捨て駒 1
桜は看護婦養成所で、鼠が病気を運ぶと教わっている。
幽閉された蔵の中は床といわず柱といわず、黒い鼠が覆い尽くしていた。閉じ込められたおかると桜は床に座り、手拭やハンカチで口を覆っている。ひしめく鼠たちは人間の動きから注意を逸らさず、監視するかのようだった。
暮白屋の蔵へ二人を誘い込み閉じ込めた変な薬売りは、梯子の一番下の段に腰掛けたまま動かない。桜は何度か話しかけたのだが、返事もしなかった。外の陽も傾いてきているのか、閉じた蔵の暗闇と湿気は深くなり、時間の感覚が麻痺してきている。
外では扉を開けようと試みている気配があった。壁伝いに人々の声や物音が聞こえてくるのは、それだけでも幽閉された側の心を支えてくれた。
「おかる! 桜ちゃん! 無事か!? 遅くなってすまなかった!」
扉を叩く音で、名前を呼ばれた二人は顔を上げる。店の主人である銀右ヱ門が、帰ってきたのだった。
「おじさん……!」
「お前さん、ここにいますよ!」
鼠に包囲され動けない状態で、桜とおかるは返事をする。
「おい、殺して奪おうなど畜生働きだぞ? いくら盗賊だろうと、恥を知りなさい! どうしても金が要るというなら出そうじゃないか! いくら欲しいのか言ってみろ! 警察にも突き出さないと約束しよう!」
そう言って銀右ヱ門が、蔵の中の『強盗』に訴えた。
それを聞くと、これまで徹底的に桜たちを無視していた薬売りが、ごそりと動く。蔵は真っ暗なのに笠の下で唇がめくれ、黄ばんだ歯をむき出して笑うのが桜にも見えた。
《金の約束ねぇ……いえいえ、そんな幻は、いくら積まれたって無駄なんでございます。手前どもには何の役にも立ちゃしないんでございますよ、呉服屋の旦那殿。先刻、そちらのご子息の、若旦那にお頼み申しました、『針の先』こそが欲しいんでございまして》
がびがびに枯れた声が、楽しそうに語った。
聞き取りやすい声ではなく、大声を張り上げてもいない。しかし何故だか男の声は、蔵の外にいる者達にまで届いている。
「針の……何だって? 一体何を言って……」
銀右ヱ門がまた問いかけようとしたとき、ズシンと突き上げるように蔵が震動して、おかると桜は「きゃあ」と身を寄せ合った。
「うわあッ!!」
「鼠!?」
「離れろ危ない!」
男女の悲鳴が上がり、壁や地面が不気味にざわめく。
「もしかして……外にまで鼠が溢れているのかしら?」
耳を澄ませて、桜は呟いた。鼠たちは、蔵の鼠穴から出入も出来る。外の人々は大量の鼠に逃げ惑っているらしかった。
「ごめんよ、桜ちゃん……」
と、隣でおかるが囁いた。顔は見えなくとも沈痛な声だけで、おかるが責任を重く感じているのが伝わってくる。
「私は大丈夫です、気にしないで」
こんなことで負けてはいけないと、桜は気持ちを奮い立たせ手を握り返して言った。梯子の下にいる薬売りは、また黙然と蹲っている。ずんぐりむっくりの白い影は、発光しているみたいにぼんやりと、黒い空間の中で浮き上がって見えた。
「それにしても何者だろうね、あいつは?」
「ええ……売薬さんかと思ったけど、違うようだし」
「ああ、さしずめ、筋の悪い山伏か何かだろうよ」
「山伏、ですか?」
暮白屋のお内儀が言い出して、桜は小首を傾げる。
「あの身形をご覧な、きっとそうだよ。呪で、鼠を操っているんだ。昔から悪さをする山伏はいたんだから。でもまさか、あたしが知らないうちに、あんなのに良いように誑かされていたなんてね。情けないったら……おばさんのせいで、アンタまでこんな目に遭わせちまって」
ひそめた声で喋るおかるは、薬売りよりも自分に腹を立てているようだった。
厳しい修行をする山伏を騙り、『祈祷』の名の下に詐術で金を集める紛いものはいる。言われてみれば桜にも、あの白尽くめの装束は山伏風に見えなくもなかった。神経症ではないかという解釈より、直感的に正しい気もした。
だが薬売りのような、山伏のような者の正体を突き止めるより、桜にはおかるの具合の方が気になった。
「いいのよ。おかるおばさんこそ、身体は無事? ここしばらく、ご飯もあまり食べてないのでしょう?」
桜は尋ねる。呉服屋のお内儀は「どうってことないよ」と気を張ってみせたが、それを真に受けるほど桜も子どもではなかった。
「ねえ……貴方。お願いがあるの」
看護婦見習いの娘は梯子の方へ顔を向け、丸まっている男へ話しかける。
「こちらの方は、具合が悪いのよ。空気の悪い蔵で、長く籠城なんて身体が持ち堪えられないわ。出してあげてはもらえませんか? 蔵には、私が残るから……」
「桜ちゃん、そんなの駄目よ! アンタまだ若いんだから。残るならお内儀のアタシ。そうじゃなくっちゃ筋が通らないよ!」
申し出た桜の肩を掴み、慌てておかるが止める。おかるも年長の責任と、お内儀の矜持があった。
《お美しゅうございますねぇ……いつもいつも》
薬売りがその場で、ふうっと笑う。
《そうして、いつも己の欲でアタマが埋まっていらっしゃいますからねぇ。おめでとうございます》
男の陽気な言葉の合間には、寒気を感じさせるほど憎悪があった。交渉は難しそうだと桜も察したが、病人のおかるを助けなければと、諦めずにまた会話を繋げてみる。
「あの、それは、どういうことかしら? なぜ貴方は、そうも怒っていらっしゃるの?」
会話の糸口を探し、看護婦見習いは優しい声で話しかけた。
途端に、ぐるんと薬売りが振り返る。笠の下で、口が横へ引き裂かれた。
《ヒヒヒヒ! かしら? カシラ? お利口なお喋りのお嬢様でござんすねぇ。でも中身は空っぽ! 頭は空っぽ! 何も知らずにお幸せのお気の毒様! イヒヒヒヒヒヒ!》
薬売りは足を踏み鳴らし、引き付けを起こしたように肩を揺らして笑い出す。異様な豹変に身構えた二人の前で、薬売りは短い足を踏みしめ胸をそらした。
《さあさあ! 最後の『神逐』が始まるぞ! そうとなったら、頭からバリバリと……おや? どうするのだったかな? 三三五五〇三三六に? おや? 六で? おかしいぞ? 折り重ねて重くするのだ。そうすると小さくなって……どうしてだ? 待てよ待てよ? 虚しい数に繋がらないぞ? 糸はどこだ? 次のはじまりはどこだ? どういうことだ? 消えてなくなってしまうじゃあないか……》
白尽くめの薬売りは独り言を唾のように宙へ飛ばして、天井を見上げている。おそらくは突き抜けて、その向こうを見ていた。狂人の体だが、恍惚として幸福なようにも見えた。
すると薬売りが見上げる先で、大きな羽音が聞こえる。
「何やってんだべさ~?」
桜とおかるも、思わず天井を見上げた。
馬鹿馬鹿しいほど明るいしゃがれ声が、蔵の中へ飛び込んできたのである。途端に、毛皮の絨毯となっている黒い鼠たちが、チッチと警戒音を発し始めた。
「そったらもん、人間の使ってる『数』でねぇか。映し世の刹那にあらわれた、常世の『影』だぁ。それにしだっで、よぐもまぁこんな狭いどこ、入り込んだもんだなぁ?」
割り込んできた誰かの言っていることは、桜にはよくわからない。とりあえず、語尾は長閑に間延びしていた。
《烏天狗……!? 小僧の側で、目付けをしていたのではなかったのか!》
急に屋根の上へ現れた存在に、白尽くめの身体が飛び上がり、鼠たちも騒ぎ始める。
「? 烏天狗? 鞍馬山の……?」
「誰かしら……?」
驚く女二人が囁き合っているのも、薬売りは見ていない。そして屋根の上の誰かは、小馬鹿にした口調で更に言った。
「はーあ……聞け、土々呂? おめぇ、巧いこど八百比丘尼さ、躍らせたつもりだったんだべ? そったらわけねぇべさぁ。おめぇが騙されでんだぞ。いづまで寝惚けてんだ?」
土々呂とやらの必死さと比すると、桜などは少し可哀想ではないかと思ってしまうほど、薄情なあしらい方をする。
《そうか……我らがここから動けぬと分かって、目付けの役を離れたな?》
天井へ向け短い首を伸ばした土々呂が、拳を握り悔しそうに唸った。
「桜! おっ母さん!」
その時、待ち続けていた青年の声が、蔵の外で名前を呼んだ。
「千尋だわ! おばさん、千尋が来てくれた!」
「ええ!」
互いに励まし励まされながら笑みが零れ、幽閉されている二人は手探りで両手を握り合う。
「お、おい……連れてきたぞ! ここを開けろ!」
頑丈な扉を叩く音がして、外から千尋が呼びかけた。
《ああ、まだお立場をわかっていらっしゃらない。『針の先』を渡すのが、先でございましょうよ?》
蔵に潜む薬売りは、すでに動揺から立ち直ったらしい。またあの芝居染みた口調に戻り、回りくどく促す。けれど今回は脅されても、外の青年が譲らなかった。
「駄目だ、扉を開けるのが先だ! お前から外はわかっても、外のこちらは蔵の中が見えないんだ! 二人が本当に無事なのか、姿だけでも確かめさせろ! それも出来ないなら、『針の先』には帰ってもらうぞ!」
強い語気と決意の声が響いて、土々呂と呼ばれた薬売りはしばらく沈黙する。
《……ようござんしょう。扉から離れろ》
がびがびの低い声で命じた。
誰の手も用いていないのに、固く閉じていた蔵の分厚い扉が、軋んだ音を立てて開く。
真っ暗だった蔵の中へ、橙色の光が一筋差し込んだ。光りが広がるうちに、蔵の中が床や梁だけでなく壁も天井も黒い鼠で埋まっているのが見えてきて、今さら桜はぞっとした。上から鼠が、ぽとぽと落ちてくる。吹きこんできた秋夜の風は、冷たくなっていた。
開いた扉の先へ見えてきた裏庭は、提灯と松明、篝火に照らされて討ち入りのような騒ぎになっている。薪の煙と草木の匂いが漂い、人々の緊張が張り詰めてシンと静まっていた。助けに集まって来てくれたのだろう近所の人達と、暮白屋の奉公人たちと、主人の銀右ヱ門。
そして
「千尋!」
黒い鼠の絨毯の真ん中で座らされている桜が声を上げると、千尋の口も動きかけた。
《お二人とも、おとなしくして頂けませんかね》
「きゃっ」
冷徹な薬売りの指図で、蠢く鼠たちに纏わりつかれた桜とおかるは身を竦ませる。扉の正面で青褪め佇んでいる千尋が、自分の背後へゆっくり視線を動かした。
「あ、あの……」
大柄な青年が躊躇いがちに声をかけると、背中に隠れていた人影が静々と進み出てくる。
灰色の太織を、頭から被っていた。古い時代の被衣に似て足元まで隠され、履物も見えない。
「いいえ……白岡様。わたくし一人で参ります」
千尋が連れて来た人物は、よく通る澄んだ声で言った。




