりに


「な……何かあったんですか?」

不穏なものを感じ取った千尋が、息を整えながら尋ねた。だが

「あー……その前に、お前らどうしてこんなところにいるんだ?」

弥助はすぐに答えず、千尋の問いへ質問で返す。千尋は来訪の理由を言うべきか言わざるべきか、咄嗟の判断に迷った。


「え……ええと、あの、桜にちっとばかり用が……」

途端にいつもの調子に戻りごにょごにょ言葉を探すものだから、また話が滞り始める。進まない会話に真っ先に痺れを切らせたのは弥助たちではなく、言わば部外者の柾樹だった。


「桜がこの屋敷で、妙な猿真似させられてるらしいんでな。見物に来たんだよ」

「はあ? 猿真似? 見物?」

銀縁眼鏡がつっけんどんに言った言葉を、弥助が鸚鵡返しに繰り返す。すると一同の前へ立ち塞がっていた小柄な老女が突如一歩進み出て、口を開いた。


「全く、何のことやら……聞くに堪えませぬ」

老女は帯をきりりと締め、白髪は片外しに結っている。喋る声には張りがあった。美人は年をとっても美人であることを体現しているその老女が、続けざまに冷たい声で告げる。


「桜とかいう看護婦見習いの娘ならば、先刻どこぞの男と逐電しましたよ」

「はい!?」

老女の言葉に柾樹と千尋が同時に叫んだ。


「ちくでん!? ……て、あの逐電か?」

「どの逐電だ。弥助、どういうわけだ」

千尋の質問に切り返した後、まるで下男へ問い質すような口調で柾樹が言う。分別のある大人として怒っても良さそうな場面だった。だが命令し慣れている人に言われると、命令され慣れている方はつい飲まれてしまうもので


「じ……実はさっき、ここの女中のお菊ってのが、『屋敷の看護婦が一大事だ』と警察へ駆け込んでな。男が逃げたとか人攫いだとか、どうこう言っていたんだが、これが泣きじゃくって要領を得ねぇ。それで俺たちが一先ずこうして来てみたってところで……」

まだ事態は足踏み状態であるらしい。弥助が口にした事態の概要で、千尋の顔が強張った。


「看護婦!? 桜のことか!? 桜が攫われたのか!?」

「わ、わかったわかった、まずは落ち着け!」

千尋が胸倉を掴んで喚き、短身の弥助は吊り上げられるような状態になっている。横の騒ぎを尻目に、老女がハゲの探偵へ向き直った。


「もし、警察の方々に是非ともお聞き頂きたいのでございますが……」

そして先ほど若者たちに向けたものよりも、だいぶ柔和な表情と口調で話し始める。


「宜しゅうございますか。此度の騒ぎは、当家とは一切関わり合いの無いことでございます。まして皆様のお手を煩わせるような、事件というほどのことではございません。そちらへ駆け込みました女中は少々慌て者でございますゆえ、何か思い違いをしたのでしょう」


 態度の急変した老女に対し、禿げ探偵は「はぁ」と生返事をし、腕を組む。


「そう言われましてもなぁ。ここで働いていた娘さんが、いなくなっているのは事実でしょう?」

「いいえ、そこからして違うのでございます! 違いますとも! 無論でございます。いなくなりはしましたが、あの娘は自分で出て行ったのですよ!」

気品漂う白髪の老女は声を高くし、微笑を浮かべてか細い手を振る。


「あの二人は手に手を取り、門を駆け出てあちらの方へ……私はこの目でしかと見ましたからね。仔細は存じませぬが、このようなことは駆け落ちと相場が決まっております。以前より当家の周りに怪しげな若い男を見かけ、おかしいと思っていたところなのでございます。これが嘘か真かは、近隣の者に聞いて頂けばおわかりになりましょう。大方、あの娘が逢引でもしていたに相違ございません」


 時に身振りを交えて熱心に説明する様子は、心の底から困ったものだと言いたげだった。若い巡査が進み出て、探偵たちに報告する。


「若い男が女の手を引いて、駆けて行ったのは間違いないです。そこで農夫が見ていました」

「ほお……大人しく引かれるままにか? 悲鳴も無しに?」

「はい。農夫たちも屋敷で火事でもあって、逃げ出したのかと思ったそうで……」

巡査の証言に禿げ探偵と弥助が顔を見合わせ、老女が「そうでございましょう?」と頷く。そのまま落ち着いてしまいそうだったその空気を蹴散らしたのは、青褪めた千尋の大声だった。


「ま、待て待て待て! 何だ逢引って!」


 大声と一緒に大きな図体まで割り込ませたので、圧迫感に人々が少し後ずさる。普段穏やかな若者なのだが、事ここに至っては少なからず憤激していた。


「さっきから黙って聞いていれば何だ、桜が悪いような言いようじゃないか! 馬鹿も休み休み言え! それなら訊くが、どうして看護婦として連れてきたはずの桜に稽古事なんかさせていた!? 誰かの古手ばかり着させていたんだってな!? お嬢さんに何か問題があって、それを隠すために身代わりをさせていたんじゃないのか?」

怒鳴るような千尋の言葉を聞くうち、老女の頬がさあっと赤くなった。


「おう、待ちな。どういうことだ?」

口を挟んだ弥助に、向き直った千尋が説明する。


「ここのお嬢さんの身代わりです。屋敷の周りに怪しい男がいたって、今この人も言っていたでしょう?桜にお嬢さんのフリをさせて、影武者みたいに使っていたらしいんですよ」

それを聞いた途端、老女は小作りな顔の中にある端正な皺まで逆立て、鬼のような形相になった。


「お黙りなさいッ!! どこの小僧か知らぬが、平民の分際で身の程をわきまえよ!」

「知ったことかッ! もし桜に何かあったらただじゃおかんぞッ!!」

金切り声で叫ぶ老女に、千尋の方もいつもの大人しさはどこかへ吹き飛び、大した剣幕で怒鳴りつける。もう一息で掴み合いになりそうだったそれを止めたのは、若い女の声だった。


「千代、もういいわ」


 場違いに涼やかな声がする。一同が見ると、門の傍らに美しい娘が佇んでいた。後ろには丸顔の女中が小さな目を真っ赤に泣き腫らし、おどおどと付き従っている。老女が血相を変えて駆け寄り屋敷へ戻るよう促すが、娘は去ろうとしない。柾樹も千尋も一目で『こいつか』と思った。


 薄茶色のふんわりした髪は洗い髪を緩くまとめただけで、着物も随分地味である。だが身長や、豊かな線の浮き出る身体のシルエットが桜とよく似ていた。特に肩の線もほぼ同じ。顔も双子のように瓜二つというほどではないが、白蝋のような肌で形作られた顔の線が、一目見て『ああ、似ている』と思う程度には似ていた。しかし全身から立上る香気が違う。不用意に近づくと脳髄を直撃しそうな、危うい香りを纏っていた。


「お菊! お前には少しは忠孝というものが無いのか!? それでも人か!」

若干潤んだような声で、千代と呼ばれた老女は女中をなじった。

「菊を叱らないで。菊の言うとおり、このままではあの娘が可哀そうよ」

自分の背後で小さくなっている女中を見やり、綺麗な娘は怒る老女を止める。


「…あんたが真名さんか? 紺野の恋人の?」

千尋が普段より随分と乱暴な口調で尋ねる。だが娘は何も驚いていない顔で「マァ、よくご存知でございますこと」と言ってから胸を張り、物怖じもせずに答える。


「でも、お言いがかりはおよしになって。わたくし、あの方と恋仲になったことなどございませんわ? ……だけど、そうね。清五郎さんが攫おうとしていたのは、きっとわたくしなのね」

いかにもゆったりと言う。


 真名の話しぶりに柾樹は『何だかな』と思った。まるで他人事のようなのだ。この事件で怯えている様子や困っている気配は、欠片も見えなかった。それは千尋も同じだったのだろう。


「一度でいいから紺野に会って、話してやることは出来なかったんですか?」

真名のあまりの悪びれなさに、怒気も消され気味で問う。すると娘は涼やかな瞳でちょっと斜め向こうを見た。

「だってあの方、どうお話ししたところでお分かりにならないもの」

言わずもがな、という風に真名は答える。そして人々を見回し、堂々と言った。


「お友達と本を読んだり、ピクニックをする子供の時間は、もうおしまい。わたくしは慎之介様の妻となって安倍家を治める母となって、国家富強の城を築く石垣になると決めたのです」


 娘の決意の言葉に、傍へ控える老女が「お見事でございます」と目頭を押さえている。でも周囲にとって二人の決意や感慨は、割とどうでもいい。弥助がちょっと面倒くさそうな表情を浮かべ、腰を屈めつつお嬢様に尋ねた。


「ええっと、宜しゅうございますかね? 今のお話をまとめさせていただきますと、紺野という男から逃れる為にお嬢様は身代わりを立てたのですな? その身代わりになっていたのが前田桜さんで、先ほど紺野に浚われたと?」

探偵男の問いに、真名は素直に「ええ」と頷いた。次いで禿げの探偵が、後ろの女中を覗き込み質問を向ける。


「お前さんは桜さんが浚われたとき、一緒に居たんだな? 浚われるのをただ見ていたのかい?」


 女中は気が小さいようで、訊かれただけでびくびくしていた。縮こまっているから、尚更手足が短く見える。小さな唇を震わせ、上目遣いで周囲を見た。手拭を握り締めて前へ進み出るも中々声が出ず、やがて小さな声で答える。


「お、お庭で午後のお散歩をしていらしたんです。このところ控えていらっしゃったんですが、今日は大丈夫みたいと桜さんが仰ったもので……。そうしたら、裏門の辺りに差し掛かった所で、草叢から人が飛び出てきて。ええ、書生さんです。あたしは存じませんが、清五郎さんとおっしゃるんですか? その人が大声で、聞き取れなかったけど何か言いながら近づいてきて……通せんぼされたんです。どう見たって尋常じゃない目つきで。そ、それにあの人、ピストルを持っていたもんですから……っ」

そこまで言ったと同時に、女中娘はワッと泣き出す。


「ピストル!?」

「おいおい! どうしてそれを一等先に言わねぇんだッ!」

男達の大声に、元から混乱気味だった女中は一層ひどい泣き顔になった。


「あ、あの人ピストルを突きつけて、モノも言わずに桜さんの手を掴んで、連れて行こうとしたんです。あたしもう恐ろしくて声も出なくて……そ、そうしたら桜さんは逆らわず引っ張られながら、『警察に報せて』って小さな声であたしに……それで後は夢中で警察署へ飛び込んで……ッ! 桜さんきっと、あたしに怪我させちゃいけないって庇ってくれたんです……!」

娘は手拭に丸顔を埋め、声を上げて本格的に泣き始める。


「それで二人はどっちへ行った?」

「き、北です。この道を真っ直ぐ……」

「すぐ非常線を張るぞ」

「へい」

巡査も慌ただしく動き出す。弥助と千尋が捜すのを手分けをしようと話をしているその横で


「あのぅ、貴方様はもしかして、相内子爵家の柾樹様ではございませんこと?」

何を思ったか、急に真名が声をかけてきた。「え?」と振り向いた柾樹に

「お忘れでございますかしら? 先日の夜会で一度、お目にかかったのですけれど……」

周囲の喧騒など耳に入らないような顔で娘は言う。


 貴瀬川真名には『会ったことが無い』という認識をずっと持っていたため、柾樹は耳を疑った。この前の夜会の時は不機嫌で頭が埋まっていて、他人の顔を記憶する隙間がなかったということか。元々覚える気がないから余計に。


「こんな形でまたお目にかかるなんて、思ってもいませんでしたわ」

困惑顔の柾樹に対し、娘は微かに口元をほころばせる。心から喜んでいるのか、単なるご挨拶のお愛想なのかよくわからない。そもそもこの状況下で、こんなに簡単に浮世を離れられるのだから、余裕が有り余っている。だが娘の浮世離れに付き合う気の無い柾樹は笑わず、返事よりも自分の訊きたい事を優先した。


「お前、紺野と一緒になろうと考えた事は無いのか?」

露骨な言い様に、真名の手をしっかりと握り締めていた老女が顔をしかめて睨みつけてくる。反対に、人形めいた娘は柾樹の不躾な質問にも驚いたり怒ったりはしなかった。だが


「……いやよ。一日中お説教を聞かされそう」


 ここで初めて少しだけ、生の感情らしきものを眉根に滲ませた。一書生に過ぎない紺野青年が、伯爵令嬢の真名に説教を垂れていたとは考えにくい。しかし真名の耳に、彼の言葉は説教じみて聞こえていたのかもしれない。


「桜の使ってた部屋の机に、紺野からの手紙が一通残ってたって話だが、知ってるか?」

もののついでと尋ねると、真名は優雅な微笑みを浮かべて答えた。


「マァ、いやだ……千代、後で片付けておくれ」


 言い残すと忠実な老女に促され、娘は屋敷へ戻っていく。千尋の呼ぶ声がし、柾樹は「おう」と答えて屋敷の門を後にした。

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